Grade Ⅴ 「矛盾」
今月に入って、ようやく梅雨が明けた。それは、実に嬉しい報せである。しかしながら、夏はまだ終わっていない。暑い夏は、まだ当分続きそうだった。
そんなウンザリするほど熱苦しいある日、私は夏バテして、食欲不振に陥ってしまった。
「食欲が無い? そうか、だったら昼は
素麺は美味しい。さっぱりとしているから、どんな時にでも食べられる。つけダレは自分なりにアレンジすることもできるから、しばらくは飽きがこない。そこが、いいところだ。
そうやって素麺や冷麦を毎日三食食べ続け、一週間ほど経った頃、私は栄養失調で倒れてしまった。
今思えば、阿呆な話である。いくら夏バテだからといって、調子に乗って偏食すれば身体に祟るというのに。
倒れた私は、すぐに永遠亭に運ばた。見舞いに来た魔理沙から涙を流して叱られた。
体に気を使え、と。申し訳ない気持ちになった。
これからは、気をつけよう。…もっとも、自ら気をつけるべきタイミングがこれから或るのかは甚だ疑問だが。
それに、もう永遠亭から外出する事は無いということに気がついていた。
自分に残された時間は、一ヶ月を切り、差し迫っていることにも。
そして、入院から数日が経った。
「無理を、しないように」
診察を終えた永琳はそう言い残し、病室から出て行った。もう、耳ダコができるくらい何度も魔理沙から聞いた言葉だ。昨日も聞かされた。
入れ替わるように病室に入ってきたのは魔理沙だった。
今日もまた同じように、雑談と少しの説教をして帰るのかとも思ったが、違った。
入室してきた魔理沙の後ろには、
♢
奇跡とは、何だろう。
そう考えた時、真っ先に浮かぶのが“有り得ないこと”や“成し得ないこと”だ。
しかし、
ならば奇跡とは、限りなく実現することは難しいが、不可能ではないことが実現すること、と言って差し支えないだろう。
そうでなければ、奇跡などこの世には無いということになる。そんなのは嫌だ。
しかし奇跡とは言っても、総てが幸運とは限らない。幸も不運も、その針が最大限にまで振れた状態を奇跡とする。
早苗の持つ能力は『奇跡を
幸運か不運かも選ぶことができ、詠唱時間も大幅に短縮したのだった。
「なるほどね。早苗の能力で」
「ああそうだ。お前のために、とは言わん。結局全部私のためにやってることだぜ」
早苗は、守矢神社の現人神だ。緑色の髪に、青色の脇出し巫女服を着ている。
先月、魔理沙は弾幕に負けてから、本格的に私の延命に取り組み始めた。心の中で、何か決心がついたのだろうか。
蓬萊人、つまり妹紅や輝夜に、肝をくれ、と頼みにいったりもしたらしい。
前にも言ったが私は、人外になってまで生き延びようとは思わない。それに、彼女らの肝を喰らうというのも気が引ける。
そんな私の意見を無視しての交渉だったが……。
輝夜は難題を出して遠回しに断り、妹紅は一言、やめとけ、とだけ言って何処かに飛んで行ってしまったそうだ。
また、紫の『境界を操る程度の能力』で私の病を如何にか出来るかと捜したが、見つけられなかったらしい。というかそもそも、最近紫を見ていない気がする。彼女はどこに行ったのだろうか。
まあ、それはいい。それよりも、早苗の能力で私を治せるかだ。
「で、治せそう?」
尋ねてみた。治らないなら治らないで諦めはつくが、治るのならそれに越したことはない。
早苗は、ベッドに横たわる私の姿を頭頂から爪先までをじっくり見て、判断を下した。
「……わかりません。ですが、やるしかありません。では」
そう言って、ブツブツと呪文を呟き始めた。ごくごく小さい声なので聞き取れないが、単語単語が意味を持ってることは分かる。
そして数分後。詠唱が終わって長い沈黙。わなわなと震える口を開いて、早苗は勢いよく頭を下げた。
「…………すいませんでしたっ!」
「すいませんでしたって、オイ、お前……」
「魔理沙、落ち着きなさい」
最近魔理沙はいつもこうだ。躍起になりすぎて、堪忍袋の緒が短くなってきている。
早苗は顔面蒼白。魔理沙は怒りで顔が赤く、鼻息も荒い。
私は、どうだろう。普通だと思うけど、病人だし顔色が悪いかもしれない。
奇跡程度では揺るがない。それ程までに、私の病は深刻だった。
後日聞いた話だと、早苗はこの血の気も引く瞬間を恐れて、奇跡を使う決心をするのに時間がかかったらしい。
自分の能力が無効果であれば、もう成す術は無い。その時点で友人の死が確定してしまうから、だとか。
酷だが、迷っていた時間が逆効果だった。責めるつもりは一切無い。だけど、早苗が躊躇している間にも私のがん細胞は脳内を食い荒らし、侵食していった。それは、治癒が
まあ、もしかしたら治癒可能だったかもしれない、というだけの話だ。
無理だったものはしょうがない。実際成し得なかったのだからしょうがない。そう思うしか、ないのだ。
「早苗も、気にしなくていいわよ」
「でも、でもっ。霊夢さんが居なくなってしまうなんてッ……」
青い顔になったかと思えば、今度は顔を手で覆って泣き始めた。せわしない現人神だ。
あまり、悲観的にならないでほしい。
それに、分かっていたのだ。もう助からない事なんて。
今更、落胆など、しない。能力を使ってもどうならない事にも、予想はついていた。既に生は諦め、死の覚悟はできている。
だからもう、泣かないで。
泣く早苗を見ていると、私も目が潤んできた。年齢で、涙腺が緩くなった所為か。
皺だらけの手で目尻を拭い、湿っぽい病室が終わるのを待っていた。
死の足音は、すぐそこまでやって来ている。
余命いくばくも無い夏の暑さが、これほど恋しいことはなかった。