「リューサンマダカナ」
「何呼んでんだよバカか?」
「バカッテナンダヨ!」
「お前ら騒ぐなっつってんだよ。おい、この既知外どうすんだ?」
「ボコって放り出すか・・・・・・」
バンの運転手をつとめていた男は、口論を始めた仲間達に呆れながらも仲裁に入った。
そして、一旦会話を打ち切り、足元で倒れ伏している男を顎をしゃくって指し示す。
先ほど壊れた玩具みたいな叫び声をあげながら、角材を振り回し襲い掛かってきたコンビニ店員だ。
名札には研修中 伊藤、と書かれている。
今更になって脳内麻薬が切れたのか、全身を襲う筋肉痛と心肺の疼痛に悶え苦しんでいた。
しかし、ろくでなしどもに既知外呼ばわりされたのがよほど腹に据えかねたらしい。
彼はむくりと上体だけ起こし、口から唾を飛ばしながら怒号を上げる。
「・・・・・・人を既知外呼ばわりとはいい身分だな。社会のゴミどもめ」
「ナンダト、テメエ!モウイッペンイッテミロヤ!」
「You are very foolish! Son of a bitch! (稚拙な英語によるくたばれ間抜け野郎的な意味の言葉)」
「Shut up! Mother fucker!(ネイティブのよくわからない滑舌による黙れ既知外的な意味の言葉)」
当然だが、社会のゴミとかバイタのムスコだの言われて笑って許してくれる人間はそういない。
わき腹を蹴り飛ばされ、伊藤はごろごろとつめたい床を転がった。
疲労と痛みでぐるぐる回り始めた視界を天井に向けると、その端っこに電気のついていない非常口の表示が見えた。
「くそう、いてえ。お前らあれだぞ。こんなことしたら俺のダチが黙っちゃいないぜ。アイツが来たらお前らなんて二秒でローストポークだかんな」
伊藤は、妙におせっかいというか、首突っ込みたがりの藤枝は来るだろうな、と思っていた。
彼がどれだけ喧嘩が強いかは知らないが、とりあえず来るだろう。そんな、妙な信頼が伊藤の中には存在した。
それに、十中八九贔屓目、というか希望的観測だろうが、目の前の連中ならば、大柄な外国人はともかくとして二対一でもあれ一人のほうが強そうに見える。
「ほう?聞かせろよ誰が黙っちゃいないって」
「え?」
振り返ると、非常ドアが開かれていた。そして、工場内へ入ってくるのは長髪の男。
トラブルに出くわしたことが余程嬉しいと見えて、いかにも好戦的な笑みを浮かべている。
彼は足元に倒れ伏した伊藤を舐めるように見回し、そして薄暗い工場内に視線を巡らせる。
最後に行き着いた視線の先には、意識を失っている女の姿が。
「そいつ昼間のヤツだな。さらったのか?」
「え、えっと・・・・・・そうっすけど」
「ケンチャンガフクシュウシタイッテ」
「おいボブ!余計なこと言うんじゃねえ!」
「ハッ、復讐目当てかよこのストーカー!泣き寝入りするべきだったな、お前らもう終わりだぜ!俺は川神百代知ってんだかんな!」
シカエシ、という単語を聞いて伊藤は啖呵を切った。
言葉尻さえ掴めば、あることないこと吹きまわってこの場をしのげるかもしれない。
このまま大人しくしていたところで得することはほぼ無い。
しかし、ストーカーはお前だろ、とか、知ってるだけだろ?とか彼の友人たちが聞いたら訂正したがったかもしれないが。
ともかく、力なく床に這いつくばったままの格好はともかく、その言葉はアウトローを怯えさせるだけの効果はあったらしい。
「えっ、ちょっ・・・・・・かっ、川神百代?!」
「いや、川神百代はヤバいよ・・・・・・ダチに手を出したら、障害残る怪我させられるって・・・・・・」
「モモーヨ、ヒトクウッテキイタヨ!」
「そうだ・・・・・・今ここに向かってる。だから今のうちに俺たちを解放しておけ。そうすりゃあ無かったことにしてやるからよ」
真偽は定かではないが、川神百代という存在は彼らにとって恐怖の対象のようだった。
無理もない。
ヤンキー狩りを趣味の一つとして、テトリスと嘯き戯れに河川敷に肉塊タワーを築く女の名前だ。
彼らの慌てようを見て、このまま帰れるかもしれない、と伊藤は口の端を吊り上げる。
しかし、先ほどやってきた長髪の男は、他の三人とは裏腹に歪な笑みを浮かべてみせた。
「フン・・・・・・川神百代か。上等じゃねえか・・・・・・噂ってのは大げさに言われるもんだからな。
来るなら俺がヤってやるよ。武神だなんだと意気がれるのも今日までだ」
「ダケド・・・・・・」
「ビビってんじゃねえぞ!連れてきちまったからには覚悟決めろ!」
長髪の男に一喝されるが、三人の男達はどうにも気乗りがしないように足元を見た。
そして、数秒工場の中を当て所なく視線を巡らせた後、示し合わせたように彼らは小声で呟いた。
「スッカリヤルキダケド・・・・・・ショージキ、モモーヨハムリジャネ?」
「まあ、念のため辰子さんにメールしてみるか」
「来てくれんのか?つか、川神百代自体来るのか?フいてんじゃねえだろうな?」
「あー、うん。来る来る・・・・・・ところでタツコさんって誰」
「リュウさんの双子の姉貴だって・・・・・・しれっと会話に混じってんじゃねえ!」
さりげなく湧いた疑問を投げかけてきた足元の男に、ケンチャンと呼ばれた男は怒鳴り声を上げた。
彼は揉め事に積極的に関わっていく性質で、どちらかといえばこの件に関しても好戦的な主張を持っている。
藤枝を挑発したのも、武蔵に腕をひねり上げられたのも彼だった。
川神百代と彼が喧嘩したとして、億に一つも勝利の目はない。
だが、一応何かしらの見込みはあるらしい。
伊藤としてはこのまま退散してくれればありがたかったが、雲行きが怪しい。
ううむ、と床にうつ伏せになりながら伊藤は考え込んだ。
「おい貴様。そのオトモダチとやらはいつ、誰が、何人で来るんだ?」
すると、真上から声が振ってきた。
そしてやや遅れて伸びてきた腕に、伊藤は襟を掴まれて無理やりひざ立ちにさせられる。
大きな手に肩を掴まれ、そっと鎖骨をなでまわされた。嫌に艶かしいというか、率直に言って気色悪かった。
伊藤は口元を引きつらせて、言葉を濁す。
「え、ええと」
「喋れないなら、喋りたくなるように手伝ってやろうか?」
「うわ、やめろ・・・・・・!うぎゃあ!助けてください!!誰か!助けてください!」
「また始まった・・・・・・」
「シャベッテモヤルヨ、マチガイナイ」
「よ、よせ!こんなバカな事はやめろ!女を・・・・・・いや、男もだけど、力づくでモノにしようなんてのはなあ、クズのすることだ!」
「クズで結構。生まれてこの方そう言われ続けてんだ」
長髪の男は伊藤を冷たい床に引き倒し、覆いかぶさった。
こう、ホモホモしい文章を並べ立てるのもあれなので、割愛する。
ともかく、伊藤は筋肉痛の身体に鞭打ち、必死に抵抗しようとする、が、予想以上に男の力は強かった。
さながら万力のような握力でつかまれては身じろぎもままならない。
自由に動くのは口だけだった。
「開き直るんじゃない!これだからIQ低いヤツは嫌いなんだ!死ね!」
「てめえ、うるせ「死ね!」
「おい「死ね!」」
「だから・・・・・・「死ね!」」
「いい加減に「死んで!しまえーーーー!」黙れ!」
タンクトップの男に顔面を蹴り飛ばされた。
冷たいコンクリートの床を転がりながら、伊藤は直接的な暴力に身を竦ませる。
先日行った体力テストでは、A、B、C、Dの四段階評価で伊藤はCだった。
その上喧嘩などろくにしたことのない彼では喧嘩慣れした男達にはまったく勝ち目はなかった。
「貴様、唾が飛んだだろうが!」
「ああっ、変態が!レイプマンが俺の尻を狙っている!これは妄想なんかじゃない!ちくしょう、男にモテるなんて嫌だ!」
四つんばいで奇声を上げながら必死に逃げようとするが、むんず、と腰のベルトと肩を掴まれた。
最早、逃げ場なし。伊藤は抵抗むなしく床に押さえ込まれてしまう。
だが、必死にばたつかせた足が男の股間に当たったようで、男は低くうめいた。
応酬にパンチを一撃横っ面に浴びせるが、伊藤は叫ぶのをやめない。
「ぐっ・・・・・・おい、手空いてるヤツ!押さえろ!」
「痛い!やめろ!ゴミみたいな人間性でも良心でも少しは残ってんなら誰か今すぐ改心して俺を助けろカスども!」
「黙れクソッ、おい、手を貸せと言ったろうが!」
思った以上に伊藤の抵抗は激しく、タンクトップの男は手助けを求めた。
手だけでも押さえさせれば、抵抗を抑え込めると踏んだからだったが、仲間からの返事がない。
さらってきた女相手に取り込み中なのかと振り返るが、そこには誰もいなかった。
仲間どころか女の姿も見えない。工場内は静寂と暗闇が広がっているだけだ。
「・・・・・・なんだ?」
まるで、神隠しだ。音もなく、仲間が消えた。
レジャー用のランタンでうっすらと照らされた工場内は、外から虫の音が聞こえるぐらいに静まり返っている。
男にとってこの場は日頃溜まり場にしている場所の一つだったが、こんな姿を見せるのは初めてだ。
ひどく、不気味に思えた。
ぎいっ
「なッ、オイッ!?」
背後から聞こえた禍々しい音に振りかえる。
よく見れば、工場奥の事務室・・・・・・もとい、まだこの工場が操業していたころの元事務室への扉が小さく揺れていた。
どうやら隙間風に吹かれ、錆びた蝶番が悲鳴を上げているらしい。
もともと開け放っていたか閉じられていたかは曖昧な記憶では判然としなかったが、何かあるかもしれない、と男は立ち上がる。
逃がさないように、片手は伊藤の襟を掴んだままだ。
「おい!いい加減手を放せクソホモ!その歪んだ性癖を恥じいる正気があるなら今すぐ死ね!」
「黙れと言ったぞ!」
「ぐえっ!」
気が散るとばかりにもう一発殴ると、流石の伊藤も静かになった。
そして、そのまま男は事務室へと近づく。
粗大ゴミやボトルなどのゴミが散乱した部屋の中に目を凝らすと、仲間の一人が倒れているのが見えた。
暗くて、息をしているのかもわからない。
男はそうっと、警戒しながらも部屋へ入ろうとする
「はっ?」
その瞬間だった。
一歩踏み出した瞬間、足元にのたくっていたビニール紐が軸足をさらっていった。
体勢を崩した男は、反射的に伊藤の襟を掴んでいた手を放し、扉の据え付けられている開口部の淵に手をかける。
「ぬうっ・・・・・・?!がッ、何ッ、だ?!」
暗闇の中で足元をすくわれた混乱の中、勢いよく閉じられた扉に反応することは男には出来なかった。
木製の安っぽいドアに顔面を強か打ちつけてしまい、彼は顔を押さえてくの字に体を曲げる。
そして、ぎいっ、ともう一度扉の悲鳴が聞こえると同時、そっと首に暖かいものが触れた。
「あっ、かっ・・・・・・!」
俺は、首を、絞められているらしい。そう、頭で理解などしなかった。
理解する時間も与えられず、彼の意識は闇の中へと沈んでいった。
ただ、暴力的な日常故か、反射的に首に回された暖かいもの・・・・・・何者かの腕に彼は爪を立てていた。が、それだけだ。
そして、何者かはフロントチョークの姿勢のまま、首筋と口元に手を当てて数秒。完全に落ちていることを確認する。
「くそ・・・・・・痛いな畜生」
何者かは小さな声で呟くと、男をそっと横たわらせ、己の左腕に残った爪跡にきつくハンカチを巻く。
爪が伸びていたらしく、肉が数ミリ抉られている。青いハンカチの一部がじわりと赤黒くにじんだ。
そして、頭を抱えて匍匐している伊藤のもとへと歩みよる。
突如として表れた、その〝何者か〟を見上げて伊藤は目を見開いた。
「お前・・・・・・」
「お疲れちゃん」
「藤枝か・・・・・・いつの間に」
誰あろう、藤枝であった。
川神学園の群青色の学生ズボンに、白いTシャツのみの出で立ちだ。
彼は伊藤の返事を待たず、今さっき倒れ伏した男の服装を検める。
そして、手慣れた動きで男のベルトを外し、ズボンを脱がせた。
「うわ、ホモか!?お前もホモか?!ウソだろ、誰も信じられねえ・・・・・・!」
「静かにしろ。今目を覚ましたら、今度こそお前ヤられちまうぞ」
喚く伊藤相手にそれだけ言うと、藤枝は疲れたように目元にしわを作った。
そして、すわレイプかと思いきや、藤枝は男の腕を工場内の柱に回させ、ベルトとズボンを組み合わせて複雑な結び目を作った。
血が止まらない程度に皮ベルトとジーンズで固められた腕は、自力で解けるものではない。
同様に、事務室に放り込んでおいた他三人も同じ柱に纏めて抱かせてやる。
ぬくもりを分け合うがいい。
「遅れてすまない。立てるか?骨や歯は?」
「鼻血が出ている・・・・・・」
「大丈夫みたいだな」
テレクラの広告が入ったポケットティッシュを投げ渡して、藤枝は伊藤に肩を貸す。
数キロの道のりを休憩なしで立ちこぎし続けた伊藤の全身の筋肉はもはや機能を放棄していた。
避難口兼勝手口から外に出ると、貨物用パレットに伊藤を降ろす。
「あ、おい、武蔵は?」
「これから連れてくる。意識がないみたいだったから、最後だ」
思い出したような伊藤の問いに、藤枝は口元を歪めた。
工場に侵入してから、いの一番に武蔵を物陰に隠したが、ぐったりとして意識を失っているようだった。
誘拐に使った車の中を漁ったところ、シンナーだかクロロホルムだかの薬物の瓶があったので、おそらくそれのせいだろう。
なるべく苦しまず意識を失うように優しく首を締め上げてやったのは間違いだったかもしれない。
「そーなの・・・・・・ああ、武蔵境だけど、変なことはされてないと思うぞ。到着してすぐに俺カチ込んだし・・・・・・その代わり俺がヤバかったけど」
伊藤は内臓まで吐き出すんじゃないかというぐらい大きなため息をついた。
実際問題、藤枝があと十分、いや、五分遅かったら精神的に死亡していたかもしれない。
想像だけでも鳥肌が立つ。
「実際よくやったさ。ゆっくり休みなよ、タクシー呼んどくから」
「金持ってないぞ俺・・・・・・つか、黛さんは?電話の様子だと刀背負って乗り込んでくると思ってた」
「・・・・・・黛は駅で駅員さんに捕まった」
「ああー・・・・・・」
車内への危険物の持ち込みはご遠慮ください、の一点張りだったが、当然と言えば当然だった。
親がどうとか十一段がどうとか説得を試みていたようだが、一足先に藤枝が乗り込んだ電車はすぐに出てしまい、結果置き去りとなった。
途中まで凄まじい脚力で電車を追い上げ、併走していたが、電車が加速するにつれてその姿はどんどんと小さくなり、やがては闇の中へと消えていった。
一応この工場最寄の駅名だけは伝えてあったが、この工場までたどり着くことはまず不可能だろう。
工場とコインランドリーの写真が伊藤から届いたのは車内でのことだった。
カーブで完全に置いていかれた際の、半泣きの表情が目に焼きついている。
急いでいたとはいえ、可哀想なことをしてしまったと、藤枝は眉間を揉んだ。
そして、思い出したように藤枝は問いかけた。
「そういえば警察呼んだか?」
「あっ、忘れてた・・・・・・この状況、なんて言って通報すればいいんだ?」
「さあ・・・・・・」
無責任に藤枝は視線をそらした。
友人がさらわれたから軽く痛めつけて取り返しました。連中気絶しているけど逮捕してください、とでも言おうか。
それとも、柄の悪い連中が廃工場で集会開いているからどうにかしてください、とでも言おうか。
いずれもいまいち説得力がない。
それに、一応無事に奪還できた今、あまり大事にはしたくなかった。
連中に慈悲をかけるわけではない。
女が男数人に車に押し込まれてさらわれた、などというのは外聞が悪すぎる。
下種な陰口や噂は誰だって好むまい。
「このこと、人に話すなよ」
「・・・・・・俺さあ、武勇伝的な何かが欲しいんだよなあ。こう、大和田さんに一目置かれる的な・・・・・・」
「それとなく、チンピラ相手に大活躍したって触れ回ってやるよ。だから頼むぞ」
「おっしゃ、約束する・・・・・・だけど、あいつら逆恨みとか大丈夫か?家族に迷惑かかるのだけは嫌だぜ」
伊藤の言葉に、藤枝は苦虫を噛み潰したような顔をした。
因縁つけて殴りかかって、腕をひねり上げられたら恨み百倍で報復にやってくる連中だ。
非常に現実味のある想像に、藤枝は否定の言葉を持たない。
「それはまあ・・・・・・俺がなんとかしておく」
実際のところ、対処法はいくらだってあった。
だが、心情的にも信条的にも好ましからざるものばかりだ
それでもやらねばなるまい。嫌だが、放っておくのは怖すぎる。
工場内で寝ている連中がカテゴライズされる人種を、その傾向を、今日の一件だけでも理解できようというもの。
これ見よがしにため息をつくと、藤枝はいまだ真っ暗闇の工場内へと一人戻っていった。
「あっ、おい・・・・・・うーん。何する気だ」
拷問か、と伊藤は恐ろしい気持ちになる。
が、少し考えるもすぐにその発想を放り投げて空を見上げた。
「はーーー・・・・・・」
ぶっちゃけ、どうでもいい。
散々殴られたし、筋肉痛でだるいし、恐怖もたっぷり味わったので、連中に仕返ししたい気持ちもないではない。
だが、絞め落とされて腕を封じられている連中を私刑にかけるほどの恨みもない。
正直なところ、このまま帰って眠りたい気持ちでいっぱいだった。
明日からの生活のことなどを考えると、何もかもが無性にどうでもよかった。
そもそも、あの連中もこれだけのことをやらかした以上、タダで済むとは思っていまい。
「まあ、大丈夫かな・・・・・・あっ、バイトどうしよ」
「あれ、きみ、こんなところでどうしたの?」
放ってきたアルバイト先のことを思い出した瞬間、不意に意識の外から声がかけられた。
首だけで声の主を探すと、工場のフェンス越しに長身の女性の姿が。
彼女は背丈と同じぐらいありそうなフェンスを軽い身のこなしで越えると、伊藤の前まで歩いてくる。
「えっ、いや・・・・・・ちょっと、休んでるだけっす」
近づいて見れば、腰まで伸びた長髪に、おっとりした目つきが印象的な美女だった。
外見的には、年頃は藤枝は伊藤よりも、二、三上だろうか。
しかし、長身なだけではなく、女性らしい体つきで、まるでモデルのようだ。
その雰囲気は油臭い工場地域には似つかわしくない。
「そっちこそ・・・・・・こんなところうろついてたら危ないッスよ、お姉さん」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。弟を迎えに来ただけだからね」
「弟?」
「そっ。もう晩御飯だっていうのに。心配ばっかりかけるんだよね~」
弟、姉、なんだか聞いたような聞かなかったような。
伊藤はなんとか思い出そうとしたが、目の前で美女がとった行動に意識をもっていかれる。
なんと、彼女はシャッターを持ち上げようとしていた。
今工場内部がどうなっているかはわからないが、見られていいことは無い。
そもそも、弟はこの中にいるのか。まさか、と伊藤は制止しようとする。
「あ、えっと、この工場はちょっと危ないッスよ?入らないほうがいいです。ほら、硫化水素が発生するとかこないだドラマでやってたし・・・・・・ヤバい病気になったりするかも・・・・・・」
「だからだいじょーぶだって・・・・・・よっと」
静止も虚しく、がらっ、と大きな音が夜道に響いて、シャッターが持ち上げられる。
星明りや、対面のコインランドリーや街灯の明かりによって真っ暗だった工場内部が照らされた。