氷の壁がミントの小さな身体から容赦無く体温を奪う
「だからイヤだって言ったのに…」
震える唇から溢れる力のない嘆き
どの位時間がたったのだろうか
「必ず助けに来るから!頑張って!」
そう言い残して、遥か頭上の氷の裂目からヤンヤンが姿を消したのはつい数分前の気もするし、昨日の出来事の様な気もする
寒い… 冷たい… 痛い…
緊張と恐怖がミントの意識を白濁させていく
それはヤンヤンのいつもの思いつきだった
『オーロラを見ながら豚まんが食べたい!』
着の身着のまま、軽い気持ちでぶらりやって来たグリーンランド
ミントは始めから乗り気ではなかった
アフタヌーンティーを欠かしたくなかったし、お祖父様の許可なく自家用機を飛ばすのは本来禁令なのである
シロクマに追われ、足を滑らした先のクレパス
地の底まで続くかとも思わせる漆黒の中、ミントは死を覚悟した
不幸中の幸いと呼べるのか、氷壁の凹凸がミントの身体を奇跡的に抱き止めた
死はある意味、残酷に先送りにされた
「お祖父様… リオ… ヤンヤン… 助けて… 早く助けてよぉぉ!」
その時、ミントは軽い浮遊感を感じた
代わり映えのしない目の前の氷壁が、ほんの少し角度を変えた
ミントを抱きかかえた氷の腕は、皮肉にも彼女の自信の体温で徐々にその握力を失っていた
(死んじゃう… 私、死んじゃう……! 早く……! お願い早く……!)
ヤンヤンは必死に努力した
友を救う為、己の力量の不足をきちんと認識し、それを補う為の手段も理解していた
探検家、和泉雅子の門を叩いたのはその為であった
だが、雅子はヤンヤンの弟子入りを拒絶した
雅子からすれば当然だった
生半可な気持ちで探検家などは出来ない
ましては極地のクレパスなどに、並の技量では挑戦出来ない
雅子の目にヤンヤンは、よくいる一見のミーハーにしか写らなかった
それでもヤンヤンは必死に食らいついた
ここで退けばミントを救う事は出来ない!
その情熱に、遂に雅子は弟子入りの為の条件を提示する
自分の手でピッケルを工作する…
その出来映えでヤンヤンの探検家としての素質を見抜くというのだ
2週間掛けて作った初めての木製ピッケルは目の前でへし折られた
こんな物に自分の命を預けられるか、と…
ピックを鉄製にしたピッケルの製作には3ヶ月を費やした
だがそれも、彼女の目の前でいとも容易くバラバラにされた
所詮素人の、それも小娘の工作 実用には程遠かった
3作目は総鋼鉄製にした
鍛造技術を学ぶ為、工業高校に進学した
青春の全てを注ぎ込んだそれは、卒業式の日に完成した
雅子はただただ頷いた
ピッケルの出来に納得したのではない ヤンヤンの気概を遂に認めたのだ
「貴女を私の後継者にしよう」
その日から2人の猛特訓は始まった
19歳の誕生日は槍ヶ岳の頂きで迎えた
20歳の時、キリマンジャロへのアタックで凍傷により、左足の小指を失う
翌年のエベレストへの初挑戦では、己の判断ミスによりシェルパを死なせてしまう
改めて山の怖さ、大自然の恐ろしさを身に染み込ませた
4度目の挑戦で遂にエベレスト制覇 この時、25歳
秋に同い年の冒険写真家と結ばれる
長男の出産を経て2年ぶりの探検家復帰 初の北極点を目指す
師匠雅子と挑むこのアタックは、ヤンヤンにとって特別な意味を持っていた
雅子の身体は癌に蝕まれていたのだ
余命3ヶ月… 文字通り、最後の探検となる
この人がいなければ今の自分はいなかった
冴えない中華娘だった私をここまで引き上げてくれた師匠…
このアタックで師匠に仕込まれた全てを見せる それがせめてもの恩返し…
不思議な位静まりかえった北極点
満天の星空とオーロラの中、師匠と啜ったコーヒーの味を、ヤンヤンは今でもはっきりと覚えているという
32歳の時、悲願の南極点制覇を目指す
成功すれば、史上初の女性両極制覇者になる
悪天候に見舞われ、ヤンヤンのアタックは困難を極めた
南極点まで後4キロに迫った地点で、雪車を曳くハスキーの一頭が疲労に倒れた
ヤンヤンは躊躇無くアタックの断念を決める
自分の夢の為に誰かを犠牲にしたくない 例えそれがハスキー犬だろうとも…
あのエベレストの悲劇から、ヤンヤンは心に固く誓っていた
地平線の上に輝く南極星に投げキッスをするヤンヤンの表情には、一辺の曇りも無かったという
第2子となる娘の妊娠、出産を期に、第一線から退く事を決意する
自分の夢の為に、これ以上家族も犠牲にしたくは無かった
その後は講演やテレビ出演などを中心に活動
40歳の時、自らの半生を綴った自伝『カノープスよ、さようなら』で講談社ノンフィクション大賞を受賞
現在はテレビのコメンテーターなどを務めながら、後進の育成にも力を入れている
座右の銘は "浅い三連複より深い三連単"
好物は回鍋肉 好きなお酒は紹興酒
日中友好親善大使 日本山岳会副会長