如何にして隊長を尊敬している戦車道に対して真面目な黒森峰女学園機甲科生徒達は副隊長の下着を盗むようになったか   作:てきとうあき

16 / 43
I did it my wayを一話として完結した本編のその後の話を書いていく事にしました。
前編が原作開始前のみほが黒森峰にいた頃の話ですが、此方は原作時間軸をメインとした話となっています。
TV版と同様に大洗が黒森峰に勝つのを最終話として大まかな流れは変わりませんが、過程は結構違う予定です。
また、戦車が水没して黒森峰が結晶に敗退する所から物語が開始するのでどうしても序盤は暗めな話になりますが、最終的にはしっかりとハッピーエンドになる予定です。


第二話【人生はチョコレートの箱の様な物だ。食べるまで中身は分からない。】

 

 -1-

 

西住みほは戦車自体は非常に好んでいた。

何せ何処へ遊びに行くにもⅡ号に乗って行く程であり、戦車という機動力を得てからみほの活動範囲と行動内容は幼児の其れを逸脱し、ほとほと親を困らせていたものであった。

そんなみほの"遊び"を両親が有る程度自由にさせていたのも、戦車を好むという性質を良しとしていたのとまほというストッパーが常についていたからであっただろう。

そんなみほが母親から基礎練習を学ばされる事を伝えられては、より一層戦車に触れる事と姉と同じ事ができるという点で待ち遠しくも感じていたのだった。

あちこちに戦車を乗り回すのを好んでいただけに、戦車を乗り回す基礎練習には最初はある程度の熱意を持って挑んでいたのだ。

ところがいざ基礎練習を受けていくとみほのその熱意という炎は徐々に鎮火していってしまった。

元々自分にとって興味のある事以外にはあまりやる気を出さない子であったから、自由に乗り回せる"遊び"と違ってああしろこうしろと言ったり、これはするなと枠に嵌める様な事には楽しさを覚えなかったのだ。

と言ってもみほは馬鹿ではない。

これが自分に課せられた責務であることも何となくではあるが理解していたので、熱意こそ無いが不真面目という訳ではない程度に半ば義務的にこなしていった。

それが一変したのはみほがまほの試合風景を見学してからである。

みほが「お姉ちゃんと一緒に戦車道をする為に私も頑張る!」と決意を宣言したとおり、それからみほの西住流戦車道に対する意識は目に見えて変わった。

高いモチベーションを持って、意欲的に取り組むようになったのだ。

 

「お姉ちゃん!見ててね!!」

 

戦車のキューポラから姿を出し、こちらに手を振る可愛い妹の様子をまほは他人から見れば珍しい事に笑顔を浮かべて見守っていた。

 

 

 

 

-2-

 

 

西住まほは自分を天才だと理解していた。

これは決して彼女の自惚れでは無く、年齢以上の聡さを持つ彼女なりの周囲との比較し、分析した結果の結論であった。

少なくとも客観的に見てこの自己評価は正しいと言えただろう。

社会性、精神年齢、学力、言語能力、読解能力、観察力、計算能力、空間認識能力、記憶力どれを取っても同年代どころか一定以上の年齢差の相手よりも上回っていたのだから。

知性面のみならず戦車道においては特に顕著であったと言えるだろう。

同年代は比較対象にすらなりえず、アマどころか一部プロすらいる西住流門下生の中に混じって練習とはいえ試合ができる程であった。

特に卓越した能力としてまほは相手の考えが読める事が挙げられる。

より正確に言うのであれば考えが読めるのではなく相手の行動が全て予測の範囲内に収められるのだ。

更にまほにはその予測を元に相手が取りうる行動パターンを考え、どのパターンが来ても最大公約数的に最良の結果が残せるような行動と対応策を思いつけた。

流石に門下生相手ではまだまだ腕は並ばないが、これは決して彼女達がまほの予測から外れた行動をとるのではなく、予想がついてもまだ其れに追いつける経験と身体が備わっていないからである。

それでも戦車道において優秀な門下生達はそのまほの能力には気づいていたので、この若き未来の自分達の王を末恐ろしい思いを抱きながらも歓迎していた。

結局の所、まほが戦車道において楽しさも遣り甲斐も見出せなかったのはこの能力によるものであった。

全ての過程と結果が解りきっているものにどうしてその様な物を感じえる事ができようか。

まほにとって戦車道とは計算方法も答えも知っている計算問題を延々とやらされる様な物であった。

 

ところが…だ。

まほはある時から徐々に自分が通常の人間とは一線を隔した天才である訳ではなく、単に凡人の延長線上に存在しているに過ぎないという事を自覚した。

それはみほが高い熱意を持って戦車道に取り組むようになってからである。

大人の……それもプロの門下生の行動すらまほの予測の範疇であったが、みほの行動はどんなに想像の翼を羽ばたかせてもその枠内に収まる事は無かったのだ。

いや…これは戦車道に限ったことではなかった。

物心ついた時からまほにとってみほの行動の全てが予想外であった。

遊びに行けばその行き先や内容はコロコロ変わり、興味の対象や会話の内容も二転三転するのだ。

同じアニメや絵本をとってもまほの感想は年齢からすれば登場人物の心理等の考察として深く鋭い物を述べるが、言ってしまえば大人や賢い人間なら述べれる内容である。

 

一方でみほの感想は……異質であった。

年齢の違いや知性面の違いだとかそういった物ではなく、そもそも着眼点の土台からして普通人とは懸け離れた物であった。

しかも、その上でよく説明されればそこには彼女なりの理が通っており、成る程と納得できるものであった。

絵を描けばその構図や色使いも奇妙奇天烈としか表現しようが無い物が出来上がるが、それらの解説を本人から聞けば思わず唸る様な考えがそこにはあった。

戦車道においてもその異質なセンスは十二分に発揮されたのだ。

それを見る度にまほは、所詮自分は凡人という点が存在する一次元上で表現される同一線の延長上でしかないのだと自覚したのだ。

まほは確かに天才的な予測と対応ができる。

しかし、それは常人にも時間と労力をかけさえすればできる事だ。

勿論、それを常人より遥かに容易くできるのが彼女の凄さではあるが、結局は結果だけを見れば同じレベルの世界の話である。

一方でみほの其れは常人がどれだけ時間をかけようと、それこそ思考に何万年費やそうともその結論には達し得ない。

何故なら思考の出発点が違う。経路が違う。理が違う。世界観が違う。

例えるなら…ある紙に書かれた二つの点Xと点Yを最短距離で結べと言われた時、この二つの点の間に線を引くのが凡人やまほである。

まほと凡人の差をあげるなら線をどれだけ正確に素早く引けるかだろう。

それに対して紙を折り曲げて二つの点を直接接触させるのがみほである。

少なくともまほ自身は自己の評価とみほの評価をそう考えていた。

 

そんなみほのセンスを大人達はあくまで一風変わった、そして子供故の自由さの一種としか捉えなかった。

戦車道での一見無茶に見える突撃も、意図の解らぬ位置取りも普段のみほのやんちゃ振りから出た行動だろうと微笑ましい物を見るように見ていたのだ。

尤もこれをもって彼女らを頑迷・狭量・短慮と責めるのは酷であろう。

まほがそういったみほの才覚に気づいたのも前述したラプラスの悪魔の様な卓越した"予測する能力"があったからこそ、その予測外に存在する箱の中のみほに気づけたのだ。

予測外だからこそみほの行動の異質さが浮き彫りになり、そしてそれを不思議に思ったからこそまほが後にその行動を検証する事で一見では解らなかった有用性が理解できたにすぎない。

極普通の人間には当然ながらそのような気づきなどできる筈も無く、みほの行動はセオリーを知らない子供特有の無鉄砲かつ気まぐれな行動にしか見えなかったのだ。

 

 

 

"かくてラプラスの魔の自然認識は、吾々人間自身の自然認識のおよそ考えうべき最高の段階をあらはすものであって、従って吾々は自然認識の限界にあたってこれを基礎にもってくることができるのである。

ラプラスの魔にして認識できぬことは、それよりもはるかに狭小な限界の中に閉じこめられている吾々の精神には全く永久に知られずにおわるであろう。 -エミール・デュ・ボア=レーモン"

 

 

 

 

-3-

 

 

みほには表面化されていない才覚があり、そしてそれは余人には解らず、理解しているのは自分だけである。

 

まほがそう結論付けた時…二つの点で彼女は歓喜した。

一つは彼女にしては珍しい感情である独占欲を満たした事である。

いや、珍しいと表現するのは正確ではないだろう。

何しろ彼女には何かに執着するという行為を唯一の例外を除いて一切見せなかったのだ。

つまりまほには独占欲が無いが例外があった…というよりは今まで完全に姿を見せていなかった強い独占欲が噴出したと言えるだろう。

 

もう一点では彼女は戦車道に飽いていた事からである。

何しろ全てが予想の範囲内に収まるのだ。

西住流門下生相手に負けはするが、それも試合の開始時からどのように動き、どのように対処されるかという過程から結果まで解った上での事だ。

即ちまほにとっては戦車道というのは"何が起こるか解らない"という物ではなく将棋や囲碁の様に零和であり有限であり、そして殆ど確定でもあり完全情報のゲームでもあった。

どの様な勝負事でも最初から最後まで何が起こるか解っており、どう勝つかあるいはどう負けるかが判明している物など面白さを欠片でも感じるはずがなかった。

そうであったからこそ、まほは戦車道に従事する事は西住に生まれたが故の義務以上の事は感じていなかったのだ。

 

しかし、ここにまほのそういった常識を打ち壊す存在が出現したのだ。

もしみほと一緒に戦車道をすればどうなるのだろうか。

彼女の提案する行動を実行すればどうなるのだろうか。

きっとそれは素晴らしい物に違いない。

今までラプラスの悪魔によって固体化されていた物が箱の中の猫の様に不確定性を孕むのだろう。

いや……それよりも彼女と勝負をしたらどうなるのだろうか?

その思考に辿り着いた時、まほに電流が奔った。

何しろそれを想像した時…そう、"予測"ではなく"想像"なのだ。

どうなるか解らない。どう転ぶか解らない。

無限で不確定で不完全情報のゲームとしてその未知を楽しめるだろう。

彼女と勝負をした時、初めて戦車道の試合という物をまほは経験できるだろう。

そう想像した時にまほにとって戦車道という物は初めて意味と意義を持ったのだ。

 

……いや、思い返せばこれは戦車道に限った事ではなかった。

まほにとって人生という遊戯は全て予想の範囲内の事であった。

数刻から数日といったスパンのミクロの視点でも、数年から十年後の将来…いや、死までの人生というマクロの視点でも彼女は予測がついていてしまっていた。

人と相対すればどう発言をすれば相手がどういう好意を持つか解ったし、どう行動すればどういう結果が待っているかも解った。

だからまほはせいぜい優等生として、未来の家元として周囲から望まれている行動をとり続けた。

それはまるで舞台の上で脚本に沿った演技だけを許された役者の様なものであった。

そしてその生き方は死の直前まで続いたであろうし、またそれが当然のものだと思っていただろう。

しかし、彼女の最も身近にその当たり前の法則性を覆す特異点とも言える存在があったのだ。

自身の能力の高さによって無味の人生を送ることを余儀なくされていた彼女は、みほの存在によってのみ"何が起こるか解らない"という普通人にとって当たり前の事を咀嚼する事ができたのだ。

だからまほは進んでみほの傍にいようとしたのだ。

 

「ほら!お姉ちゃん!行こう!」

 

「…ああ、何処にだって行くよ。

 お前が行くところならば……」

 

例え彼女にⅡ号戦車で連れまわされ迷った末に夜の山の中で泣くみほを抱きながら一晩明かす事になっても、吠え立てる犬との"じんじょうなしょうぶ"とやらに付き合わされて大怪我をしても、

親族の集まりでみほがしでかした悪戯の"共犯"となって頭を下げ続けたとしても、業務で家を空ける事が多くなった母親に会いに行こう!とⅡ号戦車で他県にいる母の元に子供二人だけで移動する事になっても、

ある時に絡んできた白く着飾った同年齢の女の子を戦車に乗せて夜遅くまで連れまわしてしまい、叱られると不安がる少女を送って一緒に親御さんに謝った時も、それら全ての行動がまほにとっては喜びでもあり、感慨無量であった。

 

「まほお嬢様は実に聡慧であられますな。

 天真爛漫な妹様を見事に扶けて、その齢にして既に立派に姉をしておられる。

 苦労も絶えぬと思いますが、その経験はきっと将来に我々を総締する家元として生きるでしょう」

 

「有難うございます。

 皆様を失望させぬ様により一層の努力を心掛けて精進したいと存じます」

 

中には訳知り顔な親類が、出来の悪い妹の尻拭いをさせられている哀れで優秀な姉に同情して慰めと若干の媚を込めて遠まわしな表現でその苦労を労う事もあったが、まほは表面上は完璧な礼節を持って対応し謙遜をしてみせた。

尤も内心ではこの愚者を彼女の持つ豊富なボキャブラリーが用意できる限りの罵詈雑言をもって迎えていたが。

 

ともかくも元々はまほにとってみほは心の自浄作用として生み出された執着であり、それに価値が後付けされた形であった。

しかし、これらの事実が後押しする形でまほにとってのみほの価値を極大にしていった。

いや、もはやまほにとってその自身を構成する要素はみほ以外に他ならぬのだからその価値は大と小ではなく有と無、即ちみほとそれ以外の区別であった。

何しろまほの人生の目的と意味と楽しみは成長してその才覚を目覚めさせたみほと一緒に戦う事のみであるのだから。

 

みほはその後もまほの予想外の結果をもたらし続けた。

尤もまほ自身は失念していた…いや、考えたくなかったというのが正しいだろう。

みほのそういった予測不可能な結果が全てまほにとって望ましい事とは限らない事を…。

 

時が経ち成長するにつれてみほは西住流戦車道に適応していった。

それはみほの自由かつ奔放な性質を押さえ込み、西住流という枠にはめていく事でもあった。

当初はみほもそれに反発していたが、皮肉にもあの日のまほの試合を見学した時の「姉と一緒に戦車道を頑張る」という決意がみほにそれを我慢して受け入れさせた。

徐々に西住流の定石を"学習"していくにつれてみほは優秀な西住流の戦車乗りとなっていった。

実際に周囲からみれば意味不明で突発的な行動をしていた時よりも、西住流として堅実かつ確実な行動をしている現在の方が遥かに戦車道選手として成長している様に見えたのだ。

それによって中学にあがる頃には幼少の頃とは評価が一変し、既にまほに次ぐ腕を持ち、流石は西住主家の娘と称されていた。

 

いや、戦車道に限った話ではない。

幼少頃の活発で快活な性格は鳴りを潜め、内向的で大人しい"良い子"へと変わっていった…いや、矯正されていった。

それはまほにとっては最も恐怖するべき事態であったのだ。

枠に嵌められ、少しずつ"正しい"戦車道に慣れていくみほの様子にまほは真綿で少しずつ首を締め付けられる思いであった。

目の前で自分の人生の唯一の意義と目的が失われていくのをただ指をくわえて見ているだけしかできないのだ。

更に絶望的な事にまほにはみほがその現状を受け入れて歓迎している様にしか見えないのだ。

戦車道で結果を出し、評価されている事を本人も成長していると思い、姉と並んで戦車道をしている事に喜びを感じているのだ。

 

もしこのままみほが他と一緒の存在になれば…まほはまた元の無味無色の人生に戻るのだろう。

何も知らない時はそれしか人生というものを知らなかったのだからそれが普通でしかなかった。

しかし、一度蜜の味を知ってしまえばもう戻れない。戻りたくない。

その様な惰性で生きるだけの人生など御免であった。

尤もそうなっても…いや、そうなりつつあるからこそまほにとってよりみほの存在は増していくばかりであった。

仮にみほがそうなっても自分の人生に意義を求める為に、今度はみほの存在そのものに価値を求めるしかないのだ。

結果的にはみほが人生の全てであるという結論に変わりはない。

しかし、理由があってその結論があるのか、結論が用意されてから理由が作られたかという"卵が先か 鶏が先か"という観点から言えばそれは大きな違いであった。

ともかくも、自分が中学に進学して家から黒森峰系列の学園艦に移る時に行かないでと泣いて縋ってきたこの妹はまほにとって全てであるのは間違いなかった。

……それを依存というべき事なのは他の誰よりもまほ自身が理解していた。

 

 

 

 

 -4-

 

 

「やだぁ…!お姉ちゃんとまた離れるなんてやだぁ……」

 

「…私もとても寂しいよ。また一年間離れ離れだからな……

 だからみほから手紙を沢山送ってくれると嬉しい。

 連絡も毎晩とろう。電話してくれるよな?」

 

「…うん。でも、毎晩って大丈夫?

 お姉ちゃん忙しくなるんじゃ……?」

 

「いや、お前からの電話より優先させる事など無い。

 必ず夜にはお前からの電話に出れるようにする。約束する」

 

「……うん!絶対にする!毎晩絶対にする!

 写真も送る!手紙も送る!」

 

高校に進学してまたみほと離れ離れになる時、あれから三年も経つがその時とまったく同じ光景が繰り広げられていた。

もう十四歳になるのにあの頃と同じ様に自分に縋りついてくる最愛の妹が自分との別れを惜しむ様子にまほは何とも言えない背筋がゾクゾクする喜びを感じさせていた。

そしてまた一年間離れねばならない事に寂しさも感じてた。

中学生の時は戦車道の活動は公欠として結局は西住流門下と行っていたのでそれでも会う機会は豊富であったが、黒森峰女学院に進学してから本格的に学園艦での活動となるのでほぼ一年会う機会はなくなってしまう。

尤も感情は別としても理としては、この一年で黒森峰にみほを迎える土台を作っておこうと思っていたまほにはむしろそれが丁度良かった。

まず実力を見せつけて格の違いをはっきりさせた。

その上で次に人心掌握に尽力した。

元々、黒森峰の機甲科に進学してくる様な人間は大小の差はあれど一貫して戦車道に対しては真摯であるし、その気性としては質実剛健で実力者には敬意を払う傾向にある。

自身の実力に誇りと自信を持っているものだから、生半可な実力であったのならば反骨心を持ったかもしれないが、彼女の圧倒的な実力に揃って鐙を外して迎えた。

また、まほには一人の例外を除いて人が自分にどの様な振る舞いを望んでいるかが手に取るように解っていた。

故にまほにとって尊敬と信頼を集める事などまだ僅か十年余年の人生にも関わらず手馴れた物であった。

尤も一番尊敬と信頼が欲しい人物に対しては手馴れた様にはいかず、またそうであるからこそ一番欲しい人物であるのだからままならぬ物である。

 

そうして瞬く間に黒森峰の機甲科生徒のみならず全校生徒から教師まで掌握したまほは次の段階としてみほの存在と彼女を如何に自分が寵愛しているかを示した。

と言っても無理に意識してちらつかせた訳ではない。

そんな事をせずとも自制するのをやめて自然にみほの事を思って行動しているだけで十分であった。

妹からの手紙を待ち望み、人前でその手紙を呼んで笑みを浮かべ、事ある毎に妹との写真を眺めていればその存在に興味を持たれるまでに時間はかからなかった。

まほも妹について聞かれれば積極的に語ってみせた。

尤も西住家と繋がりの深い家、即ち分家等の出身の生徒からすればそれは今更であったが。

 

そうして一年が経って待ち遠しかった妹が入学し、去年の自分と同じ様に実質的に彼女の披露の場である練習試合が行われた。

この年の新入生の中には不運にも西住流と深い繋がりのある家出身の……つまり、幼い頃から姉妹と同じ様に訓練を受けていた者はいなかった。

故に早々にチームを組めずにおろおろさせてしまったのはまほの誤算であっただろう。

理論的にいえば予測できないのはみほの意思決定がかかわる事に限定される筈なのに、何故かみほが事に関わるとそれだけでまほには予測外の事が起こりえるのだ。

理屈には合わないのは間違いないのだが、そうとしか言い様が無いのだ。

更にいえば…もしも昔の頃のみほの気質であれば彼女自ら積極的に声をかけて誼を結びにいったであろう。

今の様に声をかける事を躊躇い、消極的姿勢のまま右往左往はしていなかったに違いない。

当然ながらまほは別にいまのみほの性格が嫌いな訳ではない。

過去の性格と比較して良し悪しで判断している訳でもない。

ただ…それを見るのが悲しかったのだ。

 

まほがこの黒森峰で望む事はただひとつである。

この"西住流"の家から離れたこの学園艦で、自分の力が自由に及ぶこの箱庭でみほの自由な気質を目覚めさせ、かつての本質を呼び戻す事であった。

実際、この企みは半ば上手く行っていた。

個人戦の練習試合と集団による練習試合ではみほの実力を見せ付ける事に成功した。

尤もその内容は凡人から見れば次元外の戦いであっただろうが、まほからすれば驚くに値しない内容であった。

即ち、この時点ではまだみほの本質とは懸け離れた戦いであった

次に同学年を中心としてみほの"友人"を増やし、そして徐々に上級生にもそれは浸透させようとした。

それはテストケースでも実践でも上手くいっていた。

こうしてみほがその本質を発揮しても疑問に思われず、誰からも制約される事もなく、自由に振舞える場を用意していく事に着々と近づいていった。

まほにはこのまま推移していけば、そう遠くない内にまた自分の手中からするりと抜けていく"みほの戦車道"行動を見れるという期待があった。

 

 

―――そしてそれは程無くして叶う事になる。

第62回 戦車道 全国高校生大会の決勝にて、まほの望まぬ形で……

 

 

 

------------------------------------------------------------

 

『Mama always said life was like a box of chocolates.

You never know what you're gonna get.』

 (「ママは言ってた。

   人生はチョコレートの箱みたいって。

   食べるまで中身は分からない」)

 

     映画「Forrest Gump(邦題:フォレスト・ガンプ/一期一会)」(1994)より

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。