斯くして、一色いろはの日常は巡りゆく。   作:あきさん

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ときどきラブコメの神様はいいことをする。―前―

  *  *  *

 

 夏休みも中間地点を過ぎ、季節はやがて本格的に秋へと移り変わっていく。そのせいか、これまでずっとご機嫌だった空模様がついに怪しくなった。

 そしてその日の夜、わたしの機嫌までも濃く深い曇りへと巻き込んだ空は、ついに滴をぱらぱらと落とし始める。

 明日は念願の花火大会だというのに――。

「……ほんと、タイミング悪すぎませんかね」

 ふてくされつつ見た予報によれば、短時間で済む雨とのこと。しかし、こういう時ほど裏切られてしまうのがお約束だ。

 わたしは手にしていた携帯から視線を外し、天井に向かって切なげな息を吐いた。

 なんでよりによって今なのかなぁ……。

 ……あー、もー、むしゃくしゃするーっ!

 こんな時こそせんぱいに思いっきり抱きついて全力で甘えたいのに、物理的な距離がわたしの欲求を拒む。おまけに部屋の窓を叩き鳴らす雨音や水溜りを掻き分けて走る自動車の音が、芽生えた不満や苛立ちを余計に加速させてくるから困りものだ。

 とはいえ、いくら文句を言ったところでどうにもならない。ただ口にするだけで雨雲がおとなしく引っ込んでくれるなら、もうとっくに晴れている。

 憂いのほうに天秤が大きく傾いているせいで、本を読んでも文章が頭に入ってこないだろう。かといって恋人と電話でおしゃべりしようにも、おやすみなさいはもう済ませてしまっていて。

 現在の時刻は、夜の十一時を少し回ったあたり。

 小降りではあるものの、やむ気配のない雨がついにはネガティブなワードまで呼び始めた。

 ――雨天中止。

 最悪な結末が頭の片隅にちらつき、かき消してもかき消してもしつこく再浮上してくる。追い出したら追い出した分だけ、その隙間を埋めるように無意識の奥底から湧き出してくる。

「……もう寝とこ」

 うだうだぐちぐちとめんどくさいわたしが出てくる前に、散らかった感情をリセットしよう。そう思い、部屋の照かりを消してベッドに潜り込んだ。

 明日には、青空が広がっていることを祈りながら。

 そして同時に、この天気がもたらした妙な胸騒ぎを覚えながら。

 

 ――瞼を閉じてから、どのくらい経ったのだろう。

 夢なのか現実なのか区別のつかないあやふやな境界を意識がふらついていると、ぼんやりした白い光のような靄が真っ暗だった視界に割り込んできた。

「んー……」

 眠気の残るとろんとした声を上げ、あと五分だけとばかりにもぞもぞ寝返りを打つ。だが、そのタイミングでわたしはスイッチが入ったかのように頭が冴えていって――。

「……そ、そうだ雨はっ!?」

 昨夜危惧していたことをはっと思い出し、慌てて身体を起こす。雨の音こそ今は聞こえてこないが、ただ単に勢いが弱まっただけという可能性がある。

 おそるおそる窓を開けると、生温く湿っぽい空気が肌を撫でてきた。

 だからわたしは手のひらを空に向ける。しかし落ちてくる雨露の感触はないまま、雨上がり独特の何とも言えないにおいが静かに漂ってくるだけだった。

 ……どうやら、無事に峠を越えてくれたらしい。

 雲間を裂く淡い光の柱を眺めながら、今度こそ、わたしは肩の力を抜いた。

 

  *  *  *

 

 家を出る頃には、朝方の仄暗さが嘘だったみたいに消えていて。分厚かった灰色の雲はもう見えず、代わりに、切れ端みたいな白い雲がところどころに浮かんでいるだけだ。

 これなら充分に快晴といえるので、何らかのトラブルによる遅延や中断こそあっても、中止になることだけはまずないだろう。

 ……なんだか自分でフラグを立ててしまった気がするけど、それはまぁ、気のせいだということにして。

 駅までの道のりを進んでいくにつれ、一体どこから湧いて出たんだ、というくらいに人の密度が増加していった。

 わたしと同じような浴衣姿だったり、そうじゃなかったりする女の子たち。

 手をつなぎ、仲睦まじげな様子で歩くカップルたち。

 買い物袋をぶら下げていたり、クーラーボックスを背負っていたりする家族連れの人たち。

 そんな各々のざわつきや浮ついた足並みに一人、また一人と加わりながら、それぞれが花火大会の会場という一つの場所を目指し集約していく。

 もちろんその中の一人であるわたしも、からころと履き慣れていない下駄の音を鳴らしつつ。

 そうして駅からモノレールへ乗り込んだところで、指先にぷらぷらさせていた巾着から携帯を取り出して時間を確認する。

 ……うん、ちょっと準備に手間取っちゃったけど余裕で間に合いそう。や、間に合う間に合わない以前に毎回毎回家を出るのが早すぎるまである。

 という具合に、わたしの恋煩いはまだまだ終わらない。それどころか、最近じゃこの重症っぷりがデフォルトとなっている。

 けど、一分一秒でも早く会いたいって気持ちがわたしをそうさせるんだから、自分じゃもうどうしようもないんだ。離れている間に積もったいっぱいの寂しさが、わたしをいてもたってもいられなくしてくるんだ。

「……早く会いたいなぁ」

 じきに叶う望みをぽつり漏らし、胸元のあたりで携帯をきゅっと軽く握った。すると、その声に呼応するように車内アナウンスが流れ始める。

 やがて景色のスクロールが完全に止まり、一拍置いてからぷしゅーとドアが開く。

 我先にと降りていく人たちの中で、下駄の音を響かせているのは自分だけ。しかしわたしは気にも留めず、改札へと続く階段を一人かこかこ下りていく。

 全開の笑顔に弾んだ歩調のわたしとは違って、めんどくさそうな顔で気だるげに歩いてくるのだろう。ありありと目に浮かぶ恋人の様相に頬や口元を綻ばせつつ、改札を抜けた先の壁際で佇む。

 当然、お目当ての人物の姿はまだ見えるはずもない。

 落ち合うまでのこの時間は、毎回毎回やっぱりもどかしくて、いつだってじれったくて。

 けど、だからこそ、会えた時はやっぱりたまんなくて。

「……んー、なんかちょっとズレてる気が」

 ヘアピンの位置やアップにまとめた髪を気にしては、何度も触り。

 ときどき浴衣の合わせや裾の乱れ、帯の緩みなどもしきりに確かめ。

「はー……せんぱい、はやくはやくー……」

 わたしは、ただただ、待った。

 顔がやっと見れた時の、嬉しさの爆発を。

 我慢できずに飛びついてしまうくらいの、愛情の暴発を。

 悶々としているうちに一分、また一分と時間や距離は確実に縮まっていく。はやる気持ちは既にメーターを振り切り、抑えきれなくなったときめきが挙動として表に溢れ出ていく。

 まだかなぁ。

 まだかなぁ。

 一定のリズムをとるようにつま先だけで地面を叩いていると、不規則な雑踏が遠くから混ざり始めた。またたく間に打楽器じみたこもった音は、どかどかと大きくなっていく。

 たぶん、この一波に。

 かつこつぺたぺたと様々な音色が、今度はモノレールのホームへ、あるいは駅の出口へとばらばらに流れていく。そんな中、気配を殺してのろのろと歩く甚平姿の恋人を視界の隅に捉えた。

 その瞬間、わたしは表情と心いっぱいに満開の幸せが咲いていって――。

「せんぱぁ~い!」

 ボリューム最大の甘え声で呼びかけながら、わたしは勢いよく駆け出した。自分が今何を履いているかも忘れて。

「…………」

「わわっ……はっ、と、よっ」

 他人のふりを決め込もうとしていたせんぱいだったが、よたよたと危なっかしいわたしの足運びに気づくと慌てて方向転換する。

 もちろんわたしはその隙を見逃さない。

「お、おい危ないから……」

「……えいっ!」

「うおっ、……とっ」

 どーんと勢いよく胸元めがけて飛び込んだわたしを、よろつきながらもせんぱいはなんとか受け止めてくれた。

「……お前なぁ」

「んー……」

「聞けよ……」

 まったくぶれないわたしに、げんなりとした言葉と吐息が頭上からこぼれてくる。あーあー聞こえなーい!

 こっそりと匂いを堪能し始めたところで、わたしはあえて、過程がわかりきっていることを尋ねてみる。

「せんぱい、今日は珍しく空気読んだ格好なんですね」

「ああ、いや、読んだっつーか読まされたっつーか、とにかく強制だったんだよ……ったく小町のやつめ、なんで俺がこんな……」

 むず痒そうな声と身体の揺らぎに見上げれば、思わずぽっと頬を赤らめてしまった。

 改めて間近で、いつもよりちょっとだけ近づいた目線の高さで。たったそれだけなのに。

 わたしのすぐ目の前にある、肌色面積の広がった恋人の首元に胸元。ぴたりと密着している部分からダイレクトに伝わってくる、せんぱいの肌の感触と体温。

 ……うーん、たまんないっ! 小町ちゃんありがとっ!

「いいじゃないですかそれくらい。ていうか結構似合っててわたし的にも興奮間違えました新鮮ですしこうしてるといつもよりあったかくて余計くせになるまた間違えましたもっと甘えたくなる感じでとにかく最高なわけですよ!」

「……間違えすぎだから」

「あっ……」

 熱弁を振るったものの、とりあえずもう喋るなとばかりに引き剥がされてしまった。

「……もー、なんでそうなるんですかー」

「ストップかけとかないとお前、暴走した挙句に自爆すんだろうが……。いつも巻き込まれる俺の身にもなってくんない?」

「せんぱい、死なばもろとも、ですよ。ほら、わたしとせんぱいって一心同体みたいなところあるじゃないですかー?」

「だから俺を道連れにすんじゃねぇよと何度……あとそういう場合に使うのは一蓮托生な」

 ほう、一蓮托生……意味の違いは後で調べておくとして。

 間違えたなら、正さなくちゃ。どんなに些細なことでも、間違いだと自分が判断したならなおさらだ。間違ってしまったとわかっていても認めないのは、経験上、とっても間違ったことだから。

「せんぱい、一蓮托生、ですよ! ほら、わたしとせんぱいって……」

「わざわざ言い直さなくていいから……」

 訂正しようとしたが、言い切る前に盛大なため息で制されてしまった。

「……最後まで言わせてくださいよー」

「どうせ後半は同じだろうが……」

 たまらずぷーっと膨れたわたしに、やれやれと言いたげな様子でせんぱいは肩を落とす。そんなわたしたちを、なんだこいつらと通りすがった人たちが一瞥していく。

 日常の中にあるちょっぴりの非日常でも、結局わたしたちはいつもどおりだ。夏の熱に浮かされたところで、基本は変わらない。

「くそ、お前のせいでまた……いや、今日はさすがに目立つなってほうが無理か……」

 けど、日常から少しだけ脱線しているからこそ、やっぱりちょっとだけズレていて。

 きょろきょろと動いていた瞳の先がわたしへと戻ってくるなり、頬をぽりぽりと掻きながらせんぱいが意味深なことを呟いた。

「それって……」

「まぁ、その……ひいき目なしに、だな……」

 唇が開いては閉じてを繰り返すたび、ぎこちない声の粒ばかりが続く。

 わたしの恋人は、そういった類のことを基本的に言わない。どちらかといえば、行動で愛情を示してくるタイプだ。

 だからこそ、放たれた時の一発はものすごく重い。

「……似合ってて、可愛い、と、思う」

 途切れ途切れに散らせた褒め言葉がようやく最後まで辿り着いた直後、せんぱいはもう限界だと訴えるように。

 一方、わたしは。

 勝負服についてだけじゃなく、何度でも言われたい褒め言葉を、誰よりも一番で特別な人から同時にもらったことで。

「……せんぱいがわたしの浴衣姿、似合ってるって……わたしのこと、可愛いって……」

「…………死にたい」

「えへへ……えへへ……」

 お互い羞恥の火で顔を真っ赤にしながら、二人仲良く悶絶した。

 ううっ、恥ずかしい……でもにやけるの止まんないなにこれほっぺた溶けちゃうわたし幸せすぎて死んじゃう。

 左右のほっぺたに両手を当ててわたしがうにうに余韻を引きずっていると、この雰囲気に耐えきれなくなったらしく、せんぱいは改札のほうへと身体を傾けた。

「……と、とりあえずそろそろ行くか」

「あっ……そ、そうですよね。時間、なくなっちゃいますもんね……」

 いつまでも夢心地に浸っていたかったが、仕方ない。甘く濃い残響を手放す代わりに、わたしはせんぱいの左腕をぐいと抱き寄せる。

「……今それは厳しくねぇか」

「大丈夫ですよ、絶対」

「どっから来るんだよその根拠のない自信……」

「だってせんぱい。わたしが転びそうになった時はいつも受け止めてくれたじゃないですか」

 真剣に悩んでいる時でも、さっきみたいなスキンシップをした時でも、いつだって。どれだけ振り回そうが、どれだけわがままを言おうが、なんだかんだぼやきながらも。おまけに付き合い始めてからは、前よりもわたしを甘やかしてくれるようになったりなんかもしちゃって。

 それも、すごく……すごーく。

「……確かにお前には甘いかもしれんな、俺は」

 わたしに対してなんだか自分に対してなんだかわからない苦笑を添えつつ、せんぱいがぽふぽふと頭を撫でてきた。くしゃくしゃとしなかったのは、髪型を崩さないよう気を遣ってくれたからだろう。

 物足りない気がしなくもないけど、まぁ、これはこれで。

「んふふー……」

 だらしなく緩んだ素顔を晒しながら、わたしは絶対離すもんかと恋人の腕を強く抱きしめる。すると、わたしの主張を受けたせんぱいは仕方なさそうに短い息を吐く。

「……足元気をつけなさいよ」

 ほら、こんな感じで。

 すごく……すごーく、わたしに甘いんだ。

「はーいっ」

「言ったそばから……俺じゃなくて前見なさい、前」

 お互いがようやくいつもの調子を取り戻し始めたことで、未だ微熱の残る空気も次第に落ち着いていくのだろう。このお祭り騒ぎがいずれ記憶の一部へと消化されていくように。

 けど、やっぱり。

 もう一方の温かさは、四か月とちょっと経った今でも、冷めるどころか勢いを増していて。

 スタートの時点でちぐはぐで、進んでいる道すらも別々だったわたしたち。そんな二人が、今は一緒に同じ場所を目指して、こうやって。なんとなくとか妥協とかじゃなくて、お互いの意思と意志で、ちゃんと。

 だから。

 すぐに足並みが揃っていくのだって、足音がぴったりと重なっていくのだって。

 もう、偶然なんかじゃない。

 だからこそ。

「花火、きっと綺麗なんだろうなぁ」

 そんな確信めいた期待を、わたしは、言葉にせずにはいられなかった。

 

 熱狂の中心部へと向かうモノレールの車内は、わたしが降りた時とは比較にならないくらいの混雑模様を見せていた。二駅ほど離れた場所でこの有様なら、花火大会会場は既に大勢の人波や人垣で埋め尽くされているだろう。

 容易に想像のつく光景がわたしにため息をもたらすと、それが隣の恋人にも伝染した。

「……こっちも無駄に混んでんなぁ」

「まぁ、仕方ないかと……」

 口ぶりから察するに、総武線でも大差ない状況だったのだろう。少しだけ疲れた表情をせんぱいが浮かべた。

 ……よしっ、ここは彼女であるわたしが一肌脱いでふくよかな癒しを提供するとしますか!

「せんぱい、せんぱい」

「ん?」

「だいぶお疲れみたいなので、後でわたしがたーっぷり癒してあげますからねっ」

「やめとく」

「なんでですか!?」

 即答だった。おかしい、ほんとなんでだ。

「いや、だって今より余計疲れそうだし……ていうかそれ、癒しと称してお前がやりたい放題するだけだろ……」

「……それはまぁ、そうなんですけど」

「否定しないのかよ……」

 なんてやりとりをぐだぐだと交わしている間に、モノレールは緩やかなカーブを描く。

 左手に白い建物が見えてくれば、もうすぐ次の駅だ。

 千葉の街並みを迂回するような視点が戻ると、少しの直線を経て、車体は駅のホームへと吸い込まれていった。

 減速の後にぴーんぽーんと開いたドアからは、降りていく数よりも遥かに多い数の人々と熱気がなだれ込んでくる。

「……なぁ、今からあっち側行こうぜ」

 一番線側のホームへ羨みの眼差しを向ける恋人。

「何ナチュラルに帰宅提案してるんですか……ここまで来ておいて往生際悪いですよー」

 捻くれた冗談とわかりつつ、念を押すように恋人の腕をぺしぺしと叩くわたし。だがその間にも乗客は次々と押し寄せ、いちゃつくことのできる余裕も余地もすぐになくなってしまった。

 再び扉を閉めたモノレールが、ゆっくりと動き出す。

 可能な限り詰め込めるだけ詰め込んだ車内は、満員といっても過言ではないくらいに人と人がひしめき合っている。となれば当然、身体と身体の距離も近くなってしまうわけで。

「……うー」

 すごく窮屈だ。たまらなく嫌だ。状況的に仕方ないことだとしても。

 そんな不快さを強い幸福感で上書きしたくて、わたしは恋人の胸元へもぞもぞと身を寄せる。

「ん……どした」

 周りの顔色をうかがいながらお目当ての場所にすっぽり収まると、耳元に若干のくすぐったさを孕んだ小声が届いた。

「あ、えっと……その……」

 どう伝えるべきか迷う。

 うーん……せんぱい以外に触られたくなかっただと変な誤解させちゃいそうだし。わたしがせんぱいに触りたかった……これもちょっと違うか。や、どっちも間違ってはないけど。

 恋人の胸元で口元を隠したまま、落とし所を探しつつ言葉を繋げていく。

「……せんぱい以外は嫌だなーって……」

 あ、噛み砕きすぎたかも。

 急いで補足を重ねようとした矢先、小さな咳払いが耳元に響いた。

「………………待ってろ」

 数秒遅れて言葉を付け加えると、建物と建物の間にある隙間を無理やり通ろうとするように、車内のわずかな空白地帯を狙ってせんぱいが身体を割り入れていく。ぴったりくっついているわたしもその動きに釣られて回転し、ぎちぎちの空間内を二人一緒に縫っていった。

 微弱で繊細な移動を何度か繰り返した結果、わたしの背後には無機質な扉の感触だけが伝わるようになっていて。つまり、恋人はお互いの立ち位置を交換したのだ。

「……とりあえず、これで我慢してくれ」

 不充分すぎた言葉でも、しっかり汲み取ってくれたのが嬉しくて嬉しくて。方法は全然スマートじゃなくて、すごく地味で、ちっともキマっていない。

「はわ……はわわ……」

 それでも、わたしの乙女回路をショートさせるには充分すぎた。

 顔も身体も熱い。心臓がうるさい。も、もも、もしこのまませんぱいにプロポーズされちゃったらわたし、わたし……きゃーっ! きゃーっ!

「……やっぱり似合わないこともするもんじゃねぇな」

 喜びのあまり興奮がオーバーフローを起こしているわたしを見て、恋人がふらりと窓の外へ視線を移す。その直後、天井のほうからがたがたと機械的な音が鳴り始め、モノレールが終点前の大きなカーブに差し掛かる。

 なら、正反対の感情へと一転したこの窮屈さとはもうじきお別れだ。体験した時間こそ短かったが、これもまた、ちょっとした季節感や特別感が起こすイベントの一つなのだろうか。たとえそれが神様の気まぐれだったとしても。

 名残惜しみつつもわたしは身体をごそごそと反転させ、並列するように伸びた真向かいの線路を眺める。あちら側とは違い、こちら側のレールの先は行き止まりだ。

 けど、もし、もしもお互いがお互いに終わりの続きを求めたなら。

 ゆっくりと減速していく箱舟に揺られながら、わたしは一人、そんな願いを遠くの空に馳せた。

 

  *  *  *

 

 モノレールを降りると、すぐにあちこちから人々の熱狂が伝わってきた。京葉線との合流地点というのもあり、案の定、駅前のロータリーへと続く通路は渋滞を起こしていて。

 そのせいか、どうやら携帯が通じにくくなっているみたいだ。改札脇や出口付近にいる人はみんな待ち合わせ中らしく、何度も携帯の画面を確認してはうーんと困り果てている様子。

 これだから現地集合は絶対NGなんだよなー……。ていうかそもそもそんなの超味気ないし、雰囲気だって全然出ないのに……。

 ある種の惨状とも呼べる光景に内心で同情めいた声を漏らしながら、半ば押し流されるような形で駅の中を抜けていく。

 花火大会の会場までは多少歩かなければいけないものの、そこまで離れているわけじゃない。通行が滞り気味という点を踏まえた上でも早めに到着できるだろう。……あとは花火が始まるまでにどれだけいちゃいちゃできるかだ。

 何を一緒に食べようか。何をして一緒に遊ぼうか。

 そんな画策をしつつ歩くこと約十分。大きめの交差点を渡りきった頃、遠目に千葉ポートタワーが見えてきた。オレンジ色の増した空を照らし返す壁面は、開幕を待ち望む人々の期待と共鳴するようにきらきらと輝いていて。

 既視感のある光の反射に、自然と目を細めてしまう。一昔前のわたしなら、ただ眩しくて、ただ綺麗なだけにしか映らなかったと思うけど。

「……ポートタワーって恋人の聖地らしいですよ」

「いきなりなんだよ」

「つい言いたくなっちゃいまして」

 あの場所には、いつか、別の形で訪れることになるだろうから。

 ――そしてもう一つの場所には、近いうちに、昔と違う形で。

 ハーフミラーガラスが跳ね返す小さな光の宝石に自身の心情を投射したまま、わたしは恋人に笑いかける。

「……そうか」

「はい」

 お互いに短く肯定を交わし合った後、どちらからともなく口を閉ざした。すると、賑やかな喧騒には似つかわしくない穏やかな空気が二人の間に流れ始める。

 でも、この沈黙はやっぱり心地よい。

 やがて心の状態がハミングとして表に抜け出ていく。履いている下駄も自分の歌声とリンクして楽しげな足音を奏でていく。

 気づけば、千葉ポートパークは目の前にまで近づいていて。それに伴い、鏡の塔が視界を占める割合も大きくなっている。

 横断歩道を渡りながら、わたしは今一度、その煌めきに少しだけ瞼を下ろす。

 過ぎた時間は、二度と戻らない。

 けど、失ってしまったことで新しく映るものがある。

 それは、場所も、人も。

 巡り巡った先にある光景も、情景も。

 きっと、全部同じだ。

 だから、たぶん。

 確かめることができたその時に、その瞬間に感じる想いが、今のわたしにとってはいつまでも変わることのない答えとなるのだろう。

 ……さてと。

 せっかく来たんだ。浸るのはここまでにして、今年最後の夏をめいっぱい楽しむとしよう。

 

 ようやく辿り着いた広場は、花火大会という特殊なスパイスが加わったことで、普段とはまったく別の空間へと変貌していた。

 いくつもの出店が軒を連ね、その看板の下にもたくさんの人々が集う。ほのかな磯の香りも運んでくる風は、夏の熱と一体化して喧騒の中を吹き抜けていく。

 勝手にわくわくしてくるあたり、夏はそういうものだと無意識レベルで染みついているのかも。

「これぞまさに日本の夏って感じですよねー? 何から食べようかなー? わたあめ? やっぱりわたあめですかねー?」

「なんでわたあめ限定なの……」

「だってなんかそれっぽい感じ、しません?」

「あー、まぁ、定番だしな。……んじゃ、とりあえずわたあめから行くか」

「はいっ」

 せんぱいからの合意も得られたので、まずはわたあめの屋台へ向かった。

 興味を惹かれるのは何もわたあめだけじゃなく、たこ焼きやお好み焼き、りんご飴にかき氷と目移りが止まらない。他にも型抜きだとか宝釣りだとか、全部回っていたら時間がいくらあっても足りなさそうだ。

「子供かお前は」

「や、でも、こういう時は童心に返ってこそですよ! ……あ、せんぱいせんぱい、金魚すくいですよ金魚すくい!」

「わかったからちゃんと前見て歩きなさいっての……ったく、確かに一理あるかもしれんけどよ」

 心の赴くままに瞳と身体を動かし続けるわたしを見た恋人が、微笑にも似た苦笑を浮かべる。とはいえ、追って届いた独り言のような声を聞いた限りは、わたしと過ごす非日常を自分なりに楽しんでくれているのだろう。

 嬉しいなぁ、と。

 そんな呟きを口の中だけで溶かしながら、わたあめの屋台の前に並ぶ。

 わたあめの屋台は機械をぶんぶんといわせ、白い糸を絡め取ってはまとめ上げ、甘い香りを周囲に漂わせていて。その匂いに釣られて集まってきた子供たちは、ふわふわの雲みたいな形とアニメのキャラクターやヒーローがプリントされた袋を物欲しそうに見つめている。

 子供の頃のわたしも、たぶん、こんな感じだったんだろうなぁ……。

 年相応に子供だった頃の自分を想像しつつ、いつの時代も変わらない眼前の風景に重ねつつ。

「いつ来ても無性に懐かしくなりますよね、こういうのって。どれにしましょっか」

「全部中身同じだろ。……俺これでいいわ。これお願いします」

 選ばれたのはプリキュアでした。電球の光に照らされたピンク色がとても眩しい。

「プリキュア……」

「……な、なんだよ」

「あ、いえ、ほんとに好きなんだなーって思ったので」

「ばば、ばっかお前、べ、べべ別に好きじゃねぇし……」

「朝、テレビ観ながら泣いちゃうくらい好きなのに?」

「……待て、お前どこでそれを」

「前に小町ちゃんが言ってました」

「あいつ……また余計なことを……」

「別にいまさら引いたりしませんよ? せんぱいですしねー」

「全然フォローする気のないフォローありがとよ……」

 ほんとのことなのになー。ていうかこれくらいでドン引きしてたらせんぱいの彼女なんてやってらんないし! 大事なのは中身。中身超大事。わたしが言っちゃうかそれ。

「……っつーかお前も早く選んじまえよ。他回る時間なくなんぞ」

 以前の自分を棚に上げて一人うんうん頷いていると、横から催促する声が飛んできた。けど、わたしも最初からどれにするかは決まっていたり。

「やだなー、そんなの決まってるじゃないですかー」

 あらやだうふふと手招きした後、恋人が買ったばかりのわたあめを一切の迷いなく指さす。

「わたしのぶんも、それです」

「え、いやこれ俺の……ああ、そういうことね……」

「はい、そういうことです」

 言外に含めた意味は無事通じたらしく、納得のいった表情でせんぱいがかくりとうなだれる。うんうんそうそう、カップルソーダ的なね! ……あ、今度本家のも誘ってみよーっと!

「まぁそうするのはもう別にいいんだけどよ……これ以上は持てんぞ」

「じゃあ、ここで食べてっちゃいますか」

「組んでる腕を離すっつー選択肢を当然のように省くあたり、ほんとぶれねぇよなお前……」

 さすがいろは検定一級所持者。わたしの思考回路をしっかりと把握している。もちろんわたしも自称せんぱい検定一級所持者だ。やだっ……わたしとせんぱい、ラブラブすぎ……?

「ふふ……でもその前にー……」

「……え、まだ何かあんの」

 諦観の滲んだ表情で袋の紐を解こうとしていたせんぱいだったが、じらすようなわたしの言葉に眉をひそめる。

「写真、撮ろうかなーと思いまして。携帯、携帯っと……」

 巾着をごそごそ漁りながら手短に答えると、せんぱいはフラットにあーと呟く。表面上はめんどくさそうではあるが、わりとまんざらでもない様子。

 一番最初のデートの時は、わたしが何回も何回も急かしてやっと撮ってくれたくらいだったのになー……。恋人の“変化”に、ちょっとだけ遠くなってしまった冬の出来事を思い出しつつ。

「や、せんぱい違いますそうじゃないですわたあめの位置そこじゃないです。もっとこう、こっちに寄せる感じで」

「うわぁ細けぇ……」

「いいからはやくはやく」

「…………はぁ、これでいいか?」

「あ、そこ、ばっちりです! ではでは、いきますよー。はい、ちーずっ」

 頭の中に描いた構図どおりになったところで、空いていた左手でカメラをかざしてぱしゃり。そのまま撮った写真の映り具合などを確認した瞬間、小さな幸福感に満ちた笑みが思わずこぼれてしまった。

 携帯の画面には、ぱちりとウインクしてキメ顔のわたしと、恥ずかしそうに目を逸らしながらも身体をこちらに寄せているせんぱいの姿が映っていて。

 ……よし、後でこっそり壁紙にしておこう。誰が何と言おうとそうしよう。絶対にだ。

「はいっ、せんぱい。ほらこれ、いい写真ですよー! どうですかー!」

「あー、まぁ、思ったよりは悪くないんじゃねぇの。知らんけど」

「後でせんぱいの携帯にも送っておきますねー。……消したらだめですよ?」

「……わかってるよ。これもお前の言う共有なんだろうし」

「ですです! それじゃあ、今度こそ食べましょっか」

 こんな、ありきたりなやりとりも。

 こんな、ありふれた時間と日常も。

「せんぱい、あーん」

「やっぱりそうなるよなぁ……」

 きっと、あっという間に積み重なっていくのだろう。

 きっと、すぐに懐かしくなっていってしまうのだろう。

 それが少しだけ、寂しい。

「ほれ……」

 遠慮がちに差し出されたわたあめをはむっと頬張り、舌触りのいいふわりとした感触や優しい甘さで一抹の寂しさを塗り潰す。

「……んふふ、今度はせんぱいの番ですねー」

 いたずらを思いついた子供みたいに微笑みながら、せんぱいの右手ごとわたあめを押し返す。

 大人になった頃には、こんなおままごとみたいなやりとりもできなくなっていく。歩みが進めば進むほど、蔑ろになっていく。

 けど、形として残っていれば。形として繋ぎとめておけば。

 わたしたちが大人になってしまっても、二人で一緒に歩いてきた道を何度だって振り返ることができるから。思い出すたび二人で一緒に懐かしんだり、笑い合ったりできるから。

「あーん」

 たとえそれが勝手な願いを象徴しただけの、バカげた自己満足の文字でしかないとしても。

 たとえそれが日々の一幕を切り取っただけの、無価値な記録の寄せ集めでしかないとしても。

「ん……ってお前、なんでまた携帯構えて……」

 そしてやっぱり、わたしとせんぱいは。

「はい、ちーずっ」

 いつも、いつだって。

「ちょっ、おい……っ」

 ――お互いに近すぎるくらいのこの距離感で、ちょうどいい。

 吐息同士が混ざり合いそうなほどの近さと閃光の中、再び口に含んだ甘さが、心の奥まで染み渡るようにゆっくりと溶けていく。

「お、お前……いきなりなんてことしやがる……」

「……でもせんぱい、こういう甘いの、嫌いじゃないですよね?」

 頬に手を添えうふふとはにかみ、わたしらしさをひとつまみ。

「ぐっ……にしたって甘すぎなんだよ……」

「その甘すぎるくらいのが今は好きなくせに」

「んぐ……」

 苦しまぎれの皮肉に対してさらに追い打ちをかけると、詰まった声と共に恨みがましさたっぷりの視線が返ってきた。ふっふーん、もっと素直になってくれてもいいんですよ?

 対抗するようにしたり顔で見つめ続けることしばし。恋人が沈黙を貫いたまま、わたあめをするりと口元に運んできた。

 わたしはそれに嬉々としてかぶりついた後、攻守交代とばかりにずずいと押し戻す。もちろん言葉は発さずに。

 そうしてお互いに口をつけた箇所を無言でひらすら交換し合っているうちに、ふわふわの甘いお菓子は二人の間に残り香を漂わせるだけとなった。

「……よしっ、もう一発甘いのいっときますかー!」

「ええ……また甘いの……」

「……好きなくせに」

「わかった、わかったから……」

 細めた目でじーっと凝視しつつ顔を寄せると、せんぱいはわたしを右手で制しながらはーっと大きなため息を吐く。……もう! ほんと素直じゃないんだから!

「……んじゃ、まぁ、それっぽいのだと次はりんご飴あたりか」

「あ、わたしもそろそろかなーって思ってました!」

「なら一旦戻るか。確か入り口のほうにあった気が……」

 話もまとまり、二人揃ってくるりときびすを返した時だった。

「……あら」

「あっ……」

 二つの瞳の先と。

「あ……」

「……よう」

 二つの瞳の先が。

 ぶつかって、そのまま結ばれた――。

 

 

 

 

 




三か月近く空いてしまうというこの体たらく……いやもう本当にごめんなさい。
ものすごく悩みましたが、分割することにしました。

話は変わりまして、今年ももうすぐ終わりですね。長いようであっという間でした。
昔と変わらず遅筆な私ではございますが、来年も宜しくお願いします。

また、この場をお借りしまして、告知でござい。
弊サークル、冬コミにも引き続き本を出させて頂くこととなりました。
私は多忙のため参加できませんでしたが……。

出版物に関しては、以下のとおりです。
一冊目は高橋徹さんと暁英琉さん。
二冊目がねこのうちさん、山峰峻さん、さくたろうさんとなっておりますです。
表紙は前回と変わらず稲鳴四季さんに依頼させて頂きました。
R18のほうは今回挿絵もあります。宜しければ一般と併せてぜひぜひ。

日程は二日目12/30(金)東ア-50b【やせん】なので、興味のある方は寄ってみてくださいな。

それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!

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