如何にして隊長を尊敬している戦車道に対して真面目な黒森峰女学園機甲科生徒達は副隊長の下着を盗むようになったか 作:てきとうあき
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西住まほの能力の真価は「予測」と「対応」であるがこれは決して未来予知に該当する事ではない。
"予知"ならば"何が起こるか"を判別できる筈であり、これは言ってみればサイコロを振ってみればどの目が出るか事前に判明しており、そのケースに対しての対応だけを取る訳である。
一方でまほの予測は想定できるパターン毎にそれらの蓋然性と危険性を考慮して、最大公約数的最良の対応策をとっているに過ぎない。
もっと簡潔に言えば51%以上の確率で有利になる行動を積み重ねるのがまほである。
故に一回一回の行動だけでみれば裏目を引く事は有りえるのだ。
しかし、局所的に不利を引いても、その後からまた有利を取れる様な対策を幾らでも出し続ける事ができるのが彼女であるし、また確率論から当然の事として試行回数が増えていけば結果的にはまほの予測内に収束していくのだ。
ましてや実際にはまほの慧眼によって60%や70%以上の確率で有利が引き出せる最善手を取る事ができる。
しかも一度有利を取ってしまえば、その有利マージンによって相手の行動の選択肢は縮められ、その後の展開は一度傾いた天秤の様に更に一方的になっていくのだ。
相手からすれば自分に不利なギャンブルの連戦連勝を必要とするという理不尽極まる相手であった。
更に悪辣なのはその確率論も決して定石だけから算出した机上だけの"理屈倒れ"ではなく、相手の思考や傾向等といったその場の状況もしっかり考慮した上での事だろう。
こういった事から西住まほは一度でも流れを掴んでしまえばそれが決して覆る事のない選手として有名であった。
一方で妹の西住みほは真逆に不利の状況を覆す事に定評のある選手であった。
定石外れで裏の裏をかく行動によって見事に相手の虚を突き、どのような策謀を相手が張り巡らせてもまるで考えを読取ったかのように逆手に取るのだ。
この姉妹が互いに補完し有った時、正に黒森峰は無敵であった。
序盤で姉の想定どおり有利を取ってしまえばそれまでであり、もし運悪く裏目を引き続けて不利になっても一時的に副隊長である妹が指揮を引き継いで不利を覆してから姉に指揮権を返上すればやはりそれまでであった。
「まるで深いプールに叩き込まれて上からガラスで蓋をされた様だ。
どの様に藻掻いても溺れるしかないのだから」
結果的にありとあらゆる面でどのような行動をとっても上から叩き潰されてしまい、対戦校の一つの生徒がこう表現したという。
しかし、西住まほを知る者はよく常勝なのだと錯覚してしまうが、決してこれは必勝を約束する物ではない。
その様な事が神ならざる人間に出来る筈もなく、それは彼女も例外ではない。
もちろんその確率は極小である。
前述した様に薄い確率を引き続ければ負ける事はあるが、当然その確率は非常に小さい。
だが小さいという事はゼロではないのだ。
まほ自身もいずれはそういった敗北を味わう事になるだろうと想定はしていた。
全戦して全勝とは行く訳にはいかないのだから当然の事である。
また、「勝敗は兵家の常」と言われるが仮にそうなったとしてもそれは運の問題であって実力の差ではないだろうとも思っていた。
これは単に現状から省みた客観的な事実であって、決して未来の敗北に対する言い訳という保険ではない。
何より、まほ自身が自分を実力で下す相手を欲していたのだからこれはどちらかと言えば"自嘲"に近い物だろう……。
ともかくも漠然ではあったが何時かは敗北する事もあるだろうとは思っていたのだ。
しかし、それが最悪のタイミングで最悪の内容によって実現するとは彼女自身も予想できなかったのだが……。
-2-
決勝のプラウダ戦は奇跡が幾層にも積み重なった試合であった。
それもまほにとってはありがたくない奇跡である。
まず単純にプラウダの行動パターンが例年どころか今年度の大会のそれまでと大きく変わっていた。
無論、それだけならまほには通用しない筈であった。
しかし、それによって多少なれどまほによって都合の良いサイコロの目が出る確率が減ったからか、薄い所を引き続けて徐々にではあるが不利になっていった。
これもまた客観的に見てプラウダの実力が彼女に勝ったというよりは運が良かったと言うべきであろう。
しかし公平的に見てプラウダの擁護をするのならば、彼女たちはまほの特性を見抜いた上で通常通りの戦法でやっては勝ち目はほぼゼロであると判断し、成功する確率は極端に低いがもしそれが成れば膨大なリターンを得る方法を選択したのだ。
前述した例に習えば45%程で有利が取れる行為を捨てて、10%程度でしか有利をとれないが、もしとれれば大きく流れを得れる戦法であった。
言ってみれば破れかぶれの一か八かであり、捨て鉢で賭けに出たとも言えるが、低い確率では有るが彼女たちの取りうる行動の中で最も勝率が高い方法であったし、実際にそれは成功しつつあったのだ。
成功した理由は確かに運であったが、少なくとも運が良ければ勝てる方法を選択したのはプラウダ自身の判断によるものだろう。
これを後押しした理由の一つに天候の荒れ具合も挙げられるだろう。
当然の事前準備として予報によってこの日の天候が荒れる事は解っていたが、それでも予報以上の規模を生じさせていた。
天候が荒れれば荒れるほど不確定要素として分母が増え、まほの予測パターンの触れ幅は大きくなっていくのだ。
結果的にそれがプラウダの賭けの成功の背を押す事になった。
また悪天候によって地盤が緩くなったのも盤面を狂わせることに一役買い、一輌の戦車が荒れる川に落ちてしまったのだ。
ここまでなら……ここまでの要素だけならば、それでもまだ手の平の端の端であるものの、まほの想定する範疇であり掌の中の事であった。
だが、まほにはたった一人だけその予想を覆す行動を取る事のできる人物がおり、そしてその人物もまたこの場にいた。
その事実をまほは望んでいながらも、長年目にする事が無い故に失念していた……してしまっていたのだ。
-3-
「…今何と言った!?」
『ですからっ!副隊長が!飛び込んだんです!
川の中に!味方の戦車を救出する為に!」
それを聞いた時、まほの鋭利な頭脳は何があって何が起こったのか正確な解答を導き出した。
この荒れる天候の中で濁流と化した川の中に自身を省みずに飛び込んだ妹の状況をはっきりと理解できてしまった。
故に、まほは声無き悲鳴を掻き鳴らし、まほの心の中を様々な感情が濁流となって鬩ぎあい、噴出す火山流の様に焼き尽くしていった。
事が起こった後にその事象が置き得るであろう事を理解する。
幼少の頃からみほによってのみ引き出されるその感覚をまほは昔から歓迎していたし、この一年はそれを復活させる為に尽力していた。
しかしこの時ばかりはそれを呪った。自らを責めた。
何故、その程度の事が思いつかなかった! 何故、考えなかった!
みほならば!あの心優しい妹ならば目の前で危機に瀕している友人がいれば己の身を省みないことは当然ではないか!
『…ああっ!フラッグ車が……!
……走行不能に…白旗があがりましたっ!」
「そんな事はどうでも良い!!」
同じ戦車に乗っていた人員も通信機の向こうにいる人物も、いやまほですら自分がこの様な声を上げるのを聞くのは始めてであった。
彼女達が黒森峰の隊長が大会決勝の勝敗をどうでも良いと切って捨てるのを聞いて驚く前にまほは素早く指示を出した。
「急ぎ、大会運営に救助を要請しろ!
現場にいる人員は……可能ならばロープを使うなりして救助しろ!
…二次災害には十分に気をつけろ。決して無理はするな…」
この時、激発する感情の中で辛うじて働いた理性によってまほは「お前達がどうなってもいいからみほだけは絶対に助けろ!」という言葉をかろうじて飲み込んだ。
まほにとって究極的の意味ではみほ以外のモノに一切の価値を感じていないからだが、同時に冷静な部分でそれを言ってしまえばまずいと思ったからだ。
そしてこの後に待ち受けることにまほは無力でもあった。
これは無論、まほにみほを助ける手立てが無いという意味でも有ったが、同時にみほがどうなるかという未来に対して全く予測が出来ず、不安な未来が来ないようにただ祈るだけであるという意味でもあった。
-4-
ジジジッと蛍光灯の音だけが響く静かな廊下でまほは一人座っていた。
『集中治療室』
それが今まほの前にある扉に大きく書かれていた文字である。
(どうか…どうかお願いします。
神様、私はどうなっても構いません。それ以外はいりません。
だから…だからどうかみほを助けてください!)
その扉の向こうの出来事にまほは一心不乱に祈り続けていた。
常日頃は信心深いとは言えないまほであったが今この時ばかりは人生で最も真摯に神に語りかけた瞬間であっただろう。
あの時、川に飛び込んだみほは無事に中の乗員を救出することに成功したが、肝心の本人は最後の一人まで見捨てずに救助作業に従事した結果、岸にたどり着く前に力尽きて流されてしまった。
運営からの救助隊が駆けつけて下流を捜索し、打ち上げられている彼女を発見し救出したが、その時には脈拍と呼吸が停止していたのだ。
無論、すぐに心肺蘇生処置が行われ、無事にそれは戻ったが依然として意識不明の重体である事には変わらず、またその脈と息も弱弱しいもので全く楽観視出来ない状況であった。
直ちに緊急搬送され、集中治療室に収められたが山場は未だに越えておらず最悪のケースも有り得た。
また仮に命の危険性が過ぎ去っても、呼吸と脈が止まっていた時間が短くは済まなかったので、何らかの障害を負う可能性もあり、最悪の場合は命が戻っても植物人間の危険もある。
そう医者に説明された時、まほは己の体からまるで全身麻酔でも打たれかの様に力が抜け、床に崩れ落ちてしまい、一緒に付き従っていた斑鳩によって何とか体を支えられた。
尤もその体を支える斑鳩の力の入り具合もとてもではないが頼りにはならなかったのだが。
その後、何時までも居続けようとする斑鳩と一応の為の検査を受けに同じ病院に運ばれた水没した戦車に乗っていたエリカや赤星と浅見を強引に帰した。
一人きりになりたかった事もあるし、まだ整理がついていない今のままではみほを止めなかった斑鳩や水没した戦車に乗っていた彼女達に呪詛を投げかけたり、場合によっては殴りかかってしまう事を恐れたのだ。
まほはずっと集中治療室の前で祈り続けていた。
そして祈りと共にまほは強い後悔もしていた。
(みほがこうなったのも自分の責では無いだろうか?
自分が昔のみほの様に予測不能で自由で突発的な事を望んだからではないか?)
そう考えてしまえばもはや思考は止められなかった。
いや、まほが冷静に考えれば考えるほど、自分の責である事が理由付けられていくのだ。
(なるほど、確かにみほの今回の行動は予測できなかった!
昔……母に一度だけ抗弁した事がある。
反抗など一度もした事のなかった私のただ一度だけの反抗。
無駄だと解っていながらも、みほの才覚を訴えて型に嵌める様な事はしないでくれと頼んだ事が。
それでも母は首を振り、「それがみほの為である」とだけ言った。
この時、私は何と狭量で頑固なのだろうと思った。
……しかし、思えば母の考えは正しかったのだ!
そしてそれは着々と成果を上げていたのに、私が愚かにもこの一年で台無しにしてしまった!
私が…っ!私が望まなければ!
…ふふふ、何と皮肉な事だろうか。
この一年間で計画し画策し望んでいた事が実現したのだ。
その結果がこれなのだ!)
後悔。
これもまた人生において常に選択を間違った事のなかったまほが始めて感じる事である。
以前であったら新しい感情を覚える事は歓迎するべき事であっただろう。
しかし、またしても妹に関する事で始めて体験するこの感情はまほにとって苦いという表現ではとても足りない物であった。
そして同時にまほは頭の冷静な部分で"何時もの様に"今後の事を考えていた。
もし……もしも、みほが死んでしまったら?
感情としては信じたくは無かったが、まほの生来の能力がこれに対する予想と考察をする事を止めなかった。
思い返せばこの能力があったからこそ、まほは歪んだ人生を歩んできたかもしれない。
それでもまほは特にこの能力を……いや、"性質"を疎ましく思ったことは無かった。
しかし、今だけは自らの頭蓋を切り開いてロボトミーを施したくなった。
仮に……みほが死んでしまったのならばどうするのだろうか?
恐らくはまほは悲哀よってではなく単純で機械的な判断によって自殺するのだろう。
決してみほが死ぬ事が悲しくない訳ではない。
みほが死んだと理解した時も、その後の弔いの時もまほは悲しみにあけくれるだろう。
悲しんで悲しんで一頻り泣いた後で、すぅっと頭の冴えが戻った時に、
(みほがいなくなったのならば……今後の私の人生において意味も意義も無くなる。
そんな無色の人生を送る事は死んでいる事と同一なのではないだろうか?)
とまほにとっての論理的思考に基づき、己の生に意味がないと結論付けて冷静に"自裁"を選択するのだろう。
そう結論した時、まほは背筋が凍るような思いをした。
みほの死は自身の死と同義なのだ。
自身の死について考えた時はさほど関心も無かった筈なのに、みほの死による自身の死について考えた時に、初めてまほは己の死というものについて実感した。
まほは決して枯れる事の無い涙を流しながら、嗚咽と共にただひたすら妹の無事を祈り続けた。
その声なき声と祈りは暗い病院の廊下の中の闇に吸い込まれていった……。
-5-
祈りが通じたのか、次の日にみほは意識を取り戻し、幸いにも目立った傷害も意識の混濁も特に無かった。
それを聞き、面会が許されればまほは恥も外聞も関係ないと言わんばかりにみほの胸元に飛び込み、まるで赤子の様に泣き続けた。
そして胸元で泣きながら「ごめんね… ごめんね…みほ!」と繰り返す姉の頭をみほはそっと優しく撫で続けた。
まほは時が経っても一向にみほの元を離れず泣き続けたが、流石に戦車道の試合の後も休む事無く祈り続けた事とみほの無事を確認したことで身体と精神が限界を迎えたのか、そのまま妹の胸元で寝入ってしまった。
それに気づいた後もみほはこの泣きながら眠る姉の頭を撫で続けた……。
意識が戻った事により見舞いの面会が許可され、斑鳩やエリカ達をはじめ、かわるがわるに黒森峰の生徒達が見舞いに来た。
事前に隠されること無くみほの生命の危機と障害の可能性を伝えられていた事もあって、ほぼ例外なく全ての見舞い客がみほの無事を確認しては喜び、そして安堵したからか涙を流しながらみほに抱きついた。
中でも斑鳩や浅見に赤星と逸見の四人は強く感情を露にした。
特にあの斑鳩がみほを泣きながらとは言え声高く叱責するという光景は誰もが始めて見る光景であった。
尤も、当のみほは斑鳩から見舞いにとプレゼントされた白黒のパンダカラーのボコのヌイグルミを抱えながら少し嬉しそうに受けていたのだから、その叱責も如何程の効果があったか疑わしいが。
こうして沢山の人間がみほの病室を訪れた。
…しかし、みほの母親……西住しほはとうとう現れなかった…。
その後、みほは検査を終えて後遺症が無いことを確認してから退院した。
障害も何も残らなかったことにまほは安心したが、仮にどのような障害が残ってもまほは世話も介護も全て自分がするつもりであった。
……もしかすると心の奥底の何処かでそうなる事を望んでいたかもしれないが。
そして、一つの困難を乗り越えた事によって次の困難が見えてきた。
そう、決勝敗退である。
まほにとってはもはやそんな物は糞食らえだ!という心境であったが、世間の…それも西住流の家や支援者からすればそうも行かないのが現実であった。
特に敗因の直接の理由が西住の娘がフラッグ車を放棄したと言うのが彼女等に納得しがたい理由の一つになっていたのだ。
勿論、それは大多数の人間にとっては緊急時における救助活動の上なのだから仕方が無いのではという感想では有ったが、西住流といっても一枚岩ではない。
無条件で上の立場の失態を望んでいる者もいればいれば、単に常日頃から反感を抱いている者もいる。
また現家元もまだ年若くその権威も隅々まで行き届いているとは言えないのが現状であった。
ある意味では格好の攻撃材料を得た者達は巧みにみほの責任をついていった。
例としては「素人の救助の必要などなく、大会の救助が来るのに任せていればよかった。現に水没した戦車に乗っている人員は全てが無事で、素人にも拘らず飛び込んだ副隊長だけが重症であったではないか」と言った感じである。
実際に現場の状況を完全に把握している者などそういないのだからそう繰り返されればそうであったかもしれないと思い始めるのが人間であり、嘘も声高く100回繰り返せば真実の一部になるというのは歴史上何度も繰り返されたことである。
無論、それでもそういう影響は小さな物であったが、そうは言っても何時までも無視出来るものでもなかった。
それを受けてか、家元である西住しほはまだ病み上がりの娘を呼びつけ、その真意を問いただす事となった。
しかし、真意を問いただすといってもそれが実質的に尋問の場である事を同席を命じられたまほは良く理解していた。
「で、でも!ああしなければ…」
「勝利に犠牲は付き物なのよ。
人は何であれ勝つ為に何かを犠牲にしている。
それは時間であったり労力であったり、勝利につぎ込まなければもっと何か他の事に費やせた事を」
「……そんなに勝つ事って大事かな…」
「勝利よりも重要なものがあると?
その事に関しては西住流の其れとは相入れませんが貴方は納得しないだろうから一先ずその事については置いておくとしましょう。
ですが貴方自身の価値観との相違については貴方自身に帰依する事。
貴方のその価値観は他の人と共有しているものでは無い。
10連覇の為に三年間心血を注いで血反吐を吐く様な努力していた者、それの礎を築いた卒業生、それを支援していた系列校、援助していた支援者。
貴方は援助しているのは余裕のある富裕層や企業ばかりと思っているかも知れないけれど、一般生活を送っている卒業生やプロや社会人チームに在籍している門下生が決して少なく無い負担を背負いながら好意としてお金を出している方が大勢いるのよ。
貴方の同輩達も年頃の貴重な青春の中で他にも色々できただろう時間も何もかもを費やして注ぎ込んで勝利を目指していた。
全ては自分の母校の、自分の流派の誇らしい姿を見る為。
貴方は自分の価値観を押し通して満足かも知れないけれど、その人達には何と言って詫びるの?」
それが完全な正論であるかどうかはまほには断言出来なかった。
人命が関わる事である以上、それが何よりも優先順位の最上位にあるべきだと言う主張を否定する事は難しいからだ。
しかし、実際にその”大勢”に対する責任を背負っているのは西住しほである。
当事者ではない者がどれだけ綺麗な主張をしても、責任無き主張には説得力がある訳が無かった。
「でも……私には人を見捨てて勝利を優先させる事はできないよ…」
その返答は不味いとまほは僅かに顔をしかめた。
母は理論立ててどう責任を取るのかと聞いているのだ。
それに対して無茶であっても現実的でなくとも何らかの責任の取り方を提示すべきであっだろうし、そうでなくとも考えが及ばなかったと謝罪するのがベターであっただろう。
しかし、みほはただ変わらない自分の主張を繰り返しただけである。
机の下で己の母親が拳を握る手に力を込めてギチィと音が鳴るのがまほには聞こえた。
「貴方は…」
「解ってるよ!!」
みほは突然立ち上がると初めて怒声を響かせた。
初めて…そう、みほがこんな風に声を荒げて叫ぶのを聞いたのは生まれてこの方初めての事であった。
「解ってるよ……私の行動でお母さんがどれだけ苦労しているのか。
他の人にどれだけ迷惑をかけたか……。
……お母さんは入院している私のお見舞いにも一度も来なかったよね?
でも…それを私は悲しんだりしていない。ないがしろにされたなんて思ってない。
少し寂しかったけど……でもお母さんは本当なら来てくれていたって信じてる。
だけど……来れなかったんだよね?私の不始末の為に色んな所に謝りに行って頭を下げに行ってて……。
私のお見舞いに来れない位、忙しかったんだよね…?
だから……お母さんが姿を見せてくれない事に申し訳なく感じていたの……それだけ私は迷惑かけたんだなって……」
そのみほの吐露をしは黙って聞いていた。
しかし、横にいたまほにだけしほが再び膝の上で拳を握り締めるのが見えた。
其れは先程見せた怒りによる締め付けではなく、もっと何か……様々な感情が篭められている様に感じられた。
娘に真意を理解されていた事による嬉しさなのか、それとも親としての不甲斐無さなのか、それはまほには解らなかった。
「だけど…私には無理だよ……。
目の前で危ない目にあってる人を見捨てるなんて……。
理屈で他にどんな大儀があると解っていてもできないよ…」
「…反省も後悔もしていないと?」
「反省は行動を振り返って問題点を探す事。
後悔は取った行動をしなければ良かったと思う事。
……私は同じ場面、同じ状況になったら同じ事をするよ。
だから反省も後悔もしていない」
「貴方は…!!」
しほは怒鳴り声を上げながら立ち上がった。
みほと違い母の怒声は数少ないが幾度かはあったが、ここまで激しいのを聞くのは、これもまほには生まれて初めてであった。
「貴方は死ぬ所だったのよ!?
呼吸が止まって……脈だって止まってて…
私がそれを聞いた時にどんな気持ちだったか……
命の危機が去ったと聞いて安心して、今度は障害が残る可能性があると聞いた時、私がどんな気持ちだったと思うの!?
貴方は……貴方は!!」
泣いていた。
目を真っ赤にして、瞳から涙を流しながらしほは泣いていた。
「お母さん……」
それに対してみほは黙って俯いているだけであった。
そして重苦しい空気が場を支配し、無言の時間が続いた。
その間、まほは苦心していた。
この場に同席する事をしほに申し出たのはまほである。
それは本来であるならばみほの擁護をする為であった。
しかし、まほにはそれができなかった。
いや、正確に言うのであればできないのではなく、しなかったのだ。
決勝戦までは母のみほに対する指導を母の視野の狭さや狭量に依存するものだと軽視し、みほの本来の資質を開花させようとした結果がこれなのだ。
だからここでは母の言葉に賛同していたし、残念であるがまた"元の"みほに戻ってほしかったのだ。
「……それで貴方はどうするの?」
しほは息を整えると静かに腰を下ろし、問いかけた。
それを受けてみほはちらりとまほを見た。
それはまほが幾度も見た事があるような表情でもあり、始めて見る様な表情でもあった。
昔はよくこんな風に姉を頼るような表情を見せてくれた。
今までこんな風に縋り付く様な目で姉を見てきた事は無かった。
その視線を受けてまほは……何も言えなかった。
何もできなかったのだ。
どれだけの間か、もしかすると一瞬であったかもしれない間だけまほに視線を向けていたみほは諦めたかの様にその視線を外し、俯きながら言った。
「……戦車道をやめます」
みほのその宣言を聞いた時……、まほは暫しの間、茫然自失していた。
…みほが戦車道を……止める?
耳にはその言葉が入っていたが、脳がそれを咀嚼し理解するまで時間を要した。
そしてその意味を理解したとき、まほの喉はカヒュッっという音を出しながら呼吸のバランスを崩し、手先は振るえ、唇は微振動を繰り返していた。
「…学校はどうするの?」
「戦車道が無い学校に転校したいです…。
できればここから遠い所へ…」
「…そう。……好きにしなさい」
そう締めるとしほはもう話す事は無いと言わんばかりに立ち上がり、まほを一瞥だけするとそのまま退室した。
続いてみほが退室すると、思考と意識を取り戻したまほが何とか震える足で立ち上がり、みほを追いかけた。
「ま、待ってみほ!」
「なぁに?お姉ちゃん?」
呼掛けにゆっくりと此方を向くみほの表情にまほは少しだけびくりと戸惑った。
目に光が無い。表情に色が無い。
笑みだけは普段と変わらないが、その奥には無色灰色の感情が広まっているようにしか見えなかった。
「戦車道を辞めるのか…?
「うん」
「……黒森峰から…、私と一緒の学校から出て行くのか?」
「うん」
今この時、まほはどのような表情をしているのか自分でも解らなかった。
「な、なぁ…考え直そう。
今はお母様もみほもちょっと熱くなっているだけだ。
ちょっと時を置いて、ちゃんと謝ればお母様もきっと「お姉ちゃん」
「戦車道はもう辞めるよ。
私……戦車道で楽しいって思った事なんて一度もなかったんだ」
感情が抜け落ちたかの様な笑顔で、何の色も含められていない言葉が事態の深刻さともう手遅れだという事をまほにはっきりと理解させた。
……冗談ではない。
そんな事はまほにはとても許容できなかった。
妹が戦車道を辞めるなんて。
あれだけの才覚を持つ妹が戦車道を辞めるなんて……!
自分に唯一戦車道の、ひいては人生の意味や意義を教えてくれる妹が…!
……いや、違う。
実際は、才覚の有無は関係ないのだろう…。
自分を打ち負かす事も、予想だにしない行動を取ってくれる事も。
そんなものは"おまけ"でしかないのだ。
ただ、ただただ……妹と一緒に戦車道をしたかっただけなのだ…。
いや、戦車道ですらなくても良かったのかもしれない。
何でも良かった。
妹と一緒に何かができるならばそれで良かった。
ただ、まほが戦車道だけしか知らないから戦車道しかないのだ。
だからみほが戦車道を辞めると宣言した時、まほにとってそれは世界の終わりを意味していた。
……いや、それですらどうでもいいのかもしれない。
結局の所、何であれまほの傍にみほがいればいいのだ。
それだけでいい。それ以外要らない。
まほの人生において、みほがいない人生など考えられないのだから。
「……わ、解った。戦車道はやらなくていい。
うん、そうだな。み、みほがやりたくないのなら無理にやらなくていいだろう。
だから転校などしなくて良いだろう?戦車道活動は休止してまた気が落ち着いたら再開すれば……」
「……」
「……い、いや!そうだな!もう今後は一切戦車道をしないんだったな。
うん…そ、それでもいいさ。みほがやりたくないのならそれでもいい……。
であれば機甲科には居辛いだろうから普通科に転科すればいい。
寮からは出ないといけないが……どこか学生用のアパートを借りればいい。
……そうだ、私も寮をでて一緒に住もう。
二人で住めば何も心配は無い。
何も転校なんてする必要は無い……無いんだ……そうだろう…みほ……」
「……」
「……みほ?」
無言だった。
四年前と一年前には自分が進学して別の学校に行く事をあれだけ泣きながら嫌がって、自分に縋り付きながら離れたくないと言ってくれた妹が
三年前と半年前には一緒の学校に通えると花が咲いた様な笑顔で自分に飛びついてきてくれた妹が
転校して姉から離れるのだと、その無言さが何よりも雄弁に返答していた。
その表情には何れの感情も見出せることなく、まるでまほには何も興味が無い様な視線で自分を見つめているように感じられた。
(いや……ひょっとして…私はもう姉として見捨てられているのではないだろうか?)
そう考えてしまうとそれを足掛かりとして思考は加速していく。
(一体何時から私は姉として見捨てられたのだろうか?
何時から情けない姉だったのだろうか?
幼い頃に周囲の評判から庇ってやれなかった時?
黒森峰に入学してから自分の都合で性格を矯正させた結果、命の危険に晒した時?
いや、違う……ラストチャンスは恐らくあの時だ)
まほの脳裏にフラッシュバックする先ほどの光景。
何時もの様に自分を頼る妹の視線。
見た事の無い自分に縋る様な妹の視線。
あれが妹からの最終通告だったのではないだろうか?
あれが妹からの最後のSOSだったのではないだろうか?
あの時が岐路だったのではないだろうか?
あの時に動いていれば、声をかけていれば、庇っていればまだ私は姉でいられたのではないだろうか?
そう考えた時、まほはみほの足元に縋りついた。
己が知らず知らずに寸前で逃した機会をもう一度だけ与えて貰える様に、慈悲を請うように必死に縋りついていた。
「お、お願いだ、みほ!私を置いていかないでくれ!
私が悪かった…!もう…お前抜きの人生など耐えられないんだ…!
姉などという偉そうな立場じゃなくてもいい!
お前が望むのなら…ペットとしてでも構わない!
頼むから傍にいてくれ…!
みほがいなくなったのなら私は…!」
彼女から捨てられない様に媚びなくてはならない。
彼女に飽きられない様に細心の注意を払わなくてはならない。
・・・彼女の為に生きなくてはならない。
取り返しのつかないようなミスをしてしまったまほは今この瞬間に誓った。
だから…だから許してほしいと…。
同時に何故この心境にもっと早く……いや、つい数分前に持てなかったのかと心底後悔していた。
しかし、みほは涙を流しながら己の足に縋りつく姉をしゃがみこんでそっと優しく頭を抱えると
「……ごめんね、お姉ちゃん」
と言って最後の別れの様に頭をそっと一撫でしてから立ち上がると、まほの方を一度も振り向くことなく廊下の奥へと消えていった。
「……あっ」
髪に感じていた最後の感触であるみほの指先が離れると名残惜しげに言葉が漏れたが、それ以上の言葉を紡ぐ事はできず、まほはただそれを見送るばかりであった…。
そんなまほの頭はこれまでの人生で最も楽しい時期を無意識に反芻していた。
……何のしがらみも悩みも無く、ただ純粋に二人で笑っていた頃。
即ち、"薔薇の蕾"と二人で名付けた戦車に乗っていた頃を……。
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『Rosebud.』
(「薔薇の蕾」)
映画「Citizen Kane(邦題:市民ケーン)」(1941)より