つま先立ちのアクトレス ~ Story of Eli 作:Kohya S.
絵里たちはバルコニーから室内に戻り来客との会話を再開した。しばらくして黒田が絵里に声をかける。
「絵里、すこし席を外す。よろしく」
絵里はうなずいた。
トイレかしら、それとも、ここではできない会話……? まあ、どっちでもいいわ。さて、できるだけ話しかけられないようにしなくちゃね……。
絵里はスタッフに場所を聞いていったんトイレに行ってきた。トイレは別の棟にあり意外に遠かった。
会場へ戻ると絵里はなるべく端のほうへ行った。せっかくなので料理をいただくことにする。
あら、さすがにおいしいわね。あまり食べ過ぎないようにしないと、だわ。
ひとつ料理を食べ終えて皿を置いた。さて、次は……と思ったとき、気配を感じて絵里は振り返った。
そこにはディナージャケット姿のひとりの男性が立っていた。
「えーと、
中背でやせ形、三十前後に見える男性はすこし緊張したようすでそう名乗った。
「失礼ですが、どちらの方でしょうか」と続ける。
「あの……」絵里は戸惑った。しかし黙っているわけにもいかない。「ジーラスシステムズ、絢瀬です」
まあ、嘘じゃないわよね。
「ああ」男性は合点したようだった。「楽しんでいらっしゃいますか?」
「ええ。ありがとうございます」
向こうの会社の人、ってことよね。絵里は微笑みを浮かべてみせた。
「この建物、外からご覧になりましたか。歴史がある建物だそうで、いい雰囲気ですよ。……そろそろお疲れではないですか?」
「おかげさまで、さきほど見せていただきました」
「そうでしたか。……よろしければ、なにか料理をお取りしましょうか」
「いえ、結構です」
絵里はもう一度、にこりと笑った。
男性は絵里が脈なしと見たのか、落胆の色を浮かべたように見えた。それとも、気のせいかしら……。
「ジーラスさん、最近、調子いいですね」
男性は笑いを浮かべる。
「ありがとうございます」
絵里は頭を下げた。
男性はあいまいな笑みを張り付かせたまま、なんとなく会釈して離れていった。
ふう、なんとかなったみたいね。黒田さんがいないと、とたんに話しかけられる、ってことかしら。早く帰ってきてくれないと、困るわね。失礼だけど、あそこに座らせてもらいましょ……。
絵里は新しいグラスを取り――ソフトドリンクであることは確認した――隅のほう、扉のわきの椅子に腰を下ろした。
・
すこしぼーっとしていると目の端に赤いドレスが見えた。
その女性はちょうど絵里の前で別の男性とすれ違う形になった。女性は男性をよけようとして――絵里の足へとぶつかった。
そのはずみで、絵里の右手のグラスが大きく揺れた。思いのほか手から力が抜けていたらしかった。ほぼいっぱいだったグラスからジュースが大きくこぼれ、絵里のドレスの胸元から腰にかけてを濡らす。
絵里はあわてて顔を上げた。
「あら、ごめんなさい」
女性は岡本だった。絵里には目をやらず、素知らぬふりでそのまま歩いていく。
絵里は一瞬、あっけにとられた。戸惑いを、そして怒りを覚える。ぜったいに、あれはわざとだわ。
「ちょっと、それだけですか」
絵里は立ち上がり、さっさと離れていく岡本に呼びかけた。彼女は振り返る。
「なにかしら。……あら、大変ねえ。どうされたの?」
岡本は絵里のドレスを見つめた。同情するような顔だが、目は面白いものでも見るかのように輝いていた。
「どうって……あなたが、今……」
「私はあなたの前を通っただけ、だけですけど。それは下品に足を投げ出してた、あなたの責任、じゃなくって?」
岡本は顎をすこし上げ薄ら笑いを浮かべた。
「そんな、あれはどう見ても、あなたが……」
絵里が語気荒くいいかけたとき、扉のほうから足早に歩いてくる黒田が目に入った。客の視線も集まり始めている。絵里はいったん口を閉じた。
「絵里、大丈夫か」
黒田は絵里に気遣わしげに声をかけた。
「隆司さん……。とりあえず、ジュースがこぼれただけよ」
「そうか、まったく、ひどい目にあったな」
絵里はちらりと岡本のほうを見やる。彼女はすでに他の客との会話を始めていた。
あいにくジュースは色の濃いオレンジジュースで、ドレスの濡れた部分は大きく染みになっていた。絵里はそれをみて首を振る。
「これは……着替えないとか」と黒田。
「私……もう帰るわ。フロントに預けてある私の荷物、持ってきて。着替えるから」
小さな声で絵里はいった。もうこんなところにいる気はしなかった。岡本を残したまま先に消えるのは、癪にさわったが――。
「……いや、ダメだ」黒田はちらっと視線を上げてから続けた。「とりあえず控室にいてくれ、なんとかするから」
「なんとかって……」
「話はあとだよ」
黒田は絵里を控室まで強引に連れて行き、扉を開いて押し込んだ。
「すぐに戻る。それまで待っててくれ」
絵里の目の前で扉は閉まった。会場からの喧騒がさえぎられ急に静かになる。
控室にはすでに誰もいなかった。絵里はドレッサーの前の椅子へ座った。
一連の出来事のショックが薄らぐと絵里は急に心細くなってきた。
もう、なんとかするって、なんなのよ……。
・
どのくらいたっただろうか、扉にノックがあり絵里は顔を上げた。
「絢瀬様、よろしいでしょうか」と女性の声。
「はい、どうぞ」
「失礼します」
ホールに通じる扉から入ってきたのは、いつかフォーミダブルで対応してくれた女性店員だった。白い箱を手にしている。
「黒田様からのご依頼で、着替えをお届けに上がりました。いまのドレスはお脱ぎになってください」
彼女にうながされて絵里はドレスとペチコートを脱いだ。ウェットティッシュを渡されたのでそれで体を拭く。
彼女はそのあいだに箱から新しいドレスを取り出していた。
「あの、いいんでしょうか……」
戸惑いながら絵里は聞く。
「はい、たまたま店にあったものですが、サイズはちょうどいいはずです。若干、ドレスコードには、あいませんが……丈もそれなりにありますので、浮くようなことは、ないと思います」
そういうこと、聞いたんじゃないんだけど、と絵里は思う。
黒田の強引さにはあきれるばかりだったが――それでもこうして手を尽くしてくれるのはそれなりに嬉しかった。
絵里は意を決してドレスに袖を通した。
新しいドレスは深いエメラルドグリーンだった。半袖のワンピースで襟ぐりは浅い。スカートはミモレ丈のストレートだ。
絵里が着替え終わると女性は化粧直しを手伝った。
立ち上がり鏡の前に立つ。さきほどのドレスが清純なら、新しいドレスは
女性が肩や腰のあたりを整える。
「いいようですね。……こちらの服は、お預かりいたします」
そういって彼女は青いドレスを箱へしまっていく。
「あの、ありがとうございました」
「いいえ、どうぞ、お楽しみになってください」
女性は深く礼をすると部屋から出ていった。
絵里はウェイティングルームに続く扉の前で、もう一度背を伸ばしてから、扉を開けた。
・
扉のすぐ近くに黒田が立っていた。絵里を見て安心したような表情になる。心なしか顔が赤い。
「うん、ちょうどサイズがあうのがあってよかった」
「わざわざフォーミダブルに頼んだの?」
「ああ、なにかよさそうなのがないか、ってね。高橋さんが用意できる、っていうので、届けてもらった」
「その……ありがと」
絵里は目を落とした。その頬はわずかに赤みを帯びていた。
「もうすぐお開きだ、よろしく」
黒田は絵里の耳に口を近づけそうささやいた。アルコールの匂いが漂ってきた。
「ああ、すまん、君がいないあいだに、いろいろあってね」
黒田は体を離し、やれやれというように首をすくめてみせた。
絵里はふたたび会場に戻った。来客の視線があらためて集まるのを感じた。
「絢瀬さん、お色直しですかな」
社長の深田がふたりに声をかけてきた。
「ちょっとトラブルがありましてね」と黒田。
「さきほどのドレスもよくお似合いでしたが……こちらも甲乙、つけがたいですな」そういって笑う。
「ありがとうございます」
絵里は深々と頭を下げた。
深田がふたりから離れてすぐ、岡本がゆっくりと近付いてくるのが見えた。絵里は思わず身構える。
「あら、新しい服が見つかったのね。よかったわね」
岡本は絵里に微笑んだ。しかし目はまったく笑っていない。彼女は続けた。
「でも……そちらは普段着かしら。この会には、ちょっとふさわしくないようね。そのままお帰りになったほうが、よろしかったんじゃないかしら」
「……なんですって」
絵里は思わず声を荒げて身を乗り出した。すると黒田が絵里を制した。すっと絵里の前に出る。
「岡本さん、これは
黒田はこわばった笑顔を張りつけながら、冷たい声でいった。
「あら、そうでしたの……」
岡本は取り繕うように笑みを浮かべる。
「……でも、もうすこし落ち着いた女性のほうが、似合いそうですわね」
黒田はすっと目を細めた。顔から表情が消える。
「君が絵里にぶつかるところは見ていたよ。そのまま黙っていてくれれば、なにもいうまいと思ってたんだが……。さすがに見苦しくないかね」
「黒田さん……」
「この場にふさわしくないのは、君のほうだと思うがね」
黒田は岡本を軽蔑するように眺めた。絵里がぞっとするような鋭い目つきだった。
岡本はびくりと体を震わせた。そのまま何もいわずに背を向けると、足早に会場を横切っていった。
「ふう」
黒田は大きくため息をついた。
「いやなところを見せてしまったな」
そういって首を振る。手近なテーブルから一杯のグラスを手に取ると、一気にあおった。
「その……私、このドレス、気に入ったわよ」
「そうか、ありがとう」
黒田は温かい笑みを――さきほどとはまったく異なる笑みを――絵里に向けた。
いつの間にか会場から赤いドレスは消えていた。
やがて社長がふたたびマイクを握った。最後の挨拶らしい。
「この社長、話が長いんで有名なんだ」
黒田が口元を隠しながら絵里にいった。口調は明るいが顔色は悪かった。
「……隆司さん、大丈夫なの」
「最後の一杯がまずかったな。……ま、あとすこしだ」
「それではお手を拝借……」
やはり社長の趣味なのだろうか、最後は手締めで終わりになった。
ようやく肩の荷が下りたようで絵里はほっとする。しかし黒田はそうでもないようだった。
「すまん、絢瀬君。すこし待っていてくれ……」
黒田はそういい残すと重い足取りで部屋を出て行った。
・
会場にはまだ客が名残惜し気にうろうろしていた。絵里はウェイティングルームで待った。
しばらく待つと黒田が戻ってきた。やはり青い顔をしていて足元がおぼつかない。
絵里は彼の手を取った。
「すまないね……」
そういう声にも力がなかった。
玄関のわきの受付まで行き、絵里は黒田の名前を告げて車を呼んでもらった。また自分の服の入った白い鞄も受け取った。
すぐに車が回されてきた。運転手が開いたドアに黒田を乗せて、絵里もあとから乗った。
「この人のマンションまで」
絵里は運転手に告げた。運転手は軽くうなずき車を発進させた。
「先に君の家に回りなさい」
「いえ、送るわ」
絵里はきっぱりという。
「やれやれ、みっともないな」
黒田はそういったがそれ以上は否定しなかった。
車はふたたび高速に乗った。来たときと同じくらい走り、一般道に降りる。しばらくして車は中層のマンションの前で止まった。おそらく学院や秋葉原からそう遠くはないと思うものの絵里には見覚えのない場所だった。
エントランスに絵里と黒田をおろすと、車は走り去った。
黒田の顔色は相変わらずだった。立っているのもやっとといったようすで――絵里は
さすがにまずいかしら、部屋まで送るのは。でも……。
彼のことはうさんくさいとしか思えないが、ことこういうことについては、なぜか信じられる気がした。絵里は心を決めた。
「鍵は?」
「……非接触だ。鞄を近付けるだけでいい」
黒田の鞄――車から降りるときに運転手から渡された――をエントランスのわきのリーダにかざすと緑色のLEDが光った。
絵里は黒田とともに誰もいないエレベータホールまで歩く。
「何号室?」
「1201」
イチニイゼロイチと黒田は発音した。
十二階、「1201」と書かれた扉の前で絵里はふたたび鞄をかざした。鍵が開くモータ音が聞こえた。
黒田をいったん壁にもたせかけてから絵里は扉を開ける。自動的に玄関の照明が灯った。
部屋は予想以上に広いようだった。絵里の住むマンションよりも広いだろう。黒田を支えるようにしてリビングまで行きソファへ横にした。明かりをつける。
扉の鍵が閉まったのか、遠くでふたたび音が聞こえた。
「なにからなにまで、すまん」
「水でも飲む?」
「……頼む」
絵里はキッチンへ行き食器棚から適当にグラスを取り出した。冷蔵庫を開けるとミネラルウォーターの瓶があったのでそれを注ぐ。
ソファの前のテーブルに置いた。
さすがに飲ませてやるほど、お人好しじゃないわよ、と思う。
落ち着いて眺めるとLDKは殺風景で、テレビとソファ、サイドボードくらいしか家具はない。およそ生活感というもののない部屋だった。サイドボードをちらりと眺めると、並んでいるのは酒瓶らしかった。
どうみても一人暮らしね……。こんな部屋で、寂しくないのかしら……。
黒田はのろのろと体を起こし水を飲んだ。またソファに横になると、大きくため息をついた。
「そのまま寝たら、風邪を引くわよ」
「違いない……。しかし、参ったな。こんなこと、学生時代以来だ」
「……情けないわね」
「まあ、いろいろ、あったからね」
それを聞いて絵里は黒田が服を調達してくれたこと、岡本とひと悶着あったことを思い出し、申し訳ないような気になった。
いいえ。そもそも、こいつと一緒にパーティにいったりしなければ、なにもなかったのよね……。
絵里は一瞬でもすまなく思った自分に腹が立った。
「……もう、大丈夫そうね。私、帰るわ」
「ちょっと待ちたまえ」
黒田はゆっくりとソファに座りなおした。絵里がわきに置いた鞄を見つける。
「……これを」
鞄の中に財布でもあったのだろうか、一枚の札を絵里に差し出した。
「いらないわよ、そんなの」
「タクシー代だよ」
黒田はそのまま、収めるようすを見せなかった。
「わかったわ」
仕方なく絵里は受け取った。
絵里は自分の鞄を手に持った。タクシーは、下におりてから呼べばいいわね。
「それじゃ、失礼するわ」
絵里は玄関へ歩き出そうとする。
「……絢瀬君」
「なによ」
「こんなところまで来て、私がなにかするとは、思わなかったのかい」
絵里は振り返った。いつの間にか黒田がすぐ近くに立っていた。すこし充血した目で絵里をじっと見つめる。いままで彼がこれほど近くに来たことはなかったはずだ。
彼に目の前に立たれて、絵里は彼が頭ひとつ分近く高いことをあらためて実感した。絵里は見下ろされるような気分になる。
絵里は彼が大人の男性であることを――そしてここが彼の部屋であることを思い出し、どきりとした。
しかし、内心の動揺を隠して絵里は彼をまっすぐに見つめ返した。
「……そこは、契約を、信じてるわ」
しばらくふたりとも微動だにしなかった。
やがて黒田は苦笑して目をそらした。
「君には
「そんなようすじゃ、どうせなにもできないわよ」
「違いない。……下まで送れなくて、すまんね。鍵は内側からなら開く。気にしないでくれ」
「わかったわ」
絵里はいいよどむ。そして付け加えた。
「お休みなさい」
「ああ、お休み」
黒田は背を向けた。
絵里はエントランスまで下りてマンション名を告げタクシーを呼んだ。
・
走り出したタクシーはすぐに見覚えのある場所に出て、数分で自宅についた。亜里沙に見つからないように部屋までなんとかたどり着く。
荷物を放り投げるようにおろすと、ようやく解放されたような気がした。
そのまま足を投げ出すようにしてベッドに座る。
ほんと、今日はいろいろあったわね。疲れたわ。
洋館のこと、ドレスのこと。パーティ、社長の挨拶、ドレスにかかったジュース、店員さん――それらを思い出した。そして、最後に黒田の部屋まで送ってきたことも。
私、なに考えてたのかしら。男の人の部屋まで、ひとりで行くなんて……。でも、ああするのが一番だと、思ったのよね。
自分でも驚くが、不思議と後悔はなかった。
亜里沙が入浴しているのだろうか、水音が聞こえてきた。
ふとスマートフォンで時刻を確認する。そろそろ十時になろうとしていた。黒田さん、そのまま寝てたりしないかしら、と思う。
私は……亜里沙がいるから、まだいいわ。でも、もしひとりだとしたら……。寂しくて仕方ないわね。
黒田の殺風景で生活感のない部屋。絵里はそこに孤独を見てとっていた。
もしかしたら、黒田さん、私にすこし似てるところがあるのかもね、と思う。だからちょっと、なんとなくだけど、親近感を覚えるのかもしれないわ。
絵里は彼にメールでもしようかと思ったが――結局、止めておいた。