深夜の大海原に突如として生じるのは、夜空に届かんばかりの無数の水柱。四方八方からはひっきりなしに轟音が響き渡る。放物線を描いて海面に突き刺さった黒い塊は、一瞬の後には真っ赤な火の塊となって海面を大きく爆ぜさせた。爆風に弾き飛ばされて水切り石のように水面に繰り返し叩きつけられて吹き飛んだ少女が、波に足を取られながらも立ち上がる。震える膝を両手で押さえながらに、少女はやっとのことで一歩を踏み出す。しかし、途端に腹を抱えるようにうずくまったかと思えば、塊のような血を吐き下した。二度、三度と逆流する胃液交じりの血は夜の海に溶ける。嘔吐による酸欠のせいで少々虚ろな瞳をした少女は、血に汚れた唇を拭いながら射抜くように正面を見据えた。視線の先、暗い海の向こうに見えるのは、爆炎に包まれながらも咆哮を上げる巨大な人影。
「シマカゼ、Are you okay?」
「All serene.」
うずくまったまま、少女は聞こえた声に応じる。イギリス英語では問題ないことをこう言うのだと、どこかで聞いた記憶があった。視線を横に向けると、こちらを見下ろす女性の姿が見える。
「冗談言える余裕があれば、大丈夫みたいネ。」
彼女も笑顔こそ見せてはいるが、血まみれの左腕は力なく垂れ下がっている。綺麗に結われていたはずの髪はばらばらに解け、本来は暗闇にも映えるであろう豪奢な仕立ての服はぼろ布のようで、傷だらけの素肌をほとんど隠せていなかった。少女も彼女も、もはや限界であった。あと一撃で、深い海の底へと沈んでしまうという諦め交じりの確信がある。吐き気を堪えるために片手で口を覆いながら、どうにか立ち上がった少女は上目遣いに彼女を見る。
「私……アイツを倒したら、やりたいことがあるんです。えっと……。」
「No... 待ってシマカゼ! そういうことを言っちゃう人は、映画だと次のシーンで……。」
「いいえ、最近はそうでもないですよ? むしろこの手のせりふは言い切っちゃった方がいいんです。」
言葉を遮ろうとした彼女の瞳を見つめて、少女ははにかんだ。
「えぇっとですね……。ゆっくり、のんびり、自由に旅がしたいんです。」
「なんだか、意外デス。」
「私だって、何でも速ければ良いなんて思ってませんから。」
意外だと言われることこそ心外だと、少女は唇を尖らせる。直後、再び周囲にいくつもの水柱が立ち昇った。金属の破片が腕や太腿に突き刺さるが、その程度の傷はもはや誤差の範囲だ。二人同時に、左右それぞれの方向に向けて跳躍する。着水後に姿勢を低く取りながら、二人は水面を高速で駆け抜けて再び合流する。
「ワタシはね、お嫁さんになりたいデス。赤ちゃんを産んで、苦労しながら旦那サマと一緒に子育てがしたいネ。」
「良いですね。でも相手を探さなきゃ。」
「Shut up. こんなにイイ女が独り身なんて、平和な世の中だったらあり得ない事ネ?」
繰り返し撃ち込まれる砲弾を避けながら、二人は視線を重ね合う。
「――勝ちましょう。」
「――当然。これでFinish。」
それが最後の無線通話。後はもう、言葉は要らなかった。互いがどう動くつもりかなんて、わかりきっていることであったし、腹の底から声を上げて突撃するだけだったから。
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電子音のアラームが鳴り響く。目覚めようとする意思と睡眠欲求の間で揺れ動いて、ベッドの上でもがくこと十秒。枕元のスマートフォンに触れてアラームを止めてから、少女がのそりと起き上がった。着乱れて鎖骨を大きく覗かせているTシャツを簡単に整えて、ベッドからゆっくり降りる。けだるい足取りで洗面所へと向かい、鏡越しに映る顔を見つめた。徐々に黒色に戻っていった髪は、肩の辺りでばっさりと切ってしまった。あの頃より少しだけ背が伸びて、女としてはかなり背が高くなってしまったことはちょっとしたコンプレックスの一つだ。買い置きしていた食パンを二枚トースターに放り込んで、テレビの電源を入れる。外国の大企業が企てた粉飾決算に絡むニュースについて、キャスターとコメンテーターが何やら語り合っている。スマートフォンには、新着のメッセージが表示されていた。
『ユッキー、待ち合わせは10時でOK?』
問題ない旨を返信しておいてから、焼きあがったトーストと昨夜のうちに用意しておいたサラダで簡単な朝食を摂る。厚めのトーストは両面少し焦げるくらいまで焼いて、マーガリンではなく少量のバターで食べるのが好きだ。二枚のうち一枚はバターだけで食べて、もう一枚はそこに蜂蜜を足す。パンの焦げ目のほろ苦さと、蜂蜜の甘さとバターの香りが寝起きの思考を心地よく覚ましてくれる。戦っていた頃は朝からどんぶりでごはんを食べたりもしたものだが、最近は随分食が細くなったのを自覚する。当時同様に食費がかかったとしたら、さすがに困っていたかもしれない。
というのも、目下自分は何もしていない――有体に言えば無職――だから。国から与えられた恩給は十分なものであったが、蓄えが逓減するばかりというのは精神的に辛いものがある。年金の追加給付もあるらしいが、それは老後の話。したがって、今後の方針だけでも決めておきたいと思っていた。
今日から旅を始めるのは、これから何がしたいのかを見つけるためでもある。あの頃からずっと夢見ていた、気ままでのんびりした旅の途中、仲間であった元艦娘達と再会するつもりだ。彼女達は既に自分の人生を歩み始めている。純粋に、久々に会って話がしたいのは勿論のことであるが、今後の生き方のヒントにしたいという気持ちもあった。昨夜のうちに最低限の衣類をまとめておいたキャリーバッグ片手に、マンションの部屋を後にする。しばらく戻ることのない部屋の扉を肩越しに振り返った。表札には、"藤堂"の文字。
最後の戦いから3年が経過したある春の日。
元駆逐艦 島風――藤堂由希子――は旅に出る。
最初に会う予定なのは、最後の最後まで一緒に戦ったあの人。彼女とはこの3年間も頻繁に交流していたのだが、旅立ちの挨拶をしておきたかった。
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最寄の駅から私鉄とJRを乗り継いで30分ほど。快晴の土曜日ということもあって、駅を出てすぐの待ち合わせスポットは朝から既に混雑し始めていた。けれど、彼女を見つけるのは容易だ。紺色のブラウスに白のスカート、特に気取ったところのない服装なのに、女優もかくやという雰囲気を身にまとう人なんて、彼女くらいしかいない。キャリーバッグを持ち上げて、小走り気味に彼女のもとへと駆け寄った。
「Good morning! ユッキー。今朝もVery sweet!」
気づいた彼女も駆け寄り、快活過ぎる程の声と同時に由希子を抱き締めた。
「葵さんは、今日も元気ですね……。」
肩口に顔を押し付けられるくすぐったさと、雑踏の中で抱きつかれる恥ずかしさで、わずかに頬を染めながら由希子は答える。由希子にとっての大切な先輩であり、仲間であり、今は一番の友人と言える、そんな彼女の名は秋山 葵(あきやま あおい)。当時の戦艦 金剛その人である。