待っていた夜は 作:厨二患者第138号
勝負は一瞬。
少年の脳裏にあるビジョンが浮んだ。黒の戦装束を纏った女は音もなく目前まで迫り、為す術もなく少年は女の槍に穿たれる。それは左胸、つまり心臓を貫いている。それが一瞬先の未来の出来事。
気づけば、反射的に剣で心臓を守るように構えていた。
直後、真紅の雷が一筋、どうしようもない程の殺意の放流が一突きとなって少年を襲う。それは断じてただ剣を添えるだけで防げるような一撃ではない。故に少年が塵屑の如く吹き飛ばされるのは、もはや当然のことであった。
少年は形見の剣を手放さなかった。必殺の一撃を受けて手が痺れ、圧倒的な圧力で地から足が離れようとも少年は剣を握りしめることをやめない。それは少年の芽生え始めた戦士としての執念と、少年を愛する老人の愛がなした現象だったのかもしれない。
「――――――っ!?」
とはいえ、今の攻防は女にとってみればまだたったの一合に過ぎない。追撃は終わらない。影の女王は地を割り風を切って疾走し、一息せぬ間に飛ばされる少年に追いつく。規格外な状況を目の当たりにして、彼の表情は恐怖と驚愕に染まる。朱い槍が今度こそはと、少年の心臓を穿つために繰り出される。
それは死だ。
女が操る朱槍は少年にとって死そのもので、このまま何の抵抗も示さなければ少年は確実に死ぬ。しかし哺乳類である彼は空を飛ぶための翼を持たない。当然ながら宙に浮けば無防備を晒すことになる。さながら池に落ちた羽虫のように、無様に空中をもがくことしか出来ないのだ。
いや、それで十分だった。生きようと働きかける本能が、死に物狂いで少年の体を動かす。その姿がどれだけ無様だろうが構わない。死なないために今できる全ての手段を講じなければならないのだから。
その往生際の悪さが彼の命運を分ける。
「っがッは!!」
槍は心臓から外れ、少年の肺を貫く。
少年の胸から血が噴き出て、その返り血を浴びる女。場違いにも少年はその鮮血を被った女を「美しい」と思っていた。しかしそれも束の間のことである。少年は容赦のない蹴りを食らい地面に叩き付けられる。水切りをする小石の如く少年は地面を数度バウンドした。
このまま吹き飛ばされて距離を稼ぐ。少年はその考えの下転がるようにして態勢を整えるが、その顔は苦痛に歪んでいた。気づけば背中から血が滲んでいて、衣服を赤く汚している。どうやら地面と激突した際に背中の肉が抉れてしまったらしい。数秒にも満たない間に随分と傷が増えたものだと、少年は何となしに考える。何か考えなければ痛みで意識が飛んでしまいそうだった。
「呆気もない。どうした、威勢がいいのは最初だけか」
己の得物を弄びながら、数多の英雄を鍛え上げた絶対強者は色のない声で語り掛ける。三度目の追撃はないようだ。だとしても、少年に返事を返す余裕はない。ただ次の攻撃を防ぐための算段を整える。
「なんだ、まだやるか」
どうすれば、あの速さに着いていけるのか。どうすればあの一撃をいなせるか。防げたとして、どうすればあの女に一撃を返してやれるのか。そもそも、たった二合の攻防で満身創痍になるこの身体でこれ以上戦えるのか。
次から次へと問題は重なる。そしてどの結論も少年にとっては芳しいものではない。口から大量の血液が零れることなんて忘れながら、かちこちになった肩の力を抜く。直感―――あの未来予知にも等しいビジョンは狙って扱える代物ではない。不確定なモノを頼るのは、この状況では不適格であると判断。
少年にとって、今最も武器となり得るのは。ジダンという情報屋が授けた魔術と、少年の育ての親を見よう見まねで得た殺しの業のみ。前者は神秘はより強力な神秘に敗れるという法則の下、少年の付け焼刃な魔術では効果は薄いだろう。ならば少年がとれる手段は――――――
「やめておけ。それ以上動けば貴様、死ぬぞ」
「知るか」
制止の声を無視して重い足を動した。体は加速して、世界が暗転する。
旅を始めてから少年を幾度となく救った最強の奥義。その名を『縮地』という。単純な速度だけではなく、相手の死角、体得者の呼吸とそれに沿った体捌き。ありとあらゆる武術の要素を詰め合わせた究極の歩法。本来であれば模倣で出来るような軟な技術ではない。
少年には武器を扱う才能がない。それどころか、少年は殺し合いを好まない。影の国までの道のりで何度も他者を下したが、あくまでもそれは自分を守るための正当防衛。少年は殺しだけは嫌だった。そんな餓鬼が何故、数多の武人が求めてやまない歩法をたかが
その理由は、少年の持つとある特性が原因だった。
少年の持つ唯一の特異性と言えば、それは彼が『転生者』であるという事に他ならない。極めつけに、転生前、つまり少年が現代日本人であった頃の世界と、現在死闘を繰り広げているこの世界は全くの
少年はただ転生をしたのではない。世界を超えて、その上で転生をしたのだ。自我を保ったまま彼は彼のままで、前世と似たようで根本から違う異世界に訪れた。彼がそのことを知る由もないが、恐らく彼は頭のどこかではそのことを理解している。
何故ならそれこそが彼という人間を形作る『起源』だからだ。
起源とは、すなわちその持ち主の「~をする」という本能の事を指す。少年の起源の名は『移動』。そして移動とは、点から点へと移ろうための手段である。故に究極の歩法、根も葉もない事を言ってしまえば
加速の後、少年の目には白く美しい細い後ろ首が映った。
丁度、女の背後に跳べたらしい。
考えることよりも先に、形見の剣を振るう。
それでどうなったのかは分からない。
何故なら結果を見るよりも先に、少年は意識を失ってしまったのだから。
☆
「……千年、か」
漆黒の戦装束を身にまとう女傑は、感慨深そうにそう吐露した。彼女の名はスカサハ。大小さまざまな英雄を育てた上げたケルト神話のケイローン的存在である。
「あのバカ弟子が死んでもう千年。どれだけの年月が重なろうと勇者は生まれる、か」
スカサハは口角を僅かに吊り上げる。久しく感じる歓喜という感情に、彼女は心が躍った。まだこんな大バカ者がこの世にいたのか、と。
視線を下に向けると、そこには血みどろになって倒れている一人の少年がいる。少年は先程ユージンと名乗っていた。ユージンはスカサハの制止を呼びかける言葉を無視し、命がけで彼女の命を狙った。事実その命がけはスカサハの背後を取るまでは完璧だった。
惜しむらくは少年の剣術の練度不足。もし仮にユージンにあと少しだけ剣才か経験があればスカサハの首の皮一枚くらいを裂いていたかもしれない。無論皮を斬るだけで人は死なないが、それでもあと僅かに剣の鋭さがあれば少年はスカサハを斬っていた。どれだけ小さな傷であろうと、まだ二十にも満たない子供が
しかし事実はその正反対である。少年の決死の一撃は防がれ、その一撃を放つ前には出血多量で意識を失っていた。執念だけで剣を振るったのは称賛に値するが、何の結果を残せなかったのではまるでいただけない。
だからこそ惜しいと、影の国の女王は考える。磨けば神話の英傑らにも引けを取らない良い戦士になる。その可能性が、今は無様にも地に伏している少年にあるのだ。
スカサハは膝を曲げ、少年の首筋に指を当てる。とくんと、か弱くとも生きる音がした。問題なのはその音が消えてしまいそうだという事だ。
「息はあるな、大した生命力だ」
今度は少年の胸に空いた大きな傷に細い指を移す。彼女は指を素早く動かして、魔力を流し込む。ユージンの扱えるルーン文字よりも更に高位の原初のルーン。その力の凄まじい事か、胸の大傷はたちどころに塞がり始める。
問題なく傷口が塞がっていくのを確認しながら、彼女は一息つく。取り敢えず今できることはした。後は安静できる場所に少年を休ませればいい。ここはまだ影の国ではなく、幻想種が跋扈する無類の地。流石にここで放置するのも忍びなく、スカサハは少年を肩で背負う。その際、未だに少年が握る剣が視界に入った。
「……これは……そうか。お前は奴の子か」
半世紀前に戦場を求めて影の国から去った弟子を思い出す。この剣はその時餞別にその男にくれてやったものだ。ただ頑丈なのが取り柄の剣が、今こうして帰って来た。
刃こぼれはない。血もしっかり処理しているらしく、錆も見えない。成程、あの男も少年もこの剣を相当大事に扱ってきたらしい。
「良い戦士だ」
影の女王は呟く。目を閉じて静かに眠る少年に、生意気で、キザで、その挙句彼女を殺すと確約して、でもその約束を果たせなかったとある弟子の姿を思い起こしながら。
戦闘描写ホント難しい。