島風は旅に出るようです。   作:delled

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10.始まりの楽園(8)

 エントランスまで戻ってきた四人が目にしたのは、多数の兵士や職員たちの姿だった。彼らの多くは、四人が基地に戻ってきたとき、既にそこに集まっていた人たちだ。シャノンと遙の治療が始まってから、既に一時間半以上が経過している。彼らはその間ずっとここで待っていたのだろう。四人が彼らに気づいたのと同時、彼らもまたこちらの姿を目にしたようだ。元気そうなシャノンの姿を見たことで、彼らに生じた小さなざわめきが波紋のように広がって、由希子たちがエントランスを出る頃には歓声となって響き渡っていた。彼らが口々に告げるのは、シャノンを守りきれなかったことへの後悔と謝罪。それらに加えて、由希子とミズーリへの感謝と、遙を案ずる言葉も含まれた。心配をかけたことを謝って回るシャノンの背中に、由希子は視線を向ける。シャノンがこの基地で愛されているというのは、ミズーリの言うとおり間違いない。それに、彼女は大切な友人である。だから、力を振るう必要はあった。しかし、密やかに伏せた視線の先、由希子は自分の右手を見つめながら眉尻を少しだけ下げる。艦娘の力を振るうことに、妙な高揚感を自覚していたから。昨日の昼、シャノンに反射的に殴りかかったときも似たような感情を覚えていたのかもしれない。三年を経てなお、自分のあるべき姿を決めかねている由希子にとって、戦うことは短絡的に自分の存在価値を見出せる瞬間となっているのではないか。心のどこかで、戦う理由を探していたのではないか。煩悶しそうになる思考を無理矢理に遮ることにする。一人視線を伏せる由希子をよそに、兵士たちの喜びの声はしばらくの間続いていた。

 

 一行は言葉少なに部屋の前へと辿り着く。扉を開けた晴妃に促されて、まずはシャノンが玄関に足を踏み入れた。いつもは気にもとめないはずの部屋の匂いが、なぜか懐かしく感じる。電球色の明かりに照らされたいつもの玄関も、とても貴いものに思えた。二度と帰ってこれないことを覚悟した場所に、戻ってくることができたのだから。

 

「たダいま。ドク……。」

 

 一般的な欧米世帯とは異なり、一条家では玄関で靴を脱ぐのがルール。しかし、シャノンは玄関に突っ立ったまま、たった一日で随分とぼろぼろになったサンダルを脱ぎもせず、唇を震わせながらに呟いた。

 

「おかえり……。」

 

 晴妃はシャノンの肩に回した腕を胸元で緩く交差させて、その背中を包むように抱きしめる。小さな肩に顔を埋めるようにして囁いた晴妃の声は、耳が溶けてしまいそうなほどに優しく響いた。最後に部屋に足を踏み入れたミズーリが右手で玄関の扉を半開きにおさえたまま、左手で由希子の肩に触れる。肩越しに振り返る由希子とミズーリの視線が交差する。互いに何が言いたいかは容易に理解できた。すなわち、二人を邪魔しない方がいいのではないか、と。

 

「よしっ! シャノン、気合い入れてご飯の準備するわよ!」

 

「うン! いケるよ! 二人も、早くコっち。」

 

 静かにその場を後にしようとした由希子とミズーリをよそに、その緩やかな抱擁は長くは続かなかった。気持ちを切り替えたかのように、不敵に笑みを浮かべる晴妃がシャノンの両肩を最後に緩く叩いたなら、二人は何ごともなかったかのように由希子たちの方を振り返る。その視線を受けて、再びミズーリと視線を重ねる由希子。ミズーリは小さな笑い声とともに緩く肩をすくめた。半開きのままの扉は閉じられて、四人は揃って玄関を上がる。

 

「そうだ、今日こそは何か手伝わせてくださいね。」

 

「微力ながら、私にも協力させて欲しい。」

 

 ダイニングキッチンに続く廊下を進む途中、由希子とミズーリがいう。先頭を歩いていたシャノンは、二人の言葉に足を止めて唇に指を添える。

 

「うゥん、本当ハお客サんに手伝って貰うのハ申し訳ないんダけど……。」

 

「そうね。でも早くご飯食べたいじゃない? せっかくだから、ありがたく手伝って貰いましょう。」

 

 晴妃は足を止めたシャノンの肩を押して進み、二人は一足先にキッチンへと足を踏み入れる。晴妃は足元のキャビネットからエプロンを取り出して、続いた由希子とミズーリに手渡した。どちらもシンプルな紺色のエプロンで、由希子はそのまま、ミズーリは上着を脱いでから身につける。四人順番に手を洗って、準備ができたところでシャノンは由希子たち三人を順番に見遣った。

 

「晩ご飯は、ガーリックシュリンプと大根サラダ、それとお味噌汁にシまス。ちョっとおカずが少ないケど、時短重視ッ! まずは、ドク?」

 

「ん。お味噌汁は私が作る?」

 

「お願イ。」

 

 料理において、司令塔となるのはシャノンなのだ。確かにこの部屋のキッチンは広々としていて設備も充実しているが、だからといって四人が適当に動けるほどの余裕はない。それぞれが目的を明確にして動かないと、むしろシャノン一人の方が効率が良いということにもなりうる。次に由希子へと視線を横にずらす。

 

「ユキコは、大根サラダをお願いしテもいイ? シャキシャキに切っタ大根に、海苔とおかかデ。材料はぜんぶ冷蔵庫にあルよ。」

 

「うん、大丈夫。任せて。」

 

 シャノンの瞳をまっすぐに見つめ返して、由希子は浅く頷いた。シャノンにしてみれば、本当であれば水菜を入れた大根サラダを食べて貰いたかったところではあるが、そこは明日以降の食事で挽回を狙うことにした。シャノンの視線は、最後にミズーリへと向けられる。その相貌が強張っているのは見逃さなかった。というよりも、既に知っているのだから、見逃すもなにもない。おおよそのことは卒なくこなす彼女であるが、家事全般は苦手意識があるらしいのだ。

 

「えぇっと、ね。ミズーリには、お皿や飲み物の準備をお願いしてもいいかな。あと、みんなが必要なとキに手伝って欲しいカも。だメ?」

 

「もちろん、そんなことでいいなら手伝おう。」

 

 心なしか安堵した様子のミズーリに、シャノンは微笑んだ。

 

「じゃあ、始めヨっか。」

 

 シャノンの声に応じて、三人がそれぞれ頷く。冷蔵庫で寝かせておいたエビには既に十分ソースが馴染んでいる。熱した中華鍋にニンニクを散らしてオリーブオイルを引いてから、シャノンはエビを炒め始める。少し大きめのおたまが中華鍋に小気味よく当たる音が響き、しばらくもしないうちに、周囲にはニンニクと香辛料の香ばしい匂いが満ちていく。

 

「ガーリックシュリンプっていうのも、ハワイの料理なんだよね?」

 

「そウ。えぇっと、この島の東の方にエビの養殖業者がたくさんあルんだケど、その辺りから広まっタみたい。トラックとかバスを改造したお店で売ってルんだよ。」

 

「あ、そういうのは見たことあるかも。中華鍋を使うんだ?」

 

「うン。フライパンでも良いんダけど、アタシ的には中華鍋が使いヤすいかも。ソースがよくなジむ気がスる。」

 

 ピーラーで大根の皮を剥き終えた由希子は、食欲をそそる匂いに誘われるように中華鍋に目を向けた。シャノンはその白く細い腕で、それなりの重量がありそうな中華鍋を軽々と振るっている。見事な手際に視線を奪われそうになる気持ちを抑えて、十分に手入れがされた包丁で大根を細切りにしていく。彼女ほどの腕はないが、由希子も自炊には慣れている。均等な細さに切り揃えた大根を、ガラスのボウルへと盛り付けた。確かに、白一色というのは少しさびしいかもしれない。海苔と鰹節をかければ多少はごまかせるけれど、それでも緑色が欲しい気がした。うーん、と声を漏らしながら、由希子は両手を組む。そんな由希子へとシャノンが視線を向けた。

 

「ごメんね、ユキコ。本当は水菜ヲ買おうと思ってたんダけどさ、その……。」

 

「ううん、これでも十分おいしいよ。だって、私が頑張って切ったんだもん。」

 

 シャノンが言おうとしていることが、由希子には理解できた。彼女が一人で外出をしたのは、まさにその水菜のためだったのだろう。眉尻を下げるシャノンに、由希子は意図してニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

 

「ン、そうダね。」

 

 そんな由希子の表情に顔をほころばせたシャノンは、再び手元の中華鍋に意識を向ける。仕上げとばかりに中華鍋にワインを注ぎ、程なくして炒め上がったエビを大きめの器に盛り付けていく。

 

「んっ。いい匂い……。」

 

「デしょ? ちょっト辛いけど、おいしイんだカら。」

 

 少し行儀が悪いことを承知で、由希子はガーリックシュリンプが盛られた器を上から覗き込む。由希子に顔を寄せたシャノンは、唇で弧を描かせて微笑む。

 

「お味噌汁とご飯もオッケーよ。さ、ご飯にしましょう。」

 

 味噌汁とご飯、飲み物が晴妃とミズーリによってテーブルにちょうど並べられたところだった。ご飯は事前にタイマーがセットされていたらしい。由希子とシャノンもそれぞれ大根サラダとガーリックシュリンプの皿をテーブルに並べる。ミズーリを除いた三人は昨夜と同じところに腰を下ろした。すなわち、正方形のテーブルで、晴妃と由希子、シャノンとミズーリが向き合う形となる。

 

「今日は色々あったけれど……遙ちゃんもひとまず落ち着いたし、こうやってみんなでご飯を食べることができて本当によかったと思っているわ。由希子、ミズーリさん、ありがとう。」

 

 全員が席に着き、食事の準備が整ったところで、晴妃が全員と視線を交わしてから言った。

 

「そんな、とんでもないです。」

 

「私は任務をこなしただけだよ。むしろ、色々と迷惑をかけてしまった。」

 

 由希子とミズーリはそろって首を横に振る。

 

「ん、とにかく……今日のところはお腹一杯にして、ゆっくり休みましょう。”いただきます!”」

 

 ミズーリもある程度の日本語は解するが、このメンバーなら英語の方が意思疎通が円滑になる。申し合わせるでもなく、自然と全員が英語を使っていたが、いただきます、だけは全員が揃って日本語で口にした。シャノンが白磁の小皿に取り分けてくれたガーリックシュリンプを由希子は口に運ぶ。匂いから想像できるとおり、ニンニクと香辛料の効いた香りが口に広がった。しかし、ただ辛いだけではなく、エビの甘みが十分に活かされている。昨夜のモチコチキンもそうであるが、これもまたご飯が進む。

 

「んんっ、おいしい……。辛いけど、ご飯がいくらでも入りそう。」

 

「良かっタ。でも、ハルカにも食べて欲しカったかナ……。あ、明日ハ、ハルカも誘いタいね。」

 

 シャノンは伺うような視線でちらりと晴妃を見遣る。

 

「もちろん、そのつもりよ。明日になれば彼女も食事が摂れるはずだしね。うーん、すき焼きがいいわね。すき焼き! ミズーリさんも一緒に、どうかしら?」

 

「私も良いのか? スキヤキは好物だから、呼んで貰えるならとても嬉しいけど……。」

 

 咀嚼していたものを飲み込んでから、ミズーリは意外そうに聞き返す。平静を装ってはいるが、その碧眼は期待に輝いてすらいる。ミズーリにとって初めて食べた日本食がすき焼きだった。日本との合同作戦の際、現地の旗艦である艦娘にご馳走してもらったのだ。深海棲艦との戦いの間も、多くの国は食べ物に困ることほど追い詰められはしなかった。だからこそ、激戦の合間に良質な牛肉と野菜で満杯になったすき焼きにありつけたわけである。もちろん、それは各国が多数の政治的判断を踏まえながらも、物資や資源の面でおおむね善意の協力関係を築いていたからだ。

 

「鍋物は大人数の方がいいのよ。良かったら是非。」

 

「ありがとう、だったらご一緒させて貰うよ。」

 

「ご飯はみんなで食べた方がおいしいですもんね。」

 

 由希子はミズーリの方を向いて微笑みかける。

 

「嬉しいナ、ミズーリも一緒! 鍋ブギョーやっちゃウよ。ハルカも喜んでくれルかなぁ。」

 

 シャノンは左手の人差し指を唇に添えて、軽く首を反らして天井を見上げた。遙はどんな食べ物が好きなのだろうか、どんな味付けなら喜んでくれるのか、そんなことを考えるのが好きなのだ。

 

「調べたところによると、彼女は少し前からハワイに来ていたらしい。おいしい日本食を食べようと思うと値が張るから、恋しく思っているかもしれないね。」

 

「だっタら、お昼ごはんも持って行ってあゲようかな。お弁当作って……。」

 

「うん。遙さん、喜ぶと思うよ。」

 

「献立考えナきゃね。明日は忙しイかも!」

 

 シャノンはグラスに注がれたお茶を一口飲んで、少しだけ視線を伏せた。言葉どおり、もう遙へのお弁当の献立を考えているのだろう。そんな彼女を見つめて、由希子は表情を緩ませる。

 

「そういえば、ミズーリさんはいつの間にお箸の使い方を?」

 

 ミズーリが慣れた様子で箸を使い大根サラダを口に運ぶのを見て、まずは彼女が満足そうに食べていることに軽く安堵しつつ、由希子が首を傾げた。以前会ったときは、和食こそ好んで食べていたものの、箸はうまく使えずにフォークやスプーンを使っていたことを覚えていたからだ。

 

「あぁ、イチジョウとシャノンがよく夕食に誘ってくれているからね。いつのまにか身についていたよ。アイオワの奴ほど上手ではないけど。」

 

「アイオワさんは、相変わらず……?」

 

「いや、恐らく君が知っているアイツよりもさらに、だよ。最近だと、えぇっと……コンジキなんとかという小説を原文で読破したって自慢してたからね。作者が没して未完で終わったとか言っていたけど。」

 

「それって、金色夜叉、かな……。話は知ってますけど、私も全部は読んだことないですよ。」

 

 由希子の声にわずかな驚嘆が混じった。

 

「アイオワさん、本当に日本好きよね。はじめて日本に来たときは、スシ、ゲイシャ、フジヤマ! みたいな感じだったのに。」

 

 お茶を一口飲んだ晴妃は、緩く首を反らして天井を見上げながらにいう。

 

「ミズーリも日本語たくさん勉強しテるじゃン。」

 

「それは仕事に役立てるための、いわば自己啓発の一環さ。私の日本語よりも、ユキコの英語の上達の方が目覚ましいと思うけどな。やっぱり、コンゴウ……えぇっと、アキヤマに教えてもらって?」

 

「ですね。一緒に食事するときに、英語で話をしてもらったりとか、色々と。」

 

 由希子は浅く頷いた。ミズーリの予想通り、葵のおかげで英語ができるようになったのは間違いない。試験科目としての英語は嫌いだったが、言葉としての英語は彼女のおかげで好きになって、その結果として相応に使うことができるようになったようなものだ。ちなみに、学業としてはむしろ理系科目の方が得意だった。それぞれ国の方針にもよるが、日本の艦娘は自衛隊に属している間、十八歳以下の場合はその年齢に応じた一般的な教育を受けることになっている。もちろん任務や訓練が優先される面はあるが、それでも試験勉強から逃れることはできなかったのだ。とはいえ、そのおかげで由希子を含む多くの艦娘は高校に通わずして大学入学資格を持っているし、望むならばほぼ適性試験を免除された状態で防衛大学校に進むことができるようになっている。

 

「ユキコ、留学に興味はないかい? もし軍に籍を置いてくれるなら、授業料や生活費はこちらですべてカバーできるよ。上から言われてるんだよ。君をどうにかこっちに引き抜いて欲しいってね。」

 

「声をかけてもらえるのは光栄で、良いな……って思いもするんですけど。」

 

 ミズーリの澄んだ碧眼が由希子の瞳をまっすぐに覗き込む。確かに興味がないわけではないが、彼女の誘いは米軍に属することとイコールだ。それも良いのだろうけれど、やはり今は決めかねる。その視線から逃れるように瞳を伏せて、味噌汁の入ったお椀に唇を添える。

 

「由希子的にはイギリスに行きたいんじゃない? 葵さんの故郷でもあるわけだし。」

 

 そんな由希子への助け船というわけでもないのだろうが、晴妃は少しだけテーブルに身を乗り出して、片眉を跳ね上げてミズーリと由希子を交互に見る。

 

「そう、ですね。まだ行ったことがないですから。」

 

「イギリス、アタシも行ってみタい。タワーブリッジにウェストミンスター宮殿! 雰囲気あルよね。今回の旅行では行かナいの?」

 

「最初は行きたいな、って思ってたんだよ。でも、私が知ってるイギリスの艦娘は秋くらいまでの長期任務に入るらしくて……。フランスの艦娘と合同演習をしてから、その足でインド洋の警備っていってたかな。」

 

「ま、あの辺りの海域はいろいろあるものね。」

 

 軽い調子で肩をすくめた晴妃の視線は、ちらりとミズーリに向けられた。ミズーリもまたごく短い時間、晴妃と視線を交わして、その直後に小さく笑い声を上げた。

 

「そういえば、イギリスと言うと、向こうの艦娘たちとはいい思い出があまりなくてね。個人としては仲もいいし、尊敬できる人たちなんだけど。」

 

「前もそんなこといっテたよネ。ミズーリ、イギリス嫌イ?」

 

 シャノンは片手でお茶の入ったグラスを持ち上げながら、ミズーリを見つめる。

 

「ううん、断じてそんなことはないよ。ただ、文化が多少受け入れがたいというか……。食事に対する考え方とか、ね。」

 

 シャノンの視線を受けたミズーリは、言葉を選ぶかのように、多少歯切れ悪く答える。

 

「よく聞くわよね。誇張されてるのかとも思ってたんだけど。」

 

「もちろんおいしいものもたくさんあると思うよ。ただ、私が口にしたものは……。」

 

 それから暫く、食事を囲んでの会話は続くことになる。その間、今日の出来事が触れられることはなかった。いずれにせよ、遙を交えない限りは話をするべきではないという意識が全員にあったのかもしれない。その分、久々に集まった艦娘三人による思い出話が花を咲かせることになる。シャノンは艦娘の日常生活に興味があるらしく、休日の過ごし方や艦娘の恋愛事情に話が及んだ際は、特に熱心に耳を傾けていた。残念なことに後者の話題については、三人ともあまり具体的な話をすることはできなかったのだが。

 

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 食事の後片付けが終わってすぐ、ミズーリは残した仕事を片付けるために晴妃の部屋を後にした。その後、昨夜と同じく三人で共同浴場の大きな浴槽を満喫して、時刻は23時を過ぎた頃。

 

 二人に就寝の挨拶をしてから、借りている寝室に戻った由希子は、室内の明かりを消して窓を開けた。潮の匂いが混じった夜風が心地よく髪を撫でる。出窓の棚部分に腰を下ろし、由希子は肩越しに振り返るようにして外を見つめた。大変な一日であったが、昨日と同じ穏やかな気持ちでこの夜景を楽しむことができてよかったと、心からそう思う。まだ問題がすべて解決されたわけではなく、不安な思いもあるが、誰の命も失われずに済んだことだけは間違いない。パジャマ代わりのハーフパンツのポケットからスマートフォンを取り出す。その画面に表示されているのは、葵の名前。まだ何を話すべきか、自分の中で整理はできていないが、それでも彼女の声を聞きたかった。発信ボタンに触れて、スマートフォンを耳へと寄せる。国際電話特有の、通常とは少しだけ異なる着信音が数回流れた後……。

 

「Hello! ユッキー?」

 

 いつもどおりの、優しくて明るい葵の声が聞こえてきた。それだけで、胸にわだかまる僅かな不安すらも消えていくように思えるから不思議だ。

 

「こんばんは、葵さん。えへへ……お言葉に甘えちゃいました。今、お仕事中ですか?」

 

「Yes! でも、ちょうど晩ご飯を食べに行こうと思ってたところネ。だから、気にする必要ないデス。今日も楽しい一日デシタ?」

 

「はい。朝から買い物に出たり、晴妃さんの仕事をお手伝いしたり……。」

 

 今日のことは、まだ葵に話すべきではない。まだ由希子の中で整理がついていないことであるし、何より彼女はより正確な情報を遠からず手に入れる立場の人なのだ。中途半端な話をすることで、いらぬ心配をさせたくはなかった。

 

「ねぇ、ユッキー。何かあった?」

 

 由希子の言葉を遮る声は、とても穏やかなものだった。彼女には、昔から隠しごとができないのだ。どんなに強がっても見抜かれてばかりだった。少しくらいは成長したと思っても、彼女にとってみれば由希子はあのときのままなのかもしれない。しかし、今の由希子は伝えるべき言葉がなかった。やみくもに由希子が知るだけのわずかな事実と不安を吐露しても、意味がないことだけはわかっている。

 

「その、何を話したらいいのか、まだわからなくて。だから……。」

 

「You will be okay! ユッキーが話したいときでいいネ。」

 

 その声色だけで、葵の優しげな笑顔を想像するのは容易だった。自然と表情が緩むのを自覚しながら、由希子は瞳を閉じて、緩く頷く。

 

「うん。ありがとう、葵さん。あ、そうだ。今日はミズーリさんも一緒に晩ご飯を食べたんですよ。」

 

「Really? 彼女もハワイに戻ってきてたのネ。元気そうデシタ?」

 

「はい、全然変わりなかったです。葵さんにも会いたいっていってました。」

 

「Oh...やっぱり私も一緒に旅行したかったデース! みんなとおいしいご飯が食べたかったデス。ユッキー、今度は絶対にVacationを取りますカラ、いろんなところへ行きまショウ!」

 

 本当に残念そうな葵の声に、由希子は思わず笑い声を漏らす。由希子の笑い声を聞いて、葵も小さく笑った。

 

「はい、そうしましょう。ん、あんまり晩ご飯のお邪魔もできないですから、今日はこの辺で……。」

 

「気にしなくていいのに。でも、Okay. またいつでも、メールでも電話でも、ネ。」

 

「はい、お休みなさい。葵さん……。」

 

「Good night. ユッキー。」

 

 スマートフォンを耳から離して、液晶画面を見つめる。終話ボタンを押すのが少しだけ名残惜しく思えてしまって、そんな自分に苦笑を浮かべながら、由希子は画面上に赤く表示されたボタンを押した。スマートフォンを枕元に置いて、ゆっくりとベッドに上体を沈める。今日は満月らしい。出窓からの月明かりがちょうどベッドに差し込んでいて、少し眩しく思えるほどだったが、カーテンを閉じるのはもったいないように思えた。額に腕を当てて、ぼんやりと天井を見上げているうちに、由希子の呼吸は穏やかな寝息へと変わっていった。

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