斯くして、一色いろはの日常は巡りゆく。   作:あきさん

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お久しぶりです。一年近くもお待たせしてしまって、ほんとごめんなさい。


だから、一色いろはは約束する。―ほ―

  *  *  *

 

 青春は最後のおとぎ話。

 どこかで見たか聞いたかした、そんなフレーズ。

 言われてみれば、確かにそうかもしれない。

 大人と子供の境界線、そこからちょっぴり外れたどっちつかずなところで、わたしたちは恋に部活に一喜一憂。んっと背伸びして大人びてみたりする子供そのものな時もあれば、社会からそれなりの振る舞いを求められて素直に応じたりもする。

 そんな毎日は、ほんとにほんとに、なんだかんだいろいろめんどくさい。けど、そんなめんどくさい毎日が、なんだかんだ楽しくて仕方なくて。今までで一番きらきらしている感じがして。

 それこそ、自分が主役のおとぎ話みたいに。

 まるで、ピーターのいるネバーランドで日々を過ごすように。

 

 ……でも。

 夢は、いつか醒めてしまうもの。必ず、醒めてしまうもの。

 

 だから、子供が大人になりかけた、その時……ガラスの靴もひび割れ、壊れかけてしまう。果てしなく途方もなく伸びた長い長い階段は、あと何段あるのかも、あと何段上れるかもわからないというのに。

 ただ、だからこそ、その時……大人になった時の自分が決まるんだ。

 

 ひび割れたガラスの靴をこれ以上壊してしまわないよう、そこで立ち止まるのか。

 ガラスの靴がひび割れていることに気づきながらも、そこから前に進むのか。

 ひび割れているガラスの靴に気づくこともなく、そのまま歩き続けてしまうのか。

 もう価値がないものとして自らガラスの靴を壊し、そこに放り捨てていくのか。

 

 きっと、そのどれもが正しくて、そのどれもが間違いなのだろう。自分にとっては正しい選択だとしても、他の人からすれば間違いだらけ。そんな価値観や倫理観のズレなんて、どこにでもありふれていて、どこででもよくある話。

 たらればから始まる後悔も未練も、全部ひっくるめてこその青春。どれだけ間違えても、どれだけ失敗しても、まだ間に合う時間。いくらでも取り返しがつく頃。

 それらが全て許されるのは、今、この時だけ。

 まだ子供のままでいられる、今、この時だけ。

 おとぎ話のほとんどがハッピーエンドで終わるのだって、きっと、そういうこと。

 

 ――なんて感じの解釈で一旦そう締めくくりつつ。物思いに耽っているんだか単にぼーっとしているんだかな瞳を頭上に固定したまま、わたしははーっとため息を吐く。

 疲れを感じて思わず出たというわけじゃない。誰かや何かに呆れてうっかり出てしまったというわけでもない。や、後者はわりと当たらずとも遠からずか……。

 ……もう遠くはない。

 なのに。そのはずなのに。

 羨み願い求めた末にようやく近づけたあの場所が、今は、ますます遠ざかってしまったように感じる。路傍の木々や草花がこれでもかと必死に幹や茎を伸ばしたところで、あの高く眩しい空へは絶対に届かない。そんな現実を突きつけられているように。

『きっと、わたしじゃ……』

『やっぱりわたしなんかじゃ……』

 つい先日『未完成で不完全な劇』を観ていたことも相まってか、オレンジがかったスクリーンにふと浮かび上がったのは、『今よりも中途半端で宙ぶらりんだった頃』の、とある場面。

 当時も今と同じで、今と同じようなことを考えていた。

 ただ、前と今で違うのは、甘ったるい助け船がないことと……わたしが泣いていないこと。

 もちろん、泣いてないってだけで、泣きそうになってないわけじゃない。だって、独りはやっぱり寂しいし、心細いし、甘えちゃいたいし、溺れちゃいたいってのも本音だから。

 

 けど……。

 

 頑張るって決めたから。

 破りたくないから。

 諦めたくないから。

 好きだから。大好きだから。

 

 だから、上を向いたまま、下なんか見てやらない。

 立ち止まって振り返ることはあっても、後ろに戻ってなんかやらない。

 絶対。

 

  *  *  *

 

 四階の空中廊下から夕闇グラデーションの空を一人眺め始めて、それなりの時間が経っただろうと思われる頃。

 不意に、ガラス戸の開く音がした。

 ちらりそちらを横目でうかがうと、わたしと目が合うなり、ふっと微苦笑めいた吐息を漏らしつつ腕を組む平塚先生の姿。

「一体どこで何をしているのかと思えば、こんなところにいたか」

「先生。……もしかして何かありました?」

「ああ、いや、様子を見に行ったら電気がついたままだったんでな。まだ残っているんじゃないかと見回りついでに君を探していたんだ。もうじき最終下校時刻だからな」

「あー、それでわざわざ……え、ていうかもうそんな時間ですかマジですか」

 言われてようやく、実際の時間経過は全然それなりどころじゃなかったのだと知る。どうやら自分が思っていたよりもだいぶ長く深く回想劇に浸かってしまっていたらしい。

 やっば……間に合うかなぁ……。

 ここから会議室までは少し距離がある。後片付けや鍵の返却もまだ。こんな有様じゃ駆け足でも厳しい。けど、駆け足ならワンチャンあるかも?

 ……よし。

「すいません、お手数おかけしました。大至急の超特急であれこれ済ませてきます」

 走れ! いろはす! とばかりに駆け出そうとした矢先、肩にぽんと手が置かれる。

「いや、私も一緒に行こう」

「は? なんで?」

 時間的にも余裕がなかったせいでぽろりと素が、しかもタメ口までやらかしてしまった。

 さすがにいくらなんでもな物言いをやらかしたわたしに対し、平塚先生はというと。

「なに、私が一緒ならば他の先生方に見つかっても大した注意は受けまい。そのほうが君にとっても都合がいいだろう? 焦る必要もなくなるしな」

「……重ね重ねすいません、いろいろ、ほんとに……」

 湧き立つありがたさと襲い来る申し訳なさに、視線の高度がすすすと下がる。

 なんだこの人……ぐう聖かよ……。

 

 そんなこんなの流れがあって、行きの上りから一人増えた、下りの戻り道。

 最終下校時刻になるかどうかの際ということで、校内は閑散としている。リバーブをかけたような足音の二重奏は、対岸の廊下にまで聞こえていそう。

 ……あれ?

 本番はこれからのはずなのに、なんか……。なんでだろう……。

 回想劇の名残だろうか。寂れた雰囲気は、わたしにまた別の感傷をもたらした。

 あちこちに見える飾り付けは何もかもがやりかけの未完成で、掲示物はところどころが貼り替え途中の不完全で。けど、だからこそ、見方を一八〇度ぐるっと変えれば、解体されていく風景と共に人々の記憶からも薄れ消えていくお祭りの後と同じで。

 ただ、その後がなかったなら。特別な時間の跡が、そこになかったなら。そう考えると、この寂しさと侘しさは、あって然るべきの仕方がないものだ。

 なんて調子で黄昏色の心を引きずったまま、無言でぺたぺた歩いていると。

「経過を見ているだけでも、これはまさしく祭りのそれだな」

 視界の中で、平塚先生の長い黒髪が楽しげに右へ左へ揺れなびく。言動からして、祭りのそれがどちらのそれなのかは、わざわざ聞かなくても。

「……まぁ、わからなくはないです」

 理解が半分、不理解が半分。そんな塩梅の返答をした。

「含みのある言い方だな」

「だって、お祭りって……楽しいものだけど寂しいものでもあるじゃないですか」

 何かが始まれば、何らかの終わりも必ずくっついてくる。その始まりから進んだ分だけ、その終わりも近づいてくる。けど、終わりなくして成立しないものがある。終わりがあるからこそ、特別になれるものだってある。

 そんなの全部頭じゃわかってることだけど、心のほうはそうもいかなくて。理不尽かつ無慈悲に打たれる終止符の全てをはいそうですかの一言だけで片づけられるなら、どんなに楽か。

「……だから、わかるんですけどわかりたくない気持ちもあるっていうか……」

 でも、大人になろうとするわたしが、子供のままでいたがるわたしの邪魔をする。ひび割れたガラスの靴なんてもう脱いでしまえと迫ってくる。

 我ながら何を言ってるんだかと思う。言うこと聞かない子供みたいに駄々こねてるだけじゃんと呆れもする。けど、冷静に現実を見るわたしも含めて、心のままで。

「……少し前、君と似たようなことを思ったなぁ」

「へ……?」

 まさかの共感が、知らず知らずのうちに落ちていた視線を水平へと戻す。

「年甲斐もなく恥ずかしい話なんだがな……私にもあるんだよ。君の言う『わかるけどわかりたくないこと』がね」

「……先生にも、ですか?」

「ああ、もちろん」

 わたしの問い返しにそう答えると、平塚先生はふと足を止めて。

「理解はできても、心がついてこない。そういう場面や局面が訪れるたび、仕方のないことだ、どうしようもないことだとひたすら自分に言い聞かせてみるものの、結局は割り切ることも受け入れることもできずに時間だけが過ぎていって……今でもそうだよ」

 平塚先生の寂しげな声音と吐息が、夢跡のような風景の中に溶けていく。

 ……正直ビビった。ガチの弱音っぽいこと吐いてる平塚先生なんて、初めて見たから。

「そんなにらしくなかったかね?」

 口が半開きになったままでいるわたしに、平塚先生は首だけで振り返りつつ。

「あー、まぁ、はい……ちょっと意外だったので」

「……そうか」

 わたしの返答を聞くと、穏やかに微笑む平塚先生。ノスタルジックな残陽に照らされているのもあってか、その横顔に浮かんだ色は、切なさからくるもののようにも見えてしまう。

 平塚先生の『わかるけどわかりたくないこと』がなんなのかは知らない。けど、半分の理解と半分の不理解で構成されているそれは、わたしの胸で燻り続けている矛盾とそうかけ離れてはいないのだろう。じゃなきゃ、そんな奥深いところまで話してくれたりなんかしないはずで。

 なんて結論づけている間に、階段へ辿り着いた。湿っぽい話をしていたせいか、ただまっすぐなだけの廊下は、結構な迷い道の回り道をしていたんじゃないかって。それくらい長く感じた。

 と、そのタイミングで、きんこんかんこんと馴染みのある音が校舎中に鳴り渡る。どうやらここでタイムアップの模様。……いやまぁ当然なんだけどさ、こんだけゆっくり歩いてたら。

「少しゆっくり歩きすぎたな」

 今しがたの振り返り話が恥ずかしくなってきたのか、平塚先生がわしゃわしゃと頭を掻く。そういう照れ方をするのは捻くれ者の誰かさんみたいで、思わずふふっと頬が緩んでしまう。

「わたしは大丈夫ですよ。避雷針になってくれる人がいるので」

「君なぁ……」

「冗談ですよ、冗談。……ちゃんと感謝してます」

 かつての一幕と似たやりとりの最後に、今度は、嘘偽りない本音の言葉を加え溶かしながら。わたしも階段をとてとて下りていく。

 そうして、段の先が二階の床へ切り替わろうとした時。わたしはたまらず顔をしかめる。

「うわぁ……めっちゃ目立ってるー……」

 外からの光が多少カモフラージュしてくれてはいるものの、周り全てが消灯済みの中でぽつりと明かりがついているのはさすがに目立つ。これ、先生いなかったら絶対詰んでたやつだ……。

「……という有様なわけだ。ほら、ちゃっちゃと片付けてきたまえ」

 音を抑えるように扉を開くと、苦笑を添えつつ、平塚先生がわたしの頭をぽんと撫でてくる。こんなふうに頭を撫でてもらったのはなんだか久しぶりな気がして、ほんのちょっぴり、照れくさい気がしないでもなかったりして。

「……はーい」

 はにかみ交じりの返事をした後、急いでペンとか判子とかを片付けて、わたしは帰り支度を済ませた。この時期はまだコートとかマフラーとかがいらないから、こういう時ほんと楽で助かる。

 電気をぱちり消すと、光源の一つが消えたことで、曖昧だったコントラストがはっきりしたものへと変わった。かすかな粒がきらきらと舞う夢名残りのような光景は、まるで、今の今まで、ピーターがそこを飛んでいたみたいに。

「……どうした? 忘れ物か?」

 視線を固定したまま立ち尽くすわたしを不思議に思い、平塚先生が尋ねてきた。

「あ、いえ……」

 ふるふると首を横に振り、なんでもないと仕草で示す。先生になら別に言ってもよかったけど、言ったところで、だからなんだって話なわけで……。

 代わりに、白黒入り混じった感情の吐息を、ふっと一つ。

「……ふむ」

 すると、その一声を聞いた平塚先生は、なにやら思案顔で腕を組む。わたしがただなにげなく息を吐いたようには思えなかったらしい。

 そういうとこもやっぱり気づいちゃいますか……ほーんと、よく見てるなぁ……。

「先生は……」

「ん?」

「大人になるって、どういうことだと思います?」

 言うつもりなんてなかったのに、気づけば、そんなことを口走ってしまっていた。

「大人になるとはどういうこと、か……」

 単なるわたしの口走りでしかない問いかけにもかかわらず、笑うでもなく、呆れるでもなく、驚くでもなく、怪訝そうにするでもなく、ただ静かに瞑目した平塚先生。

 いくら無意識だったとはいえ、厄介なクエスチョンをぶつけてしまった……。唇を開いてはすぐ閉じてと沈黙の問答を始めた平塚先生の様子に、ちくちくとした後ろめたさを時間差で抱く。

 そんな唇問答を見て自責を重ねること五回目、階下のほうから誰かの足音が。そしてそれは間もなく、徐々に大きくなっていく。

「あぁ、平塚先生……と、一色? なんじゃお前、まだ残っとったのか」

 階段を上ってきたのは厚木先生だった。まぁ、この人が様子を見に来るのは当たり前か。文実の顧問なんだし。

 わたしの姿を改めて視認した厚木先生は、ため息交じりに。

「こんな時間までご苦労と言いたいところじゃけど……」

「すみません厚木先生。本来なら彼女はとっくに帰宅していたんですが、私の用事に付き合わせてしまったもので……」

 そのまま生徒会長たるものとか言い出しそうな流れに、もっともらしい理由をつけた平塚先生の声がぱっと割り込んだ。しかし、話を途中で遮られたことが面白くないのか、単純に怪しんでいるだけか、厚木先生は眉根を寄せてううむと唸る。

「平塚先生の? ……何にせよこんな時間まで生徒を付き合わせるのは感心しませんな」

「いやぁまったくもってそのとおりで……」

「あのっ」

 わたしを庇ったせいで、言われる必要がないこと言われて。それがとにかく申し訳なくて心苦しくて、たまらず口を挟もうとした。

 けど、平塚先生はいいからとでもいうように、わたしの肩に優しく手を置く。

 そんなわたしたちの交錯に厚木先生は一度首を傾げたものの、さしたることではないと判断したようで、うおっほんと大げさな咳払いをして仕切り直す。

「……とにかく。時期が時期だけに、今後はこういったことがないようにしてくださらんと。おい一色、お前もだぞ。わかっとるか」

「はい」

 手短で淡泊な返事をした。じゃないと、せっかくの心遣いを台無しにして、言わなくていいこと言っちゃいそうだった。それどころか、ほんとに余計なことまで言っちゃいそうだった。

 ただ、こんな空返事みたいな首肯でも、一応は許してもらえたらしく。

「うし、じゃあはよ帰れや」

 注意モードから一転、厚木先生は事もなげな感じでじゃあのと会議室を離れていった。そういう系のイメージは確かにあったけど、マジで言うとは……や、そうじゃなくて。

 逸れた思考を本線に戻して、わたしは平塚先生の白衣をきゅっと掴む。

「ほんとすいません……。わたしがもっとしっかりしてれば、こんなことには……」

「私が言い出したことだよ。気にしなくていい」

「でも、それじゃ先生が……」

『それだと会長さん……』

 口にしかけて、頭をよぎって、そこで思わず言葉を止めた。

 先輩であるわたしが通ってきた道と、わたしの後輩である川崎くんが通ろうとしている道。その二途は恐ろしくなっちゃうくらいよく似ていて、ぴったりと重なってしまいそうなくらいに近い。道の作りは違うはずなのに、それでも。

 なら、あの人たちの後輩であるわたしが、今まさに通ろうとしている道って……。

「……簡単には納得しなさそうな顔だな」

 そりゃ、まぁ……。唇を引き結んだまま心の声で呟く。

 うやむやになってしまった問いかけのことも、自分に非があることすら言わせてもらえなかったことも、わたしの立てた筋書きはリメイクにもリライトにもなれないことも、全部まるごと納得いかないし、できないし、したくない。

 なんて具合に、内心でつらみ言をがたがた並べていると。

「では、本当に付き合ってもらうとしよう。話も途中だったしな」

「……はい?」

 平塚先生は大きくひとかたまりの息を吐いた後。

 わたしを見つめながら、どこか儚げに、そっと笑った。

 

  *  *  *

 

 ……どういうことだろう。

 具体的なことは何一つ言わずに、ただ、門の前で待っていたまえと。本当にそれだけを告げて、平塚先生は職員室へ戻っていってしまった。

 だからわたしは、素直に律義にここでぽけっと突っ立っているわけなんですけど。や、別に暑くも寒くもないから待つこと自体はとにかくとにかく……。

 とはいえ、手持ち無沙汰なのは事実なので、意味もなくつま先立ちしてはすぐに飽きてやめたりしつつ、その合間に長かったり短かったりするため息を吐いたりもしつつ。

 そういった何の生産性もないことばかりを繰り返しているうちに、視界の端から見覚えのある黒い車がこちらに向かって走ってきて、わたしの横につけた。

「待たせてしまって悪いな」

「いえ、お気になさらずでだいじょぶですー」

 平塚先生、ハンドルを握る姿が相変わらず似合いすぎ問題……そういうとこだぞ! 何がとは言わないけど! だから早く誰か!

 そんな失礼極まりないことを思っていたら、平塚先生が助手席のシートをぽふぽふ叩き出す。

「さて、それじゃ行こうか。乗りたまえ」

 どこに? 何をしに? 疑問は増えていくばかりだけど、事がねじるにねじれてしまった起因はわたしにある。なら、つべこべ言わずに黙ってお供させていただくほかない。

「……お邪魔します」

 車は左ハンドルなので、反対側に回ってからお邪魔させてもらう。そうして座りの調整やシートベルトの着用を済ませると、平塚先生は一つ頷いて、アクセルを踏んだ。

 にしても、どこ行くか何しに行くかもわかんないまま乗ってるから、ドナドナされてる感すごい件……。どなどなどーなー、どーなー……わたしをのーせーてー……。

「あの、これ、どこ向かってるんです?」

 売られてゆく子牛よろしく瞳を向ければ、平塚先生は咥えた煙草をふかしながら。

「特に決まってないな」

「はぁ、そうですか……」

 つまり、気ままのドライブというやつなんだろうか……。でも、そのわりにはなんか、最初から行くとこ決まってるような感じがするのは、わたしの考えすぎなのかな……。

 まぁ、本当か嘘かはさておき、平塚先生がそう言うのならそういうことにしておくしかない。これ以上は無粋だと判断したわたしは、シートの背もたれに身体ごと重さを預けた。

 そのまま横目で外を眺めることしばし。高速道路のような代わり映えしない景色ばかりが続いたこともあって、意識がだんだんぼんやりと……うとうとと……。

「少し寝ててもいいぞ」

「……ふぁい。じゃあ、……お言葉に……あまえて……」

 

 …………。

 

 ………………――んぅ?

 不意に身体を揺すられたような感覚。わたしはなんだなんだと瞼を開く。

 寝ぼけた頭で状況を確認してみたものの、こんな状態でわかったことなんて、景色が全然動いてないってことくらい。

 信号かな……。勝手にそう解釈して、終わらせて、再び目を閉じる。

「着いたぞ」

 しかし、今度はきちんと平塚先生に起こされてしまい、わたしの二度寝は叶わず。なので、大きな欠伸にとろんとした目をこしこし、睡魔と格闘しつつ。

「んー……どこにー……」

 平塚先生の後に続いてよたよた車を降りると、ほんのわずかに潮の香り。それに釣られて周囲を見渡せば、すぐ近くにポートタワーがぴょこっと飛び出ていて。そのことからだいたいの現在地は割り出せた。

 でも、このあたりって、それ以外は特に何もなかったような……。あっても海がちょこっと見える場所くらいで……。はてと不思議がりながらも平塚先生の後をついていく。

 そうして、駐車場脇の歩道を通り、桟橋の前を右に折れ、大きく曲がる道を抜け。

 今は、その先、まっすぐ伸びた道を。親に連れられる子供みたいに、ただ。

「いくらか目は覚めたかね?」

 道すがら、平塚先生がそんなことを聞いてきた。

「……まぁ」

 ていうかこんだけ歩いてたら嫌でも覚めると思うんですけど……。そんな捻くれ言を、拗ねた時の声音に乗せて。

 ただ、起きるには起きたってだけで、眠気がなくなったわけじゃない。次の瞬間には、ふあと欠伸が漏れてしまった。わたしの愛しいベッドちゃんはどこ……?

 すると、見かねてか、平塚先生は白衣のポケットから何かを取り出して。

「ほら、追加の眠気覚ましだ」

「え? ……わっ、とっ」

 言葉と共にぽいっと放られたものをなんとかキャッチ。紅茶のペットボトルだった。

「ありがとうございま……」

 けど、それは、いつもの甘い甘いミルクティーじゃなくて。

「無糖……」

「それしかなくてな。だがまぁ、今はちょうどいいだろう。……それともこっちにするか?」

 ストレートティーのラベルをじっと見つめるわたしに、今度は冗談めかすような感じで真っ黒な缶コーヒーを差し出してくる平塚先生。……なかったなら仕方ない、うん、仕方ない。

「いえ、こっちでいいです」

 ぶんぶんかぶりを振って全力ノーサンキュー。次いで、ははっと楽しげに笑う声。そんな他愛ないやりとりを間に交えつつ、わたしたちはゴール地点じみた広場へ。

 ……まぁ、気分じゃないとこ連れてかれるより全然マシか。あそこからだとここくらいしかないし。そもそもポートパークとここくらいしかないし。

 着いたばかりの海がちょこっと見える場所で、そんな何様モノローグを入れながら。わたしはいただいた紅茶のペットボトルをくぴと傾ける。……うえ、苦っ。

 たまらず口元をもにょつかせていたら、追うように、缶のプルタブをかしゅっと引いた音。

 そして、わたしと同じように、甘さの存在しない液体をそっと口に含むと。

「さて……大人になるとはどういうこと、だったか」

 薄明の地平線を穏やかに見つめたまま、平塚先生はぽつりと切り出した。

「君に合わせて言うと……諦めてしまえるようになること、だろうな」

「諦めてしまえるようになる……」

「うん。手放してしまえるようになると言い換えてもいいかな」

「諦めてとか手放してとか……そんなの絶対後悔するやつじゃん……」

 苦々しい視線を送るわたしに平塚先生は微苦笑を返した後、どこまでも続くように伸びる青い道の側と、行き止まりでしかないこちら側を区切る手すりの上に腕を乗せて。

「やりたいこと、夢、理想の自分……子供の頃は好き勝手に描き追いかけられたそれらも、大人になるにつれて、できない理由ばかりを追うようになってしまうんだよ。大半の人はね」

 聞いて、一度、物言いたげな瞳を伏せた。思い当たる節しかなかったから。

 ……けど。だからこそ。

 過去のわたしを棚に上げて、今のわたしは、その綺麗事を口にする。

「もったいなくないですか? そんなの……」

「そうだな。……けれど、仕方がないことでもある。それらは、大人として生きていく上で邪魔になることのほうが圧倒的に多いからな」

「かもしれないですけど……」

 平塚先生の言うとおりだ。言うとおりではある。でも、かけがえのない素敵なものがたくさん詰まったそれらを、邪魔になるものとして片づけちゃいたくなくて。かといって、それらのものがどう邪魔になるかを想像できないほど、わたしはまだまだ子供というわけじゃなくて。

「でも、なーんか……なーんかなぁ……」

 結果、熱の受け皿を失った瞳の先は、緩やかな下降線を描く。そこにあるのなんて、潮風に吹かれ揺れる薄黒い海面だけ。

 もし、もしも。たとえそれが夢の途中だとしても。

 はたと飛び方を忘れ、次第に飛ぶことを諦め、やがては翼を失くしてしまったら。大口を開いたように広がる海原を見つめたまま、つい、そんなある種のバッドエンドじみた夢の終点を考える。

「ただ、だからこそ……それらなくして大人にはなれない、とも言えるな」

 と、その直後、平塚先生の言葉によってまた別のエンディングが。

「えっと……つまり、通過儀礼的な?」

「ああ。どれだけ前向きになろうとも努力しようとも、気持ちや努力だけではどうにもならないことがたくさんある。夢や理想というのはいつだってそういうものだ」

「なんて夢のない話なんだ……」

 あまりにもあんまりすぎて思わず唇がうえーと歪む。そんなわたしの様子に、平塚先生は優しく叱るような声音で。

「……言っただろう? できない理由ばかりを追ってしまうようになると」

 わたしの頭をくしゃりと軽く撫でながら。

「だから、そうやって……」

 昔の自分を俯瞰するような瞳で。失われた日々を懐かしみ惜しむような顔で。

「子供の頃に描いたたくさんの落書きを、一つずつ、いろいろな形で諦めては手放しながら……いつしか夢見る心そのものすら失って……子供は、大人になるんだよ」

 

  *  *  *

 

 やりたいこと、夢、なりたい自分。

 長い長い階段を彩る花のアーチじみたそれらは、上へ上へと進むにつれて色を失いながら、くたびれ枯れて垂れ下がる。力をなくした蔓は、前へ進もうとする足に巻きつき未練となる。

 そうなるのは仕方がないことで、避けられないことなのかもしれない。夢や理想の対となる言葉が現実であるように。希望的観測を積み上げるだけの空想は、空虚な語りにしかならないように。

 だから、平塚先生はこんなことを。陽乃さんはあんなことを。はっきりなにげなくの違いはあるけど、少なくとも、示していた大人の形は同じで。

 だから、そうやって……。

 子供のままじゃ難しくて、やってもうまくいかなくて、できなくて派手に転んじゃって、向いてないのかなって苦しくなって、ほんと何やってるんだろってなって、しまいには……。

 そうやって……。

 みんな……。

 

 夢から、醒めていくんだ……。

 

 大人になること。わかるけどわかりたくないこと。

 それらの現実はやっぱり、わたしにとっては理解と不理解が半分ずつで。納得と不納得も半分こで。また、どこにでもありふれている、どこででもよくある話で。

 それらの現実はやっぱり、夢がなさすぎのあまりにもあんまりで、つい目を逸らしてしまいたくなる。難しくてできなくて諦めてしまいたくなる。向いてないのにほんと何やってるんだろって逃げてしまいたくなる。もういいやって手放してしまいたくなる。

 

 けど……わたしは、約束したから。誓ったから。

 すぐ目を逸らして諦めて逃げて手放していた、あの頃のわたしに。

 だから、改めて。戒めも込めて。

 ちらつく後ろ向きな気持ちを塗り潰すように。

 

 きらきらと輝く陽の残滓が消え、ますます暗さと黒さに染まっていく向こう側。こちらに近づいては遠ざかる波音だけが響く、一人きりみたいな世界の中。

 ぐいと勢いづけて口に流し込んだ紅茶は、さっきよりも、だいぶ苦い味がした。

 

 

 

 

 




ここまで間を空けてしまっても、ここまでお読みくださった方。
ほんとに、ほんとに、ありがとうございました。

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