つま先立ちのアクトレス ~ Story of Eli   作:Kohya S.

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9. トラブルと不協和音

 前回のパーティのあと、絵里がμ'sに加わるしばらく前。

 

 ある日の夕方、黒田は社用車を運転して学院に向かった。音ノ木坂学院の理事会が久しぶりに開かれるのだった。

 黒田には理事会でなにかをする気はさらさらなかったが、絵里と付き合い始めたことで学院にわずかだが興味がわいたことは否めなかった。

 

 学院の駐車場に車を止めていつものように応接室に向かった。

 

 先客はひとり、初老の男性、森田だ。ソファに座って待つとやがて南理事長と校長があらわれた。理事長は前回と同じくブルーグレーのシャツに、ライトグレーのスーツ。赤いルージュが印象的だ。

 

「お待たせしました。今日は田中教授は学会で欠席、とのことです」

 

 ああ、その手があるか。いざとなれば休ませてもらおう……。ただ、五人だからな。あまり休むと定足数(ていそくすう)が足りなくなる……。

 

 理事長が議事次第の書かれた紙を配る。黒田は目を通した。今回も廃校の話題かららしい。

 

「最初の議題ですが、廃校について。機構からの方針は大きく変わりません。ただ、来年度の生徒数に関する見積りを出してほしい、という依頼がありました」

「ほう、それは、どういうことですかね」と森田。

「あらためて依頼があるということは……」黒田はいう。「その内容次第では、方針が変わることもあり得る、ということでしょうか」

「はい、恐らくそうでしょう」

 うなずく理事長に黒田は笑みを浮かべてみせる。

「それは……我々にとっては僥倖(ぎょうこう)ですね」

「はい。説得力のある資料を用意しなくてはなりません。学院では来月、オープンキャンパスをおこないます。そこで来場者にアンケートを取る予定です」

「私たちにも、なにかできますかね。そうだ、うちの商店街でポスターでも貼りましょうか」森田がいう。

「ええ、そうですね。ぜひお願いします」

 理事長は柔らかく微笑んだ。

 

「私の会社でも貼りましょう。……そうだ、資料の作成をお手伝いしましょうか。その手の仕事ならお手の物ですから」

 黒田は白い歯を見せる。

「いえ、それにはおよびませんわ。……ねえ、校長先生」

「はいっ。はい、そうですね」

 

 やはりガードは堅いな。黒田は内心で苦笑いした。

 

 議題は次に移った。それからの議題は退屈なものばかりで理事会はつつがなく終わった。

 黒田はほかの理事に挨拶し退席した。

 

 さて、会社に戻るか……。黒田は廊下を歩き始めた。

 

 しかし、廃校決定が先に延びたのは、まったく幸いだったな。これで絢瀬君にも恩を売れるというものだ……。

 

 職員用の昇降口から外に出て駐車場に向かう。どこかから軽快なリズムの音楽と歌声がかすかに聞こえてきた。

 

 おや、音ノ木坂にはスクールアイドルはいないはずだが……。軽音楽部か?

 黒田の心に一瞬、疑問が浮かんだものの、それはすぐに消えていった。

 

        ・

 

「おはようございます、専務」

「おはよう、荒井さん」

 

 理事会からしばらくたったある日。出社した黒田のもとに秘書の荒井があらわれた。

 

「本日の予定ですが、十時からエンシュアルプロジェクトの定例ミーティング、午後四時からインフォマークの方が来社されます」

「わかった」

 黒田は答えながらPCを起動する。

「それと、金曜日には取締役会です。明日、明後日と、中西さんと資料の準備の予定を入れておきました」

「ありがとう」

「ただ……」

「ん?」

「……中西さん、スケジュールがいっぱいです。予定を入れるのもぎりぎりで」

「そうか……確認してみよう。ありがとう」

「いえ、失礼いたします」

 荒井は礼をして出ていった。

 

 黒田はPCへ向き直った。グループウェアで中西の予定を確認する。たしかに打ち合わせや「緊急対応」などのラベルがついたタスクで埋まっていた。

 これはまずそうだぞ……。

 続いてサイドグラムの最近のデータを確認してみる。

 

 ラブライブの発表はなんとか乗り切ったと聞いていたが……。想像以上によくないな、これは……。

 

 サイトのレスポンスがここ一週間ほどで急速に悪化していた。これだとサイト利用者にもわかるほどの影響が出ているはずだ。黒田の顔は曇った。引き続きプロジェクトのデータを開いていく。

 

 これは直接、話を聞いたほうがよさそうだな。

 

 内線電話でサイドグラムのプロジェクトルームへかける。やはり中西はそこにいた。専務室へ来るようにいう。

 ほどなくして専務室の扉がノックされた。

 

「失礼します」

 中西がタブレットPCを手に入ってきた。髪はぼさぼさで顔にも生気がない。椅子のひとつに力なく腰を下ろした。

「……相当、まずいんじゃないか」

 黒田は口を開いた。

「いえ、まだなんとか……。いま対策してますから、今週中にはなんとかなると思います」

「いや、だいたい状況はわかってる。レスポンス悪化の原因は、わかってるのか」

「……それは、ラブライブの盛り上がりが想像以上で、影響が大きくて……」

 中西は目を落とす。

 

 いや、それはわかってる。そうではなくて、サイト側の原因を聞いたつもりだったのだが……。まあ、それだけ切羽詰まっている、っということか。黒田はため息をついた。

 

「……よし、これから行こう」

「わかりました」

「電話を一本かけてから行く。先に行っていてくれ」

「はい」

 

 定例ミーティングは欠席だな……。そう思いながら黒田はもう一度、内線電話を取った。

 

 階段で十六階へ下りてプロジェクトルームへ向かう。

 

 プロジェクトルームには二十ほどの机がいくつかの島に並べられていた。机の上には大型の液晶ディスプレイ。通路はゆったりと広く取られ開放感のある作りだったが、今は慌ただしい雰囲気に包まれていた。

 黒田は中西に手招きされて、部屋の一角にあるパーティションで仕切られた打ち合わせコーナーへ入った。

 

「わざわざ申し訳ありません」

 中西のほかにひとりの男――プロジェクトの責任者の前野だ――がいて、頭を下げた。彼も中西ほどではないが疲れたようすだった。

 

 サイドグラムは榛沢(はんざわ)がアイデアを出し、中西が主担当で作ったシステムだった。黒田は序盤こそ共同で進めたものの、それ以降の設計はほぼ中西がおこなっていた。

 会社が大きくなり中西はプロジェクトの責任者からは外れていたが、やはり要所では彼が決定に深く関わっていた。

 

「もうすこし詳しく聞かせてもらえないか」

 黒田は前野にたずねた。

「はい、レスポンスが全体的に悪くなっています。特に夕方から夜間にかけて……。それに人気グループのライブ開催のタイミングでスパイクが出てます」

 前野はコーナーに置かれた大型ディスプレイにグラフを出してみせる。

「ここはA-RISE(アライズ)のライブのときですね」と一部をゆびさす。

「それで、一番、負荷がかかってる部分は?」

「リコメンデーションです。扱うデータ量が多いので……」と中西。

「それはよくないな……」

 

 榛沢が考案したリコメンデーションの仕組みは非常に精緻(せいち)だったが、そのぶんデータも計算も必要だった。

 黒田はさらに状況を聞いた。簡単に適用できるような対策はすでに実施済みのようだった。

 そうなるとすこしじっくり見ていく必要があるな……。

 

「プロファイルは取ってあるのか?」

「ええ、あります」

 中西が指示すると前野が別のグラフを表示した。

 ふむ、最低限、やることはやっているな、と黒田は思う。グラフの山を調べていく。

「うん……ここがポイントだな。評価値の計算をしているところか」

「そう、ですね」

 中西がうなずいた。

「ちょっとデータ構造を見せてくれ」

「はい」

 

 黒田は中西、前野と会話を重ねた。いくつものウィンドウがディスプレイに開く。

 

「ん、ここのデータ……どうしてこういう作りなんだ」

 黒田がそのうちの一箇所に目を付けた。

「それは……最初から、こうなってました」と中西。

「これだと影響範囲が大きくなりすぎる」

「でも、いままではうまく動いてたんです」

 中西は口をとがらせる。

「データ量がすくないうちはいいが、多くなると爆発するぞ。切り離してメインのデータだけ更新しないと」

「なるほど、そうすれば計算のパラメータ数を減らせますね。ここを変更すればいいんですね」

 前野の顔が明るくなる。

「いや、そうはいっても……」いいよどむ中西。

「……抜本的な対策には、相当、時間がかかるな」

 黒田の言葉に前野はふたたび肩を落とした。

 

 中西は気付いてなかったな……。暫定で作ったのがなんとなく動いていたから、そのままにしておいたというパターンか。もっと早く見直すべきだったな。ただ、いまさらそれをいっても仕方ないか……。

 

 黒田は腕組みをする。

「本格的な対応は、後回しだ。……あれを使おう。中西、去年のカンファレンスで出たキャッシュシステム、覚えてるか」

「はい、覚えてます。ただ、まだ不安定だという評判で……日本では使ってるところ、ありませんよ」

「しかし、効果はあるはずだ」

「それはそうですが……。黒田さんも評価して、不定期にデータが壊れるから使い物にならないって……」

「壊れてもいいところに使えばいい」

「……そうか、リコメンドの計算用データは中間結果だから」前野がいう。

「壊れたらまた作ればいいさ」

「……たしかに、行けそうです」と前野。

「そうかもしれませんね」

 中西も渋々という感じでうなずいた。

「よし、それじゃ、さっそく入れてみよう。今日中に効果があるか、評価。そのあとテストまで終わらせて、明日にはリリースだ」

 

 黒田と中西、前野はプロジェクトのメンバーにも声をかけて作業を開始した。

 

 午後、来客のために黒田はいったん抜けた。

 サイドグラムのトラブルについての話題も出たものの――すぐに解決しますよ、と黒田は自信たっぷり答えた。

 

 プロジェクトルームに戻り中西をいったん帰らせる。彼はしばらく抵抗したが最後にはしたがった。

 それからも夜を徹して作業は続き――黒田は専務室で数時間、仮眠を取った――翌朝にはテストまで完了していた。

 出社した中西も合流して結果を確認。行けそうだと判断して緊急メンテナンスのアナウンスをサイトに掲載する。

 そしてその日の午後、新しいシステムが動き出した。

 

 夕方になりリクエストが増え始めた。

 打ち合わせコーナーのディスプレイに状況のグラフを表示する。黒田と中西、前野の三人はそれを見守った。

 

「行けそうですね」と前野。

「いや、まだわかりませんよ……」と中西。

「あ、いまキャッシュが壊れました……。再構築してます」

 前野がウィンドウを示す。

「まあ想定内だな」

 黒田はうなずいた。

 

 三人はそのままじりじりと待った。やがて横ばいだったグラフがようやく下がり始めた。

「よし、夕方は乗り切ったな」と黒田。

「はい、負荷は以前の数分の一です。このあと夜にまたピークが来ますが……この調子なら大丈夫でしょう」

 前野はようやく安心したようだった。

「さすがですね、黒田さん。昨日、今日で原因特定から対策まで、やってしまうなんて」

 前野の顔には賞賛があらわれていた。

「いや、それはやることをやっておいてくれたおかげだよ。それに、あくまで一時的な対策だ。とはいえ、お疲れさま。前野さん、中西」

「はい。わざわざありがとうございました」

 前野は頭を下げる。

「すみません、お手数をおかけして」

 中西も硬い表情で前野にならった。

「うちの柱だからな。なにはともあれ、よかったよ」

 

 中西と原因と根本的な対策について話すのは落ち着いてからでいいだろう。取締役会もあることだしな。

 

 黒田はいったん専務室に戻りメールを片付けてから退社した。

 

        ・

 

 翌日。黒田は専務室で、明後日の金曜日に迫った取締役会のための資料を中西とまとめていた。

 ただ取締役会といっても取締役は五人。榛沢と黒田、中西のほかは副社長と経理部長のふたりで、内輪の集まりのようなものだった。

 

「サービスの報告は、だいたいこれでいいですかね」と中西。

「そうだな……。トラブルも一段落したし、北尾さんも文句はないだろう」

 

 経理部長は創業直後からの社員だったが、副社長の北尾だけは生え抜きではなく、一昨年に増資したときに外部から出向という形で加わっていた。

 

 中西はディスプレイに資料を映し出して確認していく。

社会貢献(C S R)としての音ノ木坂学院の理事の件、報告に入れるんですね」

「ああ、榛沢さん、気にするだろうからな」

「……ちょっとうらやましいですね。女子高ですよね。仕事を抜けていけるんですから」

 中西が笑ってみせた。

「いや、立派な仕事だ」面倒なだけだが、と心の中で付け加える。「なんなら君にかわるよ」

「来年はそうしてもらいますかね」

 中西はまた笑った。

 

 理事会もいいが自分のプロジェクトをしっかりしてくれよ――そういいかけるが、詮無(せんな)いことだと思い直す。今回の件で多少は思い知っただろう……。

 

        ・

 

 そして金曜日の午後。社内の会議室で取締役会が開かれた。

 

 社長の簡単な挨拶に続いて、予算の状況などが経理部長から説明された。その次が黒田の番だ。

 

「音ノ木坂学院ですが、廃校の方針は流動的なようです」

「地元の数すくない高校だからなあ。廃校にならなければ、いいんだけど」と榛沢。

「UTX高校ができた今、わざわざ公立高校が必要なんですかね? それに、わざわざ理事なんて……」

 北尾がいった。やせ形でセルフレームの眼鏡をかけている。

「関連する費用は微々たるものですし、会社のイメージアップ戦略としては悪くないと思われます」黒田はいう。

「とはいえ、人件費はかかってるわけだからねえ」

「北尾さんはそういいますが、廃校にでもなったら、ちょっと寝覚めが悪いですよ」榛沢は首を振る。「もしなにかできることがあったら、やってくれよ、黒田君」

「わかりました」

 

 続いて黒田はサービスの状況を整理する。

 

「……というわけで、おおむね順調に推移しています」

「サイドグラム、ずいぶん危なかったと聞いていますけど」

 北尾の言葉に、やっぱり来たかと思う。

「はい、ただ、私もすこし手を貸して……今週の緊急メンテで解決したと考えています」

「そうはいっても……もうすこし早めにトラブルの芽は摘んでおくべきでしょう」

「おっしゃる通りです。負荷の上昇が想定外でした」

「黒田さんに見ていただきたい、と再三お願いしていたんです」中西が口をはさんだ。「でも、まだ大丈夫だ、と」

 黒田はじろりと中西をにらんだ。ここでそれをいうのか、と思う。

「そうだったかな。相談を受けたのは、ずいぶん前だったと思うが……」

 そもそも一度きりで、もう一か月以上も経つじゃないか。

「それは、新サービスで忙しそうだったので……」

「まあまあ、黒田君、中西君。とりあえず解決したし、いいじゃないか」

 榛沢がふたりをとりなす。黒田はみなに聞こえないように、小さくため息をついた。

 

「中西君はがんばってるようだし、黒田さんもよろしくお願いしますよ」と北尾。

「……そうですね。もうすこし早めに確認しておくべきでした。申し訳ありません」

 黒田がそういうと北尾は鼻白んだようだった。

 黒田が中西に視線をやると、彼は目をそらした。

 

 北尾は話題を変える。

「ま、それはいいです。……ただ、サイドグラム、もうすこし収益を上げられませんかね。たとえば有料メニューとか、どこかの企業とコラボするとか……。これだけユーザー数がいるんですし」

「お言葉ですが……すでに広告収入などで黒字化は達成しています。今はユーザー獲得と満足度向上が先決かと」

 ユーザーは敏感だからな。商業色が強く出るとすぐに離れてしまう……そんなこともわからないのか。

「そうはいってもですね……。まあ榛沢さんと黒田さんに、お任せしますけど」

 北尾は首を振った。

 

 議題は次に移った。

 

        ・

 

 取締役会が終わり黒田は専務室に戻った。椅子に座り深くリクライニングさせる。

 

 中西のやつも器が小さいな、と思う。対策について一度じっくり話そうか思ったが、黙っているか――そう考えるが、思い直す。私のほうが同じレベルまで降りていくことはない……。

 

 扉にノックがあった。黒田が許可すると秘書の荒井がクリップボードを手に入ってきた。

「そろそろ失礼させていただきます。来週ですが、月曜午後に来客の予定が入っています。それと、念のため、再来週末には朋栄(ほうえい)ソフトの創立記念パーティがあります。ご準備がありましたらご検討ください」

「わかった。お疲れさま」

「お先に失礼いたします」

 荒井は扉を静かに閉めて退出した。

 

 そうか、ばたばたして忘れていたが、またパーティか……面倒だな。絢瀬君にお願いするか。とはいえ、今日は……中西のほうを片付けておいたほうがよさそうだ。絢瀬君には来週早々にでも連絡しよう……。

 

 黒田は内線電話に手を伸ばした。

 

        ・

 

 翌週、ある日の夕方。黒田は絵里を呼び出した。

 絵里は時間通りに専務室へあらわれた。制服姿でスクールバッグのほかに白い鞄を持っていた。

 あれはたしかフォーミダブルでもらったものだな。ふむ、なるほど。

 

「わざわざすまないね、絢瀬君」

 机の前に座った黒田は、打ち合わせ用の椅子を示してみせる。絵里はそこに腰を下ろした。

「なにか飲むかい?」

「いえ、いいわ」

「そうか」

 黒田は肩をすくめてみせた。

 

「ところで、部活といっていたけど……なにか始めたのかい?」

 絵里は一瞬、迷ったようだった。

「……ええ。ちょっとした事情があって」

「三年のこの時期から始めるなんて、珍しいんじゃないか」

「……あなたには関係ないでしょ」

「まあ、それはそうだ。……さて、本題だ。悪いが、またお願いしたい。今度は某社の創業記念でね」

「その前に、お話があるわ」

 絵里がきっと黒田を見つめた。黒田はそんな絵里の物怖(ものお)じしない態度を面白く思い、唇の端を上げた。

 

「……私のほうからも、話しておいたほうがいいかな」

 そういいながら立ち上がって窓際まで行き、外を眺める。窓の外はすっかり暗くなっていた。

「廃校について、オープンキャンパスでのアンケートで結果を見る、ということになっただろう」

 黒田は絵里に振り返った。

「ええ、そうだけど……」

 絵里の顔に疑問の色が浮かぶ。

「絢瀬君にとって、まずはいい結果かな。あれは理事会で決まったんだよ」

「……そうなの?」

「なんなら理事長に聞いてもいいよ。決定には私も一枚、かんでいる」

 まあ、嘘ではないな、と内心で考える。

「……」

 黙り込んだ絵里に、黒田は近付いた。

「だから……もうすこし、付き合ってもらえないかな? ここでもし君が、難しいというなら……」

 黒田はあとはわかるだろう、というように口をつぐんた。絵里は唇をかみ、目を落とす。

「……わかったわ」

「どうもありがとう。だからそれは、持って帰ってくれ」

 絵里はちらりと鞄を見たようだった。内心でため息をつくのが聞こえたような気がした。

 

 黒田は絵里の向かいの椅子に座る。

「それで、話の続きだが……。来週末、土曜日の夜になる。五時ごろに迎えに行くが……自宅に車を回すよ」

「いいえ、それは止めてちょうだい。カローデンまでお願いするわ」

「わかった。残念ながら今回は、服を買いに行く時間はないから、あらかじめ君のところに送らせてもらうよ」

 絵里は目を見張った。

「……前回と同じでいい、なんていうんじゃないだろうね」

「そんなつもりはないけど……」

「では、決まりだ。荒井に送り先を教えておいてくれ。会場にも着替えができるところはあるはずだ」

「……仕方ないわね」

 絵里はあきらめたようにうなずいた。

 

 しばらくの沈黙のあと絵里は続けた。

「そういえば……黒田さんの会社、サイドグラムっていうサービス、やってるんですって?」

「ああ、そうだが……」

 それが、というように眉を上げる。

「……別に、なんでもないわ。後輩が話してただけよ」

 

 絢瀬君、スクールアイドルに興味でもわいたかな……。ふむ、まあ高校生ならあり得る話か。

 

 黒田はしばらく待ったが、絵里に雑談を続ける気はないようだった。内線電話で荒井を呼び出す。

「絢瀬さんがお帰りになる。……いや、今日はいい。うん、それで頼む」

 またハイヤーを呼ぶと、絢瀬君は嫌がるだろうからな……。

 

 荒井はすぐにあらわれた。

「絢瀬さんに、学院のことで資料を送ることになった。送付先をお聞きしてくれ」

「かしこまりました」と荒井。

 絵里も立ち上がり鞄を持つ。

「それでは、気を付けて」

「失礼します」

 最後に絵里は扉の前で優雅に頭を下げて部屋を出ていった。

 

 ふむ、また無言で出て行くかと思ったら、律儀だな。……可愛いところもあるじゃないか。

 

 黒田は誰もいなくなった専務室でひとり笑みを浮かべた。

 

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