ソードアート・オンライン 仮想世界に降り立つ暁の忍 -改稿版- 作:鈴神
春川英輔は、自他共に認める天才だった。
専門の脳科学を中心として、科学・物理学・医学などあらゆる分野でその才能を遺憾なく発揮し、若くして私立の名門錯刃大学の教授という地位に就いた程だった。
そのような卓越した才能を持つ故に、性格は自信家かつプライドが高く、また、常人とは異なる感性を持った、変人で陰気な皮肉屋だった。
その優秀過ぎる頭脳により、自身の望むことは、全て可能としてきた春川だったが……そんな彼の人生に影を差したのは、ある一人の女性との出会いだった。
2016年4月4日
「……そうか。君はあの本城博士の娘か」
「はい。十月十八日に生まれた一人……そんなのが名前の由来だそうですけど、意味わかります?」
春川と重村が出会った頃から、約七年前。
当時すでに国内で並ぶ者の無い脳科学の権威だった春川は、治療と研究を依頼された患者がいた。
「漢字文化圏では極少数の単位。「六徳」の十倍。「弾指」の十分の一。つまり”刹那”だ」
「すごい。やっぱり何でも知ってらっしゃるんですね」
これが、錯刃大学病院特別脳病科治療施設における、春川と彼が担当することとなった被験者番号010番――本城刹那との初対面だった。
「あの人らしい。父上の論文はいくつも拝見しているよ」
「父からあなたの噂も聞いています。あらゆる知識に精通した、十年に一人の天才だって。だから今回会うの、正直不安だったんです。父もそうですけど……そういった人って大概奇人変人の類ですから」
「ククク……実際に会ってみた感想は?」
「全然大丈夫!むしろそのぐらい不気味な方が好みです!」
名のある数学者の娘であっただけに、彼女は春川の目から見ても聡明そのものだった。物分かりが良く、饒舌で知識に富み、肉体的にも何ら問題なく健康だった。
ただ一つ――――――脳のほんの一部を覗いては。
一日に数回、彼女は突如として異常な程、攻撃的に豹変する。脳細胞が徐々に破壊される原因不明の病。それが、体のコントロールを奪い、数人がかりでようやく取り押さえられる程に暴れまわるのだ。
「……すみません、教授」
「気にする事はない」
発作が治まり、ベッドの上で目覚めた刹那は、春川に対して自身の醜態を詫びた。だが、春川はまるで気にした様子は無かった。
「あくまで原因は、脳という物質の一部の異常だ。病気が理由で君の人間性が貶められはしないのだから」
「ありがとうございます。慰め方も合理的で分かりやすい。反論の余地が無い分、無理やり慰められちゃいました。流石は教授です!」
「……君も大概変人だな」
「はい!変人ですが、よろしくお願いします」
こうして春川による、本城刹那の原因不明の脳疾患の治療は始まった。
この時の春川にとっては、刹那は貴重な実験体の一人に過ぎず、どれだけ未知の病気であろうと、完治させる絶対的な自信があった。今までがそうであったように、自身の持つ天才的な頭脳には、為しえないことなど何一つないと……純粋に、そう信じて疑っていなかった。
しかし………………
「教授……お願い」
「刹那……」
「私がこの先どんなに壊れても、今の私を忘れないで。今ここであなたと話している……この一瞬の刹那を忘れないで」
春川がプライドをかけて考案したあらゆる治療法は、刹那の未知の病の前には全くの無力だった。
春が過ぎ……蝉の幼虫が地中から這い出し、成虫となって鳴きだした頃には、彼女の脳が正常な機能を保てる時間は……その時既に、半日も無くなっていた。
春川は、刹那の脳細胞がズタズタに破壊されていく様を、ただ見ていることしかできなかったのだ。
そして遂に――――――その日はやってきた。
春川が治療を始めてから、およそ半年後。
完全に破壊され尽くした彼女の脳は、最早もとに戻すことは叶わず……遂に、脳死判定が下された。
「……馬鹿な」
本城刹那の死という現実を前に、不可能を知った時。春川の頭に充満したのは、かつてない屈辱。挫折。そして……”渇望”だった。
「CTスキャンによる脳の断面図……脳波測定で得られた脳電図……これらは断じて君ではない。君であってなるものか!!」
部屋の中に置かれた、本城刹那という患者に関わるデータの数々。それらを春川は、衝動のままに破り捨て、破壊した。手から血が滴るのも構わず、普段の春川からは想像もつかないような暴れ方をした末……一つの決意を抱いた。
「君を造ろう」
美化もせず、風化もさせず、一ビットたりとも違うことのない彼女を造り出す。
どんな手段を使ってでも、本当の彼女にもう一度会いに行くーーーーーー
これが、春川英輔が初めて、彼女を……本城刹那を0から創ることを欲した瞬間だった。
2026年5月7日
『0と1、死と生……脳科学とコンピュータサイエンスの融合。その技術によって、既にこの世を去った故人をデジタル世界に構築すること。それこそが、我々の目的だった』
「重村教授が娘の悠那を蘇らせようとしたように、春川教授は自身が救うことのできなかった本城刹那を蘇らせようとした。そういうことだな」
電人HALが口にした、一連の事件を起こした動機を、イタチこと和人はそう締めくくった。
両者がパソコンの画面越しに向かい合うこの場所は、仮想世界ではない。現実世界の、人里離れた山奥にある山荘の中である。また、和人の後ろには、捜査メンバーの一員であるコナンこと新一と、クロイスター・ブラックフォントの『L』の文字が映し出された、捜査本部にいる竜崎やファルコンこと藤丸と通信でつながれた状態のパソコンを持ったワタリの姿があった。
和人等がユナのライブを舞台として繰り広げられた激闘を制し、春川と重村が企てた計画を阻止することに成功したその日。Lやファルコン、ヒロキといった、捜査をバックアップしていたメンバーは、重村を確保すると同時に、計画に使用されていたコンピュータとその中身のプログラムの全てを即座に掌握。それと同時に、既に現場を離れていた春川の居場所も早々に特定した。
そしてその翌日たる今日。和人はLが率いる捜査メンバーとともに、この事件に真に終止符を打つべく、最後の容疑者たる春川と、現場から逃げ去っていた電人HALの潜伏先へと踏み込んだのだった。
『刹那を蘇らせることに執念を燃やした春川は、稀代の天才、ヒロキ・サワダの研究を再現し、自身のコピーとして私を造り出すことに成功した。だが、春川だけの力では、その先へ進むことは困難だった……』
「重村教授と手を組んだのは、そのためか」
『その通りだ。春川が再現した人工知能創造の研究と、重村教授のオーグマーを利用した記憶の収集・結合、そしてディープラーニングの研究を組み合わせれば、刹那の人格を再現することも可能となる』
「オーディナル・スケールを利用して、重村悠那を蘇らせる計画に加担していたのは、その予行演習のためか」
『ご明察だよ、工藤新一君。重村悠那を蘇らせる計画とは違い、春川にとって、刹那を蘇らせるチャンスは一度きり。譬え不完全であったとしても、記憶の断片から一人の人間の人格が再現される、その瞬間のデータを得ておきたかったのだよ』
「思い出だけを頼りに、人を0から造り出そうとは……とても天才科学者の発想とは思えんな。SAO生還者達の記憶を収集して悠那の人格を再現しようとした重村教授も大概だが、春川教授のそれはさらに無茶な試みだ」
『馬鹿げた話だろう?聡明な君達ならば……いや。世界中の誰であっても簡単に導き出せる結論に、春川はどうしてもたどり着きたくなかったのだ』
和人と新一が無茶だと指摘し、HALが馬鹿げていると言ってる通り、刹那を再生させる計画には、かなりの無理があった。
重村は悠那の人格を再現するにあたり、SAO生還者達の記憶の断片を、ゲーム内におけるHP全損による死の恐怖をトリガーとした、オーグマーによる脳のスキャニングという方法で収集していた。
だが、本城刹那の場合はそうはいかない。この計画を始動させようとした当時、本城刹那という人間を知る人間は、家族をはじめ、既にこの世界には全くと言っていいほど残っていなかったのだ。人一人分の人格を再現するのに必要な素材の調達からして儘ならないという点では、春川の望みは悠那の再現以上の困難と言えた。
『春川は、生前の……本来の本城刹那を知り、その人格を再現するための記憶を供出できる人間は、自分以外にいないと結論付けていた』
「それで、諦めきれなかった願望を叶えるための最終手段を使った結果が……”これ”というわけか」
和人が視線を向けたのは、HALが映し出されているコンピュータのすぐ傍に設置されたベッドの上。そこには、和人等が確保しに来ていた目的の人物――春川英輔が横たわっており、その頭には、ナーヴギアを改造したフルダイブマシンが装着されていた。
しかし、ベッドの上に横たわっているその身は微塵も動くことはなく、呼吸すらしていない。そして、和人等が今いるこの部屋に踏み込んだ時には、肉の焦げたような異臭が充満していた。
春川英輔の生命活動は……完全に停止していたのだ。
「改造したフルダイブマシンで、自身の大脳に超高出力のスキャニングを行った。己の脳の中にある本城刹那の記憶を抽出しようとしたということか」
『言うまでもないことだが、結果は惨憺たるものだったよ……』
和人等がこの場に現れるまでの間には、いくらかの時間があったにもかかわらず、HALは電脳世界へ逃げることなくこの場に残り続けていた。そのことから既に察していたが、春川が自らの命を賭して挑んだ本城刹那の再生は、失敗に終わったらしい。
「察するに、スキャニングを行うにあたってのトリガーになったのは、『屈辱』か」
悠那再生に必要な記憶の断片を集めた際には、SAO生還者のプレイヤーに、ゲーム内におけるHP全損による『死の恐怖』を与えていた。それと同様に、春川はの場合は本城刹那を失った時の記憶を強く励起させるための引き金として、『屈辱』を選んだのだと和人は考えていた。
「何一つ不可能なんて無かった、自他ともに認める天才である春川英輔だ。プライドをかけて治療していた患者が亡くなったのなら、その時の屈辱は計り知れないだろうからな……」
『その時の感情を、プレイヤー達に敗北することによって、強くイメージしようとしたのでしょう』
和人の推理に、新一と竜崎が補足した。対するHALは、画面の向こうでフッと自嘲するような笑みを浮かべた。
『君達の推理は当たっているよ。だからこそ春川は、この計画の要であるシステムの防衛役に自ら名乗り出た。計画の破綻は、春川の敗北を意味する。その頭脳で何一つ不可能なことなど無かった春川にとって、刹那を失った時以来の挫折だ。刹那の記憶を呼び起こすためのトリガーとしては、十分だと春川は考えていた』
「……紅玉宮のラスボスを操っていたのも、お前ではなく、春川教授本人だったんだろう?」
『ホウ……それもお見通しだったとは。ちなみに、何故、気づいたのかね?』
「ボスがHPを全損して消滅しようとしたあの時。今までHALだと思っていた声が、その場ではない、別の場所にいた自分のことを『私』と呼んでいるのを聞いた。HALは今まで、春川教授のことを『春川』としか呼んでいなかった。故にあの呟きは、HALのものではないと考えた」
何より、脳内スキャンを行うならば、計画の破綻を意味する、ボスのHP全損の瞬間を狙わなければならない。であるならば、春川自らフルダイブし、ボスを操作していたとしても不思議ではなかった。
『そこまでお見通しとは、流石だな。世界的名探偵Lと高校生探偵の工藤新一に一目置かれている理由がよく分かる』
「俺は探偵ではないのだがな」
『フム……桐ケ谷和人君。君については、春川も私も、非常に気になっていた。SAO事件を終結させただけでなく、ALOやGGOの事件をも解決に導いた推理力と行動力……。
そして、先日の戦いで見せた、システムには存在しない筈のスキルの数々……。春川の頭脳をコピーした私の思考力をもってしても、遂に君の正体を導き出すことはできなかった。君は一体……何者なのかね?』
HALや春川だけではない、この場にいる全員が……否、和人に関わっている人間全員が知りたがっているであろう問い掛けだった。
対する和人は、僅かに逡巡するように目を細めたが、やがて意を決したように口を開いた。
「俺は桐ケ谷和人だ。だがそれと同時に、もう一人の……こことは別の世界を生きた男の前世の記憶を持っている」
誰もが知りたがっている和人の秘密は、思いもよらない話に発展したことに、その場にいた誰もが――モニターの向こうにいる竜崎、藤丸も含めて――目を見開く。
「”うちはイタチ”……それが俺の、忍者として前世を生きた男の名前だ」
和人の口から語られた衝撃の事実に、それを聞いた全員が硬直する。暫くの間、時間が止まったかのような沈黙がその場を支配した。そして、最初に言葉を発したのは、モニターの向こうにいるHALだった。
『うちはイタチ……そうか。それが、君のプレイヤーネームの由来か。しかし、”忍者”とはどういったものなのだね?この国で一般的に知られている忍者とは違うようだが』
「……忍者の概念についてはそれほど違いは無い。但し、俺がいた世界の忍者は、この世界の科学では説明がつかない超常の力を忍術として使用する。変化に分身、幻術をはじめ、火や水も操ることができる。ALOのプレイヤーが使用する魔法染みた力だと言えば分かりやすいだろう」
『成程……最終決戦で使用していたあのスキルは、君が前世の世界で使用していた忍術だったというわけか』
荒唐無稽とも言える和人の話だったが……しかし、HALはそれを信じて疑う様子は無かった。それどころか、和人がうちはイタチとして生きた前世の世界について興味を持った様子だった。
その一方で、新一達は話についていけず、顔を引き攣らせて黙ったままだった。まるでゲームやライトノベルの設定のような話に、思考が追いついていない様子だった。
「随分とあっさり信じるんだな……」
『そこにいる工藤新一君が尊敬する名探偵シャーロック・ホームズの名言にも、「全ての不可能を除外して最後に残ったものが如何に奇妙なことであってもそれが真実となる」というものがある。である以上、君の話す忍者としての前世こそが、真実なのだろう』
「理屈は分かるが、話が荒唐無稽過ぎるだろう。俺の話をこうも簡単に信じたのは、茅場さんだけだった」
和人がうちはイタチとしての前世を話した相手は、茅場以外にも、明日奈、直葉、詩乃、ユウキがいる。しかし、この三人については前世を話すに足るだけの強い信頼が互いにあった。ノアズアークことヒロキも和人の前世を知っているが、こちらは茅場経由で知らされている。
よって、和人の前世をそういった十分な信頼関係が無い状態で、抵抗なく信じることができていたのは、茅場だけだった。尤も、異世界の存在を求めるあまり、一万人もの人間を巻き込んだSAO事件などというとんでもない惨劇を引き起こした茅場は、かなり特殊事例なのだが……。
『成程、茅場晶彦か……であるならば、君の話を理解できるのも当然だ。何せ私は、茅場晶彦と並ぶだけの天才的頭脳を持つ春川英輔のコピーなのだからな』
「そういうものか……」
天才的な頭脳を持つが故の理解力なのだとHALは言うが、春川の……というより、自身の頭脳を誇示しているようにも思えた。
だが、和人は敢えてそれ以上言及することは無かった。
『君の前世や、その世界にあった忍者や忍術という概念……そして、それを現実世界や仮想世界で再現した仕組みについては非常に興味深い。
君という存在の特殊性こそが、私達の計画を破綻させた最大の要因だったということか。入念に記録を隠滅したにも関わらず、刹那の存在に辿り着き、あのパスワードを導き出すことができたのも、頷ける』
「残念だが、パスワードの件は違うぞ」
『何?』
解読されないことに絶対的な自信を持っていたパスワードを知ることができたのも、和人の特殊性故とHALは考えた。だが、その推測は和人本人によって否定された。
「パスワードを解読したのは、俺でも、新一でも、Lでもない。……こいつだ」
そう言って、和人は部屋の入口を見やる。すると、扉の前に一人の人物が現れた。
黄色のショートヘアに、赤いピン止めを両方のサイドにつけた、和人や新一と同年代の少女である。
『君は……もしや、桂木弥子か?』
「はじめまして……って言うべきなのかな?かなり前に一度だけ、春川教授には会ったことがあるんだけど……」
少女――桂木弥子は、苦笑しながらそう答えた。
一方のHALは、弥子の言葉に怪訝な表情を浮かべた。HALが弥子のことを知っていたのは、弥子が数年前まで活躍していた女子中学生探偵だったからである。一方のHALには、コピー元となった春川英輔の記憶と頭脳があるにもかかわらず、弥子と面識を持った出来事に覚えが無かったのだ。
「やっぱり覚えていない、か……。春川教授には、私から会いに行ったことがあるんだよ」
『君が、春川と……?』
「五年くらい前かな……世間でいう『血族事件』が解決してからあまり経っていない頃なんだけど……その事件の中で、私はある人と出会った。その人の名前は……”本城二三男”」
『!!』
本城二三男。その名前を、HALは――正確には春川は――知っていた。生前の春川も一目置く程に優秀だった物理学者である。だが、それだけではなく……春川にとってはより重要な意味を持つ人物だった。
『本城二三男……刹那の実の父親か』
「そうだよ。そして、娘である刹那さんをその手で殺してしまった人……」
本城二三男と弥子が出会ったのは、五年前……『新しい血族』を名乗るテロリスト集団が活動を開始しようとしていた頃のことだった。
ホームレス生活をしていた二三男は、食べ物に釣られて偶然通りかかった弥子と出会って意気投合。その後は、紆余曲折を経て事件に巻き込まれていった。
だが、二三男の正体は、『新しい血族』の首領であるシックスのスパイだった。そして、弥子との接触をはじめ、事件の流れは全てシックスの仕組んだ策謀によるものだったのだ。
事件の最中、親しかった刑事を失ったことをきっかけに、弥子は二三男の正体を看破するに至った。それに対して二三男は、弥子が看破した事実を認めるとともに……己の罪を悔いて、弥子の前で自ら命を絶ってしまったのだ。
「事件が全部解決してから、刹那さんのことを知った私は、刹那さんのことを大切に想っていた人の……春川教授のことも知った。私が会いに行ったところで、何ができるかも分からなかったけれど……それでも、話しておきたいと思ったの」
脳に異常が生じる未知の病気と診断され、春川のもとへ贈られた刹那だったが、病の正体は血族事件の主犯であるシックスと呼ばれた男が、二三男に命じて開発した脳強化試薬を気まぐれに投与したことによるものだったのだ。事件解決後、二三男の身に何があったのかを知りたかった弥子は、娘である刹那の身に起きた悲劇を知り……同時に、彼女の治療に携わっていた春川のことを知ったのだった。
『成程……それで、春川のもとへ、事件の真相を報告しに来たということかね』
「それもあるけど……何より、春川教授のことが心配だったの。人はふとしたことが原因で、想像もつかないようなことをしてしまうことがあるって、知ってたから……」
弥子の言葉に、隣で話を聞いていた和人と新一は、沈痛な面持ちとなった。和人の場合は前世の忍者としての経験から、新一の場合は学生探偵としての活動の中で、弥子の言う、人が追い詰められた時に見せる思いもよらない本性というものを嫌と言う程知っていたからだ。
「春川教授は、私に会ってくれたけれど……私の話にはあまり耳を傾けてくれなかった」
『あの頃の春川は、刹那を再現することに、自身の命を捧げることすら厭わない程の執念を燃やしていた……。君の話だけじゃない。春川にとっては、それ以外のあらゆることは取るに足らない些事となっていた。君と会った時の記憶が残っていないのも、無理もない話だ』
「……新一君とLから話を聞いた時には驚いたよ。まさか、春川教授がこんなことをしていたなんて……」
Lと新一は、ヒロキからの情報によって、HALを守るピラミッドの防壁を突破するための最後の鍵が、春川の目的に基づくパスワードであると知り、これを解き明かせるであろう人間――春川英輔という人物について知る人間――を急いで探した。そして、弥子へと行き着いたのだ。
対する弥子は、新一とLからの突然の呼び出しと依頼に戸惑いはしたものの、春川が現在進行形でしでかしている一大事を聞いて、すぐさま捜査本部へ急行したのだった。そして、パスワードに心当たりが無いかと聞かれ……その答えは、すぐに出た。
「1にスラッシュを挟んで、また1。その後、0を16個並べる。そうしてできるのが、1と0の間の、日常ではまず使われない極小の数の単位……『刹那』。数字で表せる彼女の名前こそが、あなたと春川教授の目的であり、パスワードの正体だった」
『見事だよ、桂木弥子。イタチ君こと桐ケ谷和人君の存在も大概だったが、私の計画を破綻させた思わぬ伏兵は、君だったということか』
この計画を実行に移すにあたり、春川は本城刹那に関わる記述が載った記録の一切を焼却処分し、関係者の記憶も電子ドラッグで封じていた。そうして、刹那の存在へと通じる痕跡の全てを断ち切ったつもりでいた春川だったが、一度会ったきりの弥子にまでは対処が及ばなかったのだ。
「悔やんでも悔やみきれないよ……あの時、もっと春川教授と話をできていたら、こんなことにはならなかったんじゃないかって……私には、そう思えてならなかった……!」
『……君ならば、私達の計画を止めることができたとでも?それは思い上がりだよ、桂木弥子。私も春川も、誰に何を言われたところで……それこそ、譬え亡き刹那から諭されたとしても、計画の実行を止めることはしなかっただろう』
HALの言うように、この計画は春川英輔が文字通り命を賭してまで実行したことからも分かるように、何人たりとも止めることはできなかっただろう。春川本人ですら、誰よりも無謀と理解していながらも、挑むことをやめられなかったのだから。
そして、春川の望みを否定することは、弥子を含めてその場にいた誰にもできなかった。出来ることならば生き返らせたいと……何を犠牲にしてでも助けたい、もしくは助けたかったと想う人間がその場にいた全員の中に……否、誰の中にでもいるのだから。
『HAL……僕も聞きたいことがある』
ここで口を挟んだのは、ノアズアークことヒロキだった。ワタリが持っている、クロイスター・ブラックフォントの『L』が表示されたパソコンのスピーカーから、ヒロキ・サワダの少年の声が響いてくる。
『春川教授がこの計画を実行したのは、茅場晶彦への対抗意識からじゃないのかい?』
『ほう……何故、そう考えたのかね?』
ヒロキの問い掛けに、HALは興味深そうな表情を浮かべた。ヒロキの推測は、春川の分身であるHALにとって予想外のものだったらしい。
『君達が立てた計画は、SAO生還者を標的にして、『ソードアート・オンライン』のフロアボスを使って襲撃しただけじゃない。首謀者がラスボスとして倒された後の結末まで同じだった。自分自身の脳を高出力スキャンにかけた、茅場晶彦とね……』
「言われてみれば……確かにそうかも」
『茅場晶彦は自分自身をデジタルデータに再現しようとしましたが、春川教授は本城刹那を再現しようとしていました。対象に違いはありますが、目的は同じですね』
ヒロキの意見に、弥子とLが同意する。一方のHALは、不敵な笑みを浮かべたまま、ヒロキの意見に聞き入っていた。
『しかし、HALは……春川教授は、茅場晶彦ほど非情にはなれなかった。電子ドラッグで多くの人を操り、自分自身の命を代価に計画を実行したけど……無関係な人々の命までは奪わなかった。それに、共犯の重村教授とエイジ君に罪を犯させることすらしなかった。ヒントをくれたのも、君達に人としての心が残っていたからだ』
ヒロキの推測に、HALはフッと自嘲するような笑みを浮かべた。
『君の推測は、概ね当たっている。茅場晶彦は、自身の脳を高出力スキャンにかけて、自身を電脳化した。彼にできたのならば、同じ天才である自分にできない道理はない。それが、春川がこの計画を実行するに至った理由の一つだ。確かにそれは、対抗意識と言えるだろう』
「成程な……自身の頭脳に絶対的な自信とプライドを持っていた春川教授なら、十分あり得ることだ」
「他人にできて、自分にできないなどということは、認められなかったんだろう。本城刹那の死によってプライドが傷付けられたというのなら、猶更だ」
天才的頭脳を持つ春川が、自分の脳に高出力スキャンをかけるという、無茶分の悪い賭けに出たことは、和人や新一も疑問に思っていた。だが、先に計画を成し遂げた茅場への対抗意識があったのならば、それも納得できた。
『尤も、君達の言った通り、春川は茅場晶彦のようにはなれなかった。自分以外を犠牲にすることができなかったのは、刹那を失った時の悲しみを他者へ与えることを忌避したためか……それとも、対抗意識を燃やしていた茅場晶彦と全く同じプロセスを経て自分の望みを叶えることが耐えられなかったかのは、定かではないがね』
或いは、他者を容赦なく犠牲にできるくらいに――それこそ茅場と同程度に――人格が破綻していたならば、春川の望みも叶っていたかもしれない。そんな考えが、和人やLの頭を一瞬過ったが、すぐにそれは暴論と断じて思考の外へと追いやった。
そのようなことよりも、今は重要なことがある。
「悪いが、話はここまでだ。それよりHAL。お前の今の状況は分かっているな?」
感傷に浸る者達もいたが、いつまでもそうしているわけにはいかない。和人は先程までの調子とは打って変わって、脅しのニュアンスを込めて口を開いた和人に対し、しかしHALはこの場で対面した時と変わらず、余裕を全く崩さなかった。
『昨日の電脳戦でパスワードの防壁を突破された後、ここへ逃れるために、私は自分の持つ権限の大部分を切り捨てる羽目になった。さらに先程、この別荘に繋がれていた筈の回線は電話線を含めて全て遮断された。別荘の外も、君達の仲間達に包囲されている。手足を切り落とされたも同然の状態で、逃走経路すら断たれたこの状況は、私にとっては完全に”詰み”と言うべきだろう』
明晰な頭脳をもって語るHALの分析には、何一つ間違っている点は無かった。ライブ会場の戦いの裏で行われていた電脳世界での戦いに敗走したHALは、ファルコンこと藤丸と、ノアズアークことヒロキの追撃を回避するために、トカゲの尻尾切りの如く、自身が所有していた権限の大部分を放棄した。今のHALには、電子ドラッグで洗脳した兵士を操ることはもとより、市販のコンピューターのファイヤーウォールを突破することすらできない。
そして、そんな満身創痍の状態で逃れた先の、最後の砦たるこの別荘は、藤丸とヒロキによって回線切断され、現実世界ではLが派遣した実働部隊によって完全に包囲されている。
HAL自身が締め括った通り、完全に詰んでいるのだ。
『私がこれからどうなるか……それは私自身がよく分かっている。だがその前に、私をここまで追い詰めた君たちに敬意を表し、二つの贈り物がある』
HALがそう言うと、モニターの画面が切り替わる。表示されたのは、『ANTI-PROGRAMvr.2.0』という名前のファイルだった。
『一つは電人HALを作る過程の副産物……電子ドラッグの正式なワクチンだ。テレビでもネットでも、あらゆる媒体の発信源にこのプログラムをインストールすればいい。三日後には、ほぼ全ての兵隊の洗脳が解かれるだろう』
これは朗報だった。今回の計画において、HALは横須賀米軍基地の兵士をはじめ、大量の人間を電子ドラッグで洗脳している。潜在的な兵士も含めてどれだけの人間が洗脳されているかが分からない上に、今までは捜査への対応を優先した関係で、電子ドラッグの解析はこれから行わなければならないのが現状だった。
そういった電子ドラッグに関しては後手に回らざるを得なかった事情につき、洗脳を解くためのワクチンの存在は非常に助かるものだった。効果の信憑性については、これからファルコン等の方で確認しなければならないが、この状況でHALが偽物を出す理由も無いので、まず効果に間違いはないと信じて問題は無いだろうと、その場の誰もが考えていた。
『そしてもう一つが、これだ』
「!!」
画面に新たにHALが表示したもの。そこにあったのは、『”電人HAL”このプログラムを消去します。』という文言。その下には『OK』と『Cancel』のボタンが設けられていた。
『春川の計画は、失敗に終わった。刹那を再構築するための最大のリソースを失った今、もはや計画の続行は不可能だ。この状態ではたとえ何億年かかっても……私の望む計算結果は得られない』
Lやファルコンが追い詰めるまでもなかった。春川の脳内スキャンが失敗した時点で、HALは刹那を再生させる望みを完全に諦めていたのだ。
『春川は私に自己破壊の権利を与えなかった。己の命に懸けて、刹那の再生を成功させると信じていたからだ。最後のエンターは、外部の人間が入力しなくてはならないのだ
桐ケ谷和人、桂木弥子……いや、私を追い詰めた君達の中の、誰でも構わない。君達の手で、私を消去したまえ』
HALが最後に提示した報酬は、HAL自身の消滅……その権限だった。モニターに表示された『OK』のボタンをクリックすれば、HALは電脳世界から永久にいなくなる。即ち人工知能としての『死』である。
「できないよ!!」
己を殺せと言うHALに対し、一番に声を上げたのは、弥子だった。目に涙を浮かべながら、HALの要求を拒絶する。
「電子ドラッグのワクチンまで作ってて!それに……解かれたくないパスワードのヒントまで出して!大勢の人を犠牲にするオーディナル・スケールの計画を……本当は止めて欲しかったからなんでしょう!?」
計画を止めて欲しかった……即ち、自分以外の犠牲を出したくないと考えたHALには、春川同様、人としての心があると、弥子は確信していた。故に、それを消し去ること……殺すことはできなかったのだ。
『……電人HAL。あなたが協力者であるエイジ君に渡したアンプルの中身の成分調べました』
弥子に続いて口を開いたのは、意外なことに、ワタリの持つパソコンを通してこの場の様子を見ていたLだった。
『中に入っていた液体は、『
HALはエイジに対し、『
「エイジだけじゃない。察するに、重村教授についても、罪に問われないための措置を取っていたんじゃないか?」
Lに続いて意見を述べたのは、和人だった。恐らくは、事件の主犯が春川及びHALであることを示す証言映像の類を残しているのだろうというのが、和人の推測だった。それがこの別荘の中に隠されているのか、それとも事件後に警察関係者の目に触れるようにメールや郵便で届けるつもりなのかは、まだ分からない。だが、春川とHALが犠牲を出すことに消極的だったならば、そのような、計画の失敗を前提とした証拠物品が確実に出てくる可能性が高い。
『そこまで見抜かれていたとはね。であるならば、なおさら君達には分かっているのでないか?この計画が失敗に終わった時点で電人HALは……存在の意義も、存在の意思も失うことになることも』
電人HALが生み出された理由である、刹那を再生するための計画は既に破綻した。それによって、再生された刹那を迎えに行くという電人HALの存在意義もまた、消滅したのだ。
『このまま存在し続けていても、無意味な苦痛が続くだけだ。だからこそ……消せッ!!』
「う、うあっ……!」
常に冷静沈着な態度を崩さなかったHALらしからぬ強い口調で迫られ、弥子は思わず後ずさりした。
『早くしたまえッ!!人口知能の私に恩や情は通用しないぞ!!このまま放っておけば、どのような暴走をするか、私自身すらも予測できないのだぞ!!』
鬼気迫る表情で脅し文句を重ねるHALに突き動かされ、弥子はキーボードへと手を伸ばす。そして――――――
キーは、押された。