カーテンの隙間から差し込む朝日が、由希子の意識を少しずつ眠りから引き上げていく。暗いところを求めるかのように何度か寝返りを繰り返したものの、やがて早起きな鳩の啼き声が遠く響き始めたところでその目蓋は開かれた。仰向けのまま、周囲を見渡す。見慣れた風景と違うことに違和感を覚える一瞬。諸外国との共同作戦などで外泊する際は、いつもと違う天井に不思議な感覚を味わう瞬間がたまらなく好きだった。ゆっくりと上体を起こして、すぐ傍らの窓にかかるカーテンを開ける。淡い黄色に染まった陽光がまっすぐに降り注ぎ、思わず瞳を細める。何度か瞬きを繰り返して、徐々に明るさに慣れてきた目で窓の外に視線を向ける。
「わぁ……。」
近くに見える入江と、遠くの浜辺、そのそれぞれが朝日に反射してきらきらと輝いている。特に浜辺は純白の砂浜と波に揺れてきらめく水面の美しさに由希子は思わず息を飲み、窓を開けて少し身を乗り出した。朝の風はTシャツにショートパンツだけでは肌寒さを感じる程冷涼で、寝ぼけ半分であった意識が急速に目覚めていく。海に浮かぶいくつかの小さな影はサーフィンに興じている人のものだろう。朝の静けさと冷たい空気が運ぶ波の音は、海上で聞き飽きるほど聞いた波の音とは違って聞こえた。時間にして十分ほどだろうが、由希子はしばらく朝の景色を堪能してから窓を閉めた。枕もとのスマートフォンを手に取り、届いていたメールを確かめる。
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Dear Yukiko,
I am glad to hear from you and to know that you are having so much fun.
……なんてね。
おはようユッキー。
体調は崩してない?時差ぼけは大丈夫?
あまり脂っこいものばかり食べてお腹壊したりしないようにね。
パンケーキ、私も食べたかった!!
ユッキーが帰ってくるまでに、日本で美味しいパンケーキが食べられるお店探しておくね。
写真、見ました。
なんとなく、噂では聞いていたの。とは言っても、まさかハルヒが一緒に暮しているとは思わなかったよ。
あなたの友達は私の友達。休みが取れたら、会いに行ってみようかな。
電話、夜中でも大丈夫だから、遠慮なくかけてきて。
むしろ、こっちから電話しちゃうよ。
Have a great day.
Aoi Akiyama
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微かに頬を緩めて笑みを浮かべると、スマートフォンをショートパンツのポケットへ入れて、軽く両手で髪を整えてから部屋を出る。時刻は間もなく6時といったところ。二人が既に起きているのかわからないまま、まずは洗面台で軽く顔を洗ってからリビングの扉を開けた。
「あレ、ユキコ起きるのはっヤーい! 今日日曜日だシ、お出かけするにシてもドクは多分9時ごロまで寝テるよ?」
扉を開けた途端、聞こえてきたのはシャノンの声。声のする方へと視線を向けると、彼女はキッチンに向かい包丁を握っていた。白いコットン地のワンピースに、胸元に大きく猫が描かれた黒いエプロンを身につけて、頭には白いバンダナを巻いている。鼻腔をくすぐる香ばしい匂いは、出汁の匂いだろうか。ゆっくりとした足取りでリビングからキッチンの方へと回り込むと、シャノンがさいの目状に切った豆腐を慣れた手付きで鍋へと入れているところだった。
「おはよう、シャノン。というか、シャノンこそ早起きだと思うよ。」
「ウん。おはヨう。5時半くらイにハ起きテるかな。一条家デは朝ゴはんにこソ力を入れルのです!」
包丁を置いて、腰の辺りでぐっと握り拳を作るシャノン。そんな仕草に由希子は笑い声を零しながら彼女に歩み寄る。
「ね、何か手伝えることは無いかな?」
「ン……大丈夫。後はお味噌ヲ溶いて、ごハんの直前に卵焼きを焼くダけ。」
「うぅん……泊めて貰ってるのに、なんだか何もしてないから申し訳なくって。」
由希子の方を見てにんまりと口角を吊り上げて笑ったシャノンは冷蔵庫から味噌のパックを取ってきて、出汁を張った鍋で溶かし始める。鍋を覗き込むように少しだけつま先立ちになるのすらも慣れた様子だ。
「昨日も言ったケど、気にしチゃ駄目。ドクのお仕事手伝ってくレるだけデ十分だかラ。」
「うん、役に立てる自信は無いけど、頑張るよ。」
言いながら、由希子はかすかに頬を緩めた。晴妃はこれまでに艦娘を対象にした様々な検査や分析を行ってきた。体力やその他身体機能の検査は当然のこと、年頃の少女達には多少答え辛いようなことまで、とにかく艦娘のありとあらゆるデータを求めて、今も日々研究に勤しんでいる。彼女自身も研究対象に含まれている辺り、根っからの学者肌なのだろう。
「時々凄クきついことさせられるから……えぇっと、耐久マラソンみタいな。」
唇に指を添えて、思い出すように言うシャノン。
「うん、私も艦娘してた頃にやったよ。電極っぽいのをぺたぺた体につけて走ったり。思い出したらちょっと不安になってきたかも。」
「心配ないわっ! 由希子なら大丈夫。」
シャノンの言葉に少々の不安さを隠した笑みを見せる由希子だったが、その直後に突然開かれたリビングの扉から晴妃が姿を現した。由希子とシャノンは思わず小さく悲鳴をあげて晴妃へと視線を向ける。
「おはよう二人とも。」
片手をひらりと上げる晴妃の目は少し腫れていた。あまり寝ていないのかもしれない。
「おはようございます。晴妃さん。」
「おはヨう、ドク。あンまりびっくりさセなイでよ。あと、夜中までゲームしてタでシょ。肌荒れチゃうよ?」
「土曜日の夜くらい良いじゃん。ラボもお休みなんだしさー。ま、いつもならもうちょい寝てるんだけど、お腹も空いてたから起きちゃった。」
寝癖だらけの髪をがしがしと掻いて大きな欠伸を漏らす晴妃。母親と娘のようだと由希子は思った。この場合、シャノンが母親で晴妃が娘である。
「ん、すグにごはんにすルね。ユキコ、卵焼きはしょっパいのと甘イの、どっチが好き?」
「え? うぅん……どっちも好きだけど、今はしょっぱい方が食べたいかな。」
「オッケー。ドクもそれで良イ?」
「もちろん! 由希子はテレビでも見て待っててね。」
昨夜と同じ光景を繰り返すかのように、結局晴妃に押される形でリビングの椅子へと座らされる。手渡されたリモコンでテレビの電源を入れると、当然ではあるが放送されている番組はアメリカのテレビ局によるものだ。適当にチャンネルを変えて、CNNのような全国ネットではない、ハワイローカルの放送局に切り替える。流れているのは朝のニュース。一時期随分勉強したおかげか、キャスターの言葉は概ね聞き取ることができた。どうやら昨夜、ワイキキの繁華街で小さなけんかをきっかけとした乱闘騒ぎがあったらしい。観光客も数名巻き込まれた旨を、まだ若いリポーターが現場近くの通りからの中継で説明している。
「ハワイってアメリカの中では治安良いけど、それでも夜はわりと危ないのよ。勝手に出歩かないようにね。」
「はい、気をつけます。」
アスファルトに飛び散る血の痕がテレビ画面に映っている。料理が盛られた皿を運んできた晴妃が画面を一瞥して、由希子の肩を緩く叩いた。どうやら死者はいないらしいが、十名近くが病院に運ばれたらしい。玉子焼き器片手にテレビの音声を聞いていたシャノンは、知らず眉を顰めていた。
「なんか、ヤだな……。」
「こればっかりは仕方ないわ。人間以外の動物だって、ときに同じ種同士で戦うんだもの。ある程度は、ね。」
シャノンの様子を察した晴妃は、その顔を横から覗き込む。今回のような酩酊した人同士のけんかの報道ですら、彼女は表情を曇らせることがある。それがシャノンの優しさの表れであることは間違いないが、恐らくそれだけではない。もっと純粋に、誰かが傷つくことそのものを嫌悪している節があるのだと、晴妃は考えていた。それでも、シャノンはそつなく食事の準備を進めていく。晴妃も無駄なく動き、シャノンが焼きたての卵焼きを最後にテーブルに持ってきたことで、朝食の準備が整う。
三人がそれぞれ座るのは昨日の夕食と同じ位置。ごはんと味噌汁、卵焼きに納豆が並べられていて、シャノンが急須からそれぞれに煎茶を注ぐ。いただきます、と三人が声を揃えた後、由希子は小鉢に盛られた納豆を軽く混ぜながら、シャノンに視線を向ける。
「お漬物があるくらいだから、納豆も手に入るんだろうけど……シャノン、食べられるの?」
「ウん、全然平気ダよ。普通の和食でアタシが食べラれないモのって、多分ほとんどナいと思う。」
シャノンは納豆を軽く混ぜてからごはんにかけて、慣れた手付きで納豆ごはんを口に運んでいる。どうにもミスマッチだが微笑ましい光景に、由希子は思わず表情を緩めていた。一方のシャノンは、由希子の表情の理由なんてわかるはずもなく、軽く首を傾げる。
「確かに、慣れないと変な感じがするかもね。シャノンが納豆を食べるっていうのは……。」
晴妃は由希子の表情の理由がわかっていたようだ。くすくすと笑い声を零す晴妃に、
「えェ!? ナんで……?」
心底わからないといった様子で、シャノンが眉尻を下げる。
「なんて言ったら良いのかな。説明するの、ちょっと難しいかも。」
「えェー。まぁ、良いンだけど……。あ、そうだ。今日ノ卵焼きはきっとおイしいよ。自信作ッ!!」
適切な言葉が見つからず、なんとなく由希子は天井を見上げる。一方のシャノンはますますわからなくなって首を傾げるばかりだったが、気を取り直したように誇らしげな声で言う。
「うん、おいしそうって思ってたんだ。」
厚めに焼かれた卵焼きには焦げ目一つなく、瑞々しい表面に箸を入れると、ほとんど抵抗を感じないままに一口分を切ることができた。一方で、柔らかいからといって中が半熟といったこともなく、ほどよく火は通っている。
口に入れた途端、卵自体の甘みと程よい塩気を感じる。塩と出汁のバランスも適切で、実にごはんに合う味付けだった。その一口を飲み込んだ後、由希子が浮かべたのは満面の笑みと言っても良いくらいの表情。
「うん、おいしいっ!! 私、こういう味大好き。」
「フフン…ユキコの味の好ミ、わカってきタよ。胃袋を掴むっテいウのは、こうイうことね、ドク?」
にんまりと笑顔を見せるシャノン。
「それ、男の落とし方よ。由希子落としてどうするの。」
「ねぇ、シャノン……俺のお嫁さんになってくれる?」
晴妃が呆れたように首をすくめたのと対照的に、由希子は演劇さながらに腹に力を入れた低い声で囁く。
「ユキコとアタシの子どもっテ、世界で一番の美少年か美少女になるンじゃない? ヤダ……世界中から嫉妬サれチゃう。」
「何言ってるのよ二人とも……。シャノンがいなくなったら、誰が私のごはん作るの?」
「うワぁ……。ドク、結局そコなんだ。そんナこと言っテると、アタシマジでお嫁に行っチゃうよ?」
顎の辺りに指を添えて、わざとらしく悪辣そうな笑みを浮かべるシャノン。
結局、全員が食事を綺麗に食べ終わるまでそう時間はかからなかった。昨夜と同様、後片付けは由希子も手伝い、食後のお茶を飲んで一息ついた頃にはまもなく8時といった頃であった。
「よし、じゃあ、約束通り遊びに行きましょうか。」
「日曜日だカら、カラカウア通りなンて人だらケだろうけドね。」
「えっと、免税店がある通りだったかな……?」
「そウ。スリみたイな人も出るらシいから、気をつケてね。」
「うん、ありがとう。大丈夫だよ。」
「バスを使うのも面倒だし、タクシー呼んじゃいましょう。みんな、さっさと着替えること。」
それぞれが一旦部屋に戻り、支度をすることになった。Tシャツに薄手のパーカーを羽織り、一着だけ持ってきていたスカートを穿いて着替えは完了。そのまま部屋を出ようかとも思ったが、少しだけ悩んだ後にリップくらいは塗っておくことにした。手鏡片手に唇へとリップを寄せる。由希子が今持ってきているほぼ化粧品といえば、このリップと湯上りに使う化粧水くらいだった。艦娘であった当時、その手の話題に詳しい仲間がいたから自然と知識や技術もそれなりに身についているのだが、どうにも面倒なのだ。多少肌つやが良く見えるという程度の話で、三十分も一時間もかけるのはもったいない気がする。姿見で軽く全身を確かめた後、由希子は部屋を出た。
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晴妃のラボに晴妃とシャノン以外の人が足を踏み入れることは少ない。得られた情報は海軍全体で大いに共有しているが、実験そのものは比較的小規模なこともあって、アシスタントの必要性には駆られていないというのが一番の理由。後は、気心知れた仲の人でなければ、不意に入室されると困ることがあるからだ。現に今がそういう場合であった。
「オーケ、由希子。服、着てもらって構わないわ。」
「……はい。」
体を横たえる箱のような部分と、箱ごと内側に入る筒のような部分からなる大型の検査機器から、由希子は片腕で胸を隠しながら上体を起こす。あれから三人はオアフ島の中心であるワイキキの代名詞ともいえるカラカウア通り周辺を散策した。海沿いを走るオアフ島のメインストリートの一つであり、通りには高級ブランド店や有名ホテルが乱立する、恐らく世界でも有数の地価額を誇る場所である。いくつかの店を巡り、手ごろな服を数着買うことこそできたが、その頃には三人とも観光客の波に飲まれすぎて疲れきっていたから、ショッピングセンターのフードコートで簡単な昼食をとったあと、正午頃には海軍基地に戻ることにした。それから暫く晴妃の部屋で休憩してから、約束通り晴妃の研究を手伝うことになった。ちらりと視線を向けた壁掛け時計が示す時刻は、15時半といったところ。
「結論から言えば、艦娘時代から何も変わってないわね。相変わらず艦娘としては本当に恵まれたものを持ってるわ。」
検査機器は全身用のCTやMRIに近い形状をしている。ただし、それら医療用の機器と異なるのは、全身いたるところにケーブルで繋がった電極まで貼り付けられる点である。だから、下着以外は脱がざるを得なかった。
たとえ艦娘時代から何度も一緒にお風呂に入った仲であろうと、恥じらいがまったくないというわけではない。少しだけ赤みが差した頬をそのままに、いそいそと服を着てから晴妃が座るデスクへと近寄る。晴妃のデスクに設置された大型の液晶モニターには様々な情報が並んでいる。由希子にも馴染みがある単語もあれば、見たこともないような単語や単位が書かれた情報もあった。
「実感、無いんですけどね。」
「また艦娘やるっていうのも悪くないんじゃない? 実際、なんとかして由希子が米軍に入ってくれるように頼んで欲しいって、上からも言われてるのよね。悪くないわよ、お給料。」
「評価して貰えてるのは嬉しいんですけど……もう少しだけ、考えたいんです。」
由希子は唇に指先を添えて、悩みながらに言う。艦娘として戦っていた頃は辛いことも少なくなかったが、楽しいこともたくさんあった。総じて、由希子にとって大切な思い出であり、再び艦娘として働くのが嫌なわけではない。自衛隊からは未だに復帰しないかという誘いを受けている。それだけでなく、艦娘を続けている仲間からもそういった誘いは来るが、どうにも踏ん切りがつかなかった。今更自分が戻ったところで、役に立てるかどうかがわからない。更に言えば、他にやりたいことがあるような気がする――。そんな考えの堂々巡りを繰り返していたが、この旅が終るまでには答えを見つけるたいとは思っていた。
「まだ由希子は十八なんだもの、のんびり考えたら良いのよ。何を選んだって多少の後悔はするんだから、さ。そうだ、私個人の研究助手って手もあるわよ。普通の研究者なら手は足りてるけど、由希子なら歓迎。シャノンとも相性良いみたいだし、どうかしら?」
「考えて……おきます。」
くるくると椅子ごと回転しながら晴妃は由希子が座る椅子へと近づいて、上目遣いで視線を向ける。彼女の白く繊細な指先が、やけにあだっぽく由希子の首筋に這わされる。晴妃の指は昔からきれいだった。他の艦娘の艤装補修や整備まで請け負うものだから、いつも油でまっくろに汚れていた癖に、その実艶やかな爪も、整った指先も、女である自分が見ても吐息を漏らしそうなほどなのだ。思わず一つ唾を飲み込んだ由希子は、怪しい雰囲気を湛えた晴妃の瞳を避けるべく、視線を逸らしながら答えた。
「オーケー。で、もう少し付き合って貰うわよ。終る頃には、シャノンがご飯を作って待っててくれてるだろうから。」
「はい、こうなったらとことん調べちゃってください。」
まだしばらくは晴妃のラボから出られそうにない。今後のことはともかくとして、少なくとも今日一日の覚悟を決めた由希子は浅く頷いて答えた。、
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真珠湾で働く海軍関係者にとって、食事は施設内の食堂か街まで出て済ますのが一般的であった。したがって多くの単身者用の部屋はそれほどキッチン設備が充実していないのだが、晴妃たちの部屋は特別であった。そもそもルームシェアを前提に作られていることもあって広めのキッチンが設けられているうえに、シャノンの料理の腕を見込んだ晴妃が事務方に頼み込んでシステムキッチンを導入させたのだ。大型のオーブンが備え付けられたビルトイン式のガスレンジは、中華料理に求められるほどの強火から、和食の煮炊きものに欠かせないとろ火まで制御してみせる頼れる相棒だ。黒のノースリーブブラウスと膝丈のコットンパンツの上から、今日は紺のドット柄エプロンを身につけた。長い純白の髪をアップにまとめてバンダナを巻いたなら、シャノンの思考は熟練の主婦もかくやといった程に研ぎ澄まされていく。由希子が来る前日、つまり一昨日に買っておいた冷凍海老は昨夜のうちに冷蔵庫に移しておいたから、そろそろ解凍が完了している頃だろう。今日の夕飯はこのエビを使って、ニンニクとオリーブオイルの少し辛いソースで炒めることにした。ガーリックシュリンプ、なんて名前でこの辺りのサーファー発祥の名物とされる料理だ。まっしろのまな板の上、みじん切りにしたタマネギとニンニクをボウルに放り込んで、トウガラシとコショウ、オリーブオイルに塩を足してソースを作る。次に冷蔵庫から取り出したエビの下処理を始める。鼻歌交じりに殻をむいて背わたを取っていく。シャノン自身でもそれなりの手際の良さだと自負している。五分もかからないうちに、小振りのエビ三十尾は殻も背わたも取られて、ボウルに作っておいたソースへと浸される。おもむろに自分の両手を見るシャノン、鼻を近づけて、目を閉じて匂いを嗅ぐ。
「ウわー、生臭ッ。」
生エビを触った手がそうなることくらい、十分わかっている。つまりは癖なのだ。手をきれいにあらってから、軽く腕組して思案する素振りを見せるシャノン。現在の冷蔵庫の中身は記憶しているから、そこからどんな付け合わせができるかを考える。ニンニクとオリーブオイルたっぷりで炒めたエビにマッチするのは、あまりくどくないものでなければならない。そのうえで、シャノン自身が食べたいものとなると――。
「大根サラダ……。あぁ、でも水菜ガ欲しイな。」
作ることはできるが、よりおいしくするための食材が足りない。大根の甘みと水菜のほのかな苦味は非常に相性が良いのだが、ハワイで手に入りにくい水菜の買い置きがない。大き目のスーパーにいけば手に入るが、今から買いに行って食事の時間に間に合うかどうか。シャノンは壁掛け時計に視線を向ける。現在16時10分前。少々距離のある食料品店で買い物をして帰ってくると一時間弱は必要になる。エビを炒める時間を考えると、悩むところではあった。
「よし、行こウ。」
晴妃と由希子には少しでもおいしいものを食べて欲しいから、買い物に出ることにした。彼女達の帰宅の方が早かったときに備えて、スマートフォンから二人にメッセージを送っておく。ラボは電波が遮断されているから、すぐには気づいてもらえないだろうが、とはいえわざわざ晴妃の仕事用のアドレスに連絡を入れるほどのことでもない。エプロンとバンダナを外し、大き目の帽子を被り、買い物用のトートバッグ片手に部屋を出た。
「あら、シャノンじゃない。どこ行くの? もしかして、デート?」
「あ、こんニちハ。アタシにつり合うイケメンがいレばね。」
敷地のゲートを通る際、警備をしていた顔見知りの女性兵士が片手を上げて声をかけてきた。ちょこちょこと小走り気味に彼女のそばに近寄ると、シャノンは得意げな笑みでウィンクを一回。
「確かに、真珠湾には中々いないわね。エリート気取りのお坊ちゃんか、ガチガチのマッチョマンばっかり。」
「みんナアタシに優しくしてくレるけど、こウ……。すべてを委ねラれルような頼リ甲斐が感じラれナい。」
「同感。それに、シャノンのそばには一条先生とかミズーリさんとか、格好良い女の子がいるものね……。あ、そういえば日本で艦娘してた子が来てるんだっけ? ものすごい美人だって、彼女を見た男の子達が騒いでたけど。」
「うん。今週末まデうちに泊まっテるから、また紹介スるね。ちょっと買イ物に行ってくルから。」
「是非是非。楽しみにしてるわ。買い物……? 気をつけていってらっしゃい。」
少しだけ肩の力を抜いた敬礼をする彼女に、シャノンもまた少し緩めの敬礼を返して「いっテきマす」と告げて歩きだす。
軍施設近くの入江に沿うように通された大通りを歩いて、二十分ほどかかる距離に大きな食料品店がある。シャノンの背丈はこの国の成人女性より多少低いが、歩くのは早いほうだ。特に今日は急ぐ必要もあったから、普段以上に歩幅を広げて力強い足取りで歩いたこともあって、十五分程で店に辿り着いた。本当に必要なものだけを買うのがシャノンの買い物ルールであるが、今日はほんの少しルールを緩めてもいいだろう。少し値は張るが日本から空輸された水菜と、昨夜同様に三人で飲むための少しのお酒を買って店を出る。
スマートフォンで時刻を確かめると、まだ16時30分にもなっていなかった。このまま急いで帰れば二人が帰宅する前に食事の準備を再開できるだろう。予想よりもスムーズにスケジュールをこなしていることに、満足そうに笑みを浮かべながら軽く頷いたシャノンは、海外の大型店特有の広い駐車場を小走りに通り抜ける。店舗敷地から外の大通りへとさしかかる直前、停まっていた車が突然動き出した。
「わッ、びっクりした。危ナいな、もぉ……。」
ハワイでは良く見かける、大型のリムジンが駐車スペースから発進して、シャノンの前を塞ぐ。運転手はこちらを見ていなかったのだろうか。頬を膨らませて小さな声で文句を言うシャノンだったが、両肩を突然押さえつけられて、背後側に引っ張られた。
「ンっ……何っ!?」
状況を理解できないながら、肩越しに後ろを振り返ると、自分よりもずっと背の高い男が二人。それぞれが左右からシャノンの肩と手首を掴み、両腕の自由を奪っていた。背後を見て気づいたことであるが、シャノンの後ろ側にもまた前方に停まっているのと同じタイプのリムジンが停まっていた。つまり、シャノンはその前後を車で挟まれて、周囲の視線からは遮られていた。
「やダっ……離シて! 何ナのっ!?」
「静かにしろ!」
左右いずれの男も背は高く、非常に屈強な身体つきをしている。強盗か誘拐か、あるいは性犯罪者の類か。いずれにせよ、シャノンに何らかの危害を加えようとしていることは間違いなかった。そうであれば、シャノンも遠慮する必要はない。確かに、由希子や晴妃とは比較にならないほど非力ではある。しかし人間相手なら、彼らがいかに強かろうとシャノンに負ける道理はない。腹に力を入れて力強くアスファルトを踏み、強引に一歩前に踏み出した。それだけで、両肩を抑えている二人は姿勢を崩しそうになる。
「離しテっ!!」
声と同時に、右腕を力いっぱい振り上げる。圧倒的な腕力の差に姿勢を崩した男性を肩越しに振り返り、腰を捻りながら肘をその分厚い胸に叩きつけた。シャノンの細腕から放たれる衝撃に、彼は数メートル吹き飛んで崩れ落ちた。激痛に唸りながら転げ回っている様子から、命にかかわる怪我でこそなさそうだが、何らかの治療が必要なことは間違いあるまい。眉を潜めて不安そうな表情を浮かべたのは、彼に悪いことをしたと後悔しているから。もう少し手加減した方が良かったのかもしれない。しかし、未だに左の肩に触れたままの男性を、ゆっくりと睨み上げる。彼の腕からは既に力が抜けていた。シャノンの赤い瞳が彼の目をまっすぐに見上げる。暴力を振るわないで澄むのなら、それに越したことは何もないのだ。突き飛ばした先の男だって、できることなら早く救急車を呼んでやりたかった。
「手を離シて。あノ人、早ク病院に連れテ行っテあげテよ。」
「可愛い顔して、やっぱり化物じゃないか。"おい! 早くやれ!"」
"化物"の言葉に、シャノンの瞳が揺らぐ。確かにそうだろう。唸り声を上げてうずくまる彼をそんな目に遭わせたのは、普通の力ではないのだから。その一瞬の動揺がために、彼が英語訛りの日本語を使ったことにシャノンは気づけなかった。ふわりと前髪が揺れて、背後の彼から前方へと視線を移す。目の前には、どこから現れたのか、小柄な少女が一人。常夏の風になびく白い服を纏って立っていた。
「趣味じゃねぇんだけどな……。これ、僕の方が悪者じゃないか。」
日本語で呟いた眼前の少女が、普通ではないということだけは直感的に理解した。男性を振りほどいて走り出そうとするよりも早く、少女が一歩踏み込んだ。速い動きではない。むしろ、テレビで見たことがある日本舞踊のような優美で、穏やかな所作。シャノンの両足の間にふわりと踏み込む華奢な足と、穏やかに伸ばされる少女の腕。避けなければと思うのに、シャノンの身体は動かない。
「アっ……。」
撫でるようにシャノンの胸に置かれた少女の手の平。衝撃らしいものは何も感じなかったのに、肺に溜めた空気が一気に押し出された。口の中に血の匂いを感じると同時に、両足から力が抜けた。ぼやけた視界に彼女を見つめながら、ようやくシャノンは理解した。自分が動けないのではなくて、彼女が速すぎたのだと。取り落としたトートバッグがアスファルトに落ちて、まだ新鮮そうな水菜と何本かの小振りなビール瓶が転がり出た。崩れていく姿勢にあわせて、揺れる視界。二人の帰宅に間に合わないかもしれない、お腹を空かせているだろうに――。「ごメんね……」と呟いた声は、喀血交じりのせきにかき消される。膝から崩れるように沈む体は、背後の男に抱きかかえられた。