『これが君たちの使命であるとはいえ、辛い役回りをさせてしまったね。だが、ようやく彼女たちとの戦いは終ったわけだ。これで君は正式に二代目の比叡となる。比叡、君こそが最後の英雄だよ。』
スピーカーから聞こえる師団長の声は、少女――比叡――を優しく労わるようなものだった。
もう間もなく事切れるであろうシャノンの首を片手で吊り上げたまま、比叡はその声を無視する。歯を食いしばり、指先にさらに力を込める。このまま頚骨を砕いたなら、より早く終らせてやれると思ったからだ。右手だけでなく、左手もその首筋に添える。シャノンの喉から、詰まった配管が空気を漏らすような、苦しげな音が聞こえる。気管に残った僅かな空気すらも押し出されたのだろう。あと少しで、この深海棲艦にとっての苦痛は終る。
一方のシャノンは、まだわずかに意識を残していた。頭の中に霞がかかったように、ぼんやりとしか考えられないが、できることならもう一度、優しいあの人の声を聞きたかったと思う。彼女の名前すらもうまく思い出せなくなっているのに、それでも会いたいという望みだけが意識を繋ぎとめていると言っても良かった。
――ェ……ル――。
指先一つ動かせない。五感が完全に遮断されたかのようだ。幸いなことに傷みはないが、痛みを覚える機能すら失われ始めているということだった。大好きな人たちと一緒にまだまだ生きていたいが、どうやらそれを実現するのは極めて難しそうだ。だとすれば、もう一つ気になることがある。自分を殺すであろう少女のことだ。自分を殺そうとしている相手に対する評価としては変かもしれないが、悪い子ではないのだと思う。彼女にとって、自分なんかを殺したという事実が重荷にならないかどうかが気にかかる。最後に自分を見上げた泣き出しそうな青い瞳が、脳裏に焼きついていた。
――カラサ……ッテ――ャン!――
頭がざわついているのをシャノンは自覚する。急激に酸素供給が滞った脳というのは、深海棲艦の場合こういう状態になるのだろうか。痛みは無くても、これはこれで苦痛だと思った。
――アァモウッ!! ナニボサットシテンノ!? 腹ニ力ヲ入レナサイナッ!――
――うるさいなぁっ! 何!? 今、考えなきゃいけないことたくさんあるんだから、邪魔しないでっ!――
あろうことか、脳内の雑音が明確な意思らしきものを持って叫び始めた。シャノンはイメージの中で頭を抱える。自分に残された時間は幾ばくもないというのに、多重人格のような何者かの相手をさせられるとは思ってもみなかった。
――ハァ? コノ程度デ諦メチャウンダ? ダッサ……。好キナ人タチニソンナ簡単ニサヨナラデキルンダ。薄情過ギデショ。――
――って言うか、アナタ誰!? アタシの別人格とか、そんなの? とっとと消えてよ!――
――違ウヨ。アタシモワカンナイケド、マァ、ソウイウノジャナイ。チョットアンタノ中ニオ邪魔シタダケ。寂シイトカ、アノ娘ガカワイソウトカ、偉ソウナコト思イナガラ何モシナイ、ソンナオ馬鹿ナアンタニ喝ヲ入レニ来タノヨ!――
――何それ。わけわかんないよ……。――
――マ、イイジャン? 袖振リ合ウモ多少ノ縁。ネ、アンタノ体、チョット借シテヨ。生キタインデショ。見本、ミセタゲル。――
――え? 何する気、やめて。変なことしないで。お願い、入ってこないで!――
体が冷えていくのを感じる。酸欠によりほとんど失われてこそいたが、自分のものであるはずだった五感。それが何者かに奪われているのがわかる。自分の中にある異物によって締め出されるような感覚を抱いた次の瞬間、その感覚すらも曖昧になる。力の限り叫んだ声も、心の中で響くだけ。たった一人、暗い檻に閉じ込められたような不安を覚える。
首を絞められたままのシャノンの体は大きく一度跳ね上がり、小刻みに痙攣をした後動かなくなった。比叡の顔に浮かぶのは安堵の顔。果たしてそれは、任務が終ったからか、それとも――。いずれにせよ、その体を地面に下ろしてやろうとした瞬間、その赤い瞳は大きく見開かれた。
唇は楽しそうな笑みを浮かべて歪み、赤い瞳は爛々と宵闇に輝きだす。へし折れていたはずのシャノンの右肘は、泥のように粘ついた黒い風が包んだかと思えば、元通りに修復されていく。とっさに強く首を絞めようとした比叡よりも、シャノンの動きははるかに早かった。両手で掴んだ比叡の腕を支点として、弧を描く要領で体を反転させながら、すらりと伸ばした足先で薙ぎ払うように比叡のこめかみを蹴り飛ばした。その左耳前方の骨が陥没して、えぐれた皮膚から鮮血がほとばしる。頭蓋骨を叩き割った手応えを感じながら、即座に比叡の手首を両手で掴む。蹴りの衝撃で意識を混濁させた比叡が姿勢を崩すよりも早く、その腕を軸に同じ方向に体を二度反転させる。交差し、巻き込まれる比叡の両腕。人間の手首には一回転を許容できるだけの可動域はない。艦娘とて、その基本的な骨格構造に変わりはなく、人一人の全体重と異常な遠心力でもって捻りあげられることに耐える応力もない。内側の筋ごと引き千切れる音と同時に、硬いものが粉々に砕け散る鈍い音が両手首から響く。
「あっ……ぐっ! あぁぁっ!?」
「反応、遅イジャン。アタシガ知ッテル娘タチハ、コンナモンジャナカッタワ。」
ねじ切られた橈骨と尺骨の激痛に後退りする比叡へと、軽やかに着地したシャノンは一足で間合いを詰める。激痛による涙で濡れた比叡の瞳には、明確な恐怖が宿っていた。一方のシャノンは、酷く楽しそうにその両胸にそれぞれの手の平を添えた。
「アンタノ技。上カラ見テタヨ。悪クナイケド、モウチョット精進シナサイナ。」
「やっ……。」
静かに、しかし力強く、シャノンは芝の大地に右足を踏み込んだ。比叡の唇から漏れるのは、声にすらならない引きつった悲鳴。比叡がやってのけたのとは異なり、シャノンの踏み足で大地が爆ぜることはない。そんな無駄な力が生じていないのだ。足が受ける反発によって生じる力に、肩や大腿、ならびに背中といった大きな筋肉の力を乗せて、一切の無駄なく手の平から相手の体に通す。それだけで、凄まじい力で跳ね飛ばされた比叡は、放り投げられた小さな人形のようにあっけなく地面に叩きつけられて動かなくなった。外側への衝撃ではなく、内側が破壊されたのだろう。倒れこんだままの比叡の口から、塊のような血が噴き出る。
「ン、ソロソロ時間カナ。」
本来のシャノンは、その光景をただ見ているだけだった。檻に設置されたモニターを一人で見ているような感覚。あれほど圧倒的な存在であった比叡が、ボロ雑巾のように滅茶苦茶になって横たわるまでの一瞬の出来事が、自分によってなされたという事実に言葉を失う。
――ゴメン。アタシソロソロ行クワ。後ハ自分デ頑張ッテ。――
――アナタ、何したの? あの女の子、殺しちゃったの? 酷いよ……。――
――チョット仕返シシタダケ。ソレニネ、アノ娘ハ艦娘ダカラ、スグニ回復シチャウヨ。ムシロアンタガ気ヲツケルノ。反撃、来ルカモシレナイヨ?――
――そんなの、どうでも良いよ。あの娘の手当てして、ドクのところに帰らなきゃ。早く体返して!――
――ソノ気持チ、ワカラナクハナイワ。デモネ、強クナラナイト、駄目ナコトモアル。アンタニハ、誰カノ為ニ使エル強サガアルンダッテ。ソウイウコト、最期ニナッテヨウヤク気ヅイタ奴モイルカラサ。――
――アナタ、本当に誰なの?――
――ワカンナイ。コレハ本当。ン、何カ懐カシイ風……。何ダロ、モウチョットココニイタカッタケド、延長ナシッテコトカナ。――
――なんで、待ってよ! 教えて、アナタは誰!? アタシは何者なの!?――
――ジャアネ。頑張ッテ、シャノン。――
次の瞬間、シャノンは自分がぼんやりと突っ立っていたことを自覚する。思わず握り締めた拳は、自分の体が思い通りに動くことを示していた。周囲を見渡してみる。シャノンを連れ去った男たちがかなり離れた位置で銃を構えていて、正面20メートルほどの距離に未だ動かないままの比叡が倒れていた。うつ伏せになった比叡の顔の周囲は、吐き下したであろう血液で芝が赤く染まっている。思わず駆け寄ろうとした足は、想像を遥かに超えるほど力強過ぎた。前髪がすべて逆立ち、後ろ髪は激しくなびく。視界が中心から後方に一瞬で吹き飛んでいくような、今まで感じたこともないほどの加速度に対応できず、思いっきりつまづいて頭から地面に突っ込んでしまった。シャノンは自分の顔をぺたぺたと触る。自分でも制御できない速度で頭から地面に滑り込んだわりには、顔には傷一つなさそうだった。後ろと、比叡までの距離を再度確かめる。たった一歩で10メートルは進んだことになる。自分の変化を理解できないまま、それでも両手を支えに素早く立ち上がり、どうにか比叡のそばに辿り着く。
「ネぇ、大丈夫?」
「お前、強いな。降参……。出来れば、あんまり痛くないやり方で終らせてくれると助かる。情けないけど、痛いのはもう嫌だ。」
うずくまっていた比叡は、咳き込みながらも体を横に倒して仰向けに寝転がった。シャノンを見上げる空色の瞳には、恐怖の色が濃く残っている。蹴り飛ばされた左顔面の骨が滅茶苦茶に割れたことで、眼窩まで走ったひび割れは眼球の納まりを悪くしているようだ。左目はやけに逸れた方向を向いている。こめかみと口の周辺には夥しい血のあとが残っていて、いずれも造形の整った可憐な顔立ちを酷く痛々しいものにしていた。
「何言ってルの? 馬鹿なこと言っテるとアタシ、怒るよ? 真珠湾ならきっとすぐに治せるから、行こう?」
「お前こそ、何言ってんだ。僕はお前を殺しかけたんだぞ。普通、やり返して殺すもんだろう?」
「本当に怒ルよ。何にもわカらナいのに、殺されそうニなるノは物凄く嫌。でも、アタシが誰かを傷つケるのはモっと嫌! だカら、酷いことしテごめンね。」
「は、はは。お前、凄ぇな。わけわかんねぇ……。でも、僕も、ごめんな。もう、お前に酷いことはしない。」
「一緒ニ真珠湾に行こウ? ドク……アタシの家族ニ、アナタを……えぇっト、なんテ呼んだラいいのカな。とにカく、治せル人がいるから。」
「助けて、くれるのか。僕なんかを……。ありがとう、お前は……シャノン、か。僕は桐生遙(きりゅうはるか)だ。」
「じゃア、ハルカ。行コっ。」
未だ骨が砕け散ったままの前腕を気にせず、激痛に歯を食いしばりながら肘を支えにふらふらと立ち上がった。シャノンは比叡――遙のそばに寄り添って、肩を支える。
「おい、師団長さん。こりゃあ、僕の負けだろ……?良いよ、もう。艦娘になんてなれなくて良い。とりあえず、帰るわ。」
『……承知した。比叡……いや、既に君は艦娘ではないのだな。では、桐生君、速やかに君の治療にあたりたいのだが、我々にとって最優先の任務が発生したようだ。やはり、彼女はなんとしてもこの場で殺さねばならない。』
遙は少しだけ首を反らして、できる限りの声を張り上げる。人間よりもずっと純粋で善人なシャノンを殺すことなんてできるはずがない。自分の意思を押し殺して、罪悪感を抱えて、そこまでしなければ艦娘になれないというのなら、すっぱりと諦めてしまえば良かったのだ。スピーカーからは師団長の声が響く。低く抑えられた声は落ち着きはらっているようにも聞こえるが、どこかに焦りと遙への侮蔑が混じっているようにも聞こえられた。
「僕には無理だ。そもそも勝てねぇし、やる気がねぇ。というわけで、あんたらも諦めてくれよ。」
『我々合衆国は、いつまでも君たちの後塵を拝しているわけにはいかないのだ。そのための手立てを、我々は用意している。』
「何を言ってやがる。あんたらじゃ無理だ。それに、敵である僕を助けようとしているコイツを殺す必要があるってのか?」
『あぁ、あるとも。彼女が見せた力はどうかね。性質がわからず、制御の保障もない巨大な力はリスクそのものだ。潰さない理由はない。』
「……知るかよ。」
シャノンにこの辺りの土地勘はないが、真珠湾がどちらの方向かということだけはわかった。周囲の軍人たちを無視して、シャノンと遙は寄り添うように歩き始める。
『撃て、桐生君には当てるな。』
「くそっ!」
「ハルカッ!?」
スピーカーからの指示を受け、遠巻きに待機していた軍人達が一斉に小銃を構えた。遙にはまだ艦娘としての力が残っている以上、通常の武器で傷を負うことはない。もちろんシャノンもその片鱗を見せたことを遙は覚えている。軍人にその体を放り投げられたときのことだ。しかし、次もそうなるという確信はなかった。だから、絶対に大丈夫であるはずの自分の体を盾にすることにした。痛む全身に鞭を打ち、なんとかシャノンの前方に回りこんで、両腕を広げる。直後、轟音と共に火を噴く彼らの小銃の弾は、あろうことか遙の皮膚を突き破った。五発程度が自分の腹に穴を開けた以降は、もう数えたくなかった。喉を噴き上がる血液が、堪えきれずに口から迸る。再生し始めていた腹の内側が再びぐちゃぐちゃにかき回されたような、耐え切れない吐き気。崩れそうになる遙の体を抱きとめるシャノン。再び噴き上がる吐血でシャノンを汚さないように、遙が顔を逸らした直後に、噴水のような血を吐き下す。
「嘘、だろ……。あいつら、どうなってんだ。」
「なンで? こンなの、嫌ダよ。もう……。」
『桐生君、これ以上の被弾は死に繋がる。そこで寝ていたまえ。しかし、試作品ではあるが、悪くない。艦娘の絶対防御すら無効化するとは。何、実は単純な話さ。健康診断というのがあるだろう? アイオワやミズーリ、エンタープライズももちろん受診している。その時の検査目的の血液をね、少々ツテを使って拝借したのさ。そして、弾丸に彼女たちの血液を少量付着させたのが、今の弾丸というわけだよ。』
「くっ、は、あっ……。べらべらと、良く喋るおっさんだ。」
「ハルカ、動かナいでね。アタシが、なんとかスるから……。」
「おい、どうする……つもりだ。良いから、お前は逃げろ。」
遙を抱きかかえたまま、静かに呟く。遙の息は随分上がっているが、まだ致命傷には至っていない。艦娘の回復力によるものなのだろうが、それでも早急に治療する必要があるのは間違いなかった。シャノンは、二人を取り囲む軍人たちをその赤い瞳で順番に見遣った。
『すまないが、急ぎ死んでくれたまえ。君が諦めなければ、致し方ない。桐生君ごと撃たせてもらうよ。それが我々の使命だからね。』
既に夜の帳が降りた中で、シャノンの瞳が眩く輝き始める。辺りには光源らしきものはなく、何らかの光を照り返したわけではないのは明らかだった。赤い瞳は妖しい光を湛えて軍人たちに向けられる。
『撃て。』
「……いい加減にしてっ!!」
放たれた無数の弾丸は、シャノンが真横に振りぬいた右腕から生じた不可視の力によってあっけなく叩き落された。地面に弾丸が転がる乾いた音だけがむなしく響く。
「どいてよ。ハルカを真珠湾に連れて行くんだから。」
シャノンの足元から吹き上がるのは、夜の闇よりもなお暗い、黒色の風。その禍々しさに後退りを始めた軍人たちに向かって一歩、シャノンは足を踏み込んだ。左腕で抱きかかえたままの遙を見下ろす。呆然とした瞳でシャノンを見上げる遙の瞳と視線が絡み合う。シャノンが緩く微笑むと、黒い暴風は二人を包むように吹き始める。
「おいおい、これ……僕を守ってるのか。とんでもねぇな。」
「早くどいて! じゃないと、どうなっても知らないから!」
シャノンは稲光のような速さで軍人たちの包囲網に突撃する。戦ったことなんてなかったはずなのに、どう動くべきなのかはわかっていた。視線の先に吹き荒れる黒い風は、刃となって軍人たちの小銃だけを紙のように切り落とす。黒一色に包まれたまま、シャノンの赤い瞳が残光を描く。見つめるのは南の方向。崩れた包囲網を突破すべく、高々と大地を蹴って跳び上がったところで、言いようのない不安感がシャノンの心臓を鷲掴みにした。本能的に空中で姿勢を反転させて、もといた地面に降り立つ。直後、地面を割いて現れたのは半透明の赤い壁。四方を隙間無く塞ぐ壁は100メートルほどの高さがあった。
「何、あれ……。」
「多分演習用の防護壁だな。準備万端過ぎるじゃねぇか。」
突如生じた壁を見ながら遙が言う。艦娘同士が訓練の為に手合せをする際、その驚異的な力を外に漏らさない為に使用するのがこの防護壁だった。艦娘たちが身につける艤装の技術を用いているため、陸軍がそう簡単に用意できるものではない。
『深海棲艦を根絶するためなら、喜んで知恵を貸してくれる人々が、世界中に数多くいるということだよ。そして、そうした協力によって生まれた、我々人類による武器がここにある。』
スピーカーから響く師団長の声は相変わらず穏やかであったが、どこか自分の言葉に高揚しているようでもあった。彼の言葉の真意はわかりかねるものの、それでも二人にとって良くない状況であるのは間違いないことを遙は理解していた。
「シャノン、どうにかしてアイツをぶち破れないか。座学のときに聞いたことがあるんだ。すげぇ力ならぶっ壊れるってな。」
「ん、やってみる。」
防護壁は戦艦娘の最大攻撃にも耐える設計をしている。ただし、どんな力でも破れないわけではなく、実際に演習で破壊された記録も少なくない数が残っていることを遙は聞いたことがあった。自分は何の役にも立てそうにない。艦娘の再生力はより致命的な傷から働く。砕けた頭蓋は修復され、多少の損傷を受けた脳と眼窩も問題ない。弾丸が叩き込まれた内臓も恐らく元通りだが、腹の傷が塞がっていないのだ。ねじ折られた両前腕も、まだ完全に繋がってはいない。シャノンにとって、今の自分が足手まといであることを痛感させられる。遙は下唇を噛み締めた。
「ハルカ、危ないから動かないでね。」
「……ごめんな。」
遙を左手で抱えたまま、シャノンは瞳を閉じて、右手を防護壁に向けて突き出した。全身から手の平に向けて黒い風が集まり、テニスボール大に凝縮される。さながらブラックホールのように黒い塊は、その小ささに反して強烈な風を撒き散らしている。二度ほどの深呼吸の後、瞳を見開いたシャノンは風の塊を解き放った。風圧だけで地面を削りながらまっすぐに進む様子は、黒い砲弾のようだった。迷いなく防護壁に直撃すると、互いに相殺し合うように眩い光を放つ。風の塊と防護壁が抗し合っていたのは5秒ほどの間のこと、大きく歪みこそしたが、まだ防護壁は赤い光を放ったままだった。
「もう一回、いくよ!」
「待て、シャノン、何か来るっ!跳べっ!」
遙の瞳に映ったのは、夜空に瞬いた何か。それが急速にこちらに向ってくることに気づいて、声を張り上げた。その声に応じて即座に真横に飛び退いたシャノンと、抱きかかえられたままの遙を強烈な轟音と衝撃が襲った。どうにか姿勢を制御するべくシャノンの黒い風が二人を包み込んだものの、それでも衝撃を殺しきることはできなかった。二人の体は強かに地面に叩きつけられる。
「あ、ぐっ……!痛っ、ハルカ、大丈夫?」
「僕は問題ない、お前は……?」
「大丈夫だよ、気にしないで。」
ゆらりと力なく立ち上がったシャノンの左腕からは血が滴っている。地面に叩きつけられる直前、遙を庇って二人分の体重で地面に叩きつけられたのだ。その様子を一瞥した遙は、舌打ちを漏らす。無理矢理に起き上がるべく、両手に力をこめる。痛みがやわらいでいることに遙は小さく笑みを浮かべた。まだ完璧ではないかもしれないが、とにかく骨は繋がったと見て良さそうだった。急ぎ立ち上がって、シャノンが向ける視線の先を追う。
「ねぇハルカ……。あれ、何?」
「わかんねぇ。ぶっさいくな機械だな。」
二人が先ほどまでいた場所。衝撃の中心点には、全長3メートルほどの機械が立ちはだかっていた。巨大なタンクを背負い、張り巡らされた配管と古めかしい構造の主機らしきものが骨格だとすれば、それを覆う肉にあたるのは無数の武器。二人ともが、その機械が全身に身につけた武器に見覚えがあった。艦娘が用いる主砲に魚雷発射管、あるいは機銃台座といったものが無秩序に組み込まれているように見えて、その実左右対称の人型を形成している。
『先の戦いで命を失った合衆国の艦娘が何人になるか、知っているかね。彼女たちが遺した装備の大半は研究の為にその開発元に返還された。それらの一部を、我々の手によって組み上げたのだよ。艦娘と我々のテクノロジーの融合。そして、我々が拝借していた艦娘の血液の残りすべてを、彼女に……このアリシアに捧げたのだ。さぁ、目覚めたまえ。君が倒すべき最初で最後の敵だ。』
機械の――アリシアの頭部にあたる場所に取り付けられた大型のレンズがシャノンに向けられる。主機がその出力を高め、全身にエネルギーが満ちていく。次の瞬間、その巨体と重厚な外見からは想像し難い速度でシャノン目掛けてまっすぐに突進してきた。
「させる、かよっ!」
シャノンの真横から踏み込んだ遙の飛び蹴りが、アリシアの肩部に叩き込まれる。反発による力を利用してさらに高々と飛び上がり、背面側に宙返りしてシャノンのすぐ前に軽やかに着地する遙と、対照的に重々しく地面を転がるアリシア。しかし、アリシアは何事もなかったかのように起き上がる。シルエットこそ二足歩行の巨大な人間のようではあるが、その動きに人間味は感じられない。
『やめたまえ、桐生君。アリシアは敵対行動を許容しない。君もただでは済まなくなる。』
「知るか。もう艦娘候補ですらないんだ。好きなようにやらせてもらう! シャノン、アイツをぶっ壊すぞ。それからあの壁を破って帰る。良いな?」
「うん、頑張る!」
力が入らない左腕をそのままに、右手を腰の辺りに構えてシャノンは前方のアリシアを見据える。一方のアリシアはレンズで二人を順番に捉えてから、再び驚異的な推力による急加速で突撃してきた。いくつもの主砲で組み上げられた歪な右腕が遙を薙ぎ払う。両腕を交差させ、逆方向に飛び退いたにも関わらず、遙はその勢いを殺しきれずに地面に叩きつけられた。鋭さを増した突進に虚を突かれたシャノンも、直後に風の砲弾を放つ。しかし、それをものともせずに突っ込んできたアリシアの肩で突き上げられた。5メートルほど打ち上げられて、風の流れをクッション代わりにどうにか地面への衝突を避けたシャノンであったが、足に力が入らず、地面に片膝をついて荒い呼吸を繰り返す。遙もどうにか立ち上がりはしたようだが、その表情を苦痛に歪めていた。
「くそっ……。シャノン、生きてるか。」
「うん、ありがとう、大丈夫だよ。ハルカも、大丈夫?」
「なんとか、な。畜生……アイツ、どうするよ?」
「うぅん、わかんない。困ったな。」
シャノンの方へと足を引き摺るように歩み寄った遙が、片手を差し出す。遙の青い瞳を見上げて、ほんの少しの間動きを止めていたシャノンだったが、ありがとう、と言いながら緩く微笑んでその手を掴み、二人寄り添うように立ち上がる。アリシアはそんな二人を再び正面に見据えて、両手を前方に突き出した。両腕から生えているかのような無数の砲塔が二人の方へと向けられる。
「……シャノン!」
その動きを察した遙は、シャノンを背後から抱きかかえて真横へと飛び退いた。それとほぼ同時に、発射される無数の砲弾。その一部は二人が避けた方向を正確に追尾してきた。
「止まってっ!」
遙に抱きかかえられたまま、シャノンは右手を前に向ける。黒い風がシャノンの手の平から濁流のように放たれて、飛来する砲弾を押し戻そうとする。眉間に皺を寄せて、軋むほどに歯を食いしばる。それでも、止め切れなかったいくつかの砲弾は直撃こそ阻止したものの、地面に突き刺さり、その衝撃が二人を弾き飛ばした。勢いを止めることもできず、強風に煽られた木の葉のように吹き飛び、地面に叩きつけられる二人の体。
「あっ……ぅ。痛、ぁ……。ハル、カ。だいじょう、ぶ?」
シャノンはどうにか立ち上がることができた。しかし、左肩が外れたらしく、まったく動かなくなったうえに、無事だった右腕も手首が折れて役に立ちそうにない。3メートルほど離れたところでうずくまっている遙に声をかけるが、返事がなかった。走るというより、もつれて転がるかのように遙に近寄るシャノン。白く、豪奢な仕立ての遙の衣服は血と泥で無残に汚れていて、愛らしいはずのチェックのスカートはほとんど破れて血で汚れた白い太腿を隠せていなかった。ぼんやりとシャノンを見上げる瞳から青空のような色は失われ、黒い瞳が焦点を定めかねたように揺れていた。遙は、自分の体で地面との衝突からシャノンを庇ったのだ。艦娘の力は驚異的な再生能力と生命力を艦娘に与えるが、それも無尽蔵ではない。あまりに大きな傷を負い続けると、まず再生が徐々に追いつかなくなる。それでも致命的なダメージを負うと、本人の生命を維持するために艦娘の力は一時的に使い果たされる。そのとき、艦娘は訓練の有無による差こそあれ、人間の少女と変わらない程度まで能力が低下する。再生能力が失われ、身体能力も激減した状態で、それでも戦いを続ける先に待つのは完全な死である。
「悪い。もう、動くこともできねぇ。本当に、ごめん。全部、僕の、せいだ……。ごめん、シャノン。」
こんな作戦に乗らなければ、そもそも自分のような無才が艦娘を目指そうとしなければ、シャノンは、この馬鹿みたいに優しい深海棲艦の少女は幸せに生きていられたのかもしれない。視界がぼやけるのは、瞳から滲む涙のせいだろう。下らない慢心と虚栄心が、自分のみならず、何の咎もない命を奪ってしまう罪悪感と後悔で唇が震える。
「ハルカって、ちっチゃい子みタいな泣き方……すルんだね。」
シャノンの瞳から禍々しいまでの赤い光は失われた。戦意を失ったのではなく、その意味を感じなくなったからだ。アリシアに抵抗するより、今はこうしたかった。その場で両膝を地面につくと、手首が折れた右腕を無理矢理に動かして、遙の頭を胸に収めるように抱き寄せる。晴妃に買ってもらった黒いブラウス、既にボロボロになったその布地に、遙の涙が次々に滴って濡れていく。
「ごめん。僕が……もっと強かったら。」
「ううン。強いよ、ハルカは凄ク強い。」
アリシアは再度二人に向けて両腕を構える。それだけでなく、両足や肩に取り付けられた、ありとあらゆる砲身が二人へと定められた。シャノンはアリシアの姿を肩越しに振り返って、緩くまぶたを閉じた。左腕が動かないのが残念だった。できれば、両腕で遙を抱き締めてやりたかったからだ。スピーカーからは二人に謝るような男性の声が聞こえるが、シャノンはその声の主を知らないし、ただ建前からの言葉を連ねているだけの声に耳を貸す必要も感じていなかった。
そして、無数の砲弾が放たれる音が鳴り響く。
強く目を閉じたシャノンに、痛みは訪れなかった。これなら幸せな終り方と言えるかもしれない。後は、自分の体が僅かでも盾になって、遙が生きていてくれれば最高なのだが、それはもう確かめようがない。ただ、シャノンの耳には砲弾の発射音以外に異質な音がいくつか聞こえた気がしていた。様々な武器を放たれたから、不思議でもないのだろうが、新たに聞こえたのは分厚いガラスが叩き割られるような音と火薬が爆ぜる轟音だった。そして――。
「遅くなってごめんね。シャノン、迎えに来たよ。」
爆発音に揺さぶられた鼓膜に生じた錯覚にしては、あまりにも明瞭で優しい声だった。ゆっくりと開けたまぶたの向こうに見えたのは、こちらに背を向けて、肩越しに振り返る少し長身の影。目も開けられないくらいに眩しいプラチナ色の光に包まれた、大切な友達の姿。赤い瞳が、歓喜に潤む。
「ユキコ……。気をつケて! その、変なロボットミたいナのが。」
由希子との再会に気が緩みそうになるのを抑えて、シャノンは周囲を見渡す。自分に砲弾が当たらなかったのは偶然だろうか。いずれにしても、由希子一人ではアリシアの相手は難しいのかもしれない。なら、自分も戦わなければいけない、と表情を引き締めるシャノンを見て、一方の由希子は緩く微笑んだ。
「それって、あれかな。えぇっと、自信はなかったんだけど、シャノンに攻撃しようとしてたから。壊しちゃったよ。」
由希子が視線を向ける方を追いかけるシャノン。そこに見えるのは、ばらばらの鉄屑になったアリシアの成れの果て。とてつもないエネルギーで外側から何度も叩きつけられたかのように、砕け、潰れた小さな部品がそこらに散らばり、小さな爆発と電子回路のショートを繰り替して、”彼女”の最期を示していた。シャノンから100メートルほど離れた先の地面は大きくえぐれたクレーターのようになっていて、四方を覆っていた防護壁も存在していなかった。
「嘘、だろ。二人であれだけ苦労した奴を……。」
「その服、ちょっと懐かしいな。ぼろぼろになっちゃってるけど、可愛い柄のスカート。うん、あなたは比叡さん、かな。」
シャノンに抱き締められたままの遙は、首だけを何とか持ち上げて由希子を見上げた。唐突に姿を現したこの女性が艦娘であることは遙にもすぐにわかったが、それにしても、異常な強さに思えた。こと直接的な打撃戦に最も向いている戦艦娘である自分がここまで圧倒された相手を、文字通り一瞬で破壊したのだから。
「あ、あぁ。一応、比叡候補だった、桐生……です。」
「私は藤堂、藤堂由希子と言います。よろしく、桐生さん。もうすこしちゃんと自己紹介したいところだけど、二人とも酷い怪我だから、すぐに帰ろうね。」
由希子は遙のすぐそばで膝を曲げて、覗き込むように視線を向ける。
「ユキコ、なんでこコがわかっタの? そレに、あの人たチの銃。当たっタらユキコでも怪我すルから、気を付けテ。」
「うん、大丈夫。実はね、晴妃さんがここが怪しいって教えてくれたんだよ。それに、途中で懐かしい人に会ってね。その人と一緒に来たんだ。」
不安そうに瞳を揺らすシャノンを見て、由希子は少し得意げに笑いながら答えた。