魔法少女RIRIKARUなのは ~Rを冠すは人か、それとも~   作:koth3

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魂の悲鳴

 深まった夜闇を美しい星々がその星光で鮮やかに飾る天蓋の下、結界で封鎖された空間では、血生臭い無限地獄が具現していた。

 泰平な日本では嗅ぎなれることのない膏血の臭いがその一帯を漂い、少女の甲高い慟哭がビルディングの間を幾度も幾度も虚しく木霊する。

 繁華街の一隅のそこは、爆撃に遭ったように黒煙をぶすぶすと上げる小さなクレーターが至る所にあり、その中心地には流れ出た血でアスファルトを赤黒く染まらす甲矢が、脱力した身体を高町に抱きかかえられていた。

 甲矢が流し続ける血の海で白いバリアジャケットを一入に緋色へ染めあげた高町が、あらん限りの声で甲矢の名前を叫び、泣血とした涙を両の眼から幾筋も流し、抱きしめた甲矢の身体を揺する。

 しかし甲矢はうめき声一つ漏らさず、開きっぱなしになった濁った右目で宙を虚ろに見るだけで、高町の言葉にも行動にも何ら応えることはなく、その腕を力なく垂らし、その指先から途切れることなく黒血と脂とをアスファルトへ伝い落とす。

 血と油とが混じった液体が地面に垂れる度に、生暖かく吐き気を催す臭いがむっと広がる。

 

「甲矢君……甲矢君、起きてよぉ」

 

 抱きしめ揺する甲矢の身体が急速に冷たくなっていくのに高町は気がついた。

 垂れ下がる血でぬめる両腕を手に取り甲矢の胸で合わせると、高町は自らの身体で甲矢の身体を覆い被さるように抱きつく。力一杯、少しでも身体が密着するように。しかし高町が必死になればなるほど甲矢の身体はどんどんと力を失い、生気の一切を使い果たしてしまったように反応を示さない。

 高町は痛いほど甲矢を掻き抱く。自分より小さく軽い身体を。浮き上がった甲矢のあばら骨が身体に当たり痛む。痩せぎすだった身体は、今では棒のようにしか感じられない。

 高町の眼底がかっと熱くなり、瞼の隙間から一筋の涙がこぼれ落ちた。

 甲矢の人体模型のようになった顔に堕涙がぽとぽと垂れ落ちる。

 

「どきな」

 

 甲矢を抱きかかえていた高町だが、首根っこをつかまれ甲矢から引き剥がされる。空中で揺れる気色悪さに驚きながらもなんとか後ろを振り返り見れば、高町がかつてであったオレンジ色の髪をした女性が金髪の少女を背中に負ぶさり、高町のことを猫のように首根っこを掴み、立っていた。

 高町は暴れ出す。こうしている間にも、甲矢は生死の境を死へと傾けている。生へと力づくであろうとも引きずり戻さなければならない。

 その女性は暴れる高町を片手で抑えながら、多少歪ながらもミッド式の魔方陣を作り出す。その魔方陣は甲矢の身体を中心に展開し、淡い光が甲矢の身体をドーム状に包み込む。

 

「落ち着きな、回復魔法だよ。フェイトのために覚えたけど、まさかこんな餓鬼のために使う時がくるなんて」

 

 暴れ回っていた高町だが、回復魔法という言葉に動きを止めた。振り返り見れば、女性は野趣溢れる笑みを浮かべ、高町を降ろした。

 降ろされた高町は呆然とし女性を見上げる。

 

「なんで……」

「あん」

「なんで、助けてくれたの」

 

 女性は頬を掻く。面映そうに高町から顔を背けた。

 

「なんでって、そりゃあ、まあ、アレだ。さすがに夢見が悪いからね。ガキンチョが死にかけているのに助けないってのは。それに、フェイトを守ってもらったようなものだし。そのお礼さ。……とはいえ、状態はけして良くないよ。動かすこともできないほどの大けがで、さらには体温も失っている。どうにかして身体を温めてやらないと」

 

 再び魔方陣が幾何学模様に輝く。今度は女性自身が光に包まれる。光が収まると、そこにはオレンジ色の体毛をした狼が四つ足で立っていた。狼は甲矢のとなりに寝転ぶと、身体を寄せて風を防ぎ甲矢の身体を温め始める。

 

「そら、アンタは向こうから温めてやりな。早くしないと手遅れになるよ」

 

 弾かれたように高町は甲矢に抱きつくようにして温め始める。二人分の体温で、甲矢の近くは汗をかくほど蒸し暑い。

 だが甲矢の体温は留まることを知らず冷え続け、その息は弱まる一方だ。

 

「クソッ。私は回復魔法が苦手だし。……おい、そこの使い魔」

「えっ、僕は使い魔じゃ……」

「そんなことはどうでもいいさ。それよりも補助魔法をあれだけ使えるんだ、治療できないのかい」

「あっ、そ、そうだね」

 

 ユーノも狼と同じような魔方陣を展開し、甲矢の治療を開始する。

 二つの魔方陣が甲矢を優しく抱き留める。淡い輝きに包まれた甲矢の身体から流血が止まり出す。

 二重の魔法をかけられた甲矢の死に息がか細くなるのが、僅かであるが遅くなった。だがその顔には死相が未だ色濃く浮かび上がっており、このまま衰弱するならばそう遠からず死ぬだろうことは誰の目にも明らかだった。

 狼とユーノの表情が歪む中、甲矢の胸元辺りからなめらかな合成電子音が言葉を紡ぎ出す。

 

『治療を開始します』

「お前、ガキンチョのデバイスか」

 

 狼が寝そべったままであるが、首だけを声のした方へ振り向いて唸る。

 甲矢の胸元には、琥珀色の玉が血をかぶりながらも光沢を発して鎮座している。

 

「お前、どうしてあんなことをしたッ」

『あんなこととは』

「使えば死にかけるような魔法をガキンチョに使わせただろうがッ」

 

 狼の言葉に高町もユーノも顔を上げた。

 特にユーノは険しい顔つきでLAST-ARROWを睨んでいる。

 そんななか、LAST-ARROWは常と変わらぬ口調で、あくびをするような気楽さで狼の叫びに答えた。

 

『それがどうかしましたか』

 

 誰もが一瞬黙った。

 

「それでもデバイスかッ。主を殺すようなまねしてッ」

 

 狼が立ち上がり、怒気を発する。ユーノも、そして高町も同じように怒火を発する。

 誰もが烈火の如く怒り狂っていた。

 だというのにLAST-ARROWは淡々と言葉を紡ぐ。

 

『もう一度言います。だからなんだというのです。私はジュエルシードを破壊する手段を有しており、九条甲矢がそれを実行するのを望んだ。ただそれだけ。それに、彼自身こうなることをわかっていて実行したのです』

「巫山戯るなッ。たとえ主が望んだからといって言われるがままなのかい、お前は。街一つ破壊しろと主が言ったら破壊するのかいッ」

 

 牙をむき出しにした狼は、今にもLAST-ARROWに噛みつかんばかりの勢いで吠える。

 うなり声を上げる狼の体毛は艶やかで毛先も綺麗に整えられている。血色も良く、体格も優れている。それでいて主である少女を慕っていた。だからこその叫びなのだろう。大切な人を簡単に危険な目に遭わせたLAST-ARROWを許せないのだろう。

 されどそんな暖かな感情から生み出された言葉はLAST-ARROWに通ずるものではない。

 

『ええ、破壊しましょう』

 

 LAST-ARROWがあっけらかんと発した言葉に誰もが今度こそ絶句した。

 LAST-ARROWを怪物のように恐れながらも狼とユーノは絶対の敵とし敵視する。感情に引きずられ、二人の魔力が昂ぶっていく。

 

『それが私の役目です』

 

 荒々しい魔力を叩きつけられながらも冷たく吐き捨てるように断言するLAST-ARROWに高町は首を振った。レイジングハートを胸に抱き、涙を目尻にため込み。

 

「……違う。そんなの、違うよ。間違っていることを役目だなんて、そんなの絶対違う。それに、甲矢君はあなたのパートナーでしょう。なんでそんなこと言うの。そんな悲しいことを、ひどいことを。あなたもレイジングハートと同じデバイスなんだよ。心を持っているんでしょう」

『玩具と一緒にしないでください』

 

 だがLAST-ARROWは高町の想いを一蹴した。むしろレイジングハートへの侮蔑を返して。

 

「レイジングハートはオモチャじゃないッ」

『訂正を要求します。私はデバイスであり、貴方のように主を害するものではありません』

『いいえ、玩具です。そこの少女の持つデバイスも、私からすれば玩具に相違ありません。そもそもあなた方は勘違いをしている。私はデバイスではありません』

「で、デバイスじゃないだって。そんなこと有り得ない。いや、デバイスじゃないというならば、君はなんだと言うんだ」

『R-102 LAST-ARROW。二十二世紀の地球連合軍所属Team R-typeにより造られた異層次元戦闘機であるR戦闘機の最終機。終わりにして始まりの矢。それが私です』

「異層次元戦闘機……それに二十二世紀だって……馬鹿な、そんな、有り得ない」

 

 ユーノが気狂いのように首を振るう。

 だがLAST-ARROWはそんなユーノを無視し、二の句を告げる。

 

『二十二世紀の地球連合軍が人類の敵を絶滅させるためだけに造りあげた兵器、それこそがR戦闘機です。わかりましたか。人を傷つけないようにした魔法を扱うそれらと、ありとあらゆる叡智と狂気とを結集させ、人類に仇為す全ての敵を粉砕するために生み出された私ではそもそもの目的自体が違います。故に思考もまた全くの別物となります。貴女方がどれほど善を語り叫ぼうとも、私はそれらを価値のない戯言として処断します。それらを理解したうえで九条甲矢は私を使用することを決意したのです。部外者が口出しをするな。……そもそも私と九条甲矢はパートナーではありません。利害関係に結ばれた、使役者とそれに付随する兵器でしかありません』

「だとしても、だとしてもあなたの心は痛まないのッ。甲矢君が、甲矢君が……」

 

 最後は言葉になることなくか細く霧散した。

 

『何も痛むものはありません。むしろ私はこの状況は非常に良いと判断します』

「これのどこがだいッ」

『R-9C ウォーヘッドのように四肢を斬り落としてAngel Packに箱詰めしたわけでもありません。世間一般でこれは非人道的というのでしょう。ならば四肢を失っておらず生存している現状ならば人道的と判断します。倫理上良いと判断しました』

 

 淡々と合成電子音により抑揚もなく語られる狂気とも言うべき内容に、その場にいる誰もがもう口を開くことはできなかった。全員が顔色を真っ白にし、口を力なく開閉する。高町ですらLAST-ARROWを恐ろしげなものを見る目となっており、LAST-ARROWから後ずさりし始める。

 狼は顔を苦々しげに歪め、ユーノは口を押さえて嘔吐いている。

 また、レイジングハートと金髪の少女が持つデバイスが今までにないほど早いペースで発光していた。まるで怒りと虚無感を表すように。

 

『それに、私を責めるよりも貴女方は内省すべきでは。九条甲矢が波動砲を撃つのを決心したのは、ジュエルシードの封印要員をこれから先に残すため。もし貴女方がジュエルシードを励起し暴走させなければ、あるいは迅速な封印ができたならば、九条甲矢は波動砲を撃つことはなかったでしょう。事態を終結できる力を持たないことを悔やむべきでは』

 

 誰も、口を開けなかった。それでもその身体は皆一様に細かく震えていた。

 静寂が広まる中、皮膚が再生しきった甲矢の身体が浮かび上がる。

 LAST-ARROWが青い輝きを発する。何らかの魔法が行使されていた。

 

「甲矢君ッ」

『治療を終えたので、私たちは帰還します』

「っ、待ちなッ」

 

 LAST-ARROWは咄嗟にかけられた制止を無視すると、甲矢を伴い空へ飛び立つ。その速度は余りに速く、一瞬で影すら残さずどこかへ消えていった。

 残された高町は返り血で血だらけのまま、地面に頽れた。レイジングハートが硬いアスファルトへぶつかり、甲高い音を立てる。

 

「私の、せい……」

「きにするこたぁないよ」

 

 うなだれる高町の後ろから、再び女性の姿となった狼が頬をつきあぐらを掻いて、忌々しそうな目で先程までLAST-ARROWがいた場所を睨んでいた。

 

「……貴女は」

「……アルフ。アルフだよ。あのクソデバイスは言っていることが滅茶苦茶だ。あんな戯れ言でアンタが傷つく必要はない。それに、アンタがしっかりしないと、あのガキンチョはもっと大変な目に遭っちまうよ。……今度こそ死んじまうかもしれない」

「い、嫌ッ」

「だったら、止めるんだよ。アンタが。アンタはあのガキンチョの友達なんだろう。だったらアンタが止めなけりゃあ誰が止めるっていうんだい」

「なのは、僕も協力するよ。LAST-ARROWは元々僕の一族が発掘したものだ。責任は僕にある」

「ユーノ君」

「だから、止めよう。LAST-ARROWを、甲矢を」

「……うん」

「多少は元気になったようだね。それじゃあ、ね。どうせまた会うんだろうけど、できれば会わないことを願うよ」

 

 アルフは金髪の少女を背中に負ぶさり、手をひらひらと揺らすと、転移魔法を発動し消えさった。

 残された高町とユーノは、甲矢が消えていった方角をいつまでも、いつまでも見ていた。

 

 

 

 

 甲矢は気がつくと、孤児院の自室の天井を眺めていた。

 ぼんやりとした思考の中、何をしていたのかと思い出そうとした時、身体に鋭い痛みが走る。

 顔をしかめてしまうほどの痛みを拍子に記憶が戻った。暴走したジュエルシードを破壊するために、生身で波動砲を放ち、力尽きたことを。

 激痛と倦怠感に指先すら動かすことができない中、甲矢は目だけをぐるりと動かす。霞む視界の中で部屋にかけられたカレンダーと時計を見た。

 子供達の落書きがそこらかしこに描かれたカレンダーは、ジュエルシードの暴走から翌日だと知らせてくれ、次いでとなりの時計を見れば、すでに七時を過ぎていた。

 

「なにが、あったんだ、LAST-ARROW」

 

 喉が貼り付いたように喋りづらい。単語単語を区切るように喋るのが精一杯だ。

 一つ言葉を出す度に、肺が締め付けられるように痛む。喘息患者のような喘鳴が殺風景な部屋に耳障りに響く。

 

「なぜ、俺は生きている」

 

 痛みで顔をしかめ、それでもあえぐように言葉を吐き続けると、琥珀色の玉が胸元から答える。

 

『高町なのはとユーノ・スクライアと敵対勢力の使い魔とにより貴方が治療されたことにより回復の芽が出ましたので、私がナノマシンを再度投与し治療を行いました。その後、私が回収しここまで運送しました』

「そう、か」

 

 目を瞑り、甲矢はベッドに身体を預ける。さび付いたスプリングがかき鳴らす聞き慣れた抗議の声を無視する。

 そうこうしているうちに、甲矢はうとうとし始める。なんとか生き延びたとはいえ、死にかけただけあり、体力はすっかりない。休みを身体中が欲している。吸い込まれるように深い闇へ沈み込んでいく。

 その後なかなか起きてこない甲矢を起こしに来た孤児院の大人を体調が悪いと追い返し、数時間こんこんと眠り時計の針が天辺を越え三度ほど針が重なった頃合いに起きた甲矢は、眠りこけたことで多少眠気も覚めたことも有り、ぼろぼろのベッドで休みながらも昨夜のことをできるだけ詳細に思いだす。

 瞑った瞼の裏に青白い破壊の光と滅びの光がくっきりと浮かび上がる。膨大なエネルギーがぶつかり合う場所の至近距離にいたというのによくもまあ生き残れたものだと苦笑いをしつつも、新たに投与されたナノマシンを起動し、自身の精神状態をチェックする。

 結果は問題なし。

 

「ずいぶん壊れたな、いや狂ったのか」

『結果は正常なはずです』

 

 LAST-ARROWに返答をすることなく、甲矢は窓から外を見やる。

 道を行き交う人々が暖かな光の下で談笑している。そこにはほほえみが満ちている。向かいの家から子供が出て来る。小学生だろう。自分よりも年下の、小さな小さな子供は母親に手を振って走り去っていく。そんな日常が見やる。

 甲矢は笑いをこらえきれなかった。

 部屋いっぱいを満たすほどの哄笑だ。長く長く、横隔膜が引きつるほど盛大に笑い続け、甲矢は拳でベッドを叩きつけた。

 脳裏を影がよぎる。眼下の墓地には親子の二人連れがおり、子供が自分めがけて手を振っている。その顔は逆光で影となっており見えない。

 唇を噛みしめる。塩気を含んだ生暖かい血がじわりとにじむ。臍をかみながらナノマシンで幻覚を強制的に切り落とす。

 そして高町へ連絡をとる。ただ寝転がるよりかは有意義だと判断を下す。そんなわかりきった嘘を自らについて。

 

【高町か】

【甲矢君ッ、甲矢君なのッ】

 

 返答は耳をふさぎたくなるような高声だった。

 身体中の産毛が逆立つ。

 

【そうだ、だからそんな金切り声をあげるな】

【……身体は大丈夫なの】

 

 多少は落ち着いてくれたのか、高町の声のトーンは下がり、聞き取りやすくなる。

 甲矢はゆっくりと身体を起こし、背もたれに身体を預けると、こめかみに手を当て揉み込む。

 

【動くことはできないが、生きてはいる。……ありがとう、ユーノにも伝えておいてくれ】

【う、うん】

【甲矢かい。僕だ、ユーノだよ】

 

 高町との念話に割り込むようにユーノの念話が届く。

 そういえばこれがユーノとの初めての念話だなと甲矢は思惟した。

 

【ユーノか。昨日はあれからどうした】

 

 甲矢の質問に対し妙な合間をユーノは開けた。

 重苦しい沈黙がしばし広がった。その沈黙はユーノが返答したことで崩れ去った。

 

【あの後なのはと家に帰ったんだけど、なのはの様子からパパさんとママさんとに違和感を覚えられたらしく、詰問されたよ。なんとか誤魔化せたと思うけど。それより甲矢の身体は本当に大丈夫なのかい】

【大丈夫だ。少なくとも峠は越えた】

 

 心配する二人の様子をイメージし、甲矢は苦笑しつつも多少おちゃらけた。

 

【……】

【それよりも、ジュエルシードの回収だが、しばらく高町とユーノに任せることになる。すまない】

【なに、言っているの……】

 

 高町が割り込んでくる。その声は低く、普段の様子とはまるっきり別だった。

 

【高町、どうした】

【何、言っているの。そんなの、だめだよ、甲矢君。もう、甲矢君は戦わなくても良いよッ。私が戦うから。私が倒してみせるからッ。だから、だからもう、甲矢君は戦わないで】

 

 すがるような高町の弱々しい口調に、甲矢はしばらく何も答えられなかった。目を瞬かせる。

 シミが浮かび上がりぼろぼろとなった天井を眺める。

 

【それは、……できない】

 

 化け物のような力を振るった自分を心配してくれるということがうれしくて、うれしくて涙が溢れ出し、それでも甲矢はその優しさを拒絶しなければならない。

 ――怪物は一体どいつなのだろうか。

 ジュエルシードを造った文明か、LAST-ARROWか、それとも手を差し出してくれた相手を拒絶し、地獄へ向かってひた走る己なのか。

 琥珀色の玉は何も答えない。

 

【どうしてッ】

【なのは、落ち着いてッ】

【戦わなければLAST-ARROWは俺を見限るだろう。そしてどこかへ消えていく。高町も見ただろう。あれだけの力、野に放ってみろ。ジュエルシードより酷いことになるだろうよ。LAST-ARROWを押さえ込むためには誰かが矢筒にならなければいけないんだ】

【それは甲矢君じゃなきゃいけないの。甲矢君以外じゃだめなの。もうあんな目に遭ってほしくないの、私は。私たちのために甲矢君が危ない目に遭うなんていやだよぉ】

 

 最後は泣き声となっていた。

 先程まではなかったが、身体に走るどんな痛みよりも痛い傷が胸を抉る。

 荒い息のなか何度も息を呑みこみ、絞り出すように言葉を綴る。

 

【俺は戦う。戦わなくちゃいけないんだ。俺が戦わなくちゃ、嘘になるんだ。すべてが、あの光景が。――Operation Last Danceが】

 

 突如甲矢の口調が変わる。妙に早口となり、熱にうなされているかのように全く論知的でなくなる。

 

【甲矢】

【甲矢君】

【悪いが、そろそろ限界だ。一旦切るぞ】

【待って、甲矢君――】

 

 時計の針の動く音だけが甲矢の耳に忍び込む。背もたれからずるずると滑り落ち、甲矢は濁った目で虚空を眺め続ける。

 時計の音がいつまでも続く。意識の片隅で音の鳴った回数を数え、甲矢は数時間を過ごす。

 夜のとばりが降りてなお、甲矢は瞬き一つせず、身じろぐことすらなく虚空を見詰めていた。

 

 縋り付く高町を甲矢は振り払い飛び立った。

 ひとたび放たれた矢はけして戻ることはない。

 放たれた矢は的を射るだけ。

 彼もまた、LAST-ARROW(最後の矢)なのだ。

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