陸軍基地に向けて由希子が出発してから、一分程度が過ぎた。基地までの距離は残り半分、25キロメートルといったところだろう。艦娘の力を余さず発揮している由希子の瞳には、時間が止まったかのように景色が映る。行き交う人々は精巧に作られた人形のようで、車道を走る車は大胆な路上駐車にも見える。さながら静止画の世界を走りながら、脳裏を過るのはもう必要ないと思っていた力の意味についてだった。藤堂由希子という十八歳の少女が普通に生きていくにあたって、秒速数百メートルを軽く超える速度を叩き出す必要性はない。しかし、今は艦娘の力が残っていて良かったと思っている。友人のためなら出し惜しむものなどないのは当然のことだが、結局のところ自分は島風のままなのだということを自覚させられる。
「おっと、ごめんなさい。」
詮無いことを考えていたからか。信号を渡る途中らしい男性にぶつかりそうになった。左肩を後ろに下げて、横歩き気味に彼の体を避けてから、再び走り始める。仮に、あの男性にぶつかっていたとしても、彼にかかる衝撃はあくまで体重五十数キログラムの少女に軽くぶつかった程度でしかない。由希子には、それどころか未だ誰にも原理は掴めていないが、艦娘は世界の決まりごとのいくつかを無視するか、あるいはそれらを極端に有利な条件で働かせることができる。音すらも遅く思えるくらいに速く走れる由希子が駆け抜けようとも、圧縮された空気による衝撃波が発生することがないのもそのためだ。
海岸線を横目に臨んでいた景色は、いつのまにか左右を木々に囲まれた暗い道へと様相を変えていた。そこからしばらくも走らないうちに、陸軍の敷地へと辿り着く。センサーの類に注意しながら、いくつかのセキュリティゲートを飛び越えた先には、背の低いコンクリート造りの建物が広大な敷地に等間隔で立ち並び、それぞれの入口となる扉には二人以上の銃を持った兵士が立っている。さすがに厳重な警備に、由希子は手近な物陰に身を隠した。山の麓を大きく切り拓いて造設された基地らしく、周囲を一瞥しただけで真珠湾の海軍基地と遜色ない規模だとわかる。とはいえ、ここにシャノンがいるかどうかもそもそもわからないのだ。時間を浪費するわけにもいかないから、とにかく走り回って確かめるしかあるまいと、立ち上がったところで右手首を何者かに掴まれた。
「……っ!」
油断していたつもりはないが、艦娘にも気取られない身のこなしとなれば、相当な熟練者であることは間違いない。即座に踵を返して振り返った先にいたのは、金糸の飾り紐がついた黒のブレザーとパンツ、仕立ての良いシャツに乱れ一つない紺のネクタイを締めた長身の女性であった。由希子が声を発する前に、彼女の指先は手首から手の方へと滑り、指を絡めるように握ってきた。その上で、右手を引き寄せて軽く抱き締められる。ハグと言うには少しだけ力強いが、不快感はない。何故なら、彼女はよく知る人であったからだ。
「んっ……ミズーリさん? なんで……?」
柔らかそうなブロンドのショートヘアーに中性的で涼やかな目元、由希子よりも5センチメートルほど長身の彼女は戦艦ミズーリ。アメリカの艦娘たちと共同戦線を張った際に仲良くなり、当時は随分と良くしてもらったものだ。その腕に抱かれたまま、少しだけ上を向けた視線で彼女の瞳を見つめる。
「何。ちょっとした仕事の途中なんだけど、可愛らしい後ろ姿を見かけたからね。声をかけずにはいられなかったんだ。まさか、ユキコにここで会えるとは思わなかったよ。当時から可憐だったが、さらに見違えたね。やはり日本の艦娘は……おっと、挨拶は後にしよう。手短に聞くよ、君は何故ここに?」
「えぇっと、それが……。」
二人物陰に隠れたまま小さな声で言葉を交わす。ミズーリの落ち着いたアルトの声色が耳元に響く。向けられた問いに対して、由希子はこれまでの経緯を簡潔に伝えた。自分が晴妃の元を訪れたこと、シャノンのこと、そしてここに忍び込んだ経緯。一方のミズーリは、由希子を抱き寄せたまま、その瞳をまっすぐに見つめていた。
「なるほど、私の仕事とも話が繋がりそうだね。」
由希子の話をあらかた聞き終わったミズーリは、細く整った指を顎に添えて思案するような素振りで呟いた。その声には抑揚があり、演劇の台詞のようにも聞こえる。日本の艦娘の一部は、そんな彼女を憧憬の念を込めて”大海の王子様”と評していたりもするようだが、わからなくもない。女性だけで構成された有名な劇団の男性役のような立ち居振る舞いを自然とこなす人なのだ。
「多分、シャノンはこの基地内にいると思う。私は一刻も早くここのコマンダーに会わないといけなくてね。だから、ユキコ……力を貸して欲しい。とは言っても、今の君は民間人だ。規定上、一時的に私の指揮下に入って貰うけど、良いかな。でないと、後々君が罪に問われてしまいかねないからね。」
「はい、わかりました。」
「おっと、詳しい話は後にするけど、ここの兵士たちが持っている武器には注意して欲しい。恐らく、私たちに対しても有効だ。ユキコからすれば止まっているようなものだろうけど、一応、ね。」
「……大丈夫です。」
艦娘を傷つけられるのは、同じ艦娘か深海棲艦だけであるとされている。ミズーリの言葉はその前提を覆すものであったが、彼女は適当な嘘を言うような人ではない。由希子はゆっくりと頷いた。ミズーリは口の両端を少しだけ緩めて笑顔を浮かべて、由希子を抱き寄せていた腕を解いた。次いで、繋いでいた手は、最初に手の平同士が隙間を生じて、絡んでいた指は余韻を感じさせるように緩慢に離された。こういう所作を自然とやってしまうからこその、例の渾名が生まれたのだろうと由希子は思う。
「じゃあ、また後で。くれぐれも、気をつけて。」
「はい、ミズーリさんも。」
最後に由希子の肩に軽く触れて、ミズーリは駆けていった。由希子も周囲の様子を伺ってから、慎重に物陰から飛び出す。普通の人間である彼らに見つかることはないだろうが、一部のセンサーやカメラは艦娘の動きであろうとも捉えることができるものがある。死角から死角へ、一回の跳躍で飛び移るように基地内部を確かめていく。多くの兵士たちは特に緊張した様子もなく、普段通りの警備体制にあたっているように見えた。シャノンはどこか建物の中にでもいるのだろうかと思った矢先、敷地内でもっとも山側に近い辺りだけ、妙に兵士たちの姿が見えないことに気づいた。確かに最奥部であり、さらに奥は急な山であるため、あまり警戒する必要はないのかもしれないが、それにしても静かすぎる。もう少し近づいて調べようとしたところで、不可視の何かに前進を阻まれた。
「……これ、もしかして。」
軽く握った拳で正面を叩いた途端、強い力で腕が跳ね除けられた。由希子の瞳が険しく細められる。艦娘が演習する際に用いる防護壁に触れた際の慣れ親しんだ感覚であり、この先に何かがあるのは間違いなかった。軽やかに背後20メートルほど跳び退いて、軽く腰を前に倒した。短距離走のスタンディングスタートに近い姿勢から地面を力強く蹴り、生じる反発力のままに高々と跳躍する。防護壁に触れる直前、空中で振り上げた右足を叩きつけた。硬いものを砕いた手応えを覚えながら、壁の内部へと飛び込む。由希子が眉を顰めたのは、伏せた視線の先に寄り添う二つの人影を捉えたから。シャノンと、見覚えのない少女―遙―の二人は、いずれもが酷い怪我を負っているようだった。
――ごめんね。遅くなって――。
由希子が軽やかに降り立ったのは、シャノンたちと巨大な機械―アリシア―を結ぶ直線上の中間点。アリシアから無数の弾が放たれた瞬間だった。鋭くアリシアを一瞥してから、その場で踵を返して後ろを振り向く。まずは、シャノンたちを安全な場所に移動させる必要があった。二人に近づいた由希子は、ほんの一瞬、驚いたように目を瞬かせる。シャノンに抱き締められている遙が、艦娘であることに気づいたから。酷く弱々しく、消えてしまいそうな程ではあるが、その小柄な体から艦娘の力を感じる。だからといって、二人とも助けるつもりであることに変わりはない。
――もう少しだけ、我慢して――。
二人はまだ由希子の接近に気づいていない。戦いの中で成長を遂げた艦娘はその物理的な速さもさることながら、思考や動体視力といった総体的な感覚が高速化すると言われている。文字通り瞬きよりも短い一瞬で死活が定まる戦いにおいて欠かせない能力ではあるが、実のところ彼女たちの感覚を速めているのが艦娘の力なのか、あるいは人間が本来持つ力なのかはわかっていない。庇うように強く回されたシャノンの腕を優しく解いて、遙の体を両腕で抱き上げた。飛来する砲弾の雨から、シャノンが遙を守ろうとしているのは明らかだった。由希子の目が、何か眩しいものを見るように細められる。記憶を辿りそうになる思考を振り切って、一度の跳躍で遠く離れた場所へと降り立ち、遙の体を静かに横たわらせる。次いでシャノンも同様に抱き上げて、遙の傍へ。二人を動かす前と同様に、遙の上体はシャノンの膝の上へと横たわらせた。
――後は、あいつを――。
振り返る由希子の榛色の瞳が、黒鉄の巨体をまっすぐに見つめる。あれが何なのかは、今の由希子にはわからない。見覚えのある武装で全身を包んだ、趣味の悪いオブジェと見るのが精一杯だ。しかし、シャノンを傷つけようとしているなら、それだけで破壊するに十分な理由になる。指一本ずつの感覚を確かめるよう、緩慢に拳を握り締める。次の瞬間、由希子が立っていた場所からアリシアまでを結ぶ直線に白金色の軌跡が刻まれた。高々と跳躍した由希子の拳は、アリシアの頭にあたる部分に叩き込まれる。艦娘の膂力と、何より彼女たちの中でも群を抜く速度によってもたらされるエネルギーは、特殊合金製のアリシアの頭部を繊細な紙細工のように押し潰すに留まらず、破壊力となってその全身を伝わり始める。ゆっくりと背後に倒れ始める巨体を空中で踏む要領で蹴りつけて、反動を利用した弧を描く跳躍でシャノンの近くへと着地する。由希子は集中した意識を少しだけ和らげる。直後、目標を見失った無数の砲弾が無意味に地面を爆ぜさせるよりも早く、それらを放ったアリシアが数回の爆発を起こして四散した。
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『私に協力してくれた師団員の皆に告げる。その場を動かないで貰いたい。深海棲艦一名を含む、そこにいる三人の少女たちに危害を加えることは許されない。端的に言えば、私たちの負けだ。』
スピーカーから響いた師団長の声は、感情を押し殺したように平坦であった。由希子たち三人を遠巻きに取り囲んでいた兵士たちは、その言葉と一瞬の間にスクラップと成り果てたアリシア、そして彼らにとっては突如姿を表したことになる由希子の姿に後ずさりを始める。由希子はまだ状況を完全に飲み込めているわけではなかったが、二人を早く安全に場所に連れて行くには好都合だった。
「桐生さんは、私が抱っこしていくよ。シャノンは、歩けそう?」
その場で屈みこんで、二人と順番に視線を合わせる由希子。
「うン。アタシは大丈夫ッ!」
芝の上に座り込んだまま、シャノンは腰の辺りで両拳をぐっと握った。外れていた肩も、折れていた手首もいつの間にか治っていた。シャノン自身が信じられない治癒速度であるが、そういうものだと今は理解することにした。これ以上由希子の手間にならないなら、シャノンにとってそれに越したことはないのだ。
「僕も、一人で歩けますから。」
「ハルカは駄目。」
「遠慮しないで。ちょっと恥ずかしいかもしれないけど、艦娘なら良くあることだよ。」
シャノンの膝に横たわっていた遙は無理矢理に上体を起こそうとした。しかし、その華奢な背中に即座に回されたシャノンの腕が、遙を再びシャノンの胸元へと閉じ込めた。窘めるような由希子の言葉に、ゆっくりと頷いたのをシャノンが確かめてから、ようやく遙はその両腕から解放される。
『ユキコ、ここには艦娘の治療施設がない。真珠湾までは我々の車で送ろう。イチジョウには連絡済みだ。』
「わかりました。お願いします!」
「ドク……。」
次にスピーカーから響いたのはミズーリの声だった。彼女の目的は果たされたらしい。片手を上げてその声に応じる由希子と、その一方で沈んだ表情のシャノン。今になって、由希子と晴妃に心配をかけてしまったことを痛感したのだ。
「ユキコ。あの、ゴめん……ネ。」
「ん、シャノンが謝ることなんて何もないよ?」
由希子の表情を伺うような視線とともに、ためらいの色を滲ませた言葉をシャノンは口にする。由希子は首を傾げて瞳を瞬かせながら、何でもないように返した。そんな二人に、シャノンの膝に横たわったままの遙が重そうに片手を上げる。それだけでも、全身に痛みが走るのだろう。苦痛に歪んだ表情で遙は呟いた。
「違う。コイツは悪くないんです。僕が……その。」
「大丈夫だよ。今は何も気にしないで、ね?」
遙の方へ手の平を向けて言葉を制した由希子は、二人を順に見る。緊張に包まれた空気が基地全体に満ち始めているのを感じる。陸軍と海軍、それぞれの兵士たちが次々に駆けつけて来て、今まで三人を包囲していた兵士たちを拘束していく。シャノンを連れ去ったことも、二人がこれほどの傷を負うような目に遭ったことも、この基地全体の意思によるものではないらしいことがわかる。念の為に二人を庇うような位置に立って、注意深く彼らの動向を見ていると、続けてやってきたのは三台の大型車両。目の前で停まった先頭の車両からは一人の兵士が降りてきて、由希子の前で立ち止まり敬礼をした。
「藤堂由希子さん、ですね。お待たせして申し訳ございません。ミズーリ中佐より、みなさんを真珠湾までお連れするよう指示を受けております。どうぞ、ご乗車ください。お二人は後ろの車で応急処置をしながら運びます。」
「はい、お願いします。ところで、私はもう民間人ですから、敬礼は……。」
「あなた方は私たちにとっての救世主ですから。」
流暢な日本語を使う兵士の言葉に、由希子は少しだけ困ったように笑いながら、彼に倣って右手を上げた。彼が降りてきた車に続く二台の車からは数名の女性兵士が降りてきて、遙は担架に横たえて、シャノンには肩を貸してそれぞれ車内へと運んでいく。それを確かめてから、由希子は深く吐息を漏らした。体を覆っていた白金色の光は、細かな粒子となって星空に溶けるように散っていった。その光を追うように視線を上げていた兵士は少々照れたように笑ってから、後部座席の扉を開ける。強めに効かされた冷房は少々肌寒く感じるほどだが、つい今しがたまで神経を研ぎ澄ませていた由希子にはちょうど良かった。車は程なくして出発する。動き始めた車の窓ガラスから外を見遣ると、手錠を嵌められた十名程度の兵士たちが、陸軍と海軍の兵士たちに囲まれて歩かされている。由希子は思わず奥歯を噛み締めていた。友人を傷つけられた悔しさや憎しみ、というのとは少し違うように思う。もやもやとわだかまる思いを言葉にするなら、悲しいというのが適切かもしれない。やがて三台の車列は一つの建屋の前で停車する。両開きの大きな扉から姿を表したミズーリは、両腕を拘束された初老の男性――陸軍師団長――を連れ立っている。後からやってきた一人の海軍兵士と敬礼を交わした後、ミズーリは師団長の身柄を兵士に預けて、車へと足早に近づいてきた。由希子が後部座席の端に詰めると、ありがとう、と囁きながらにミズーリは後部座席の扉を開けて乗り込んだ。彼女が乗車したのを確認した兵士は、再び車を発進させる。
「ユキコ、本当にすまない。私たちのトラブルに巻き込んで、君の旅行を台無しにしてしまった。米軍を代表して謝りたい。」
「そんな……。頭を上げてください。私はシャノンを助けたくて動いただけですから、巻き込まれたとは思っていません。もし、ミズーリさんが……ううん、軍の方々が誰かにどうしても謝りたいと仰るなら、その相手はシャノンと桐生さんだと思います。」
「そう、か。ユキコの言うとおりかもしれないね。だけど、君にも申し訳ないことをしたと思っているんだ。」
話の口火を切ったミズーリが深々と頭を下げる。対する由希子は、ゆっくりと首を左右に振って、彼女の言葉を覆した。由希子からの視線を避けるように、ミズーリはきまりが悪そうに視線を伏せた。
「その……事の詳細は、二人の治療が終わってから、みんなに話したいんだ。」
「はい、わかりました。」
その後、車内には少し気まずい沈黙が訪れた。ちらりと横目で盗み見ると、ミズーリは堅い表情を浮かべている。自分の言葉と態度は辛辣だったかもしれない、と由希子もまた眉根を寄せて俯いた。時刻は19時過ぎ、窓から望む海は黒い絵の具をぶちまけたかのように黒一色で、ぽつぽつと浮かぶヨットやクルーザーのわずかな灯りだけがそれが海であることを示しているようだった。
やがて車は真珠湾の海軍基地へと辿り着く。艦娘のための治療施設が設置されている研究棟の前に車が停まると、辺りには非番であろう海軍兵士たちがかなりの人数集まっていた。
「シャノンが怪我をしたことを聞いたんだろうね。あの子、ここのアイドルだから。」
呆れたように呟いたミズーリの声は、同時にどこか誇らしげでもあった。二人が車を降りると、兵士たちの人だかりの中央に、白衣を羽織った晴妃が立っていた。由希子が見たこともないような、泣き出しそうな表情を晴妃は浮かべていた。さらに歩み寄ると、晴妃は既に泣いていることがわかった。涙を溜めた目尻が、辛うじて決壊していないだけのことだった。その拳は小刻みに震えていて、必死に平静を保とうとしているのが由希子には痛いほどわかった。
「晴妃さん……。」
「うん、ごめん……。」
晴妃のごめんには、二つの意味が込められていた。一つはミズーリと同じだ。状況は概ね理解していて、結局ただ一人巻き込まれた由希子への軍属としての後ろ暗さからの謝罪が一つ。そして、もう一つは、今はもうこれ以上言葉を続けられそうにないことを謝った。由希子にもそれがわかっていたから、何かを告げようとした言葉は意味もなく、あの……、と発音しただけで途切れてしまった。やがて、後続の二台の車が少し離れたところに停車した。いよいよ晴妃の表情は崩れそうで、ふらふらと歩き出す。同じく、女性兵士に付き添われて、車を降りたシャノン。二人の視線が結ばれる。なんとなく、そうかもしれないと由希子は予想していたのだけれど、こういった場面でより感情の起伏が大きいのは晴妃の方だったようだ。か細く、けれど子供がさめざめと泣くような声を上げて、力なく歩み寄った晴妃はシャノンを抱き寄せた。
「ごめん……。ごめんね、シャノン。私、全然あなたを守ってあげられなかった。助けてあげられなかった。怖い思いをさせて、本当にごめんね。」
「そんナこト、ナいよ。アタシ、みンなに守らレてる。ユキコとミズーリ、そレにドクがアタシを助けテくれた。」
シャノンの腕が、縋るように晴妃の背中に回される。二人共が肩を震わせていた。互いの体温を確かめ合うように、声を漏らしながら暫くの間抱き合っていた。思わず目頭が熱くなった由希子は、嗚咽が漏れないように口元を抑える。
「ン、駄目。ドク、遙が……後ろの車に乗ってる艦娘の子が酷イ怪我なノ。アタシは自分で行けルから、診てアげて!」
「……うん、任せて。 この一条博士に治せない艦娘なんていないもの、ね!」
まだ晴妃の温もりと匂いに包まれていたい名残惜しさはあるが、シャノンは唇を引き結び、抱擁から自身を引き剥がすように晴妃の体を押した。晴妃もシャノンの言葉に気持ちを引き締めたようで、白衣の袖で目元を擦る。涙を拭った晴妃は、怜悧な研究者としての表情を取り戻していた。時を同じくして、遙が横たわる担架が車から運び出された。それに付き添うようにして、晴妃は足早に治療施設へと向かい、シャノンもまた、女性兵士の肩を借りて同じ方向に歩いていった。
「私たちも行こうか。」
「はい……。」
言葉と同時にミズーリが差し出したのは、白いきれいなハンカチ。ありがたく受け取って、目元を拭った後にお礼を告げてハンカチを返した由希子は、ミズーリの先導のもと研究棟の中へと足を踏み入れる。研究棟とは言うものの、建屋自体はそう大きなものではない。由希子自身も戦時中に何度か訪れたことがあるから、内部の構造には覚えがある。入退室記録を取るための自動改札機に似たゲートを通り、いかにも研究所といった無機質で機能的なフロアを抜けて、エレベーターホールから地下に降りる。すると、雰囲気は一変し、クリーム色の柔らかい配色で統一された病院の待合室のような光景が広がっていた。海軍基地内には他にも艦娘を治療できる施設はあるが、ここに最も高度な設備が導入されている。エレベーター側から見て正面突き当りに見える”Central Treatment Room”と表示された扉の横に、シャノンに付き添っていた女性兵士が立っていた。二人を見つけると、身に着けていた軍帽を脱ぎ、頭を下げる。
「一条博士からのご伝言で、中佐と藤堂さんにはここで待っていていただきたいとのことです。」
「わかった。あなたも疲れただろう。休んで貰って構わないよ。」
ミズーリの言葉を受けて、女性兵士は再び頭を下げてその場を後にした。彼女の背中を見送ってから、ミズーリは由希子が座ることを促すように、手の平を上向けた手で並べられた長椅子を示す。促されるままに由希子が腰を下ろすと、ミズーリは少しだけ間隔を開けて、由希子の隣に座った。
「イチジョウも、あんな顔をするんだな。」
「私も、少し驚きました。あ、いえ……その、変な意味でなくて。」
「ははっ、アイツはそんなこと気にしないよ。なんだか、さ……。家族に会いたくなった。」
「うん、わかります。」
晴妃が見せた表情は、愛する家族の無事を確かめた瞬間のそれであった。彼女が昨日言っていた通り、シャノンは晴妃にとってのかけがえのない家族なのだ。二人、小さく吐息を漏らすような笑い声を零す。少しだけ、場の緊張感が和らいだように思う。遙の治療も当たり前のように終えるであろう、晴妃の信頼感のおかげかもしれない。由希子は両手を膝の上で組み合わせて、指先同士をもてあそびながら、躊躇いがちに口を開いた。
「あの、ミズーリさん。さっきは、きつい言い方してごめんなさい。」
「ん、なんのことかな。」
「あの……車の中で。」
「え? そんなことを……いや、失礼。気にしてくれていたのか。君の言葉は当然のことだ。私は気にしていないし、むしろありがたかったくらいだよ。相変わらず優しい子だね、君は。やはり師が良いのだろうね。少し羨ましいくらいさ。」
ミズーリはまっすぐに由希子の瞳を覗き込みながらに答える。言葉の後半は随分と早口な英語であったが、どうにか意味は取れた。
「えぇっと……?」
「とにかく、気にしないで欲しい。その細やかさを、私を含めた合衆国の艦娘も見習わないとね、まったく。いずれにせよ、二人には……いや、君とイチジョウを含めた四人には改めて謝ろうと思っているんだ。」
「わかり……ました。」
それから一時間ほどの間、二人は戦いが終わってからこれまでのことや、直近までアメリカ本土に出張していたミズーリの任務の話をしていた。時計の針がそろそろ20時30分を示そうかという頃、扉がゆっくりと開かれる。姿を現したのは晴妃とシャノンの二人だけだった。由希子はミズーリとほぼ同時に立ち上がり、二人の近くに歩み寄る。
「あ、あの、桐生さんは……?」
「大丈夫、もう寝ちゃったわ。臓器を随分痛めてたけど、一晩ゆっくり休んだら元気になるはずよ。」
「……よかった。」
「さすがだよ。ありがとう、イチジョウ。」
不安そうに尋ねた由希子に、親指を立てて得意気に笑みを浮かべる晴妃。ミズーリはそんな晴妃に深々と頭を下げた。由希子はシャノンへと視線を向ける。服を着替えたのだろう、入院着にしては可愛らしいデザインの白いワンピースを着たシャノンは、怪我の痕もほとんど残っていない程に回復していた。
「シャノンも、大丈夫?」
「うン、ありガとう。ユキコのオかげデ、こノ通りへっチゃら。」
シャノンは由希子の眼前まで歩み寄って、両手をそれぞれ握ると、ちゃんと力がはいることを示すように、ぎゅっと由希子の手を握り込んだ。そんな仕草に由希子は自然と頬を緩めて、握られた手をゆっくりと振る。
「今日は本当に済まなかった。詳しい話は、キリュウが起きてから、明日の朝にでもしたいと思う。今日のところは、みんなゆっくりと休んでくれ。」
「そうね。じゃあ、明日の朝に遙ちゃんの様子を診て問題がなかったら、その時にしましょう。由希子とシャノンも、それでいい?」
「お任せします。」
「アタシもそレでいイよ。」
「ありがとう。なら、私はこれで……。」
「ミズーリ、待って。アタシ、ご飯作るカら、一緒に食べヨうよ。ユキコもドクも、良いヨね?」
踵を返して立ち去ろうとしたミズーリの服の袖を、駆け寄ったシャノンが掴んだ。戸惑ったように視線を彷徨わすミズーリ。
「もちろん! ミズーリさんも、お腹空いてるでしょ?」
「えぇっと、でも……。」
「お腹、空いてますよね?」
「ユキコまで……。う、うん……。お呼ばれしても、いいかな?」
シャノンが掴んでいない方の袖を、悪戯っぽく笑う由希子が掴む。根負けしたのか、ちょっと照れたように問うミズーリ。彼女以外の三人は示し合わせたかのように、もちろん、と答えた。