少女が脇目も振らず、幾何学模様が刻まれた大理石で築かれた通路を全速力で駆け抜けていく。既に呼吸は激しく乱れ、額からは汗が滲み、赤みのかかったセミロングの髪は形を崩してしまっている。その身に纏う、まだ色の抜けや皺を感じさせない真新しい制服すらも埃が被ってしまっているようだった。
「ハア……ハア……!」
普段なら年頃の少女らしく些細な乱れも気にしてしまうはずながら、今は身だしなみを省みる余裕すら無くひたすら走り続けていた。
そうして一切後ろを振り返りもせずにしばらく全力疾走を維持していた少女だが、やがて曲がり角に突き当たるなり、減速をしてすぐさま手前の壁に身を寄せた。呼吸の乱れと動悸が多少治っていくのを待ち、まずは来た道を振り向く。ひとまず背後の安全を確認した少女は、今度は曲がり角の先を見ようと頭だけを慎重に出した。
「うげっ……」
察知されぬようにそっと片目だけを出して奥を覗いた少女は、目と鼻の先に広がっているおぞましい光景を前に思わず嗚咽を漏らした。
「あっちもこっちもシャドウだらけ……」
気づかれる前に頭を引っ込めた少女、西木野真姫は曲がり角前の壁に背を預けたまま、ボソリと誰に言うまでもなく一人呟く。イライラした様子で燃えるような赤い髪を掻き上げた。
「クッ……何が
頬に冷や汗を垂らしている真姫は壁に身を寄せて息を潜ませ、もう一度奥の様子を伺う。真姫の視界に映るは、百鬼夜行の如く通路を抜けた先の大広間を跋扈する大量の『影』。
影と言っても、文字通り光を遮られて発生する現象を意味するわけではない。漆黒の肉体を備え、本物の影のように暗闇へと潜む習性に皮肉を込め、この隠された時間の住人達をそう揶揄しているに過ぎない。
住人、と表現したが、そもそも我々が認識する生命体のカテゴリーに彼らが含まれるかも怪しい。少なくとも、自分と同じサイズの巨体をナメクジのように地面を這いずり回る漆黒の生物など真姫は知らない。まるで汚泥のようにドロドロとした胴体と不気味な仮面という異様な出で立ちは、遠くからただ見ているだけでも強烈な生理的嫌悪感を発露させてしまう。そんなこの世の物とは思えぬ異形達が死体に群がる蛆虫さながらにわらわらと涌いているこの光景は、嫌悪感を超えてもはや吐き気さえも催してしまいそうだ。
唯一幸運だったのは、彼らはこちらを捉える聴覚や嗅覚を有していない点であった。この巨塔内部を徘徊する『影達』は視界情報を頼りに目標を付け狙う性質を持っている。ゆえに、こうやって物陰に隠れていれば一先ず襲われる心配は無い。この性質を熟知している真姫は、今までにも不意打ちなどの常套手段として利用してきた。本来ならば、ここはやり過ごしてしまうのがベターだと思われる。
だが、今回は勝手が違う。救出作戦ゆえに、今の真姫には急いで静流達と合流する必要があった。そもそもこの影時間には制限時間が存在する。あまりにも呑気に助けを待っていれば、絵里に言われた通り自分までもが迷宮内に囚われたまま第二の遭難者になる可能性も高い。これ以上ただ逃げているだけでは時間の浪費になってしまうだろう。
ほんの少し前に受けた絵里の忠告が脳裏に浮かんでくる。
『交戦はなるべく避ける。自分の命を守るのを最優先に』
ならば、必要を迫られた戦闘はまさに今のこの時だ。意を決した真姫はポーチに保存されていたスポーツドリンクの入ったペットボトルを取り出して、中身を一気に喉に流し込む。水分を補給し、呼吸を整えることで一応の落ち着きを取り戻した。口元を袖で拭き取りながら真姫は壁の向こう側で群がっているであろう『影』を睨みつける。今ここにいる影達は全て真姫とは戦闘の経験がある種類ばかり。つまり対処法も知っているというわけである。
「冗談じゃないわ。こんな所で野たれ死ぬなんて真っ平御免なんだから」
人並みに生に対して執着を持つ真姫に、大人しく墓標に葬られるつもりは全くない。加えてプライドの高いこの少女には自信があった。自分の強さに、たった一人でも戦場を駆け抜けることが可能だという自信が。
「そうよ。私なら出来る。一人でだって!」
真姫は自分に言い聞かせるように呟きながら、太腿のホルダーに収められた漆黒の大型拳銃へと手を伸ばした。
「あなたの力を借りるわよ……タレイア!」
「何処まで続くんだろう。この通路は」
仲間の少女達と早速はぐれてしまった少年は巨大な大理石の広間を突き進みながら大きなため息を吐いた。どこまで歩いても終わりが見当つかない、あまりの広大さに気力を削がれそうになる。いや、既になっていた。
「まさか学校の変異と同時にみんなと離ればなれになってしまうなんて……」
予定では四人揃って穂乃果のいる所に移動しているはずだったのだが、気づけばこの広間で一人立ち尽くしていたのだ。四人はものの見事にバラバラに分かれてしまった。勿論、今いる場所が何処なのかもさっぱり不明。理事長が言っていた絵里達の能力を使った連絡が行われるまでどうしようもないだろう。とりあえず出口の類を求めて歩き回っているわけだが、あまりに広すぎるせいで出口はおろか景色の変化すら見受けられない始末であった。
結局、絵里が危惧していた予期せぬアクシデントに遭遇してしまったわけである。幸いだったのは、この空間には『影』が全くいないことくらい。今の所は命の危険に見舞われてはいないとはいえ、一歩間違えれば自分達を止めようとしていた絵里に余計な心配を掛けてしまっただけに、申し訳なさが込み上げてくる。
「うーん、あの変な夢のせいかな?僕には理解不能な内容だったけど、次に会ったらあの男を問い詰めてやらなきゃ」
とは言っても、あの夢の中では体を動かすどころか、口を開くことすらも不可能なのだが。しかしながら、何故か意識だけはっきりとしているだけに、夢を見る度にもどかしい思いを燻らせていた。
込み上げるフラストレーションを夢に出てきた謎の男にぶつける決意を固めた静流は、正面へと向き直った。先には幾何学模様の刻まれた白色の大理石の壁と床が何処までも広がっている。この密閉空間にて唯一視界を照らす壁に設置された燭台も全くの乱れなく一定間隔で並べられている。精密な造りはまさしく絢爛にして壮観、芸術の域。もしもここが極一般的な建築物なら、思わず見物でもしたくなっていたことであろう。それほどにまで内装は見事な美しさを誇っていたのだ。
「エリュシオンか……」
理事長から聞かされていた、学院のOB達によって便宜上名付けられたというこの迷宮の名をそっと呟く。この単語は神話にルーツを持っている。本来の意味はギリシャ神話に登場する、冥界の裁判官ラダマンティスが管轄している死後の楽園の名だ。
冥王ハーデスが支配する深淵の流刑地『タルタロス』が、咎人達が贖罪のために死神タナトスによって堕とされる地獄そのものなのに対し、エリュシオンは英雄や善人の魂が英知を司る神ヘルメスの手で導かれる場所であるとされている。そこでは、太陽も届かず草木もろくに生えないタルタロスとは正反対の花畑や果樹園が揃った美しい風景が広がっており、まるで香水のような芳醇な香りに包み込まれているのだという。日本人に馴染み深い表現をするなら、仏教に伝わる極楽浄土の概念に近い存在と言えるだろう。
しかし、静流から見たこの迷宮エリュシオンは、そんな伝説上の楽園からは程遠いようにしか映っていない。加えて迷宮内にて跋扈する無数の『影達』の存在。確かに塔の外装に関しては白銀の光を放ち神々しいが、その邪悪な内部を見る限り、むしろ今を生きる人間達を苦しめる悪夢の世界と断言しても過言ではないと思っている。
それは他のメンバーも同じに違いない。おそらく、この名を自分に教えた理事長当人すらも。ここまで恐ろしい世界なら、いっそのことギリシャ神話の地獄として名高いタルタロスの名を冠するべきだったのではないだろうか?
「名前負けというか、いくらなんでも悪趣味すぎるよ。百年前の我が校の先輩達は何を考えてこんな名前を付けたのやら」
先達のネーミングセンスに失笑しながらも、終わりの果てが存在しないかのような大理石の広間を突き進んでいく。が、
「なんだろう?あの扉は……」
意外にも終わりは数分経たぬ内にやって来た。さっきまでは通路には何も無かったはずでありながら、今この時、突如として目と鼻の先に扉が出現したのだ。数々の超常現象を目の当たりにしてきただけにある程度予想はしていたが、どうやらエリュシオンの塔は物理法則すら無視してしまうことが可能らしい。
改めてこの迷宮の人智を超えた出鱈目ぶりに驚愕しつつも、手掛かりを求めて静流はすぐさま駆け寄った。
扉とは言ったものの、どちらかと言えば巨大な門と言うべきかもしれない。鋼鉄製に思えるそれは右側と左側で半分づつ分けるような形でギリシャ文字で『14』の数字のレリーフが彫られている。一見して人間の手では動かせないような分厚さを有しているようであり、静流の身長の数倍は軽く収まるサイズも相まって、まるで巨人が通ることを前提にしているかのような造りに思えた。
「開けるのは大変そうだな」
そんな感想を抱いた時に静流はようやく気付いた。この門は既に開かれていたのだ。僅かに開かれた隙間から漏れ出ている瘴気に触れたことで感知することが出来たのだ。しかし、この門の異変はそれだけではなかった。
「誰かが……いや、『何か』が門の向こう側から抜け出してきたのか?」
静流の疑問には誰も答えない。その代わりに、視界に入ってきた門の隙間周辺に付けられた、おびただしい数の傷跡が疑問への解答としての役目を果たしていた。より門に近づいた静流は大きく抉られたかのような傷を発見して、思わず身震いしてしまう。まるで『巨大な何か』が門を無理矢理こじ開けたかのように見える。
「門の向こうにはいったい……」
いったい扉の先には何が存在するのか?それとも存在していたのか?好奇心に駆られた静流は扉を自分自身が通り抜けるまでにもっと開こうと、隙間に向かって手を伸ばした。
その時だった。
『天宮君!聞こえる⁉︎』
自分を呼ぶ声の登場に思わず伸ばしていた手を引っ込めた。予期せぬ事態の到来に、静流は周囲をくまなく見渡した。声の主の姿は全く見当たらない。やはりこの空間には静流しか存在しないようだ。無論声が漏れてきそうな窓や通気口の類も一切見つからない。
『お願い!聞こえているなら返事をして!』
再び声が聞こえてくる。今度はある程度覚悟していたおかげで、どこから聞こえてきたのかがわかった。この声は静流の脳内に直接届けられているのだ。
突如頭の中に響き渡る少女の声。耳を通さずに脳内へ直接声が送られてきているという初めての感覚に一瞬何事かと戸惑うものの、聞き覚えのある声だったおかげでなんとかすぐに冷静さを取り戻せた。恐る恐る、問いかけるように口を開く。
「絵里さん……ですよね?」
静流の脳内に届けていた声の人物は、安堵したかの大きな吐息を漏らした。
『良かった、あなたも無事だったのね』
「え……ええ、なんとか。一応敵には全く遭遇しなかったので」
慣れない感覚に戸惑ってしまうせいか、どうも歯切れが悪くなってしまう。聡明な絵里は静流の戸惑いはすぐさま察したらしい。
『あなたに使うのは初めてだったわね。これが私のテルプシコーレの能力よ。正確に説明すると、標的の精神に干渉して幻覚を見せたり、あるいは直接操ったりして同士討ちを狙うのが本来の使い方なのだけれどね。それを応用して今は声だけを飛ばしてるの。ああ、安心して。変なことはしなから』
「そ、それって僕に掛けて大丈夫なのかな?」
『どうしたの?』
「いえ、なんでも」
操るだの同士討ちだの、何やら物騒なキーワードが聞こえてきたが、今はあまり関係ないために触れないでおくことにした。
『そんなことより!こうして四人とも無事で良かったわ。希に調べさせたら西木野さんとあなたは別のポイントに飛ばされてたとわかって心配したのよ!』
「西木野さんも?じゃあ園田さん達は?」
『園田さんと南さんは行方不明になった子を発見したわ。あなたの予想通りにね。作戦は上手くいったみただわ』
とりあえず仲間二人はなんとか目的を達成出来たようだ。安心感と同時に、ついさっき込み上げていた申し訳なさが蘇ってくる。つい自嘲気味に笑う。
「……すいません、なんだか心配掛けてしまって。絵里さんの言う通り、無謀だったんだと思います。次からはもうこんなやり方では入れませんね」
結果的には上手くいったのかもしれないが、結果オーライで済ますわけにはいかない。このようなアクシデントが毎度のように起きては命がいくつあっても足りないだろうし、絵里としても気が気ではないだろう。立案者としてはあまり成果を誇れない状況に自重してしまうしかないのだった。
そんなわけで絵里の説教を覚悟した静流だが、返ってきたのは全く予想外の内容だった。
『今はそんな話をしてる場合じゃないの!それよりも場所を案内するから、同じようにはぐれてる西木野さんと一緒に園田さん達と合流しなさい!今すぐに!』
絵里には一切咎める様子はなく、逆にあまりにも切羽詰まった様子に思わず首を傾げてしまう。目的である穂乃果の身の安全を既に確保し、一度はバラバラになってしまったとはいえ、場所も把握出来ている。いったい何が絵里を焦らせているというのだろうか。
しかし、続きを聞いている内に静流の顔は血の気が引いて青くなっていく。もしかすると絵里も同じ有様になっているのかもしれない。
『西木野さんの報告で巨大なシャドウが確認されたわ!彼女が相手にならないだなんて、おそらく今のあなた達じゃ全く相手にならないレベルよ!それも行方不明の子を連れた園田さん達のすぐそばにいるの!早く彼女を連れて脱出して!』
後2週間ちょいでペルソナ5発売ですね。僕はDLC目当てで豪華版買うか通常盤にするか迷ってます。発売までになるべく更新進めたいな。
どうでもいいけど、鞠莉ちゃん可愛いすぎて彼女をゲスト出演させたい欲が湧き起こってます。