翌日は三人で朝食と身支度を済ませた後、急ぎ遙の病室へと向うことにした。ミズーリと約束していた時間は8時。今はその5分前といった頃だ。研究施設内では職員たちの声や足音といった、さまざまな音が形のないうなりとなって場に満ちている。今日が月曜日だから昨日に比べて活気があるのは当然のことなのかもしれないが、一方で地下の治療施設はしんと静まり返っていた。あえて人の配置を最小限にして静けさを保っているのかもしれない。しかし、そもそも今回のように艦娘の治療が必要とされる自体そのものが少なくなったということだろう。昨夜遙が運び込まれた集中治療室を通り過ぎて、さらに進んだところにある木製の扉の前で三人は立ち止まる。長く伸びる廊下の壁には等間隔で同じような扉が設置されていて、それぞれが病室に続いているようだ。扉の数から見て、二十室程度は病室があることになる。このすべての部屋が負傷した艦娘で埋まったこともあるのだろう。それどころか、病室が足りなくなることも珍しくなかったはずだ。日本でもそうだった。瞳を細めた由希子の鼻腔を、忌まわしくも懐かしい血の匂いがくすぐったような気がした。
「おはよう、みんな。待たせてしまったね。」
そんな由希子の錯覚は不意に遮られる。低く艶のある伸びやかな声が背後から聞こえたからだ。振り返った視線に映るのは、整った歩調で三人へと歩み寄るミズーリの姿。
「おはようございます。」
「おはヨう。ちゃんと朝ゴはん、食べタ?」
「おはよう、ミズーリさん。むしろ、時間ぴったりよ。」
遙の病室を視界に捉えて、ミズーリは眉間に皺を寄せた。既に関係各所が対応に向けて動き始めてはいるが、今回の件は外交問題にもなり兼ねない。戦時中の方が良かったなんて思わないが、襟元に光るオークの葉が重いと感じるくらいは許して貰いたいところであった。こんなもの、当時のミズーリは身に着けていなかったのだ。ミズーリが伺うように晴妃に視線を向けると、彼女は浅く頷いて口を開いた。
「さて、と。まずは私一人で遙ちゃんと話してくるから、みんなは少し待ってて。」
頷いた三人を一瞥してから、晴妃は扉を三度ノックをする。はい、という少し幼い印象のある声が聞こえの待って、静かに扉を開いた。室内へと足を踏み入れる直前、肩越しに振り返り他の三人に視線を投げた。廊下側と同じく、クリーム色の壁紙で統一された病室は広さが5メートル四方程度。扉から見て正面に当たる壁際中央にベッドが置かれていて、その周囲には各種身体状況の測定機器や治療器具が設置されている。清潔で快適ではあるが、地下に位置しているため窓がないことが多くの艦娘たちから不評だったらしい。晴妃としてはむしろもっと無機質で閉塞的なほうが好みではあるが、気持ちはわからなくもない。
「おはよう、遙ちゃん。気分はどう?」
「あ……一条先生。おはようございます。昨日は、お世話になりました。もちろん、問題ない、です。朝飯もちゃんと食えましたから。」
上半身を起こしてベッドに座る遙に視線を向けて、晴妃は微笑みながらに問いかけた。酷かった顔の傷はきれいに治っているし、食事が摂れたということなら内臓の損傷も治癒していると見ていい。おおよそ晴妃の見立てどおりの回復を遂げているようだった。表情と声が硬い印象なのは無理もないことだろう。
「オッケー。今から少しだけ、お話しできるかしら?」
「朝、看護師さんから聞いてたんで、大丈夫です。」
遙はゆっくりと頷いた。頭に巻いておいた包帯は看護師が外していたのだろう。蛍光灯の明かりに映える少々赤みがかった黒髪が、遙の動きに合わせて柔らかそうに揺れる。
「昨夜はちゃんと自己紹介できなかったもんね。改めて、一条晴妃です。艦娘としては、元軽巡夕張、ね。」
「桐生遙です。昨日は、本当に……。」
遙はシーツを手繰る両手へと視線を伏せる。そんな仕草を見た晴妃は、後ろに手を組んで彼女のベッドへとさりげなく歩み寄った。そして、彼女が晴妃へと視線を向けなおすよりも早く、その頬へと優しく手を伸ばした。
「顔、きれいに治ってよかった。鏡、見る?」
「いえ、顔なんて、僕は……。」
「駄目よ。人は顔だけじゃないけど、きれいでいられるならそれに越したことはないの。」
晴妃は半ば強引に白衣の内ポケットから取り出した小さな鏡を遙に手渡した。少々困惑したような表情を浮かべながらも、遙は自身に鏡をかざす。そこに映っていたのは、傷一つない自分の顔。眼窩すら不安定だった昨夜の面影は感じられない。鏡に映った表情が不意に緩んだのは、安堵によるものだろう。気にしないとは言いながらも、まだ十四歳の少女である遙にとって僅かな不安すら無かったといえば嘘になる。
「……ね?」
「はい。本当にありがとう、ございます。」
晴妃の得意げな笑顔を見上げながら、遙もまた微笑を浮かべた。
「ねぇ、遙ちゃん。昨日の関係者、私以外に三人くらい、この部屋に入ってもいい? ちょっと、色々と説明したいな、って思ってるの。もちろん、まだ疲れてるだろうし、しんどそうなら機会を改めるわ。」
「いいえ。大丈夫、ですよ。」
頷いた遙であったが、その整った顔立ちには早速戸惑いの色が差していた。それはシャノンへの罪悪感と、自分がどう扱われるかの不安から来るものだろう。ありがとう、と遙に告げて、晴妃は廊下へと続く扉を開ける。
「みんな、入ってきて。」
晴妃の声を受けて、扉の前で待っていた三人が静かに足を踏み入れる。先頭のミズーリに由希子が続き、最後に部屋に入ってきたシャノンを視界に捉えると、遙は顔を伏せてベッドの上掛けを軽く握りしめた。
「おはヨう、ハルカ。もウ大丈夫?」
「お前のおかげで、な。その、昨日は……。」
そんな遙の様子にもシャノンは臆せず、ベッドの脇まで歩み寄る。困ったような顔で見上げる遙に、前屈み気味に顔を寄せたシャノンはわずかに表情を引き締めた。
「待っテ。それハもういらナい。だって、アタシもいっパいハルカに謝らないといケないし、陸軍の人ニも怪我させチゃったモん。だカら、今は……ね。」
「あぁ……わかったよ。」
諭すように言うシャノンに、遙は緩く笑みを浮かべて頷いた。
「桐生さん、おはよう。怪我、ちゃんと治ってるみたいで安心したよ。」
「おはようございます。藤堂さん。昨日は、本当に……。」
「ううん。大したことは何もしてないよ。あと、私は由希子でいいよ。私も、遙さんって呼びたいから。」
「はい、由希子さん。」
シャノンに続いてベッドへと近づいた由希子は、両膝に手を置いて遙の表情を覗きこんだ。申し訳なさそうに表情を曇らせて頭を下げようとする遙の言葉を制して、緩く左右に首を振った。由希子たちのやりとりを見届けたミズーリは、全員に目配せしてから口を開いた。
「”みんな、改めておはよう。こんな時間から時間を取らせてしまって、申し訳ない。今から、昨日のことを、みんなで整理しながら話をしたいと思ってる。キリュウとシャノンにとっては、嫌な話かもしれない。特に、キリュウは体調が優れないようなら遠慮なく声をかけてくれ。一応、キリュウには自己紹介をしておくよ。私はミズーリ、合衆国第七艦隊の旗艦を務めている。”」
「えっと、僕、英語が……。」
遙にとって、ミズーリの英語はその意図するところが断片的にわかる程度だった。由希子と晴妃は問題なく理解してる様子であったから、少々気恥しい思いを抱えながらもミズーリに視線を向けて告げる。
「あぁ、えっと……すまない、キリュウ。私も日本語があまり得意じゃなくて。どうしようか。」
遙の言葉を聞いて、ばつが悪そうに表情を強張らせるミズーリ。少々ぎこちない日本語で応じながら、晴妃に縋るような視線を向けた。
「心配しないで、遙ちゃんには私が伝えるから。」
「ありがとう、ございます。」
「すまないな。イチジョウ、頼むよ。」
ミズーリの視線を受けた晴妃は浅く頷いて、遙が座るベッドの端に腰を下ろす。他の三人も手近な椅子へと腰を下ろした。ベッドに座る遙と晴妃を中心に、三人が囲むような位置関係となる。
「キリュウ、何より怪我が心配ないようで安心したよ。君が一番不安を抱えているんじゃないかと思うから、結論から言っておこうと思う。」
遙の表情が強張った。自分がやったことは、もはや犯罪行為だと十分に理解している。あの師団長が何らかの処罰を受けるのだとすれば、自分もそれを免れないという覚悟もあった。ミズーリには視線を向けず、シーツを握る自分の手に視線を落とす。
「軍の、いや、合衆国の結論はこうだ。君に罪はない。そもそも、立場上彼の指示を覆すことはできなかった。そうだろう? それに、君も結果的に大怪我を負った。我々米軍の被害者だ。」
「でも……。」
「これで君に責任を求めるようなら、日本からの信用が地に落ちてしまうよ。倫理的にも、法的にも、そして政治的にも……責のすべては米軍にある、としたい。どうかこの点は納得してほしい。」
「それは、その……僕は、構わないです。じゃあ、艦娘には……。」
「もちろんなれる。君が望む限りは、ね。君はインターンシップを一切の問題なく優秀な成績で修了したとさせてもらうよ。」
ミズーリの返答を聞いて、遙は安堵と他の感情が入り混じったような、複雑な表情を浮かべる。確かに、艦娘にはなりたい。しかし、戦うことの怖さを身をもって知ってしまった。
「次に、みんなへの説明と謝罪が必要だね。できるだけ簡潔に伝えるよ、わからないところがあれば、いつでも話を遮ってほしい。」
ミズーリは全員に視線を送ってから、淡々と話しはじめた。
「シャノン、君が襲われたのは、陸軍の歩兵師団長が君を……その、殺害することを計画したからだ。」
ためらいがちなミズーリの言葉を聞いて、シャノンは思わず胸の前で交差させた両腕で自分の肩を抱く。心なしか青ざめた顔のシャノンを見つめて、瞳を細めた由希子は、椅子を持ち上げた。
「ユキコ……?」
「隣、いい?」
シャノンの隣に椅子を置いて、由希子は微笑みかける。返事はなかった。しかし、深く頷いた彼女を見て、由希子は椅子に腰を下ろす。
「アタシが男の子ダったら、今のでちょっト惚れテた。」
「でしょ? こう見えて結構モテたよ。」
「艦娘ノ仲間に……デしょ?」
「シャノン酷い。」
こちらを向いて緩く表情を綻ばせたシャノンを見て、由希子はどこか得意げに笑みを浮かべた。もう過去のことであったにせよ、殺意を向けられていたと知る恐怖は決して小さなものではない。誰かに生きることを否定されたのなら、逆にそれを強く肯定する誰かがそばに居ることが、そんな不安に耐える心の支えになることを由希子もまた経験から知っていた。
「続けるよ。彼は、いつか深海棲艦が再び出現することを危惧していたんだ。現に、シャノンという例があるわけだからね。そして、艦娘に頼らざるをえないことにも疑問を抱いていた。場合によっては幼い少女すらも、命を賭して戦わなければならないのか……とね。なにより、軍人として、自分たちの無力さに苦しんでいたんだ。」
責任感が強過ぎたんだよ、とミズーリは笑う。それは、まるで彼を擁護しているかのような自分の物言いに対しての皮肉をも含んでいた。
ミズーリは話を続ける。師団長の考えは、厳格で注意深い軍人としてごく自然なものであった。深海棲艦の再襲撃を不安視する声も、艦娘そのものに対する人道性についての問いも、これまでに幾度となく討論されている。そのどちらも、本来であれば解決のしようがないテーマであるはずだった。しかし、そこにいくつかの思惑が重なることになる。
艦娘と深海棲艦の出現によって大きく立場が揺らいでいたのが、軍需産業であった。毒物、ウィルスや細菌、核兵器すらも含め、ありとあらゆる攻撃が意味を持たない艦娘と深海棲艦は、既存兵器の価値を大きく毀損した。深海棲艦が消え去った後も、通常兵器の有用性が軽んじられることは避けられない。そんな状況を打破するべく、彼らは深海棲艦だけではなく、艦娘をも対象として、いかに有効な攻撃ができるかを研究し続けてきたのだ。深海棲艦のみならず、有事の際は艦娘をも殺傷できる兵器があれば、市場において絶対的な競争力を持ちうるだろうと。それは、彼らなりの企業努力だった。
他方、軍需産業と強いパイプを持つ米国本土の議会議員に、後の不安の種としてシャノンを危険視する人物がいた。深海棲艦がどうやって生まれたかは未だ判明していない。だから、シャノンが深海棲艦にとっての新たなイヴとなる可能性は十分にあるのではないかというのが、彼の危惧だった。そこで、古くから面識のある師団長の考えを知ったうえで、新型兵器を開発したとある兵器メーカーの研究機関と師団長の関係を取りもったのである。
艦娘に頼らずとも戦うことができる軍隊
艦娘に立場を奪われることのない兵器の製造
深海棲艦の完全な根絶
目的に違いこそあれ、彼ら三者の利害は一致していた。シャノンを殺害することは、それぞれの目標達成への大きな一歩となる。ただし、大統領が米国内での生存を認めたシャノンを殺すには、相応の準備が必要だった。そこで、ちょうど歩兵師団に交換研修生として派遣されていた遙が利用されることになる。一切の公式記録を残さないかたちで遙にシャノンの殺害を指示し、成功すればよし。兵器のテストこそできないが、事情を知らない日本からの艦娘候補生が、独断的な戦闘行為を行ったことにすればいい。その場合も、結局相手は深海棲艦なのである。政治的な問題も大きくはなりにくい。むしろ本当の狙いは、遙が敗北した場合だった。戦闘行為こそ独断とはいえ、艦娘を守る義務が生じた歩兵師団は、開発中の兵器を用いて深海棲艦を撃破した、そんなシナリオも描いていたらしい。もちろん、晴妃と由希子による妨害も計画には織り込んではいたらしいが、いずれにせよ彼らが歴戦の艦娘の力を多分に見誤っていたのは間違いない。
「知ってのとおり、合衆国と軍需産業の繋がりは強くてね。今後はFBIに任せることになるのだろうけれど、根っこから洗うことは難しいと思う。」
足を組んで椅子に座っていたミズーリは、顎に指先を添えて自嘲交じりに笑いながら話を区切った。
「何も悪いことしテないのに、殺さレるなんて絶対いヤ。でも、みんナ、悪い人じャなイと思う。強くなリたい、会社を大きクしテいきたイ、深海棲艦が怖イ。どれも、ワかるよ。」
ミズーリの話の間、細く整ったシャノンの手は、由希子の左手の甲へと重ねられていた。指と指を絡めて、縋りつくように強く握るシャノンの手に、由希子は更に右手を重ねる。名前も知らない人々が、自分を殺す計画を立てていた事実を聞かされるのだ。心細くないわけがない。それでも、シャノンの言葉に迷いはなかった。
「そうね、シャノン。でも、やりかたは間違ってる。毎日を一生懸命生きてるあなたが、傷つけられる理由なんてどこにもないの。だから、私は彼らを絶対に認めないわ。」
淡々と、しかし毅然とした態度で告げる晴妃。何故だか、瞳の奥が熱を湛えはじめたのを自覚して、シャノンは唇を緩く噛みながら頷いた。
「うン……。」
「あぁ、師団長――彼が言っていたよ。”まずは謝りたい。そして、許されるとは思っていないが、シャノンが唯一の例ではないかもしれないとすれば、私たちはこうするしかなかったんだ”とね。」
ミズーリを通した師団長の言葉にシャノンは目を見張る。何故、自分だけが生き残りだと思っていたのだろうか。自分以外にも深海棲艦がいるとしたら――? 自分のように恵まれた環境にいなかったとしたら――? 知らず、軋むほどに奥歯を噛み締めていた。
「シャノン、大丈夫?」
「ん、ウん。」
自分の手を握るシャノンの指に、さらに強い力がこもったことで、由希子は首を傾げてシャノンを見つめる。そんな由希子の声で、シャノンは我に返ったかのように由希子を見つめ返した。
「ここまでで、気になることはあるかな。」
「あの、遙さんやシャノンを怪我させた、新兵器っていうのは?」
由希子が自分の肩程度の高さまで手を上げながらに問うた。
「確か、艦娘の血を混ぜたとか……なんとか。」
遙が自分の胸に触れながらに言った。細い指が、薄緑色の入院着に皺を刻む。
「あぁ、あまりに単純すぎて、私たちも驚いたよ。艦娘の血液や体液が付着、あるいはその成分が混ぜ込まれた武器は、たとえ艦娘以外が使ったとしても、私たちは無効化ができないらしい。深海棲艦を含めてね。」
「それは……。」
晴妃は顎に指で触れて、瞳を細めながらに下を向いた。眉間に薄く皺が寄っているのは、何かを考えているからだろう。確かに、重大な事実だ。既存の攻撃を一切受け付けない、という艦娘の持つ大きなアドバンテージの一つが失われることになる。
「とは言っても、それほど事態は深刻じゃない。実は、この手段で攻撃の無効化ができなくなるのは一度きりなんだ。私自身が試してみて気づいたんだけどね。受けた傷が完全に再生する頃には、免疫のようなものができているのだと思う。」
「だったら、艦娘の血を付着させた注射針か何かを使って、小さな傷をつけてもらったら……。」
ミズーリに視線を向けて問う晴妃。その意図を理解したように、ミズーリは浅く頷いた。
「あぁ、予防接種のような役割を果たすだろうね。情報がどこまで漏れているかわからないから、各国の艦娘艦隊には報告しておくよ。一応君たちも、後でやっておいた方が良い。さて、ユキコ、これくらいで答えにはなっているかな。」
「はい。」
頷いた由希子であったが、それでも背筋に冷たいものが走るのを覚える。確かに、艦娘の存在を疎ましく思う人たちもいるのだろうとは思っていたが、自分たちを傷つける手段が研究されているという事実は思いのほか心に重くのしかかっている。由希子は逡巡した。人間が艦娘と敵対することがあるとして、そのとき艦娘はヒトとは異なる存在とみなされるのだろうかと。同時に、シャノンのように純粋に受け止められない自分に僅かな嫌悪感を覚えもして、由希子は一人視線を落とした。
「いずれにしても、みんなには本当に迷惑をかけたね。本当に、すまなかった。」
ミズーリは椅子から立ち上がり、四人へと一人ずつ視線を送った。
「やめテ、ミズーリ。アタシ、今は誰にも怒っテないヨ。みんナに助けてもらエたから。」
赤い瞳をまっすぐにミズーリへと向けて、シャノンはきっぱりとした語気で言い切った。その迷いなさに、少々面食らった様子のミズーリが言葉を返す前に、遙が口を開く。
「僕も、むしろ助けられたほうです。だから……ありがとうございます。」
遙はその場の全員に順番に視線を向けてから、座ったままながらに頭を下げる。
「私は、できることをしただけですから。」
由希子もまた、胸の前で両手を振りながらにいう。それぞれの様子に、小さく笑い声を零した晴妃は、小さく両手を叩いた。
「なんだか、みんながみんなに謝ったりお礼をいったりしなきゃいけないみたい。まずは、大変だったけど、みんな無事でよかった、でいいんじゃない?」
「みんながそれでいいなら、うん。そうだね。他に、何か聞きたいことはあるかな。」
晴妃の言葉にミズーリは小さく笑ってから、再び一同を見渡した。
「……ハルカ、きっとまダ疲れてルから。こコで終わりニしようよ。」
シャノンは遙へと視線を向けてから、ミズーリへと上目がちの視線を向ける。応じるミズーリはゆっくりと頷いた。
「そうだね。何にせよ、キリュウにはもうしばらくここで安静にしていて欲しい。イチジョウ、彼女の全快までは、万全を期して五日程度と見ておけばいいのかな?」
「えぇ、そんなものね。でも、明日以降は無理さえしなければ、普通に出歩けるはずよ。」
「……と、いうことだ。キリュウ、君は何も心配しないでいい。日本国政府や自衛隊とのやりとりも、どうかすべて任せて欲しい。」
ミズーリは遙のそばへと歩み寄って、その場で膝を曲げて視線の高さを合わせて告げた。
「わかり、ました。僕なんかのために、すみません。」
「なんカじゃなイよ!」
「え?」
どこか険しい声色で言葉を否定したシャノンに、遙は目を丸めて聞き返す。
「そウいう言い方、ダサくて好きじゃナい。昨日モ言っテたよ。”僕なんか”って。アタシにトって、もうハルカは大切ナ友達。だから、友達を卑下されルのは嫌。それトも、アタシじゃハルカの友達にはなれナい?」
不安そうに瞳を揺らすシャノンを見つめたまま、瞬き数回分の沈黙の後、小さく笑い声を零した。
「確かに、ダッサいな。ごめん、気をつけるよ。僕でよければ……じゃ、ないな。うん、僕たちは友達だ。」
「うン! 元気にナったら、みんなデ一緒にご飯食べようね。」
遙の両手を包むように握って、満面の笑みを浮かべるシャノン。遙は少々面映い気持ちを覚えながらも、緩く頷いて応じる。
「さて、みんな、そろそろ行きましょう。遙ちゃん、後はゆっくりしてて。夜にまた様子を見させてもらうわ。」
立ち上がった晴妃が、それぞれを一瞥してから告げる。次いで遙の方へと視線を向けて、ひらりと片手を振った。
「はい、色々ありがとうございます。みなさんも。」
遙が頷いて言葉を返すと、全員がゆっくりと立ち上がる。
「早くよくなって、ハワイでの日々を楽しんでもらえることを祈ってるよ。」
「遙さんと一緒の食事、楽しみにしてるよ。また、ね。」
「とりアえず、スキヤキは決定。他に食べタいものあったら、考えてテ。」
由希子たちが部屋を後にすると、途端に部屋は静かになった。遙の身体に取り付けられた測定機器の稼働音がやけにうるさく響く。遙は視線を上に向けて、壁にかかった時計を確かめる。時刻は9時前といった頃。一時間足らずの時間ではあるが、もっともっと短かったように思えた。優しい人たちだ、と今更ながらに確信する。だからこそ、そんな人たちを悲しませるような企てに自分が関わっていたことが悔しかった。心も身体も弱すぎると痛感させられる。その一方で、艦娘としての目標らしきものも曖昧ながらに見えてきたように思う。長い時間がかかってもいい。自分が目指すのは――。
その夜、晴妃は約束通り再び遙の様子を確かめに病室を訪れる。既に遙は眠ってはいたが、晴妃の予想通り、ほぼ全快していると言える状態だった。つまり、翌日のすき焼きパーティはここに確定したということになる。就寝前に遙の様子を聞いたシャノンは、人知れず気持ちを引き締めていた。
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翌日の夜、時刻は19時ちょうど。一条家の食卓に着いているのは五人。テーブルを中心に見て、由希子の対辺に晴妃とシャノンが隣り合わせに座り、左右の辺にはミズーリと遙がそれぞれ座る。テーブルには蓋がされた鍋が二つ、それぞれカセットコンロで熱されている。どちらの鍋も十分に大きい。五人分を二つの鍋に分けたというわけではないのだろう。今日は一人で食事の用意をしたいというシャノンの願いで、由希子は繁華街で時間を潰すことになり、帰ってきたのが十分ほど前だった。晴妃が仕事から帰ってきたのと、ミズーリと遙が晴妃の部屋を訪れたのもほぼ同じ時刻である。つまり、シャノン以外の全員が料理の詳細を知らないままだった。鍋から漂う匂いから、少なくとも片方の鍋がすき焼きであることは間違いなさそうであったが――。
「すき焼きで、鍋が二つ……ね。なんとなくわかるかも。」
「うン。ドクはわかルと思う。普通のと、チャレンジしタのと、二種類。どっチも量は十分にアるから。」
「えぇっと、普通のすき焼きと、ちょっと変わったすき焼きってこと?」
晴妃とシャノンが交わした言葉を聞いて、由希子は緩く首を傾げる。対して、シャノンはゆっくりと首を縦に振った。
「そんナ感じ。由希子は好きダと思うヨ。」
「どんなのかな、楽しみ。」
由希子とシャノンが視線を重ねて、表情を緩ませた。
「みんなお腹も空いてるだろうから、始めましょうか。遙ちゃんの全快祝いを兼ねた、夕食会ってことで。乾杯っ!」
晴妃の発声にあわせて、それぞれが軽くグラスを触れさせた。晴妃とミズーリのグラスにはビールが、由希子たち未成年者三人のグラスにはお茶が注がれている。
「フフ……お鍋の蓋、開けルね。まず、こっチは普通のスキヤキ。割り下も改心ノ出来だカら、自信あるヨっ!」
まずは片方の鍋の蓋をシャノンが開ける。醤油とみりんが程よく効いた甘い香りが湯気に乗って部屋に一気に広がった。牛肉にしらたき、白菜や焼き豆腐といった定番の具材はほどよく割り下になじんでいることが一目でわかる。
「そう、これだよ。私が日本で食べたスキヤキは。本当に、大好きなんだ。」
ミズーリが表情を綻ばせながら、うっとりとした声色に乗せて日本語で呟いた。遙への配慮と言うわけでもないが、この場では日本語で通すつもりらしい。
「いい匂い。シャノン、本当に料理上手なんだな。」
「多少は自信あルよ。今日は鍋物だカら、実は簡単だっタけど、明日カら遙が食べタいもの、色々作るつモり。ほら、食べテ食べて。」
鍋の中身とシャノンの間で視線を往復させてから、感心した風にいう遙。シャノンは少々こそばゆそうにしながらも、わざとらしく得意げな表情を浮かべて笑ってみせた。
「日本のルールに則るなら、全快祝いの主賓である遙か、あるいは客人の由希子が最初に箸をつけるべきかな。」
ミズーリが唇に指先を宛がいながらにいう。
「僕よりも、ミズーリさんが先で。ですよね、由希子さん。」
「うん、一番楽しみにしてた人が最初でいいと思います。だから、ミズーリさんから、ね。」
「そういう風に見られていたとしたら、少し情けないけれど……折角譲ってもらったんだ。遠慮はしないよ。よし、いただきます。」
ミズーリは鉄鍋から肉を一切れと葱をよそい、取り皿の卵に絡めて口に運ぶ。最後にすき焼きを食べたのは随分前のことだが、そのときの風景や感情が思い出されるほどに、口内が甘く濃密な味に満たされる。一方でシャノンは、幸せそうな表情すら見せるミズーリを見て小さく拳を握った。そして、もう一つの鍋の蓋へと手を伸ばす。
「で、こっチは……じゃん! タイスキって言って、タイで食べられテるすき焼き風のお鍋なンだ。」
「やっぱりそうだったのね。旅番組か何かで紹介されたとき、すっごい興味ありそうだったもの。」
「うン。あレから色々調べテた。」
晴妃と言葉を交わしながら、シャノンが蓋を開けた鍋の中では、葱や水菜、豆腐に牛肉、つみれといった具材が透き通ったダシで煮込まれていた。
「タイスキ、そんなのがあるんだね。聞いたことなかったよ。」
「最近は日本にあるタイ料理のお店でも食べられるところが増えてるって言ってたかな。」
「よし、じゃあ私はこっちのタイスキからいただこうかな。遙さんのも一緒に取るよ。」
遠慮の言葉を言おうとして、あ……と声を上げる遙よりも早く、満遍なく鍋の具をよそった二枚の取り皿のうち一枚を由希子は遙へと手渡した。
「あ、ありがとうございます。」
「遠慮しないで、ね。ほら、遙さんも食べようよ。いただきます。」
湯気を立てるつみれを取って、口に運ぶ。見た目通りとても熱いけれど、ダシがよく染みていて、つみれの塩気とうまくバランスが取れている。次に取り皿に唇を寄せて、ダシだけを味わう。味そのものは強く主張するものではないが、深みのあるいい香りが口内から鼻腔に抜ける。
「えっと、このおダシは……。」
「鶏がらノスープ。鶏がらってあんまり使ったこトなかっタけど、今回は大成功しタと思っテるよ。」
「うん、おいしいよ。タイスキかぁ。私、これすごく好きかも。」
「ヤった。やっパりユキコの味の好み、なんトなく掴んダ気がすルよー。」
晴妃にはすき焼きを、自分にはタイスキをそれぞれよそいながら、シャノンは得意げに微笑む。
「ううん……むしろ、シャノンの料理が何でもおいしいってことな気がする。」
「本当にすげぇよ。そこら辺の店よりおいしいんじゃないか、これ。」
「気合入れてよカっタ。実は、ヘッカっていう、スキヤキ風の鍋料理がハワイにもアるンだヨ。おいしイんだケど、お肉ヲ鶏肉に変えただケ、って感じダから。代わり映えがしナいかなっテ。」
シャノン自身も焼き豆腐を口に運び、熱そうにしながらもゆっくりと味わってから、二人の言葉に応じた。
「そうだ。遙ちゃんは、このメンバー以外の艦娘に会ったことはあるのかしら? 口頭試問のときの試験官って、今誰がやってたっけ。」
大き目の牛肉を頬張った晴妃が、もごもごと口をうごかしながら、ん……と声を上げる。全員の視線が集まったところで、ごくりと口の中身を空にして、遙を見遣りながらに問うた。
「えっと、試験官は……駆逐艦漣をやっていた人、だったかな。ものすごい頭良さそうだし、厳しい感じだしで、結構怖かったんすけど。」
「……恵美(えみ)ちゃんだ。」
「あの子素は緩いんだけどね。あれでめちゃくちゃ年下に甘い子だから、最初に結構シビアなことをあえて言っちゃうようにしてるみたい。」
そのときのことを思い出して、若干顔を伏せながら答えた遙の言葉に、由希子と晴妃は即座に反応する。飄々とした態度でいくつもの死線を潜り抜けた少女は、厳しくも優しい教導艦を務めているのだと、由希子も聞いた覚えがあった。
「新しく艦娘になった子で知り合いはいるのかい? うちはどうも入れ替わりに乏しくてね。日本が少し羨ましくもあるよ。」
ミズーリが遙へと視線を向ける。米国の艦娘は戦後も引退者が少ないことから、新たに採用された艦娘はそう多くない。さまざまな環境の違いによるものであろうが、艦娘の力が何歳程度まで維持されるかもわからない以上、技術や経験の継承は熟考すべき課題でもあった。
「そう、ですね。同じ戦艦だと、武蔵の適正があった奴が……。」
会話を楽しみながらの食事は21時頃まで続き、しめのうどんや雑炊、全員で後片付けをしたあとのお茶までしっかりと味わってから、ミズーリと遙は晴妃の部屋を後にした。
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由希子たち三人が入浴を終えて、時刻は22時を少し回ったところ。由希子は一人、パジャマ代わりのノースリーブとハーフパンツに薄手のパーカーを羽織り、来客者用のIDカード片手に遙の病室へと向うことにした。実は、夕食後に二人で話がしたいと、遙から告げられていたのだ。もちろん、晴妃には告げてある。施設入口に立つ兵士と職員に事情を説明し、IDカードでゲートを抜けて施設に入る。この時間でも、建屋内は無人ではないらしい。白衣を着た技術系の職員が働いている姿が見える。由希子はエレベーターで地階へと降りて、遙の病室の前へと辿り着く。ためらいがちに扉を叩くと、奥から遙の声が聞こえてきた。由希子はゆっくりと木製の扉を開けて、病室内へと足を踏み入れる。
「こんばんは、遙さん。」
「こんな時間に、すみません。」
「ううん、全然。」
ベッドに座る遙は由希子の姿を見て緩やかに頭を下げる。由希子は首を左右に振ってから、ベッドの脇に置かれた椅子に腰を下ろした。
「えぇっと、話というか。由希子さんに聞いて欲しいことがあって。」
「うん、私でよければ、何でも。」
遙は由希子の方を見つめて、多少言いよどみながらに告げた。
「正直、怖いんです。僕、自分は強いって思ってたのに。あんなにぼっこぼこにされて……戦うのが、なんだか。」
遙は視線を落として、シーツを握る両手を見つめる。シャノンに顔を蹴られた瞬間、兵士たちに銃撃を受けている間、頭の中がぐちゃぐちゃになって、ただただ怖さに塗り潰された感情は、今でも酷くリアルに思い出すことができる。むしろ、思い出してしまうといった方が正しいかもしれない。そんな遙の表情に、由希子は緩やかに口角を上げて微笑んだ。
「うん。ありがちな答えかもしれないけど、みんなそうだよ。私だって、今度ばかりは死んじゃうかも、なんて最後まで怯えてたもん。どんなに怪我してもさ、慣れるってことはなかったかな。むしろ、もっと怖くなっちゃったりして。」
「じゃあ、どうやって最後まで戦い続けたんですか?」
「一人じゃなかったから、ね。大切な人たちのために、少しだけ頑張るんだよ。ん、ちょっと違うな。えぇっと、そういう人たちのために頑張ってるんだ、って信じて自己満足でやってたというか……うぅん、難しい。ちょっと私は捻くれてるから、あんまり参考にならないよね。」
顎の辺りに人差し指を添えて、上向きがちに由希子は答えた。
「それでも、頑張ったってことですよね。」
「……だね。友達がいたし、目標にする人もいたから、自然と頑張れたんだと思う。だから、私は恵まれてたんだよ。」
遙の視線を受け止めて、由希子はつとめてゆっくりと、しかし力強い声色で言う。
「だったら、僕は由希子さんを目標にします。」
「え?」
「由希子さんが僕を助けてくれたように、誰かを助けられるような艦娘になりたいな、って。まだまだてんで話にならないくらい弱いけど、あなたを目指して、気合……入れます。」
遙は表情を引き締めて、まっすぐ由希子を見つめる。まだ幼さの残る遙の可憐な顔立ちには、しかし僅かな迷いの色すら感じられなかった。
「えっと、何だろう。告白されたような気分。」
「あ、いや。もちろんそういうのじゃないんすけど、その、でも。憧れっつうか。」
「対象が私っていうのはちょっと実感ないけど、でも、気持ちはよくわかるよ。うん、応援してる。」
当時の自分にとっての葵のような存在に、今の由希子自身が至れているとは到底思えないが、それでも、遙から伝わる純粋な憧れの気持ちは極めて馴染み深いものだった。懐かしさと気恥ずかしさを覚えながら、由希子は淡く微笑んだ。
「ありがとうございます。あぁ、そうだ……。由希子さんが艦娘だった頃の話で、色々聞きたいことがあるんです。もう少しだけ、いいですか?」
「うん、まだ眠くないし。大丈夫だよ。」
それから二人はしばらく話を続けて、遙がまぶたの重さに耐えかね始めた頃、由希子は病室を後にした。
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由希子が遙の病室から晴妃の部屋に戻る少し前のこと。時刻は24時前といったところ。晴妃は一杯の水を飲んでから寝室へと足を踏み入れた。ダブルサイズのベッドには上掛けに包まって眠るシャノンの姿が見える。小さく笑い声を零してから、晴妃もベッドへと仰向けに身体を横たえた。
「ねぇ、ドク……。」
「ん、眠れない?」
ちらりと視線をシャノンへと向ける。シャノンは身体を丸めて、こちらに背を向けたまま動かない。
「あノね……。アタシ、ユキコと一緒に旅に出タい。」
「どういうこと?」
「ミズーリが言っテたじャん。あの師団長サンの話、アタシ以外にモ、深海棲艦の生キ残りがいるカもしれないっテ聞いてサ、すっごく、ビっくりしタんだ。もしモ、だよ? ドクみタいに優しイ人に会エなくて、辛い思いをしテたらって……何か、アタシにできルんじゃないかな。」
晴妃は上体を起こして、シャノンの方へと視線を向ける。知らず、その表情は険しさを帯びていた。
「なに馬鹿なことを言ってるのよ。 シャノン以外の生き残りがいるかどうかもわからないのに……仮に、そういう子がいたとして、あなたに何ができるの!? 私たちが戦ってきた深海棲艦みたいに、見境なく襲い掛かってきたら?」
「アタシだって、戦えルようニ……。」
「私や由希子とまともに戦える? 私たちだって、何度も死にそうになったのよ!?」
「そレは……。だ、だカら、ユキコと一緒に。」
晴妃は片手で額を押さえる。シャノンが何の考えもなしに言ってるわけではないことは理解できる。その気持ちがとても貴いものであることも同様だ。だからこそ、そんな無茶な物言いをそのまま認めるわけにはいかなかった。
「シャノン、あなたが今、どれだけめちゃくちゃなことを言ってるか。わかってるわよね。」
「……ウん、ゴめん。」
シーツに包まった小さな体が小刻みに震えているのがわかる。必死に声を抑えているようだが、その赤い両目からは涙が溢れているのだろう。晴妃は重い吐息を漏らして、ベッドから立ち上がり、寝室を後にした。やってしまったというのは自覚している。感情的になりすぎた。例えば、もう少し柔軟に話を聞くこともできたはずなのだ。これが後輩の艦娘や、研究室のアシスタント相手なら簡単なことなのに、シャノンが相手となると途端に難しくなる。もう一度重い溜息を漏らして、晴妃は部屋を出ることにした。悩みと後悔の渦に飲み込まれそうなときは、無心に実験データをまとめることにしている。とにかく面倒で、その癖にルーティーンワークというのがベストだ。玄関の扉を開けようとしたとき、ちょうど遙の病室から戻ってきた由希子と出くわした。
「あれ、晴妃さん。こんな時間からどこに?」
「あー、ごめん。ちょっとミスった。ケンカして、言い過ぎちゃった。シャノンの様子、見てもらえると嬉しいかな。ほんっと、情けなくなるわね。」
「え?」
晴妃の曇りきった表情と言葉に圧されて、その意味を問うこともできないまま、去りゆくその背中を見送ってしまった。その場で腕を組んで悩んでみるものの、結局二人がケンカをしたらしいことだけは確かだった。よし、と小さく声を上げて、由希子は廊下を進み、シャノンがいるであろう寝室へと近づいた。
「シャノン、起きてる?」
抑えた声で扉越しに問いかけると、しばらくして帰ってきたのは泣き声交じりの返事だった。それを聞いた途端、勝手に扉を開けてしまっていた。
「ユキコ。ごメん……。ごメんね。」
ベッドの上にぺたりと座るシャノン。その透けるように白い顔には、痛々しい程の涙の跡が刻まれていて、なおその跡を上書きするように大粒の涙が溢れ続けている。
「どうしたの。」
「ドクに怒られチゃった。アタシが、バカなコと言っタから。すっごく、勝手なこトを言っタから。」
普段であれば二人の寝室に足を踏み入れるのは少々気が引けたのだろうけれど、今はそんなことを考えている余裕もなかった。ベッドに座って、シャノンの肩に緩く腕を回す。シャノンもまた由希子の肩に顔を押し付けるように抱きついた。しばらくもしないうちに、パーカーの生地越しにシャノンの涙が肩に伝わってくる。
「ん、大丈夫。晴妃さんも言い過ぎちゃったって後悔してるみたいだったから。でも、なんでケンカしたか、聞いていい?」
ゆっくりと頷いたシャノンは、由希子の肩に顔を埋めたままに話し始める。自分が旅に出たいと思った理由と、それを晴妃にどう伝えたか、そしてその結果。一通りを話し終わった頃には、シャノンの涙も小康状態となっていて、時々すすり上げる程度まで落ち着いていた。
「すごいね、シャノンは。私、深海棲艦の生き残りのことなんて全然考えてなかったよ。」
「でも、よク考えたら、アタシは何もできナいから。また、一昨日みタいにみンなに迷惑かけチゃうだけなんダよね。」
「それを決めるのは、シャノンと晴妃さんだよ。」
子どもをあやすように、シャノンの背中を穏やかに撫でた後、ゆっくりと身体を離した。涙の膜に覆われた赤い瞳は、しかし確かな決意の色を滲ませている。由希子は小さく笑い声を上げてから、パーカーのポケットに入れておいたハンドタオルでシャノン目元を拭った。
「ありガと。ユキコ……。」
「ううん。私、そろそろ寝るね。」
「うン。おやすみ。」
微笑み混じりの視線を交わして、由希子は寝室を後にした。正直なところ、上手くできたかどうかはわからない。誰かの目標とされることも、誰かを諭すことも、まだまだ自分には荷が重いと実感する。由希子は葵にはなれない。それは言うまでもないことだ。自分のあるべき姿というものがあるとして、それもまだまだ遠いもののように思う。なのに、悪い気はしなかった。スマートフォンをしばらく見遣ってから、由希子はベッドへと身体を沈めた。
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もはや何度目になるかもわからない溜息を漏らして、晴妃はキーボードを叩き続けていたが、不意に指が止まった。画面には”Although this hypothesis has not been validated,”と表示されたところで止まったまま。単純なデータの打ち込みは早々に終わらせたのだが、かといって、書きかけの論文に手を出そうとすればこの有様だった。薄暗い実験室で、自分で淹れたコーヒーを呷る。苦いだけで何の味も香りもない、煎じ薬のほうがまだましと言えるような味だった。
「こんな時間まで仕事かい。根を詰めすぎたときの結果というのは、あまり期待できないものだよ。」
「わかってるわ。でも、こうでもしてないと自己嫌悪が止まらなくて。」
晴妃は肩越しに振り返る。扉のすぐ脇にある壁に背中を預けて、肩を竦めたミズーリが視線を投げてよこした。既に深夜ということもあって、扉にロックはかけていなかったことを思い出す。
「らしくないね。随分思わせぶりだ。」
「一応、保護者って自負はあったんだけどさ。あの子がね、由希子について行きたいって。私のそばから離れていっちゃうみたいで、なんだか、怖くって。」
「人生は勇敢なる冒険となるか、あるいは何一つ残さず終るかのどちらかである、ってね。私たちはどっちを選んでるんだろう。シャノンは、どっちを選びたいんだろう。」
「……いじわるな言い方。」
晴妃は眉間に皺を寄せてミズーリを睨みつける。
「だって、今のイチジョウ、もう答えを出しているみたいだったから。私の方でも準備が必要だろうし、早速戻るよ。」
「ありがとう、ミズーリさん。」
「とんでもない。いつも助けられているのはこちらだから。」
踵を返したミズーリは、片手を上げて実験室を後にした。晴妃は再び吐息を漏らす。しかし、それは先ほどまでのように重たい溜息ではなかった。
軽く後片付けを済ませて、晴妃は足早に自室へと帰ってきた。時刻は24時を回っている。由希子はもう眠っているだろう。シャノンもいつもであればとっくに就寝している時間ではあるが、今夜は待ってくれている予感があった。不必要な足音を立てぬよう、静かに廊下を抜けて、寝室の扉を開ける。
「ドク、おかえり。」
「ただいま、シャノン。」
寝室の明かりはともされていて、ベッドに座るシャノンが晴妃をまっすぐに見つめていた。思えば、初めて会ったあの日以降、具体的にシャノンがやりたいことについて話したことはなかったかもしれない。この環境で、二人で生きていくことそのものが大冒険であったことももちろんであるが、なんとなく話をしにくかったというのもある。真珠湾の海軍基地は、シャノンがようやく手に入れた、誰もが彼女を迎えてくれる故郷になったのだ。一歩基地を出れば、深海棲艦であるシャノンにとって、何が待ち構えているかなんて想像もできない。一昨日はその最悪な状況の一つだ。それでも、一生をこの基地で、あるいはこのハワイで生きていくしかないのだろうか。それはきっと、シャノンが選ぶべきなのだ。この三年間は、巣立ちの準備期間だったのかもしれない。
「ドク、もう一度……聞いテ欲しい。」
「うん。」
シャノンが淹れた暖かいコーヒーを片手に、二人は長く言葉を交わし始める。それは三年前の思い出話も含まれていただろうし、これからのことも余すことなく、考えつく限りの思いを伝え合った。いずれにせよ、シャノンの帰るべき場所が晴妃のいるところだということだけは、確かなことであった。
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三日後の金曜日、由希子は晴妃の運転するバンに乗っていた。市街地の道路を海沿いに抜けて、ハイウェイに差し掛かると、車は一気にスピードを上げる。車載スピーカーからは、現地のラジオDJらしき人がやけに楽しげに高波の情報を告げるラジオが流れている。六日前に乗せられたバイクとは違って、今は特に恐怖は感じない。体がむき出しかどうかというのは、大きな差があるようだ。このバンは晴妃が海軍の同僚から貸してもらったものらしい。それというのも、空港に向う必要があるのは、由希子だけではなかったからだ。助手席に座る由希子は肩越しに後部座席を振り返る。三人分のキャリーケースを足で押さえながら、シャノンと遙が一つのスマートフォンを覗き込んでいた。遙は再度の精密検査でも異常は見当たらず、当初の予定通り帰国する運びとなった。由希子の帰国日と合わせたのは、日米両国の配慮でもあるらしい。そして、シャノンは、海外旅行を認められた。元々一般的な米国市民と同等の権利は保障されてはいたが、それでも晴妃やミズーリ、その他海軍関係者が奔走した結果であり、常に由希子が同行するという前提をつけたことも、シャノンの出国を認めさせるのに一役買ったらしい。長いハイウェイを抜けると、海に面した空港が見えてきた。晴妃はロータリーで車を停める。
「お世話になりました。晴妃さん。」
「気にしない気にしない。むしろ、こっちが色々お世話になったし。これからもお世話になるし。本当、楽しかったわ。またいつでも遊びに来てよ。ホテル代浮くってだけでも、ハワイに格安で来れるんだもの。利用しない手はないわよ。」
「はい、是非!」
緑のタンクトップに灰色のカーゴパンツを着た晴妃と、緩くハグを交わす。
「本当に、色々迷惑かけるわね。」
「気にしない気にしない。」
僅かに視線を伏せた晴妃に、意趣返しのような言葉を向ける。悪戯っぽく笑う由希子を見て、晴妃もつられるように笑った。
「色々とお世話になりました。本当に、一条先生がいなかったら……僕はきっと。」
「気にしない! 立派な比叡になってね。 先代……っていうのかな。彼女は本当に強かったんだから。今はジャーナリストやってるけど。」
「はい、噂は聞いてます。負けないように、頑張ります。」
晴妃は華奢な遙の体を力強く抱き寄せて、柔らかい髪をがしがしと乱すように撫でた。少々困ったような表情を浮かべた遙であったが、不意に小さく笑い声を零した。
「ドク……行ってクるね。」
「もう、たかが半月の旅行じゃない! 由希子には迷惑をかけないようにして、たくさん楽しんで、元気に帰ってくる。それだけは守ること、いいわね。」
シャノンの両肩に、晴妃の手の平がそれぞれ添えられる。吐息すらも触れ合いそうなほどに顔を近づけて、晴妃はまっすぐにシャノンの瞳を覗き込む。
「うン。いろンなものを見て、ドクのところに帰ってクるよ。」
「よし、行ってらっしゃい。」
そのまま一度、強くシャノンを抱きしめた後、すぐにその肩を軽く押して体を離した。ホノルル国際空港は建物の入口に各航空会社チェックインカウンターが設置されており、原則的には航空便の利用者しか建物には入れない構造となっている。つまり、晴妃はこのロータリーで見送らざるをえないのだ。
「パスポートとか、お財布には注意すること。空港内でのスリとか、時々あるのよ? 気をつけてね。」
「はい。また、メールしますね。」
「本当に、ありがとうございました。」
「行ってきマす!」
それぞれキャリーケースをバンから引っ張り出した由希子たち三人に、晴妃は手を振りながらに告げる。無事にカウンターを抜けて、三人が建物に入ったところで、再び手を振り合ってから車内に戻った。
「しばらく暇ねぇ。ミズーリさんとデートでも行くか。」
一度だけ左右の目元を拭って、晴妃の駆るバンは真珠湾へと続くハイウェイを走り抜けた。煌くばかりの陽光は今日も太平洋に浮かぶ楽園の地に降り注ぐ。晴妃が願うのは、彼女たちの旅の無事は当然のものとして、少しでも楽しい旅になるようにということばかり。
「あ、今日の晩御飯どうしよう。」
思い出したようにぽつりと呟く晴妃の声色は、少しだけ寂しそうだった。