ソードアート・オンライン 仮想世界に降り立つ暁の忍 -改稿版- 作:鈴神
2022年7月8日
都心に建つとある名門私立中学。通う生徒の保護者の大部分は、官僚、弁護士、医者といった仕事に着いており、裕福な家庭の出身だった。結城明日奈も、父親は大手家電メーカーのCEO、母親は名門大学の准教授という、所謂名家出身だった。彼女自身も、現在通っている中学で生徒会長を務める優秀な学生であり、両親から将来を大いに期待されている身だった。
そんな彼女だが、ここ最近とある悩みを抱えていた。それは…
「桐ケ谷君、ちょっと話があるんだけど。」
「………ここで話すわけにはいきませんか?」
「いいから、一緒に来なさい。」
明日奈が話しかけた少年――桐ケ谷和人は、昼休みに教室で読書をしていたところを無理やり連れだされ、好奇の視線に晒されながらも、同行してくれた。容姿端麗な生徒会長の明日奈から声をかけられたことで和人は若干居心地が悪そうだったが、明日奈自身は大して気にしていなかった。
「それで、一体何のご用でしょうか?」
「これなんだけど………」
明日奈が渡したのは、一枚のプリント。そこに記載されていた内容は、学内で資格試験に向けての勉強会を行うというものだった。
「勉強会…ですか。それで、俺もこれに参加しろと仰るので?」
「その通りよ。桐ケ谷君って、他の子に勉強教えていることも結構あるじゃない?こういうのに打って付けだと思って。」
和人と明日奈が通う名門私立中学では、出身家庭の格差が原因で起こるトラブルが少なくない。そのために生じる軋轢を解消するために、明日奈は生徒会長として奔走しているのである。この勉強会も、一般家庭出身で人望もそれなりにある和人を参加させることで、生徒間の蟠りを解消できればと考えてのことだった。
「…せっかくですが、お断りします。俺は最近、忙しいので。」
「剣道部をやめちゃったのに、何か用事があるの?」
「……ええ、個人的な用事ですが。それでは、失礼します。」
用は済んだとばかりに明日奈に一礼すると、和人は教室へと戻ろうとする。明日奈は慌てて和人を止めにかかった。
「ちょ、ちょっと待ってよ!…そうだ!思い出したんだけど、もしかして桐ケ谷君が忙しいのって、今話題のゲームが関係してるの?」
明日奈の言葉に、教室へと向かっていた和人の足がピタリと止まる。和人を引き留められないかと考えて、咄嗟に思いついた話題だったが、どうやら上手く食いついてくれたようだ。明日奈は若干の達成感を感じながらも、背を向けたままの和人に言葉を続けようとする。
自分の父親が家電メーカーのCEOやっていることや、そのゲームについても結構詳しいことを話せば、きっと少しは心を開いてくれるはず。話の主旨が変わってしまうが、明日奈はそれでも構わなかった。
「あのね」
「だとしたら、何ですか?」
「え、えっと…」
だが、それを口にする前に、和人から返ってきたのは先程にはなかった冷えた視線と、感情の籠っていない言葉だった。明日奈は和人の様子に思わず竦んで、言葉が出なくなってしまう。
「この学校には、自宅でゲームをしてはいけないという校則はない筈です。確かに、定期試験一か月を切っていますが、自己責任でしょう。生徒会長といえど、そこまで干渉する権限は無い筈です。」
付け入る隙を与えんばかりに捲し立てる和人。対する明日奈は、「そんなことを言うつもりはない」と言いたいものの、否定の言葉が出せない。和人はそこまで言うと、今度こそ振り返ることなく教室へと戻っていった。
「………」
あとに残された明日奈は、自分に背を向ける後輩との、家庭の格差やそれによる先入観によって生じる溝を、相変わらず埋めることができていないことに、無力感を覚えていた。
和人を責めるつもりなんて、微塵もなかった。勉強会の話を出したのも、和人が慕われているからというだけの理由ではない。ただ、何でもいいから話をしてみたかっただけ。彼のことを知りたかっただけ。しかし、当の本人は自分と話をすることを明らかに避けている。結局、彼が自分に心を開いてくれることなどないのかもしれない…
(でも…)
分かったことが、一つある。自分が今話題のゲームについて話を振ったとき、――和人は非難されたと思ってのことだが――明らかに反応が変わった。それだけ、そのゲームに思い入れがあるからなのかもしれない。ならば、自分もそのゲームをプレイしてみれば、彼のことを少しだけでも理解できるかもしれない。同じ視点で話ができるかもしれない。
これが、ゲームには全く関心のなかった明日奈の中に、「ソードアート・オンライン」というゲームについての興味が芽生えた瞬間だった。
ゲームというものに興味のなかった明日奈だが、父親の経営する家電メーカー・レクトを通じてその情報を集めることは容易だった。
曰く、ゲームのタイトルは、「ソードアート・オンライン」。
曰く、世界初のVRMMOと呼ばれる新ジャンルのゲーム。
曰く、ナーヴギアと呼ばれるゲーム機を使ってデジタルデータの世界へダイブしてプレイする。
当初は和人のことを少しでも理解したいと思って調べた情報だったが、知れば知るほど、自身も興味を惹かれた。明日奈は早速、自分もこのゲームをプレイできないかと考え、ゲーム機とソフトの購入を考えた。だが、事はそう簡単には上手くいかなかった。ナーヴギアは高価で学生には荷の重い値段だったが、明日奈の小遣いで手に入れられないものではない。問題は、ソフトの方である。初回パッケージは一万本で、予約も殺到している。現在行われているベータテスト参加者一千人に優先購入権が与えられるので、残るパッケージは九千本。発売まで未だ四か月近くあるのに、既にどこのメーカーでも予約は締め切っている状態。販売メーカーの一つであるレクトのCEOである父に相談すれば、あるいは望みがあったが、高校受験を控えた身でゲームを希望すれば、教育に厳しい母が黙ってはいない。
これはもう諦めるほかないと思った明日奈だったが、抜け道は意外な場所にあった。
2022年11月6日
ソードアート・オンラインの正式サービスが開始される日。明日奈はその手にナーヴギア、そしてソードアート・オンラインのゲームパッケージを手に持っていた。
入手不可能と諦めていたゲームパッケージを、一体どこで手に入れたのか?未だ予約を受け付けていたメーカーを見つけたわけでも、父親に頼んだわけでもない。
「ありがとう…兄さん!」
思わず、明日奈の口からそんな言葉がこぼれた。そう、ゲームを購入したのは、明日奈ではなく、明日奈の兄にして結城家の長男、浩一郎だったのだ。自分と同じく、ゲームには無縁の人間であるはずの兄が、何故このソフトを購入していたかはわからない。だが、本人にとっては運悪く、――明日奈にとっては運良く――その日から海外へ出張することになり、ゲームをプレイできなかったのだ。明日奈はこれ幸いと、兄にプレイさせてほしいと相談し、あっさり許可を得たのだった。
早速、ダイブしようと明日奈はナーヴギアを手に取り、頭にかぶる。説明書に従い、開始コマンドを唱える。
「リンク・スタート!」
まだ見ぬ仮想世界という未知の領域に心を弾ませ、明日奈は高らかにコマンドを唱えた。虹色のリングを超えて、遥かな世界へと飛び込んだ。
かくして、少女、結城明日奈は、本来関わる筈のなかったデスゲームへと身を投じることとなったのだった―――
夕暮れの赤に包まれるはじまりの街の中央広場。明日奈のアバター、アスナはそこに集められたプレイヤー達が放つ怒号と悲鳴の渦中に立っていた。
(帰れ、ない………)
いきなり青い光と共にこの場所へ転送されたと思ったら、奇妙なローブの怪人が出現した。怪人はこのゲームのGMこと茅場晶彦を名乗り、端的に言えばこの世界の死は現実の死であるという、デスゲームの開始宣言を行ったのだ。アスナはじめ、多くのプレイヤーが突きつけられた現実を受け入れることができず、喚き散らしている。
(そん、な…)
アスナもその一人だった。興味本位で始めただけの筈が、何故こんなことになっているのか?全くもって自分の置かれた状況が理解できない。この後、自分は一度ログアウトして、学校の宿題を片付けて、家族と食事をして…その筈だった。だが、自分に、自分達に突きつけられた現実は覆らない。今や結城明日奈は、アスナというアバターのもと、ソードアート・オンラインの世界にその魂を幽閉されてしまったのだ。
その後も頭の中を巡る混乱は収まらず、他のプレイヤーと同様に希薄な意識の中、どうにか宿屋へと辿り着いた。ベッドの中に潜り込み、目を閉じて自分に言い聞かせる。
(大丈夫…大丈夫…きっと、助けが来る…)
ここでじっと待っていれば、きっと現実世界から自分達に救いの手が差し伸べられる。あるいは、今自分が置かれた状況は全て悪い夢でしかない。そう考えながら、アスナは意識を手放した。
2022年11月20日
茅場晶彦によるデスゲーム開始宣告から二週間が経過した。だが、現実世界からの救いの手は一向に差し伸べられず、メッセージも届いていない。アスナはじめ多くのプレイヤー達は、この状況がただの悪い夢だと思っていたが、ここに至ってようやく事態の深刻さを理解した。自分達は完全に現実世界から切り離され、この浮遊する鋼鉄の城に幽閉されているという現実を認めざるを得なかった。
(桐ヶ谷君………)
閉じ込められてからすぐに考えたのは、自分と同じようにこのゲームに来ている筈の後輩に合流することだった。だが、それはすぐに諦めざるを得なかった。自分は彼のプレイヤーネームを知らない。故に、インスタントメッセージが使えないのだ。如何にプレイヤー全員の顔がリアルに戻されたと言っても、一万人近くのプレイヤーの中から彼を探し出すことなど出来る筈もない。
(私がここに来ているって知ったら、どう思うかな…)
また、学校での時と同様に鬱陶しがられるかもしれない。思えば、彼のことを知りたいなどと考えなければ、自分はこんなゲームに関わることもなかった筈だ。しかし、だからといってアスナは和人を恨む気にはなれなかった。和人のことが発端とはいえ、VRMMOへの興味は自発的なものだ。彼を恨むなど筋違いもいいところだ。
そんなことより、自分は今どうするべきなのか、だ。
(………行くしかない。)
街で聞いた情報によると、既にここ二週間でプレイヤーの犠牲者は合計六百人以上に及んでいたらしい。そして、百層あるゲームステージも、未だ第一層がクリアされていない。最早、ゲーム攻略、即ち現実世界への帰還は不可能とアスナは悟った。
ならば、どうするか?このまま一日一日を無為に過ごすのか、それとも外周部から飛び降りてこの世界、そして現実世界から退場するのか…
だが、アスナの中にはそれらの選択肢は無かった。このまま無意味に生きて行くくらいならば、いっそこの世界に一矢報いてから死んでやろう。そう思ったアスナは、剣を手に街を出た――戦うことを選択したのだ。
「ハァァァアアア!!」
「ブヒィィイッ」
「ワォンッ」
「邪魔、だぁぁああ!!」
はじまりの街のNPCショップで買った細剣、「アイアンレイピア」を手にフィールドに出たアスナは、片端からモンスターを狩り尽くした。狩りの対象が下級モンスターの「フレンジー・ボア」や「フィアース・ウルフ」にから始まり、ソロプレイで初見の相手はかなり困難な亜人型モンスターに移っていくスピードは凄まじいものがあった。
攻略に乗り出したプレイヤーとしては出遅れている筈なのに、その勢いは先行していたプレイヤー達を圧倒するほどだった。後にアスナの姿を見た攻略組プレイヤーは、語る。
その修羅の如き姿、まさしく「狂戦士(バーサーカー)」―――
2022年12月2日
死の牢獄と化したゲーム、アインクラッドに誕生した狂戦士・アスナは、たった一人で攻略を続けた。そして、はじまりの街を出ておよそ二週間後、遂に第一層迷宮区タワーへと辿り着いた。ここに至るまで、睡眠時間は二、三時間程度に短縮し、モンスターのポップしない安全地帯で寝泊まりすることが常だった。結果、アスナが迷宮区攻略に乗り出した時点のレベルは、11。攻略に必要な安全マージンを満たすに至ったのだ。
(ここが、迷宮区………)
はじまりの街の中で腐っていくぐらいなら、と思って半ば勢いで飛び出してきたアスナだったが、まさか攻略最前線に辿り着くとは思わなかった。自分の中ではどうでも良いことだったが――今頃は第一層など既に攻略されているだろうと考えていた。しかし、デスゲーム開始から一カ月が経過しても第一層の攻略はできていない、そして犠牲者は一千人に上るというのが現実だった。しかし、だからといってアスナには「後退」という選択肢はない。ただただ命尽きるまで戦い、何もしなかった自分を悔いることがないようにする。それだけのために今ここに立っているのだから。
「………行くわよ。」
誰にでもなく、呟いた言葉。或いはそれは、目の前に聳え立ち、自分の行く手を遮るダンジョンに向けた宣戦布告だったのかもしれない。
迷宮区の暗闇に包まれた通路を、アスナは休むことなくひたすら歩く。トールバーナでは、既に踏破された迷宮区のマップが出回っていた。少なくとも、攻略済みの十六階までは迷うことはまずない。マップ片手に、しかし常に周囲に注意を払いながら、アスナは進み続けた。
狂戦士として戦い続けたアスナの集中力が限界に差し掛かったのは、四階まで上った時だった。迷宮区に入ってから六回目の戦闘だが、身体がやや重く感じる。しかしそれでも、どうにかモンスターの斧攻撃を回避して細剣ソードスキル、「リニアー」を食らわせて敵を倒した。
どうにか戦闘を無事に終わらせたアスナだったが、ここまでの戦闘で溜まった疲労がどっと押し寄せてきた。仮想の筈の身体がいつも以上に重い。視界が霞み、意識は朦朧とする。いつ倒れてもおかしくなかった。そんなアスナの意識を繋ぎとめたのは、いつの間にすぐそばまで近づいていたプレイヤーの声だった。
「見事な剣技だったな。」
「!」
その声に、アスナは身体を硬直させる。何者かが自分の近くにいる。それを悟り、反射的に細剣を握る手の力を強める。だが、話しかけてきた方は戦闘の意思が無い事を示してきた。その後の話は、自分のソロプレイに対する説教の数々。はっきり言って余計な御世話だ。アスナはまともに取り合う気はなかった。
「そんな状態で狩りに行ったら、集中力が切れて死ぬぞ?」
遂には、そんな言葉が発せられた。そんなこと、説教されるまでも無く承知している。だからこそ、アスナは苛立ちを隠せなかった。
「…どうせ、みんな死ぬのよ。」
傍から見れば、冷静に見えていただろうが、実はかなり頭に血が上っていた。イライラが爆発したのだろう。目の前のプレイヤーに現実は残酷だと言ってやりたかった。だが、その考えは実行に移されることはなかった。アスナの意識は、そこで途絶えたのだから。
「…余計な真似を。」
本当に、余計な真似だと思った。自分に背を向けて座っている男性プレイヤーは、方法は分からないが自分をダンジョンから連れ出したらしい。苛立ちを込めて行った言葉に、しかし男性プレイヤーは何気なく返してきた。
「気がついたのか?」
「言っておくけど、お礼は言わないからね。」
「ああ、礼を言われる筋合いはない。君を助けたのは、俺にも考えあってのことだからな。」
「どういうこと?」
どうやら、目の前のプレイヤーは何か思惑があって自分をここまで運び出したようだ。とりあえず、聞くだけ聞いてみようと耳を傾ける。
第一層攻略会議なるものが今日催されるということ。参加するプレイヤーは一人でも多く欲しいので、自分にも出てもらいたいとのことだった。だが、迷宮区攻略も完了していない今、そんな話が持ち上がっていたという情報は耳に入っていない。
「三日ほど前から、そのためのプレイヤーを町で募っていた。尤も、君は迷宮区に籠ってキャンプ狩りをしていたようだから、知る由は無かっただろうが。」
情報収集を疎かにした点を指摘して皮肉を口にするプレイヤーに、アスナは腹が立った。相手の方は、そんなアスナのことなどどこ吹く風と、場所と時間を告げると立ち上がり、その場を後にしようとする。とりあえず、ムカつく人物だが、立ち去ってしまう前に名前だけは聞いておくことにする。
「ねえ。あなた、名前は?」
「…イタチだ。」
「イタチ…君?変わった名前だね。私は「アスナ」よ。」
プレイヤーネームに動物の名前を使用するプレイヤーは、別段珍しくない。だが、何故イタチなのか、少々疑問に思えた。だがそれは一先ず置いておき、イタチなるプレイヤーには自分の名前も教えることにした。これにより、インスタントメッセージによる交信が可能となったわけだ。
(イタチ君…ね。顔は見えなかったけど、私と同じくらいだったかしら?)
終始背を向けて話をしていたイタチだが、背丈や体格からして自分とそう変わらないと考える。だが、あの素気ない態度を、自分は知っている気がした。
(…考えても仕方ないわね。)
取りあえず、アスナもまた、トールバーナの街を目指して戻ることにした。第一層攻略会議が開始されるまではまだ時間がある。ここ数日取っていない食事でも久しぶりに取ろうかと考えながら、アスナは街を目指すのだった。
のちにそれが、自分が一番話をしたかった、しかし今では自分がこんな状況に置かれる元凶となった少年との再会になるとも知らずに―――