どんな職場であっても、いつまでも新鮮な気持ちで働き続けることは難しい。
コンビニエンスストアでのアルバイトも御多分に漏れず。
三週間も経てば仕事内容にも慣れ始め、最大の敵は忙しさよりも退屈さだと気づいてくる。
「ふあーあっ」
客がいないのをいいことに、アルバイト店員、伊藤誠は大きな欠伸をした。
手癖の悪い客や働きの悪い店員を監視しているカメラも、モニターしている者がいなければ気にもならない。
今日のアルバイトは彼一人だった。
本来ならばこの時間は彼のほかにもオーナーが店にいる筈だったが、急病で欠勤している。
「・・・・・・やだなあ」
伊藤はひとりごちて、退屈まぎれに、初めて渡された警備会社のロゴ入りストラップが付いた鍵を手の中でいじった。
引き継ぎの際に先輩に渡されはしたものの、使い方をレクチャーされたわけではないので使い方はわからない。
ATMが故障したときに使うということだけは聞いていたが、積極的に聞こうともしなかったので、それだけだ。
彼は今日、ATMが故障しないことを祈った。
「・・・・・・」
五時半を回るまでは少しは客もいたのだが、今では店内BGMもむなしく響くばかりだ。
清掃もレジのチェックも既に終わらせてしまって、やることが無くなってしまった。
返品する本の回収や品出しなど、やることはあるにはあるが、急いですることでもない。
ストレッチで痛む筋を伸ばしながら仕事を探す。
「ん・・・・・・いらっしゃいませー!」
すると、彼の念力が通じたのか、客がベルとともにやってきた。
体ごとそちらを向いて挨拶をした伊藤は、客の容姿が目に留まり、わずかに眉を上げる。
客の年の頃は伊藤自身と同じくらいだろうか、ツインテールにした長い髪が目立つ美少女だった。
少女はしばらく冷蔵庫や、レジ前のファーストフードの保温機などを眺めて商品を物色した。
しかし、気に入ったものがなかったのか、一度時計を見上げるとチョコバーを一つ手にしてレジへと向かう。
「お会計三十二円になりまーす」
「ん・・・・・・」
少女がポケットから引っ張り出した五十円玉を受け取り、お釣りの小銭を手渡す。
すると、少女が自分をじっと見つめていることに伊藤は気づいた。
遠目で見ても目を引く美少女だったが、間近で見ると尚のことである。
じろじろと顔や胸元の名札を見つめられたから、どぎまぎしてしまう。
とはいえ、多少である。
彼は良くも悪くも・・・・・・どちらかと言えば、悪い寄りだが、一途なところがあった。
「な、なんですか?」
何か用があるのかと問われると、少女は考えを纏めるように天井を見上げ、おもむろに口を開いた。
「ここのバイトって何人いんの?」
「え?ええ、いつもは二人ですね。時間によっては少し多い時もあるみたいですけど」
「んで、今は?」
「あ、バイトですか?朝夕は人足りてなくて募集してますんで、面接受けるつもりあるならオーナーに伝えときますよ」
「や、そーいうのじゃねーから」
「あっ、そうですか・・・・・・」
では、なんだというのだろうか。
強盗計画でも練っているのかと益体もない考えが一瞬伊藤の頭を過る。
しかし、あまりに馬鹿馬鹿しくて、彼はわずかに口の端を上げた。
そんな考えを知る由もない少女はチョコバーを受け取ると、店内を一度だけ見回してすぐに出て行った。
「・・・・・・よ、よし。ふー、仕事だ仕事」
妙な気持ちを振り払うように、彼は再び仕事を探し始めた。
すると、足元のごみ袋がいっぱいになっていることに気が付く。
ファーストフードのパッケージのみならず、先のシフトの人がパックを補充したのか、煙草の包装紙がいくつも突っ込まれている。
外の空気を吸いがてら、ゴミ出しに行こうかと彼は袋の口を結んだ。
そして、客がいないことを確認して外に出る。
「あっ・・・・・・」
伊藤は逃げるようにゴミ置き場のある店舗裏の路地に滑り込んだ。
低い軌道で目を刺してくる赤い日差しから逃げるためだろうか。
それとも、遊んでいる川神学園の制服を着た生徒を見つけてしまったからだろうか。
今日は筋肉痛と言い訳を使って欠席したから、アルバイトをしているのが後ろめたかったのかもしれない。
「重っ」
ゴミを一旦集積するステンレス製の倉庫の扉は筋肉痛のせいか、いつになく重かった。
うずたかく積まれたゴミにはコバエがたかっていて、見ているだけで気が滅入るようだ。
伊藤はゴミ袋を速やかに放り込み、重い扉を体全体で引きずるようにして閉じた。
「・・・・・・」
通学にも使っている自転車が目に入り、ぼんやり眺めた。
一日経っても未だに身体全体が痛むほど必死で漕いだ自転車だった。
どうしてあんなに必死になって、顔見知りとも言えないような相手を助けようとしたのか。
そんな風に考えて、友人の言葉を思い出した。
友人、藤枝にストーカー行為をやめるように説得されて、放課後にラーメン屋で食事をした時のことだ。
誰に頼まれたわけでもないのに、どうして首を突っ込むんだ、と伊藤は問うた。
それに対し、藤枝は首をひねって箸を置き、十秒ほど考えてから、なんとなく、と言った。
それから更に十秒ほど考えて、やはり、なんとなくだ、と続けた。
多分、伊藤もその、なんとなく、だった。
「おっと、店に戻らないと」
気を取り直して彼は店へと戻ろうとする。
そんな時、不意に足元に自分のものではない誰かの影が差したことに気が付いた。
特に何も考えずに振り返ると、突然胸ぐらを掴まれて、壁に押し付けられる。
「ぐはっ・・・・・・?!」
伊藤が目を白黒させたのは、肺の空気をほとんど吐き出してしまったからだけではなかった。
更に言えば、目の前の相手が先ほどの美少女だったからというだけでもない。
彼女が、片手にゴルフクラブを握っていたから、というのが最大の理由だった。
それだけならいざ知らず、そのゴルフクラブに赤黒いシミがついていることに気付いてしまっては、もはや平静ではいられる筈もない。
「ひいっ・・・・・・うわあッ?!」
じたばたともがいて必死に逃げようとすると、男女の体格差故か、あるいは別の理由か、少女は意外にもあっさりと胸倉から手を離した。
伊藤は百メートル走十四秒の特別遅くも早くもない足で駆け出し、逃走を図る。
しかし、すぐに彼は地面に転がることになった。
筋肉痛で足をもつれさせて転んだわけではない。
後ろを振り返り、伊藤は薄笑いを浮かべる少女を見上げた。
どうやら、手にしたゴルフクラブのヘッドで足を引っかけられたらしい。
凶器を前に、無惨な自分の未来を予感したのか、彼は頭を守りながら必死に後ずさる。
「かっ、かかっ勘弁してください!!」
「痛い目見たくなきゃおとなしくしな!」
「金庫の鍵は持ってないんです!やめてくれぇ!」
「強盗じゃねーっての。聞かれたことだけ答えりゃいーんだよ!」
「・・・・・・」
その言葉に、伊藤は恨めしそうに目を細めて少女を見上げた。
華奢な外見とは裏腹に、粗雑な言葉遣いと暴力的な振る舞いは堀之外のチンピラそのものだ。
普段、クズ、ゴミと呼んで憚らない類の相手に一瞬でもときめいた自分を伊藤は内心で罵った。
ついでに、少女のことも語彙の限りをつくして罵倒した。
あくまでも、内心で。
「昨日の夜ウチらのたまり場に来たろ」
「た、たまり場?どこの?」
「浜の・・・・・・えーっと、なんかの工場だよ!」
具体的な場所の名前は敢えて言わないのではなく、単に覚えていないだけだった。
少女、板垣天使は、何か確証があって伊藤を脅しかけたわけではない。
彼女が持っている具体的な情報はあくまでも、イトウ、という名前と、バイト先のブランド名のみ。
そして、かわいい顔をしていた、学生だろうか、といった兄たちの極めて主観的な証言だけ。
今日丸一日川神中を歩き回って得た手がかりも、ほぼゼロに近い。
そんな状態でこれだけ直接的な手段に及んだのは、単純な理由だ。
彼女は今日一日かけて伊藤姓を持つ学生、もしくは学生と思しき若い男を探していた。
それこそ、普段よりも早起きしてコンビニエンスストアを十五件以上も回ったのだ。
正午には店員が交代している所を見て、シフトに思い至り、既に見て回った店舗を再度確認したりもした。
午後二時を回ったころには長姉の仕事を思い出し、毎日出勤するものばかりではないということに思い至った。
午後四時を過ぎたころ、学生が思い思いに放課後を過ごしているのを見て、彼女は気づいた。
学生であれば平日の日中にアルバイトなどしている筈がない。
学校に通わず、定職にもついていない彼女にはまともな曜日感覚など無かった。
とはいえ、竜兵が〝イトウ〟を学生だと思ったのは、あくまでも外見から得た印象である。
だから今までの努力や忍耐の全てが無駄だということにはならない。
しかし、遅まきながらに気づいたその事実は彼女自身の神経を大いに逆撫でした。
そして、五時になろうかという頃のこと。
やる気を失い、すべて投げ出して帰ろうかと思っていた彼女の前に現れたのが伊藤だった。
菓子を購入して、レジを通る間に顔をまじまじと見てみれば、いくつか新しい擦り傷や痣が。
同姓の人違いという可能性が頭にちらつかないではなかったが、無視した。
数時間前までは存在した、目立たないように、とか、噂にならないように、などの考えに至ってはちらつきもしない。
一日我慢して我慢して、もう限界というところに餌がぶら下げられたようなものだ。
彼女は迷わず飛びついた。
「・・・・・・は、はい。その・・・・・・女の子がさらわれたみたいだから、助けなくちゃいけないと思って・・・・・・」
そんな彼女に対し、伊藤はすんなりと事実を話した。
今時、誰でもカメラ付き携帯電話を持っている。
もし昨夜居合わせた者たちに確認を取られたら一秒でバレる嘘をついても意味はない。
そこで、彼は昨日、自宅へのエレベーター内で友人と打ち合わせた内容を思い出す。
〝いろいろ〟したから大丈夫だとは思うが、何かあるようなら被害者ぶって、俺とは無関係を装え。
要約するとそれだけの、単純なものだった。
どうしようもなければ名前と住所を教えてもいいとも彼は言っていたが、仲間だと思われるようなことだけは絶対に言うな、とも言われていた。
単なる不良嫌いの顔見知りだと、なるべく共感を得るように悪しざまに話すように、とも。
分別のない者の悪意が向く先を選ばないことなど、誰もが知っている。
「よっしゃあ!大当たりじゃん!」
「勘弁してください!お願いします!人がさらわれるのを見てられなかったんです!」
「へへっ、そんなにビビんなって。別にリュウのトコ引きずってこーってわけじゃねー」
「ああっ、ありがとうございます!ありがとうございます!」
「そーそー、そういうケンキョな態度は長生きのヒケツだぜ?素直に口を割れば見逃してやんよ」
従順な態度に機嫌を良くしたのか、天使は相好を崩した。
その子供のような無邪気な表情に、伊藤はひどくアンバランスな印象を抱いた。
手にした凶器と言動には似つかわしくない表情だ。
しかし、一応でも聞く耳を持っているのならば、交渉の余地がある。
伊藤はつばを飲み込んだ。
「オメーを助けに来た奴のこと教えな」
「は、はい・・・・・・」
・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・
「ってことがあってさあ。大変だったよ」
四月二十九日、水曜日、午前八時三十五分。
昇降口で鉢合わせした藤枝と伊藤は教室への道すがら、昨日の話をしていた。
内容はコンビニでのアルバイト中に凶器を持った少女に襲われた、というもの。
完全に寝耳に水であった藤枝は藤枝はすぐさま携帯電話を開いて着信履歴とメールを確認するが、そういった旨のものはない。
彼は僅かに目の下にしわを作り、呆れたように口を開く。
「あいつら、懲りてないな。昨日の今日で・・・・・・もう、一昨日の昨日だが、まあいい。くそ。
というか、そういうことがあったなら、昨日のうちに伝えてくれ」
「携帯家に忘れてたし、バイト終わると十時じゃん?疲れててさ。夜中にってのも常識ないし」
「そもそも学校サボってバイト行ってんのが常識ないよ」
川神学園ではアルバイトも社会勉強の一環として認められてはいる。
しかし、学業をおろそかにしてアルバイトにのめり込む様ではいけない。
藤枝が常識を疑うような目で見ると、伊藤は顔を顰めた。
「それがさぁ、昨日オーナーから電話かかってきてさぁ。なんて言われたと思う?」
「クビだって?」
「ちげーよ。昨日はちゃんと五時間働いたことにしておくから、って」
「よかったな」
昨夜、伊藤から藤枝に連絡があったのは七時前後だった。
特別な事情があったとしても、三時間分もおまけしてくれるとは、そうあることではない。
普段の勤務態度がよほど良かったと見える、と、藤枝は素直に感心した。
しかし、対する伊藤はしかめっ面のままだった。
「それがよくねーんだよ。その後に、今日は俺行けそうにないからよろしくねってつけられたらもう休めないだろ?」
「なんで行けないって?」
「ぎっくり腰だってさ」
「それなら、誰かに頼んで交代してもらえばいい」
「いや、だって火曜以外で俺と同じシフト入ってる人って、オーナーとこないだやめた土屋さんだったから」
「俺なら暇だったから代わってやれたんだがな」
他でもない、彼のアルバイト先のコンビニエンスストアは、伊藤のアルバイト先と同じ店舗だ。
そこでは基本的に、休みを取りたい場合は他の店員と交渉して交代してもらう、という決まりになっている。
藤枝は昨日の放課後は特に用事もなかったから、いつでも交代できた。
黛が寮生活を送っている島津寮を訪ねて荷物を返した後は、手持無沙汰で書店で普段読まないような料理本を立ち読みしていたくらいだった。
「怪我してたみたいだからな。大丈夫か?」
「俺は大丈夫だ。そっちは?」
「怪我はない」
藤枝の問いに答えながら、伊藤は首をぱきぱきと鳴らした。
既に二人は教室前までついてしまったが、クラスメイト達に聞かせるような話ではない。
しかし、断片的に聞かれるくらいなら問題ないと判断したのか、教室前の窓の外を眺めるふりをしながら話をつづけた。
「ようやく筋肉痛もマシになってきたよ。マジで一生分立ち漕ぎした」
「そうか」
藤枝はその言葉に溜息をつく。怪我がないのは何よりだった。
ゴルフクラブで脅しをかけられたそうだが、無事に済んだらしい。
しかし、無関係の見知らぬ相手だと言って、それで押し通せたのだろうか。
藤枝は経験上、あの手の連中がとてもしつこいことを知っていた。
そして、納得できない答えだと、例えそれが真実だとしてもなかなか信じようとはしない。
だから、態々撮りたくもない写真を撮って、安全装置代わりにしたのだ。
しかし、それを無視して暴力的な手段をとった。
そこまでしておいて、すんなり伊藤を帰すなど、藤枝としては信じられないことだった。
伊藤が嘘をついていて、脅迫犯と知り合いだった場合のことを考えなかったのだろうか。
その場合、密告されて写真がばら撒かれてしまう恐れがあるというのに。
現に、伊藤は藤枝に昨夜の顛末を話してしまっている。
「・・・・・・」
藤枝にはツインテールの少女の思惑が全く読めなかった。
いくつか考えられる可能性としては、写真などどうでもいいのか、想像もつかないほどの深謀遠慮の持ち主なのか、あるいはぱっぱらぱーなのか。
彼は三番であってほしいと願うが、楽観視はしなかった。
もしかしたら、伊藤は名前や住所を話してしまったものの、言い出しづらいのかもしれない。
そう考え、藤枝は既に話してしまっていることを前提にして尋ねる。
「俺のことはどこまで話したんだ?今朝も昨夜も家の周りに変な奴はいなかったが・・・・・・」
「おいおい、見くびるなよ。それっぽい嘘を吹き込んで追い返したさ」
「嘘・・・・・・?」
「所詮はバカなチンピラだしな、ちょっと脅かしたら顔青くして帰ってったぜ。
顔はかなりかわいかったけど、やっぱり大和田さんとは生き物としての格が違うよ。
人間見た目は大事だけど、やっぱり中身も同じぐらい大事だね」
元々不良嫌いを公言して憚らない男だったが、昨日、一昨日の件で更に彼らへの嫌悪感を強めたようだ。
知人を誘拐された上に、自身は暴行を受け、凶器で脅さたのだから、そうなるのも無理はない。
しかし、いつになく饒舌に喋る伊藤に、藤枝は疑うようなまなざしを向ける。
「何を言ったか知らんが・・・・・・本当にお前の嘘を信じたのか?
いや、それで通ったなら、俺としては言うことないんだが・・・・・・」
「どういう意味だよ」
「際限なく話を盛るから、まるでリアリティがない」
「どこが」
「ええと?学生は世を忍ぶ仮の姿で、本当は大和田伊代を守るために内閣調査室から来たエージェントなんだっけ?
彼女の父親が開発した永久機関のテクノロジーをCIAとKGBが狙ってるんだったか?
確か駅前のレコード屋の店長はKGBのスパイで、コードネームは赤い・・・・・・」
「やめろ!」
先日、遅刻して学級委員を押し付けられた日のことだ。
体育の時間に遅れて登校してきた藤枝は、無人の教室で大和田伊代の机を漁る伊藤を発見した。
何をしているのかと問うと、彼は耳を疑うような言い訳を口にした。
あれと同レベルの作り話を真に受けるような人間がいるなら、それこそお目にかかりたいものだと、藤枝は皮肉っぽく口の端をゆがめた。
「二秒で真面目に聞く気が失せるってのもすごいが、地味に時代設定もおかしいな。
KGBはお前が生まれるよりも前に無くなってる」
「うるせー軍オタ、普通のヤツはそんなコト知らねーって」
「オタクじゃない。仮に知らなかったとしても永久機関でアウトだ。胡散臭すぎる」
「九鬼のAIとか最近凄いらしいし、信じるかも。それに川神だし」
「・・・・・・うーん、最後の一言は、すごく説得力があった」
「だろ?俺も学ぶさ」
「まぁ、それならいいんだけどな・・・・・・」
「そこなふたり!今日は少し早くホームルームを始めるから、の。着席するでおじゃる」
「「あ、はい」」
背後から声をかけられて二人そろって振り向くと、担任教師の姿が。
真っ赤な紅を差した眉のない白塗りの顔が眼前に現れ、口元がひきつる。
話に夢中になっていたようで、藤枝も伊藤も全く気付かなかった。
彼らは素直に指示に従い教室に入る。
既にクラスメイト達は全員着席していた。
「出欠は後にしようかと思っていたのだが、の・・・・・・感心感心。皆揃っている、の」
壁掛け時計が示している時間は、いつもHRを始める時間よりも十分ほど早かった。
それなのに全員いるとは、皆よほど学校が好きと見える。
綾小路は上機嫌そうに出席簿を閉じ、連絡事項をいくつか確認した。
そして、最後に少しだけ眉を顰め、彼には眉毛が無いが、ともかく、眉を顰めて口を開いた。
「後は・・・・・・工業地域や堀之外で凶悪犯が出没するらしい、の。
近づかないように、ということと、近くに住んでいる者は気を付ける、の」
「凶悪犯ですか?・・・・・・不良とかじゃなくて?」
あまり聞き馴染みのない言葉に、クラスメイト達の数名がざわめいた。
一方、藤枝は片方の眉を僅かに動かしただけにとどまった。
彼の脳裏には、誘拐や傷害を起こした凶悪犯の顔が浮かび上がっていた。
さらに、ゴルフクラブを振りかざして人を脅しかけるような人間もいると聞いている。
今更な話だった。
「宇佐美先生から聞いた話だから、の。麻呂には縁のない話でおじゃる」
他人事のように言い捨て、綾小路は出席簿を閉じて教室を出て行く。
それと同時に、教室内はにわかに騒がしくなった。
勿論、話題は担任教師の言っていた、凶悪犯、である。
彼らの多くは他人事だと思っているらしく、ゴシップを話すようなお気楽な表情だ。
「マロの言ってたのマジ?凶悪犯ってヤバくね?誰か知ってる?」
「あっ、俺知ってる。昨日ゲーセン仲間のヤツが話してたんだよ。
なんか滅茶苦茶ヤバいヤツらしいな。不良を拉致って拷問にかけるのが三度の飯より好きだとか」
「あっ、あたしも聞いたよー、東京の警察病院から脱走した凶悪犯で、ジャンキーなんだって。
なんか夜な夜な薬を求めてそれっぽい人を狙って襲うんだってさー」
「暗闇から突然現れて、犠牲者の血で染め上げた布で縛り上げるんだってよ。それから拷問するらしいぜ」
だってだって。らしいならしいな。
信憑性皆無だ。
尾ひれ背びれどころか、全部が全部嘘っぱちの可能性だってある。
藤枝はぼんやりと聞き流しながら、噂話をしている方を振り返った。
見れば、数人のクラスメイト達に交じって柏木の姿が。
彼はゲーム好きで毎日のようにゲームセンターに通っていた。
噂とやらはそこで聞いたというが、誰が出所で、どこまで正確に伝わっているというのだろう。
なんにせよ、仮に凶悪犯が実在したとしてもすることは変わらない。
夜間の外出を避け、人通りの多い道を歩けばいいだけだった。
「てことは、趣味と実益を兼ねて襲ってるってことか?不良を?」
「え?てゆーことは正義の既知外なの?」
「正義の既知外ってなんだよ?」
「だってあたし不良嫌いだしー」
「いや、それが見境なしらしいぜ」
「どういうこと?」
「不良の女を襲うのを邪魔したコンビニ店員にムカついて、コインランドリーの洗濯機に閉じ込めて水責めにしたんだって。そいつ死にかけたらしいぜ」
「うそー?」
「マジかよそれ」
聞き流す予定だったが、不意に耳に入ってきた、いくつかの単語に藤枝は反応した。
暗闇、血染めの布、不良、女、コンビニ店員、コインランドリー・・・・・・
三つぐらいまでなら彼も聞き流しただろう。
ただ、ここまで揃ってくると無視もしづらい。
もしや先日の誘拐事件と噂話に関連性があるのではないか、と考えた藤枝は伊藤が昨日ついたという、それっぽい嘘、とやらの詳細を聞こうと席を立つ。
「・・・・・・あれ?藤枝、お前昨日言ってたよな。伊藤がバイト中に不審者に襲われそうになってた女性を助けたとかなんとか」
「・・・・・・あ、ああ」
しかし、そんな彼の出鼻を挫くように、噂話に花を咲かせていた柏木が水を向けてきた。
昨日、伊藤が休んでいる理由を聞かれた際に話したことだった。
武勇伝がほしいというリクエスト通り、伊藤は不審者から女性を助けて負傷して休んでいる、とそれとなくクラス中に広まるように話をしたのだ。
嘘はついていない。ただ、自転車の漕ぎすぎの筋肉痛で休んでいるとは言わなかった。
格好がつかないから具体的に話さなかったのだが、それが災いした。
「ってことは、もしかしてそのコンビニ店員って伊藤?昨日休んだのってそういうことなわけ?」
「マジかよ?すっげー・・・・・・お前度胸あるな」
「え?あー・・・・・・そ、そりゃ・・・・・・ほっとけねえし・・・・・・?」
こじつけか、それとも伊藤本人がそういう話を、それっぽい嘘、とやらでしたのか、どちらにせよ、彼は否定しなかった。
それにより、水攻めにあったコンビニ店員=伊藤という図式が出来上がる。
危険人物の怒りを買い、死にかけてまで女性を助けた勇者として、伊藤をクラスメイト達は口々に持て囃した。
「へー、伊藤君って勇気あるんだー」
「すごーい!」
「いや、かっこいいぜ、お前」
「・・・・・・ま、まあな!」
「でもよかったな。なんか湘南とか木更津の方でも去年の夏から秋にかけて出没してて、もう二人は殺してるって聞いたぞ」
「えー?大丈夫なの?」
「いや、はははっ!もう平気だって。次は負けないからさ!」
「・・・・・・」
「あ、あの、藤枝さん。もしかして・・・・・・」
亀裂のような眉間の深い皺を隠すように顔を伏せた藤枝に、黛がそっと耳打ちした。
凶悪犯とやらの噂は、どうにも先日の誘拐事件といくつか符合していることに彼女も気付いていた。
藤枝は先日の事件の顛末を語らなかったから、彼女にとって大よそは聞き知らぬ話だ。
しかし、知っている事実と、噂話で明らかに矛盾している部分が一つある。
伊藤が水攻めにあった、という話だ。
薄汚れ、筋肉痛の体をひきずる必死の体ではあったが、彼は無事に自転車を漕いで帰ってきた。
彼は藤枝がきちんと送り届け、翌日学校を休んだものの、筋肉痛で休む、とメールで伝えている。
目の前にいるのは頭を抱えて口をへの字に曲げた藤枝。
そして、水攻めにされたという噂を否定せず、クラスメイトに囲まれて有頂天な伊藤。
ぼんやりとだが、黛には彼らがそうする理由がわかったような気がした。
そんな彼女に一瞥くれて、藤枝は呟いた。
「違う、俺じゃない。犯人は別にいる」
『最初はみんなそう言うんよ・・・・・・』
刑事のように囁く言葉が物凄く他人事のように聞こえて、彼は無意識に唇を噛む。
いつの間にか凶悪犯にされてしまっていた。
こんな噂になってしまって、誘拐犯たちがどのような対応に出るかは不明だが、少なくとも状況は正しく把握しなければならない。
彼は、今すぐにでも伊藤を問い詰めたい気分だった。
しかし、クラスメイトの輪の中に割って入ってまで手出しはできない。
座りなれた教室中心近くの席が、まるで針の筵のようだった。