「もうアンタには頼らないわよ! ずっと友達だと思っていたのに!!」
ドアを叩きつけてヤンヤンは部屋を飛び出して行った
「ヤンヤン……」
ミントは扉の向こうに消えた彼女の背中に虚しく手を伸ばした
だがどうすれば良いのか? 私達に一体何が出来ると言うのか?
孤児のヤンヤンが幼少期に世話になっていた下町の中華居酒屋『晏々』
大陸出身の老夫婦が営む小さく古ぼけたその店は、知る人ぞ知る隠れ家的存在として、いつも常連たちの笑い声に満たされていた
幼き日のヤンヤンも、一生懸命に店の手伝いをしていた
血は繋がらなくとも老夫婦とヤンヤンは間違いなく"家族"であった
その家長だった翁が倒れたとの知らせが、ヤンヤンの元に届いたのだ
寄る年波に加え過度の疲労…
その疲労の原因、それは晏々の真向かいにオープンした居酒屋チェーン『和民』
常軌を逸した低価格攻勢と風俗紛いのボディタッチ接客に、晏々の客は急速に奪われていった
晏々は経営危機に見舞われた
その心労が年老いた老夫婦を追い込み、そして遂に翁を病床へと追いやったのだ
「ありがとございました!」
ヤンヤンの明るい声と共に引き戸が開いて、1人のお客が出てきた
ミントは窓から店内を覗き込む
どうやら今のが最後の客の様だ
カウンターの向こうでヤンヤンが下げた食器を流しに投入していた
倒れた翁、看病の媼 そしてその留守を一人で守るヤンヤン…
対照的に向かいの和民からは、賑やかな歓声が途切れる事がない
『ガラガラガラ…』
引き戸が引かれる
「いらっしゃいま…」
ヤンヤンは玄関に向けて放った挨拶を取り止めた
そこに居たのが割烹着姿のミントだったからだ
暫く気まずい沈黙の中見詰め合う二人…
「なんの用よ… 私を嘲りに来たの?」
「……ヤンヤン…… 私に出来る事があったら何でもやらせて…!」
「うぅ…!?」
くるりと背を向けエプロンで顔を覆うヤンヤン
「べ、別に感謝なんかしないんだからね… ちゃんと借りは返すつもりだからね…」
ぐじゅぐじゅと涙声で強がるヤンヤン
ミントはほっとした
(やっぱり手伝いに来て良かった ゴメンね、ヤンヤン 初めからこうするべきだったわね)
明くる日、ミントとヤンヤンは晏々建て直しの為の経営戦略を話し合った
晏々が和民に劣るのはなんと言っても価格
従業員を可能な限り安くこき使い、ゴミ同然の食材を利用する事で実現できる低価格
晏々には到底太刀打ちできない
そう、正攻法を用いては…
「そ、そんな事出来るわけないでしょ!!」
ヤンヤンが提案した秘策をミントは強烈に否定する
ヤンヤンは額を地面に叩きつけた
ミントの足元にすがり着き、何度も何度も懇願した
額に血を滲ませ、何度も何度も土下座するヤンヤン
ミントはどうしても嫌だった
だが、それ以上に親友のそんな姿を見たくは無かった…
「オーダー入りました! 生ビール一丁! 」
カウンターから響くヤンヤンの声
「…は、はい 喜んで…!」
ミントは大きく深呼吸する
私は一体何をしようとしているのか? 本当にこんな事をして許されるのか?
お爺様… 神様は私をお許しになられるでしょうか…?
厨房の一角でサーバーからジョッキにビールを注ぐミント
ジョッキが半分の所までビールを注ぐと手を止める
「はぁ……」
今度は大きな溜め息をつくと、遂に覚悟を決める
その場で踞り、ジョッキを股の間にあてがう
『……チョロチョロチョロ………』
ジョッキに入ったビールの嵩が増して行く
注がれた液体の泡が、ビールの泡と混じり合い、きめ細やかな綿雲を形成していく…
ヤンヤンが考案した打倒和民の秘策
それがこの、まさかの御小水入りビール
まさに小学生的発想
だが、それは一応理にはかなっていた 何せビールの原価を半減出来るのだ
大量の水とお茶を、ミントが体内で疑似ビールに変える
世界には幼い子供の小水を薬として用いる土地もあるという
大量の水分が原料のミントの小水も、匂いが少なく色も澄んで、本物と混ざった見た目のそれは、ワンランク上のちょっと贅沢なビールな感だった
「お、お待たせしました……」
ミントは客の席に合成ビールを運ぶ
中年のサラリーマンだったと思う
ミントはこれからビールと思って自分の尿を飲む客の顔を直視する事が出来なかった
「ひぃ~~ うめぇ~~」
何も知らぬ客の感嘆の声を背中に受けて厨房に引き返すミントは、胸の前で小さな十字架を切るのだった
結果的にヤンヤンの秘策は効を奏した
ちょっと贅沢なビールが格安で飲める店
めちゃくちゃ若くて可愛い店員さんが切り盛りする店
評判はたちまち広がり、徐々に晏々に客足が戻りだした
「3番テーブル生ビール2つ! 2番テーブル生ビール4つ!」
「は、はい…! ただいま…! 喜んで…!」
目も回る忙しさ、とはまさにこんな状態の事だろう
初めは抵抗を拭えなかったミントも、厨房業務に忙殺されて、いつしかちょっと贅沢なビールの製造を手際よく機械的にこなす様になっていた
慣れもあるが、店が繁盛を取り戻しつつある事を知った老夫婦の嬉しそうな顔が、ミントの頭から離れなかった
そして何より…
上手く言葉にできないが… ミントの中に歪んだ快感が生まれていた
自分の尿を旨い旨いと喜んで飲む男達… 例えようのない征服感…
忙しい最中客席を覗き、自分の小水を喜色満面で飲む汚いオヤジを見ると、ミントの身体の芯を熱い何かが駆け登るのだ
「はい、生ビール3つお待たせしました!」
ミントの身体も御小水サーバーとして進化したかの様だった
利尿作用の高いお茶をがぶ飲みすれば、程無くちょっと贅沢なビールへと分子転換できる様になったのだ
「1番テーブル生ビール3つ!」
「はい喜んで!」
「3番テーブルのお客様がビールお待ちです!」
「はい、お待たせしました!」
「ミント、2番テーブルに生ビール急いで!」
「はい、只今!」
「カウンターのお客様、ミントビール生!」
「はい今出します!」
忙しいさは輪をかけ、疲労も嵩んで二人のやり取りも杜撰になっていく
酔っぱらった客達はそれを気にするでもなく、寧ろ悪乗りしてくる始末
「ミントちゃん、オシッコ生!」
「こっちもミントちゃんのオシッコ~!」
若い女店員をセクハラ感覚でからかっているつもりなのだろう
よもや本当にオシッコビールとも知らずに…
「……ミントちゃん… 何をやっているの……?」
「はいはい、只今喜んで~!」
「ミントちゃん……? それは……?」
「はいはいちょっと待ってよ、もう」
「…………ミントちゃん…!? それはビールのジョッキでしょ…!?」
「はいはい、ジョッキで生ですね~」
「ミントちゃん!!」
「えっ……!!」
油断した、としか言い様が無かった
疲労が警戒心を鈍らせていたのも事実だろう
だがしかし、まさかこのタイミングで…
3つ並べたジョッキに跨がり腰を下ろし、チョロチョロと尿を注ぐミントと、様子見と二人のお礼の為に店に帰って来た媼が、厨房の勝手口越しに目を合わせる
その沈黙の数瞬は永遠にも感じられた
「………あ… あの…… これは… これには深い訳が……」
そこまで言ってミントは自嘲した
客に出すビールジョッキにオシッコを注ぐ行為に、どんな深い訳があるのかと…
「ミント何やってんのよ! オシッコ早く! 3番テーブルゥ……」
厨房の暖簾を潜ってヤンヤンが催促に来た
そしてそこで起こった破滅的事態を飲み込む
媼の手からポトリと小袋が落ちた
駅前のお洒落なケーキ屋の包み
頑張ってくれているミントとヤンヤンへのせめてものお礼だったのだろう
「ヤンヤン…… ミントちゃん…… お願い、説明してくれる……」
「だから私は嫌だって言ったのに!!」
ヤンヤンは顔を抑えて踞る
「えぇっ!!?」
ミントは目玉が零れそうな程その瞳を見開く
「ミントがオシッコビールで価格競争しようなんて言うから!!」
「ちょ… ちょっとヤンヤン!?」
「包丁で脅されたらアタシだって協力するしか…!!」
ミントはもう弁明する事を諦めた
何をどう主張しても、ジョッキに跨がり、オシッコを注いでいる自分の言葉に何の説得力も無い事が予見できたからだ
ミントはサーバーからビールをジョッキ一杯に注ぐと、それを一気に飲み干した
こんなマズイ物をどうして大人達は好んで飲むのか?
そんな長年の疑問の答えが、少しだけ分かった気がした