ソードアート・オンライン 仮想世界に降り立つ暁の忍 -改稿版- 作:鈴神
今後もさらにローペースになる見込みですが、オーディナル・スケールは完結させられるよう、頑張りますので、よろしくお願いします。
2026年5月2日
「シバトラさん、右側面から攻撃を!」
「了解!」
「アスナさん、敵がスキルを発動します!一度後方へ退避を!」
「分かったわ!」
東京港の旅客ターミナルの一つである、竹芝埠頭の中に設けられた竹芝客船ターミナル。その中央に位置する、聳え立つ帆船のマストをシンボルとした広場において、オーディナル・スケールのバトルイベントが展開されていた。
『シャァアガァアアアアッッ!!』
イベント開始の夜九時を回ったのと同時に姿を現したのは、アインクラッド第五十層のフロアボス、『ザ・サウザンドアームズ・スタチュー』である。その名の通り、千手観音を彷彿させる銅像型の巨大モンスターが有する多数の腕が握る多数の武器から、多種多様なソードスキルの連撃を繰り出すことで恐れられた、クォーターポイントの守護者である。
「気を付けろ!今の奴は、四方からの攻撃にも対応できる!」
『了解!』
かつてのSAO事件で倒したことのあるフロアボスだが、今イタチ等が相対しているボスは、当時とは姿も行動パターンも様変わりしている。電人HALのカスタマイズが施されたことで、戦力が大幅に強化されているのだ。
『シャガァアッ!』
『ボォォオオッ!』
『カァァアアッ!』
『ラァァアイッ!』
イタチ等が相対する巨像から、四種の咆哮が上がった。電人HALが施したカスタマイズの最たる例は、SAO事件当時に一つしかなかった巨像の顔が、四つに増えていることである。顔四つは前後左右の四方――最早どこが前で後ろかは分からなくなっているが――に配置されていた。
(厄介だな。四方からの攻撃に対応できるようになっているとは……)
言うまでも無いことだが、四つに増えた顔は飾りなどではなく、それぞれが独立したAIを持って動いており、四方に配置された腕で四方から迫る敵を迎撃してくるのだ。
一方向から攻撃した場合は、一定量のダメージを与えられると、各顔が六本ずつ動かすことができる腕の内、二本の腕が持つ盾でガード。それに並行して、残り四本の腕でソードスキルの連撃をカウンターとして放つのだ。さらには、四本腕のソードスキルの発動が終わると、台座のように次々に上半身を回転させて、間断なくソードスキルを繰り出してくるのだ。
唯一の救いは、SAO事件の時と同様に、下半身は胡坐をかいた状態で、フィールドたる広場の中央から動かないことだった。
(SAO事件の時のように、二刀流とソードスキルが使えないというのも、厳しい条件だ……)
顔が一つしか無かったSAO事件当時とは違い、ボスの死角は完全に無くなっている。その上、このオーディナル・スケールにおいては、二刀流スキルは勿論のこと、ソードスキルすら使えないのだ。よって、イタチ等はSAO事件当時とは全く異なる姿の敵に、全く別の作戦で攻略に臨まざるを得なかった。
『ラァァアイッ!』
『パパ!後ろの顔が、ソードスキルの連撃を発動しようとしています!』
「メダカ!ゼンキチ達と協力して、パリングして弾き返せ!」
「任せろ!」
そして現在、イタチはSAO事件当時とは全く異なる姿となった、四面の巨像を相手に立てた即席の作戦を仲間達とともに遂行していた。作戦内容は至極単純。イタチ率いるレイドを四つに分け、イタチ、アスナ、シバトラ、メダカの四人がリーダーとなって四方から攻撃・攻略するというものである。
イタチを司令塔として、イタチ以外の各パーティーへと指示を送り、連携を取る。アスナとシバトラのパーティーは目視で状況確認し、イタチから見て死角となる場所にいるメダカのパーティーについては、ユイがソーシャルカメラ越しに得た情報をもとに指示を送っていた。
即席の作戦ながら、四方向からの攻撃というイタチ発案の作戦は、強敵たるクォーターポイントのフロアボス相手に、有効に機能していた。周囲を包囲して各顔を分断することで、回転による連撃は防止され、ダメージは確実に与えられていた。
(戦況は膠着している……だが、時間が足りん)
クォーターポイントのフロアボス攻略に際して設定されている制限時間は三十分。通常のフロアボスイベントの三倍である。攻略の難易度からの調整だろうが、イベント開始後に遅れて到着するSAO生還者を招き入れるという目的もあるのだろう。
ともあれ、戦況の膠着がこのまま続けば、時間切れとなってイベントは終了する。スフィンクス破壊を成し遂げるためには、ボス討伐は成功させねばならない。制限時間は残り十五分……残り半分である。危険を承知で勝負に出るべきかもしれないと……イタチは選択を迫られていた。
「……シノン、前へ出る。後のことを頼めるか?」
「イタチみたいに上手くできるか分からないけど、やってみるわ」
「助かる。ユイ、シノンのフォローを頼んだぞ。他の三人にも、俺に続くよう伝えてくれ」
『任せてください!』
「カズゴ!アレン!仕掛けるぞ!」
「ああ!」
「任せて!」
イタチの取った選択は、無茶を承知で勝負に出るというものだった。副官として自身のパーティーに所属していたシノンと、補佐を務めていたユイに後を託し、前衛の中でも屈指の実力者であるカズゴとアレンを伴い、四面の巨像目掛けて一歩踏み出した。そして、ユイを通してイタチの指示が届いたアスナ、シバトラ、メダカの三人もまた、各パーティーの精鋭二名を伴って動き出す。
「行くぞ……!」
『応!』
そう呟くと同時に、イタチ等三人は巨像目掛けて駆け出す。他の三人もまた、同じタイミングで動き出した。
『シャガァァア!!』
イタチ目掛けて振り下ろされる、四つの手に握られた武器。それらをイタチは、紙一重で回避し、止まることなく巨像の懐へと距離を詰めていく。
「ハァァアアア!!」
イタチがその手に持つ仮想の刃を振るい、巨像目掛けてシステムアシストもかくやという速度で、疑似的なソードスキルを放つ。『ホリゾンタル』、『バーチカル』、『スラント』といった単発技に始まり、『サベージ・フルクラム』や『バーチカル・スクエア』といった連続技のソードスキルを雨霰のように繰り出し、そのHPを削り取っていく。カズゴとアレンもまた、大剣と片手剣のソードスキルを模した技を連発する。
「やぁぁあああ!!」
「うぉぉおおお!!」
「たぁぁあああ!!」
イタチに続き、他三方向からも、それぞれのパーティーリーダーの掛け声とともに、細剣、刀、片手剣型をはじめとした武器による、疑似的なソードスキルの連撃が放たれる。実際のソードスキルのように、システムアシストやそれによる威力増強効果は無いが、技後硬直が無いため、体力の続く限り繰り出され続けるのだ。
『シャッ……ガァッ!』
『ボォオオ……ッ!』
『カァアアッ……!』
『ラ、アア……!』
巨像の顔から四種の苦悶の声が上がるとともに、七割近く残っていたHPが、一気に四割を切るところまで減らされていく。
『シャァァアアガァアアアッッ!!』
「む……!」
だが、イタチ等による怒涛の反撃は、残存HPが四割程になったところで、終わりを告げることとなる。巨像が突如として怒りの咆哮を上げ、その体から赤黒く禍々しいライトエフェクトを伴うオーラを放ち始めたのだ。
アインクラッドフロアボスには必ずと言って良い程発生する、行動パターンの変化である。SAO事件当時の『ザ・サウザンドアームズ・スタチュー』は、武器に電撃を纏わせて威力増強と範囲攻撃効果を付与するというものだった。だが、HALのカスタマイズが施されたこのボス相手には、当時の情報など当てにはならない。
「全員、下がれ!!」
故に警戒したイタチは、自分と同じように前に出ていた仲間達全員に指示を出して下がらせる。巨像は変わらず、禍々しいオーラを放ち続け……やがて、多数ある手に持つ武器全てが、かつてのSAOでそうだったように、電撃を帯び始めた。だが、それだけでは終わらない。電撃波武器だけでなく、巨像全体を包むように走り、ミシミシと音を立てて罅割れ始めたのだ。罅割れはやがて全身に達し……巨像を覆っていた表面部分の金属が、鍍金のように、一斉に剥がれたのだ。
『シャァァアアガッ!』
『ボォォオオアアッ!』
『カァァアアアアア!』
『ラァァアアアイッ!』
「これは……!」
巨像の鍍金が全て剥がれた後に響き渡った、四つの咆哮。だが、それを発したのは先程までの巨像ではない。イタチ等レイドの眼前に現れたのは、四体(・・)の巨像だった。その顔は、先程までイタチ日いるレイドが相対していた巨像の顔だった。加えて言えば、それぞれ下半身を持ち、二本の足で立っていた。
「分裂、か……!」
「厄介なことになったわね……」
ボスから距離を取ったイタチが合流したパーティーメンバーのシノンが呟いたように、本当に厄介な展開になってしまった。今までは顔が四つであっても、体は一つだっただめ、苦戦しながらも対応できていた。だが、行動パターンの変更と同時に四体に分裂し、しかも二足歩行するようになってしまった。それぞれのHP残存量がそれぞれ一割ずつと見積もっても、時間が押しているこの現状では、動き回る四つの標的をそれぞれ相手するのは困難を極める。
「……やむを得ん。四体それぞれ、分断して叩くぞ。シノン、狙撃で正面の奴を誘導してくれ。ユイは他のパーティーのリーダーに指示を頼む」
「了解」
『任せてください』
四面一体の姿だった時のように、各顔で連携されてはとても対処できない。少しでも戦況を優位にするためには、最初に分けた四つのパーティーで各個撃破するしかない。
イタチの指示を受けたシノンが、先程までイタチのパーティーが相手していた顔の巨像を狙撃する。銃弾は巨像の眉間を見事に撃ち抜き、そのタゲを取ることに成功する。
『シャァアアガッ!』
「最後の詰めだ!皆、行くぞ!!」
『応!』
イタチの声と同時に、再びの臨戦態勢に入るパーティーメンバー。他の三カ所に展開していたパーティーも、イタチ等同様に武器を構え、それぞれが相対していた顔の巨像へと向かって行った。
『シャッガァアアッッ!!』
「電撃の範囲攻撃だ!当たればしばらくの間、攻撃に参加できなくなる!回避しろ!」
「分かった!」
巨像が武器を振るう度に迸る電撃を回避し、隙あらば攻撃を与えていく。残り少ない制限時間内でフロアボスを仕留めるべく、全てのプレイヤーが積極攻勢に動いていた。
「きゃぁあっ……!」
「シリカ!」
「シリカちゃん!危ないっ!」
そんな中、巨像への攻撃に参加していたパーティーメンバーのシリカがタイミングを誤り、巨像の攻撃範囲に身を晒してしまう。ここまでの戦いでHPがかなり削られていたシリカでは、まともに直撃を受ければ全損は確実。アスナはシリカを庇うべく動き、攻撃範囲から押し出すことに成功する。だがそれは、アスナが代わりに攻撃を受けることを意味していた。
(イタチ君……!)
HP全損による、SAO事件の記憶の消失……それによって、想い人との思い出が自分の中から無くなってしまうことへの恐怖に、アスナは迫りくる凶刃を前に目を瞑った。
『ボォォオッッ!?』
「………………え?」
だが、巨像の持つ刃がアスナを襲うことは無かった。困惑したかのような巨像の鳴き声に目を開いて顔を上げたアスナの前にいたのは一人の女性プレイヤーだった。
色白でショートカットの水色の髪と、赤い瞳を持つ痩身のアバターである。冷徹なイメージを抱かせる表情をしたその女性プレイヤーの手には、刀型の武器が握られていた。どうやら、この得物で先の刃を弾き飛ばしたらしい。
「早く立ちなさい。まだ戦いは終わってないわよ」
「あ、はいっ!」
どこか聞き覚えのある声で立ち上がるよう促されたアスナは、呆然としていた状態からすぐに立ち直り、再び武器を構えた。そして、巨像が再び武器を振るう前に、その場から一度距離を取った。
(えっと、あの人の名前、は……)
助けてもらったものの、名前を聞きそびれてしまったアスナは、ちらりと隣に立つ女性プレイヤーの頭上に示された名前を見た。そこには、『Rei』――『レイ』と表示されていた。ランクは330位と、オーディナル・スケールのプレイヤーの中では非常に高ランクだった。
「時間も無いから、早く倒すわよ」
「わ、分かりましたっ!皆、行くわよ!」
想定外の心強い味方の出現によって窮地を救われたアスナは、パーティーメンバーと連携し、再び巨像へ向かっていくのだった。
そして、救援が駆け付けたのは、アスナのパーティーだけではなかった。
「イタチ殿!待たせたでござる!」
「ケンシン!」
イタチの隣に、侍の姿をしたプレイヤーが現れる。長い赤髪に頬に十字傷を持つ、中世的な体格を持つこのプレイヤーの名は、『ケンシン』。SAO事件当時は攻略組にこそ所属していなかったが、第一層・はじまりの町にて孤児院を警護していた、攻略組に匹敵するレベルと実力を持つ、隠れた強豪プレイヤーである。ちなみに、この古めかしい侍口調はゲーム内のキャラ作りのためのものではなく……全くの素によるものである。そのため、現実世界においても健在だった。
「拙者だけでなく、テッショウやエイキチ、ヤマト達も到着しているでござる」
「そうか……時間も無い。一気に片を付けるぞ!」
「承知!」
ケンシンをはじめとした強力な増援を得て、最後の攻勢に出るレイドメンバー達。四体の巨像の多腕から繰り出される雷属性の武器を捌きながら、間断無く攻撃を繰り返していく。刻一刻とタイムリミットが迫る中、SAO生還者達がダメージ覚悟の命懸けの猛攻の前に、巨像が一体、また一体と倒れていく。
『シャ、ガァアア……アァ……』
そして、残り時間が二秒を切ったところで、遂に最後の一体がHP全てを削り取られて崩れ落ちる。それと同時に、プレイヤー達の視界に『Congratulation!!』の文字が浮かぶ。第二のクォーターポイントのフロアボス『ザ・サウザンドアームズ・スタチュー』討伐は、ここに成し遂げられたのだった。
「やったね、イタチ君!」
「お疲れ様です、アスナさん。皆も、よく頑張ってくれた」
死闘を制したプレイヤー達が歓喜に湧き立つ中、イタチのもとへとアスナ、シバトラ、メダカの三人が駆け寄ってきた。
「当然だ。とはいえ、今回もかなりギリギリだったのは間違いないがな」
「エイキチさんとか、ケンシンさんとかに救援に来てもらえなかったら、どうなるかと思ったよ……」
巨像が四体に分裂して以降は、他のパーティーの動きは最小限しか確認していなかったが、想像以上に苦戦していたらしい。イタチのパーティーも、ケンシンの救援が無ければ、犠牲者が出ていた可能性が高かった。
「そういえば、あの人ってケンシンさんが連れてきたのかな?」
「あの人?」
「私のところに助けに来てくれた、『レイ』っていう名前の女性プレイヤーなんだけど、イベントが終わるのと同時に、どこかに行っちゃったの。お礼を言いたかったんだけど……」
「拙者が呼んできた中に、そのような名前のプレイヤーはいなかった筈でござるが……」
「そっか……なんか、私のことを知っているようだったんだけど、何だったのかしら?ランクも330位で、かなり高かったし……」
アスナが口にしたその言葉を聞いた一同は、僅かに驚いた様子だった。プレイヤー人口が今尚拡大を続けているオーディナル・スケールにおいて、ランキング三桁台はかなりの猛者である。このイベントに参加しているSAO生還者達にしても、全員が五百位以内に入っているのだ。
「気にはなるが、アスナを助けてくれたのならば、味方と見て問題は無いだろう。まあ、断定するのは些か危険かもしれんがな」
HALが自分達を油断させるために繰り出してきた、エイジと同類の手駒の可能性も否めない。だが、この局面でそんな回りくどい真似をする意味も無い。気になりはするが、脅威になる可能性が低いのならば、対応の優先順位は下げても問題が無いだろうというのが、メダカとはじめとした面々の意見だった。
「それより、Lに連絡だ。二つ目の施設のスーパーコンピューターから、スフィンクスがアンインストールされて、警備に配置されていた人達が解放されたのかを確認する必要がある」
「そうだな。Lには俺から連絡を入れておく。アスナさんを助けたレイというプレイヤーについては、ヒロキに頼んで余力があれば調べてもらおう。一先ず、今日はここまでだ。詳しい情報については、明日また話す。それで良いな?」
「ああ。そうしてくれ」
レイドリーダーとなっているイタチがそう締め括ったことで、その場は解散となった。HALの仕掛けた第二のゲームを制したSAO生還者プレイヤー達の表情は明るく、足取りはいつもより軽やかだった。
「HAL、二体目のスフィンクスもやられたらしいじゃないか」
『ウム。桐ケ谷和人君の率いるSAO生還者のレイドの結束力は、見事なものだったよ。この分では、第三のフロアボス――ザ・スカルリーパーがやられるのもほぼ確定だろうね』
東都大学の重村研究室の教授室の中。部屋の主である重村は、オーグマーを装着した状態で、協力者のHALと向かい合っていた。重村の後ろにはエイジが腕組み姿勢で立っており、険しい表情を浮かべていた。
「笑い事じゃないだろう。記憶の収集もできなかったそうじゃないか。本当に計画に支障は無いんだろうな?」
全く驚きだよ、とばかりに笑うHALに対して注がれるエイジの視線は、非常に冷ややかなものだった。その視線には、以前程の不信の色は無いが、計画の行く末を不安視しているようだった。
『勿論だとも。最初に言っておいた通り、彼等に持ち掛けたゲームは、本命から目を逸らさせるための陽動だ。記憶の収集も、スフィンクスの存続も、計画の大勢に影響しない』
「だが、桐ケ谷和人の記憶は諦めるしかなさそうだな……」
計画については心配するなと告げたHALだが、重村が呟いたその言葉により、場が沈黙に包まれる。
HALが仕掛けたゲームの目的の一つは、不完全なスキャンに終わった、イタチこと桐ケ谷和人の記憶を再度スキャンすることだった。だが、三体いたスフィンクスの内の二体が撃破されており、非常に苦戦している状況である。計画を進めるならば、和人の記憶は欲しいところだが、必要な手間と時間を考えれば、重村の言う通り、諦めるのがベストだろう。
『いや、そうとも限りませんよ、重村教授』
「どういうことだね?」
『桐ケ谷和人の存在は、想像以上のイレギュラーです。ここに至るまでの経過を鑑みるに……排除することがベストだろう』
HALにとってのイタチの存在は、既に単なる記憶収集の対象には止まらない。計画を揺るがす可能性の高い脅威足り得る存在であり、何らかの形で排除する必要があるというのが、HALの出した結論だった。
『彼自身、Lとともに我々を捜査している以上、計画最終段階における衝突もまず避けられません。である以上、彼の排除と同時に記憶の収集を行えば良いのです』
「……それで一体、どうやって彼を排除するというのかね?」
『ここは、エイジ君に協力してもらいましょう』
「僕が?」
その言葉に、思わず呆けた顔をしてしまったエイジ。HALとエイジの仲は、――主にエイジが抱く猜疑心によって――あまり良くはなかったため、意外な指名だった。
『本命の計画実行当日に、彼を一人で来るように言って呼び出す。彼を含めた、これまで被害に遭ったSAO生還者達の記憶をチラつかせれば、必ず食い付いてくるだろう』
「成程……そこを僕が仕留めるということか」
HALが企てた作戦の意図を理解したエイジは、非常に乗り気であることが伺い知れる不敵な笑みを浮かべて応じた。
『決まりだね。それでは、準備に取り掛かるとしよう。尤も、第三のフロアボスが討ち取られることが前提というのは、微妙なところだがね……』
「話は纏まったようだな。それでは、HAL。引き続きよろしく頼むぞ」
『お任せください。それから、エイジ君。君には桐ケ谷和人との対決に備えて渡しておきたいものがある』
「……何を用意したんだ?」
『それは、後のお楽しみとでも言っておこうか。万一君が追い詰められることになった場合に必ず役立つものだ。後で連絡を入れるから、所定の場所まで来てくれたまえ』
それだけ言うと、HALはその場からアバターの姿を消した。残された重村は黙ったままパソコンに再び向かい、その背後に立っていたエイジは得体の知れない物を渡されるかもしれない不安に顔を僅かに顰めていた……
2026年5月5日
大企業の社長や役員、医師、弁護士といった上流階級の家庭の、広大な敷地と屋敷が軒を連ねる、都内のとある一等地。その中に、電子機器メーカー、レクト・プログレスの前社長一家――結城家の住居はある。
「よく来てくれたわね、桐ケ谷和人君」
「……お久しぶりです、結城京子さん」
そんな結城家のリビングにて、和人はこの家の住人であり、明日奈の母親である京子とテーブル越しに向かい合っていた。京子の方は、家政婦の佐田明代が用意した紅茶に飲みながらリラックスした様子で過ごしていたが、和人の方はとてもではないが、そのような気分にはなれなかった。
京子との関係が、お世辞にも良好と呼べるものではないということもあるが、HALのゲームが予断を許さない状況であることが大きい。何より、今夜の七十五層フロアボス、『ザ・スカルリーパー』の攻略戦があるのだ。本来ならば、竜崎や新一等と作戦会議を行い、勝率を僅かでも上げるための方法を模索しなければならないのだ。
一応、和人もその旨を伝えたのだが、それでも京子からは「どうしても」と言って強く要望され……結果、今日この場に来たのだった。
「急に呼び出して申し訳なかったわね。あなたとは、二人で話したいことがあったから、来てもらったの」
「いいえ、お気になさらずに。それより、用件とは?」
「忙しいようだし、一緒に単刀直入に言うわね。明日奈と、何かあったの?」
いきなりそれを聞いて来るのか、と和人は思わず頭を抱えたくなった。京子の娘である明日奈との関係――主に恋愛の――を認めていないにも関わらず、明日奈が泣くことは許容できないという、実に身勝手な親馬鹿心に振り回されるのは今に始まったことではないが、よりにもよってこのタイミングでの呼び出しは勘弁して欲しい、と本心から思った。
ともあれ、効かれたからには答えなければならない。それも、極力嘘を吐かない形で……
「……少しばかり、問題が起こりました。今、俺達がプレイしているARゲームで俺がトラブルに巻き込まれまして……」
「それで、明日奈を遠ざけようとして揉めたといったところかしら?」
「……はい」
まるで空の上から見ていたかのように自分達のやりとりを適確に言い当ててくる京子の言葉に、和人は返す言葉も無かった。流石は明日奈の母親といったところだろうか。
「正直、あの子には危ないことには関わって欲しくないんだけど……私やあなたが何を言っても聞いてくれそうにないから、もう関わらせないようにすることは諦めたわ」
「俺としては、今でも明日奈さん達には出来れば手を引いてもらえればと思っているのですが」
「言っても聞かない子なのはあなたもわかっているでしょう。こうなったら、何が何でもあなたにはあの子を守ってもらう必要があるわ。けどそれに当たって……あなたには知っておいて欲しいことがあるの」
そう言うと、京子は手元に置いていた、題名の書いていない、変わった装丁の本を和人へと差し出した。
「これは?」
「明日奈の日記帳よ」
「……何故、そのような物を?」
「ちょっと貸してもらったの」
いくら母親でも、こんなプライバシーの塊と言うべき物をそう易々と貸したりはしないだろう。そう心中で突っ込む和人だが、言ったところではぐらかされることは目に見えているので、それを口に出すことは敢えてしなかった。
「六日前のページを開いてもらえる?」
「はい」
六日前といえば、HALが提示したゲームにおける最初の戦闘イベントが行われた日である。一体、何が書かれているというのか。少なくとも、京子からの呼び出しを受けた以上、あまり良くない内容であることは間違いない。まさか、自分が前世持ちであることが書かれていたのでは等……様々な予想を立て、内心で冷や汗を流しながら、和人は日記帳を開いた。
該当するページに書かれている内容に目を通すと、そこには……
2026年4月29日
OSで電人HALが仕掛けたゲームは、シバトラさん達のお陰で、何とか勝ち切ることができた。
イタチ君は、私達の協力を受け入れてはくれたけれど、まだ私達を危険から遠ざけようと思っているみたいだった。
この前までのイタチ君とまるで別人で……SAO事件の中で、最初に出会った時に戻った時を思い出させるものだった。
メダカさんにも相談してみたけど、やっぱりSAO事件の記憶が消えてしまったことが原因なんだと、改めて思った。
イタチ君は、攻略の記憶だけは残っているから大丈夫って言っていたけれど、私もメダカさんもシバトラさんも、絶対に大丈夫じゃないっていう意見だった。
SAO事件を命懸けで戦った中で培った私達の信頼はかけがえの無いものの筈。それがあったからこそ、皆で乗り越えられたんだって、私やメダカさんは思っている。そしてそれは、イタチ君も同じだったと思う。
だから、イタチ君には、絶対に記憶を取り戻して欲しいと思う。そもそも、イタチ君は私を庇って記憶を失った。だから、私が命を懸けて戦うのは当然のこと。
イタチ君が止めても、絶対に引き下がるつもりは無い。
(明日奈さん……)
日記に綴られた、オーディナル・スケールの戦いに臨む明日奈の決意に、和人は胸が痛む感覚を覚えた。あれ程までにこの件から手を引くように言っても聞かず、危険を承知で参加してきたのは、一重に自分のことを護ろうとしているが故のこと。
和人自身、明日奈をはじめとした面々から信頼され、大切に想われている自覚は勿論あった。だが、自身に向けられるそれらの感情は、SAO事件の経験を通してこそ正しく感じることができるもの。それを失くしてしまった和人には、その感情の理由を理解することはできなかった。故に、そんな相手に命懸けの戦いに臨んで欲しいなどと口にするのは、好意を利用する悪質な行為に思えてしまい……それが、明日奈達を拒絶する結果となってしまったのだった。
そんな自身の想いを胸中で振り返りながら、和人は日記の続きを読み進めていく――――――
――こんな風に、色々と尤もらしいことを言い訳にしてきたけど……私がゲームに参加しているのは、もっと身勝手な理由。
イタチ君に記憶を取り戻して欲しいのは、私がイタチ君のことを“好きだっていうこと”を思い出して欲しいから。
現実世界に戻ってから、和人君とはずっと一緒に過ごせたけれども、この想いを伝えられたのはSAO事件が解決した時の一度きり。
もう一度想いを伝えられれば良いのだけれど……どうしても、あの時のような勇気が持てなかった。
こんな時だし、告白なんてできるわけも無い。
だから私にできるのは、イタチ君の記憶を取り戻すために、命を懸けるつもりで戦うこと。譬えその中で、私の記憶が無くなったとしても……私がイタチ君のことを好きだって言う気持ちさえ残ってくれれば、それで良い。
「………………」
決意表明にも似た日記の内容は、そこで終わっていた。他のページと比較しても、文章の量が非常に多かったのは、それだけ明日奈が悩んだ証なのだろう。
「あなたとあの子の関係を引き裂こうとした私が言えた義理じゃないのかもしれないけど……あの子が苦しんでいることと、あなたのことをそれだけ大切に想っていることだけは、覚えていて欲しい。それだけよ」
紅茶を飲み終えた京子は、遠い眼をしながらそう告げた。そして、京子は立ち上がった。
「あなたに伝えたかったことは、以上よ。危険なことに首を突っ込むのはもう止められないにしても……あの子を泣かせることだけは、絶対にしないようにして」
伝えたいことは伝えたとばかりに、京子は和人のもとへ向かうと、その手元に置いていた日記帳を手に取り、その場を去ろうとする。
「悪いけれど、私も用事があるから、失礼させてもらうわ。帰りは、佐田さんに送ってもらってちょうだい」
それだけ言うと、京子はリビングを去っていった。残された和人は、一人椅子に座ったまま、たった今知った明日奈の想いにどう向き合うべきか、悩み、考え込んでいた。
それとも追う一つ、気になったこともあった。
(湿布の臭い……?)
京子が近づいた時に気付いたことだった。京子の年齢も年齢なので、別に不思議も無いことなのだが、忍の勘故か……何故か引っ掛かる。
(……まさかな)
ふと頭の一つの考えが過ったが、即座にそれを否定。
その後、和人は残っていた紅茶を飲み干して一息吐くと、家政婦・佐田に見送られて結城家の屋敷を去っていくのだった。
「……ん?」
そして、竜崎達が詰めている捜査本部へ向かっていた道中のこと。和人の携帯が振動し、メールの着信を知らせる画面が表示された。
(……一体、誰だ?)
差出人は不明となっているメールを訝る和人。まさか、HALからのコンタクトだろうか。一瞬、そんな考えが過った和人だったが、一先ずメールを開くことにした。
和人をはじめとした捜査メンバーやその協力者の携帯端末には、藤丸とヒロキの共同研究によって開発した対電子ドラッグ用のソフトがインストールされている。万一、メールを開いた途端に電子ドラッグの映像が映し出される仕組みだったとしても、再生と同時に解像度が低下するので、問題は無い。
そして、メールを開いてみると……
力が必要ではないかね?
“うちは”イタチ君
「――!!」
まず目に入ったのは、その一文だった。差出人は、自身の前世の名前を知る者。一体何者なのかと警戒心を強めながら、その先の文章を読み込んでいく。
「………………」
メールの内容全てを読み終え、差出人の正体とメールの要件を確認した和人は、一人その場で立ち尽くしたまま瞑目した。やがて和人は、ゆっくりと目を見開くと、何らかの決意を固めた表情で再び歩を進めた。その行く先は、捜査本部とは異なる方向を向いていた。