ソードアート・オンライン 仮想世界に降り立つ暁の忍 -改稿版-   作:鈴神

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第五十一話 ユイの心

 第一層西部の遺跡に響き渡る、少女の慟哭。そして、天へと立ち上る激しい光に、激しいノイズと共に起こるポリゴンのブレ……次々起こる、SAOにおいて有り得ない超常現象に、その場にいたプレイヤーは誰一人として動けない。

そして、それら奇怪な現象は、唐突に終わりを告げた。急速に縮小した光の中には、先程まで悲鳴を上げていた少女の姿があった。その場にいた全員の視線が集まる中、少女――ユイは一人、立ち上がった。

 

「ユイ……ちゃん?」

 

 突然起こったユイの異変に、アスナは何が起こったのかを全く理解できず、しかし名前を呼びかけた。対するユイは、ロープアイテムによる拘束と予想外の出来事による衝撃で動けないアスナの方へ振り向くと、僅かな笑みを浮かべて答えた。

 

「大丈夫だよ……ママ」

 

 出会った当初の幼さの無い、非常に安定した表情で短くそれだけ口にすると、ユイは瞳を瞑り、ゆっくり言葉を紡ぎ始めた。

 

「システムログイン。ID『MHCP001』。」

 

(やはり、ユイの正体は……!)

 

 唐突に口を開き、呟いたユイの言葉に、イタチはいよいよもって彼女の正体を確信し、そして記憶を取り戻したことを悟る。誰もが呆気にとられる中、ユイは音声コマンドらしき言葉を紡ぐ。

 

「システムコマンド。オブジェクトID『ロープ』を除去」

 

「な、何っ!?」

 

 同時に、それまでユイとアスナを拘束していたロープアイテムが消滅した。SAOのシステム上、ストレージに納めるか、耐久値が尽きるか以外の原因でアイテムが消滅することは有り得ない。それをこの少女は、これもまたシステム上有り得ない、正体の全く分からない方法でやってのけたのだ。

 プレイヤーには有り得ない異能を顕現した少女に、その場にいた一同は驚愕を露にする。誰もが凍りついて動けない中、少女は音声コマンドを口ずさみ、紡いでいく。

 

「システムコマンド、プレイヤーステータスを『パラライズ』へ変更」

 

「うわっ……!」

 

「ぐっ……!」

 

「なっ……!」

 

 次の瞬間には、アスナとユイを取り囲んでいた軍の兵士、そしてそれを指揮していたヨロイとツルギまでもが、次々地面に倒れ伏していく。次々に起こる事態に、麻痺に陥ったヨロイとツルギをはじめとした軍は勿論、シンカーやユリエールも驚愕に表情を染める。

 

「ま、麻痺だと……!どうなっている!」

 

「クソッ、クソッ!何しやがったんだあの小娘!」

 

 地面に倒れた軍のプレイヤー達の視界の端、HPバーには、麻痺を示すデバフアイコンが点滅している。麻痺毒や、特殊効果を持つ技を受けたことが原因ではない……明らかに別の何か、もっと言えば、ユイと呼ばれた少女が起こした異変であることは、明白だった。

 

「ユイ、ちゃん……なの?」

 

 母親としてユイを保護している立場のアスナは、目の前の光景が信じられない。ヨロイとツルギの狂気に当てられ、奇怪な現象を伴う金切り声を上げ、それが終わった次の瞬間には、軍のプレイヤーを次々麻痺に陥れたのだ。明らかにプレイヤーのなせる業ではない。これではまるで……

 

(GMの……システム権限……でござるか?)

 

 人知の及ばぬ異常事態にありながら、冷静な思考を保つことのできたケンシンは、現状を分析すべく思考を走らせる。ケンシンが至った結論は、当たらずも遠からずといった具合だが、イタチの場合はユイの正体から知っているため、今更驚きはしない。

 イタチとケンシンを除き、大部分の者が驚愕する中、ユイはさらに新たな異変を引き起こす。

 

「システムコマンド。ID『イタチ』と『アスナ』、カーソルカラーをオレンジからグリーンへ変更」

 

「えっ?」

 

「む……」

 

 途端、今度はイタチとアスナの視界、その端に表示されたステータスに変化が起こる。プレイヤーを攻撃したことで、カーソルがオレンジに変化していることを示す表示が、グリーンのものへと戻っているのだ。

 

「イタチ殿、カーソルが緑に……」

 

 隣でその変化を見ていたケンシンもそう言っている。アスナの方を見れば、彼女も同じくカーソルがグリーンに戻っていた。どうやら、これもユイのおかげらしい。

 と、そこへ

 

「おーい!イタチ!」

 

 すぐそこからイタチの名を呼ぶ声が聞こえた。振り返って見てみると、そこにはイタチと同じ攻略組プレイヤーのカズゴ、アレン、ヨウ、メダカ等、攻略組メンバーの姿があった。それを追うように続くのは、ディアベルとキバオウを中心とした、中層で治安維持に務めている軍の実働部隊である。

 

「遅かったでござるな」

 

「悪かったな。これでも大急ぎで来たんだぜ」

 

「全く……イタチ、君は相変わらずトラブルに巻き込まれるのが好きみたいですね」

 

 イタチとケンシンは、ヨロイとツルギの脅迫状に従って西部の遺跡へ行く前に、比較的親しい仲の攻略組プレイヤーへ呼び掛け、中層で活動しているディアベルをリーダーとした部隊を援軍として連れてくるよう頼んでいたのだ。

 尤も、ディアベル達実働部隊は、小一時間前までは中層のフィールドで狩りをしていたのだから、カズゴ達が合流に時間をかけてしまったのは仕方の無いことと言える。

 

「イタチ君……また、君に迷惑をかけてしまった……本当に済まない」

 

 自分の管理が行き届かない、第一層本拠のトラブルに巻き込んでしまったことについて、ディアベルはイタチに深々と頭を下げて謝罪する。後方に控えているキバオウは沈黙したままだが、今回の騒動に関しては完全に軍の側に非があるため、口を挟むことはできないと考えているのは分かった。

 主にディアベル等、軍のプレイヤー達にとって気まずい空気が流れる中、現状を確認するべくメダカが口を開いた。

 

「それより、ここにいる軍の連中が、ヨロイとツルギの一味で間違いないのか?」

 

「その通りです。アスナさん達を誘拐し、我々をここで殺そうとしました」

 

 シンカーの回答に、メダカは得心した様子で頷いた。同時に、ある疑問も浮かんだ。

 

「フム……しかし、何故全員、麻痺を食らっているんだ?明らかにプレイヤーによるもの……だが、誰一人としてオレンジカーソルにはなっていない」

 

「ええと、それは……」

 

 メダカの唱えた疑問に、シンカーとユリエールは返答に窮する。現場に居合わせた自分達も、何がどうなってこのような状況になったのか、未だに理解できていないのだ。唯一分かっているのは、ここから少し離れた場所に立つ少女――ユイが、この異変の鍵を握っているということくらいだが、それを口にすることは憚られた。二人が押し黙るそんな中、今度はイタチが入ってきた。

 

「悪いが、その説明は後にさせてくれ。まずは、ここに倒れている連中の確保だ。全員、黒鉄宮の監獄エリアへ連行する必要があるだろう」

 

「…………それもそうだな。よし、それでは皆、ここに倒れている連中全員を一か所に集めるんだ。回廊結晶を用いて、一気に黒鉄宮へ送り込む!」

 

 察してくれと暗に頼み込むイタチの言葉に、メダカは一先ず疑問を棚上げすることにした。自身のギルメンや攻略組プレイヤー、後方の軍の兵士に呼び掛け、遺跡内部に倒れている軍のプレイヤーを片端から石畳の中央へと集めた後、ロープで体を縛り上げる。全員捕縛したのを確認した後、メダカは回廊結晶を取り出し、起動キーを口にする。

 

「コリドー・オープン!」

 

 途端、遺跡中央に青白い光の渦が発生する。回廊結晶の入り口である。出口に指定した場所は勿論、第一層黒鉄宮の監獄エリアである。メダカは入り口が開くや、拘束した軍のプレイヤー達を次々放り込んでいく。十数名近くの部下を光の渦に落とし、最後にリーダー格のヨロイ、ツルギを放り込もうとした、その直前、ツルギは、援軍が到着してからずっと立ち尽くしていたユイの方を向くと、

 

「この……化物がっ!」

 

 そう悪態を吐き、渦の中へ飛び込んだ。憎しみの籠った視線で投げかけられた悪意に満ちた侮蔑の言葉に、ユイの身体が再び硬直する。そんな彼女を傍らに立っていたアスナはぎゅっと抱きしめた。

 

「ユイちゃん、大丈夫だよ……大丈夫だから…………」

 

 正直、アスナも心の整理ができていない。一連のユイが顕現した異能は、システム上説明のつかないものばかりである。もしかしたら、彼女は本当に自分達と同じ、プレイヤーでは……人間では、ないのかもしれない。しかし彼女の正体が何であれ、アスナは自分を母親と慕うこの少女を放ってはおけなかった。ただ純粋に、一緒にいてあげたかった。そんなアスナの気持ちが伝わったのか、ユイの方からもアスナを抱きしめてきた。

 

「ママ……」

 

 抱きしめる手は、震えていた。先ほどのヨロイの言葉が、彼女の心に深い傷を付けたのだろう。恐怖に震える彼女の身体を、アスナもまた、さらに強く抱きしめた。

 

「……メダカ、ディアベル。悪いが、先にはじまりの街に戻っていてくれないか?」

 

「……分かった。我々は先に、街に戻って捕縛した連中から事情聴取を行うとしよう。それでは、行くぞ皆」

 

「ここからだと、黒鉄宮まではかなり距離がある。軍の連中の取調べを早期に行う必要がある以上、少々高くつくが、転移結晶で戻ろう」

 

 メダカとディアベルの言葉に、その場にいたプレイヤー達は一様に頷くと、ポーチに仕込んでいた水色の結晶型アイテム、転移結晶を取り出す。

 

「転移、はじまりの街」

 

 ディアベルが転移したのを皮切りに、次々プレイヤー達は、先の回廊結晶と同じ青白い光の中に消えていく。シンカーとユリエール、ケンシンも含め、イタチとアスナ以外の関係者は全員、この場から消え去った。

 それを見届けると、イタチはアスナとユイがいる場所まで近づいていく。互いに抱き合っていたアスナとユイは、イタチが近づくとその抱擁を解き、二人揃って顔を向けた。

 

「……アスナさん、ユイ。大丈夫でしたか?」

 

「うん。ロープで縛られてからは、別に危害は加えられなかったけど……それより、ユイちゃんが……」

 

 アスナの心配は、自分よりもユイの方だったのだろう。誘拐された恐怖はもとより、先ほどのシステム上あり得ない奇怪な現象を巻き起こした彼女に、いったい何があったのか。非常に心配だった。対するユイは、そんなアスナと、傍に立つイタチに、にこりと笑いかけた。

 

「心配ありませんよ……アスナさん、イタチさん」

 

「ユイ、ちゃん?」

 

 出会ってから感じていた、年齢不相応な幼さを全く感じさせない口調。そして、自分達をパパ、ママと呼ぶのではなく、プレイヤーネームで呼んできた。その事実に、イタチは一つの答えを得る。

 

「全て、思い出したんだな」

 

 イタチの言葉に、アスナははっとする。対するユイは、こくりと小さく頷いた。

 

「全部、説明します」

 

 人気が完全に無くなった遺跡フィールドの中、ユイの単調な、それでいてどこか哀愁を感じさせる言葉による説明がなされていく。

 

「この世界、『ソードアート・オンライン』は、一つの巨大な制御システムのもとに運営されています。システムの名前は、『カーディナル』――――」

 

「そのシステムについては聞いている。システム自らの判断にも基づいてゲームバランスを調整し、人間のメンテナンスを必要としないことが特徴、だったな」

 

「イ、イタチ君!?」

 

ユイに続く形で発したイタチの説明に、アスナは驚いた顔をする。ソードアート・オンラインのモーションキャプチャーに携わった過去を持つイタチは、その動きをゲーム内でどのように処理・再現するかについて説明を受けている。その中には、現在話題に出ている、ゲームバランスを調整するカーディナルプログラムも含まれていたのだ。ユイはイタチに対し頷き、その先を口にする。

 

「その通りです。その構造は、二つのコアプログラムが相互にエラー訂正を行い、さらに無数の下位プログラム群によって世界の全てを調整するというものです。モンスターやNPCのAI、アイテムや通貨の出現バランス……何もかもが、カーディナル指揮下のプログラムによって、操作されています。しかし一つだけ、プログラムだけでは解決できない、人間の手による介入を必要とする事項がありました」

 

「プレイヤーの……つまりは人間の心、か」

 

「……はい」

 

 ユイが言わんとした核心を口にしたのは、イタチだった。ユイの正体を知ることができたのも、茅場晶彦から得たプログラムの情報についての知識があったからだ。対するユイは、暗い表情でイタチの言葉を肯定した。全てを説明するには、ユイの真実について語ることは避けて通れない。

 事情を全て把握したイタチならば、ここから先をユイの代わりに語ることもできる。真実を語ることで受ける痛みがどれほどのものかを知るイタチは、無言でユイにそれを提案するが、ユイは首を振ってそれを断った。その覚悟を察したイタチは、これ以降口を挟まないことを心に決めた。

 対するユイは、そんなイタチの気遣いに僅かな笑みを浮かべながらも、続けた。

 

「開発当時は、十人規模のスタッフが用意される筈でした。しかし、開発者たちは、プレイヤーのケアすらもシステムに委ねようとしました。それが私……『メンタルヘルス・カウンセリング・プログラム』……MHCP試作一号、コードネーム『Yui』。それが私の正体です」

 

 ユイから語られる真実に、アスナは驚愕を露にする。今まで自分達と一緒にいた、この少女が、プレイヤーでは……人間ではないというのだ。それは、ユイを本当の子供のように思っていたアスナにとっては、何よりも衝撃的だった。

 

「プログラム……AIだっていうの?」

 

「プレイヤーに違和感を与えない様に、私には感情模倣機能が与えられています…………そう、偽物なんです。この涙も……気持ちも……何もかもが。ごめんなさい、アスナさん」

 

 ユイの頬を伝う涙に、アスナはかける言葉が見つからない。隣に立つイタチも、表面上は鉄面皮ながら、内心は複雑だった。

 

「ユイちゃん……でも、記憶が無かったのは?AIにそんなこと、起きるの?」

 

 ふと湧いた疑問を口にするアスナ。AIでは有り得ない、記憶喪失という障害……または欠陥。そんなものが発生した理由。恐らくそれは、自分達の前に現れた事と関係しているのだろうと、イタチは思った。

 

「二年前……正式サービスが始まった日のことでした……」

 

 正式サービス開始時とは、即ちデスゲームの開始宣告がなされた日のことである。そしてそれは、ユイの崩壊が始まった日だったのだろうと、二人は直感した。

 

「カーディナルは、何故か私へ、プレイヤーに対する一切の干渉禁止を言い渡しました。私は止むなく、プレイヤーのメンタル状態のモニタリングだけを続けたんです……」

 

 その先は、大体予想がついた。ログアウト不能の死の牢獄と化した世界に閉じ込められた全プレイヤーが、絶望の底に落とされた瞬間だったのだ。それをモニタリングしたのだとしたら、ユイの負担は測り知れない。

 

「状況は、最悪と言ってもいいものでした……恐怖、絶望、怒りといった負の感情に支配された人々……時として、狂気に陥る人すらいました。本来ならば、すぐでにでもそのプレイヤーの元へ赴き、カウンセリングを行わなければならない……でも、接触することは許されない。義務だけがあり、権利の無い矛盾した状況の中、私はエラーを蓄積させ、崩壊していきました……」

 

 当時のことを思い出し、意気消沈するユイ。プレイヤー全員の絶望を直視し続けたのだから、当然だろう。普通の人間であっても、発狂しかねない状況だ。

 イタチとアスナまでもが揃って黙る中、ユイは再び口を開いた。

 

「でもある日……他のプレイヤーとは異なる、メンタルパラメータを持ったプレイヤーの存在に気付きました。それが……イタチさん、あなたです」

 

「……何?」

 

 予想外な指名に困惑するイタチ。身に覚えが無いと言わんばかりの表情を浮かべるイタチに、ユイは穏やかな笑みを浮かべた。

 

「ビーターという悪名を背負うあなたの心には、怒りや憎しみは全く無く……けれど、誰よりも多くの悲しみがありました。一見すれば、他のプレイヤーと同じ……けれど、本当はそれだけじゃないことを、あなたの行動を見守り、遡る内に、私は知りました」

 

 イタチと目を合わせて言葉を紡ぐユイの顔には、先程までは薄れかけていた生気が戻っていた。

 

「生き残れるかも分からない、命懸けのゲーム攻略なのに、あなたと一緒に戦う人達の心は、この世界のどこよりも、希望に満ち溢れていました。憎むべき相手だけれど、あなたさえいれば、安心なのだと。それで、一人で誰よりも多くの悲しみと、多くのプレイヤーの憎しみを背負って戦うあなたは、皆に希望をあげるために戦って来たのだと、私は理解しました。アスナさんも、その一人なのではありませんか?」

 

「うん…………そうだったね」

 

 ユイの話を聞いて、アスナにも自覚はあったのだろう。デスゲームに囚われ、日々現実世界の自分の世界が破壊されることに怯え、恐慌し、狂戦士とまで呼ばれていた自分。そんな自分に、安らぎを与えてくれたのはイタチだった。尤もそれは、本人の意図したことではなかったのだが。

 

「正式サービス初日に、自殺しようとうする人を止めようとした人や、攻略のための情報を積極的に提供していた人も……皆イタチさんが動かしたんです。

しかも、イタチさんは、いつも危険な攻略ばかりして、皆にために戦っているのに…………全てのプレイヤーの行き場の無い憎しみを背負うために、自らビーターと蔑まれることを選びました」

 

 ユイの口から語られる、イタチのこれまで。それを聞いたアスナは、沈痛な表情を浮かべる。今まで攻略組として傍に居ながら、ほとんど力になることができなかったことへと後悔が見て取れた。

 当のイタチとしては、一連の自分が行ってきた行為に関しては、全て自分に課せられた当然の義務だったとして受け取っている。確かに、転生してから、前世の反省を活かせない自分や、その犠牲に悲しみを抱いていたことは事実だが、それすらもイタチは自分の罪として呑み込んでいた。

 だが、ユイとしては容易に看過できることではなかったらしい。

 

「イタチさんは、自分を犠牲にすることで、皆を救いました。しかしそれは、本来私がすべきことでした……」

 

 ユイの顔が、僅かに暗くなる。確かに、こうして説明を聞けば、今までのイタチの行動は、ユイの代行と呼べなくもない。

 

「私にできなかったことをした、あなたに近づきたくて、私はフィールドを彷徨いました」

 

「……それで、俺がアイテム保存のために頻繁に出入りしているログハウスがある、二十二層の森の中に現れたのか」

 

「はい……私ずっと、あなたに会いたかった…………おかしいですよね、そんなこと、思える筈も無いのに……ただのプログラムなのに……」

 

「ユイちゃん……あなたは、プログラムなんかじゃないわ……私達と同じ、心を持ってる!」

 

 涙を流しながら自分を所詮プログラムと自嘲するユイの肩を掴み、アスナはそう呼び掛けた。その頬にも、涙が伝っている。

 

「あなたはもう、システムには縛られる存在じゃないわ……さあ、言って。あなたは、どうしたいの?」

 

 涙ながらに真剣に問うアスナ。対して、ユイは……

 

「私は……私は……ずっと、一緒にいたいです。パパ、ママ……!」

 

「ユイちゃんっ……!」

 

 その答えを聞いた瞬間、アスナはユイを抱きしめた。抱きしめずには、いられなかった。その後ろで、イタチは一人立ち尽くしている。本来ならば、アスナと一緒にユイの傍に行くべきなのだろう。抱きしめてやるべきなのだろう。だが、同時に自分にはその資格が無いことを、イタチは感じていた。

 

「ありがとう、ママ……でも、もう遅いんです」

 

「遅い?……どういうこと、ユイちゃん」

 

 不安そうな顔をするアスナに、ユイは辛そうな顔で答える。

 

「この遺跡の真下には、主街区の黒鉄宮にあるダンジョン奥深くにある、システムコンソールがあります。さっきの争いの中で、かつての正式サービス開始日と同じ……プレイヤーの絶望と狂気が再現された場面を見たことで、私は記憶を取り戻しました。同時にシステム権限を取り戻し、それを使って、あの人たちを麻痺させたのですが……

同時に、今私のプログラムがチェックされています。カーディナルの命令に違反した私は、システムにとっての異物です。すぐに消去されてしまうでしょう」

 

 ユイの口から告げられた言葉は、何よりも衝撃的だった。だが、イタチもアスナも、その言葉が間違っていないことを、システム上の道理であることを察していた。しかし、アスナはそれを認められない。

 

「そんな……嫌よ、そんなの!これからじゃない!もっと皆で一緒に……!」

 

「パパ、ママ、ありがとう。これでお別れです……」

 

 その瞬間、ユイの身体が白い光に包まれ始めた。カーディナルによるチェックが終了し、いよいよ消去という段階に入ったのだろう。アスナはユイを決して離すまいと抱きしめている。当のユイは、その後ろに立ったままのイタチへと視線を向けていた。

 

「パパ、ごめんなさい。私が背負わなければならないもの全部押しつけて……こうして会えたのに、何の力にもなれなくて……本当に、ごめんなさい」

 

 その言葉に、イタチの鉄面皮に皹が入った。今まで、どんな罵詈雑言でもイタチの表情を変えることすら敵わなかった。だが、ユイが口にした謝罪は、これまでに無いほど大きな波紋をイタチの心に広げていた。

 

「何故謝る……?俺は、お前の正体を始めから知っていた……それでいて、利用しようと考えていたんだぞ……!」

 

 ユイがプログラムであることは、森の中で邂逅した当初から察していた。こうして記憶を取り戻すのに協力したのも、プログラムとしての機能を取り戻すことで、未だ絶望の中にあるプレイヤーの心をケアできると考えたからだ。あわよくば、システム権限を取り戻す事で、ゲーム自体を終わらせることすらできないかと考えた程だ。

 だが、イタチの真意を聞いても、ユイは微笑みかけ続けた。

 

「全部、分かってます。それが、他の皆の事を想ってのことだということも……むしろ、どんな形であれ、パパが私のことを頼りにしてくれたことの方が嬉しかったです。だって、パパはいつも、一人で何でもしようとしていたじゃないですか」

 

 その言葉に、イタチは目を見開き衝撃を受ける。何と言うことだろう。プログラムであった筈の、自分もそう信じて疑わなかった少女は、本当は自分と同じ存在だったのだ。イタチの忍としての思考が、彼女の存在はプログラムという範疇から動かないと言っているが、心はそれを全否定している。彼女は自分達と何ら変わらない、人としての心を持っていると。ユイがイタチを『パパ』と呼んだのは、或いはその在り様に共感を得たからかもしれない。

 

「ママ……私の代わりに、パパを助けてあげて……パパは、一人じゃないって、教えてあげて。そしたらきっと……パパはもう、悲しい想いなんてしなくていいから……」

 

「うん!分かってるよ……分かってる。だから、ユイちゃんも……!」

 

「パパとママがいれば、皆が笑顔になれる……二人は、皆の希望なんです。だから……これからも、その喜びを皆に分けてあげてください……」

 

 その言葉を最後に、アスナの腕の中の感触は、光と共に完全に消えた……

 

「ユイちゃん……うわぁぁぁああああ!!」

 

 石畳に膝を付いたアスナの叫びが、木霊する。閃光のアスナと呼ばれ、強豪プレイヤーに名を連ねる自分は、あんな幼い少女一人救えない……こんな世界の不条理に従わねばならない。己の無力に、激しく打ちひしがれていた。

 だがイタチは、零れ落ちた葛藤となって頬を伝った一滴の涙を拭うと、懐に入ったアイテムを取り出し……

 

「コリドー・オープン」

 

 起動キーを唱えた。途端、イタチの取り出したアイテム――回廊結晶は、青白い渦をその場に作り出す。

 

「イタチ、君……?」

 

 イタチの奇怪な行動に疑問符を浮かべるアスナ。ユイが消えてしまった今、イタチもまた自分のように泣きだしはしないものの、果てしない悲しみに暮れている筈と思っていたのだが、そうは見えない。一体、何を考えているのだろう、その問いを投げるよりも先に、イタチは渦の中へと姿を消した。

 

「ちょっと、待って!」

 

 その後ろ姿を、アスナが追う。イタチが発動した回廊結晶の青白い光を潜り、辿り着いた場所は、見知らぬ部屋だった。

四方が白い光を放つ壁に囲まれた部屋の形は、完全な正方形。中央にはつるつるに磨かれた黒い立方体の石机が置かれている。たった一つの出口から見える光景からして、ここはどこかのダンジョンの安全エリアであると推測される。だが、一体どこなのか。そもそも、ユイが消滅してから来ることに意味がある場所なのか、アスナには見当もつかなかった。

 

「ねえ、イタチ君……ここって……」

 

 イタチにこの場所についての詳細を問おうとしたが、当人は部屋の中央にある黒い石机に飛び付き、その表面を叩き始めた。手つきからして、叩いているのは恐らくキーボードだろう。

 

「こ、これって……まさか!」

 

操作を初めて一分足らずで、イタチの手前に巨大なウインドウが複数出現する。その後も、幾つものコマンドを入力し、遂に目的のものであろうプログレスバーを出現させた。手を止めたイタチが見守る中、横線が右端まで到達した途端、

 

「ぐっ!」

 

「イタチ君!」

 

 黒い石机から、青白い稲光が迸る。強烈な衝撃に弾かれたように後ろへ吹き飛ぶイタチに、アスナが慌てて駆け寄る。

 

「イタチ君、大丈夫!?」

 

「ええ、問題ありません……」

 

 大理石の床にその身を強かに打ちつけていたが、心配は要らなかったらしい。言葉通り、別段何事も無かったかのようにイタチは身を起こした。

 

「イタチ君、ここって……」

 

「ユイが言っていた、黒鉄宮のダンジョン深くにある、システムコンソールがある部屋です」

 

 イタチの説明に、しかしやはりとアスナは思った。シンカーが取り残されていたのは、黒鉄宮のダンジョン奥深くにある安全エリア。イタチがシステムコンソールの在処を特定していても不思議ではなかった。

 

「SAO制作関係者と繋がりのあった俺には、この石机がシステムコンソールであることはすぐに分かりました。同時に、ユイの記憶を取り戻すための手掛かりになるのではと、回廊結晶でこの場所を出口に設定しておいたのです。

そして先程、ユイが起動した管理者権限が切れる前に、これを操作し、ユイのプログラム本体をシステムから切り離しました」

 

 そう言うと、イタチは握った右手の手の平を開く。そこには、大きな涙の形をしたクリスタルがあった。

 

「これは、ユイ本体をオブジェクト化したもの……ユイの心です」

 

「ユイちゃんの……ここに、いるんだね」

 

 イタチの手の平からクリスタルを手に取り、アスナはその胸にぎゅっと抱きしめた。涙に濡れたクリスタルが、静かに瞬いていた――――

 

 

 

 

 

2024年11月2日

 

 ディープダンジョンからのシンカー救出と、軍の過激派が起こした騒動から翌日。第一層で児童保護施設として利用されている教会では、ガーデンパーティーが催されていた。

 会場には、イタチやアスナをはじめ、ヨロイとツルギを確保するために駆けつけたメダカやカズゴといった一部の攻略組プレイヤーもいた。

 

「イタチさん、アスナさん、ケンシンさん……今回は攻略組の皆様方に大変お世話になりました。本当に、何とお礼を申してよいやら……」

 

 救出作戦に始まり、内部抗争に巻き込んで危険な目に遭わせたことに相当な負い目を感じているのだろう。深々と頭を下げて、感謝と謝罪を口にする。対するイタチ等三人は、それほど気にした様子は無い。

 

「いえ、お気になさらず」

 

「そうでござるよ、シンカー殿」

 

「それより、皆無事に帰ることができたんです。そのことを喜びましょうよ」

 

 嫌な話はこれまでとばかりに、パーティーを楽しむよう促すアスナ。シンカーも、表情は完全には晴れないものの、少しは和らいだ感がある。

 

「私からも、お礼を言わせてください。本当に、ありがとう」

 

「ユリエールさん。それより、軍はその後、どうなりましたか?」

 

 イタチの問いに、対するユリエールは、表情を厳しくして答えた。

 

「ヨロイとツルギは、犯罪者プレイヤーとして黒鉄宮に収容、その一味は全員、軍から除名しました」

 

「リーダーとして、もっと早くに決断を下すべきでした。しかし、私が放任したばかりに、最悪の事態を招いてしまった。解放軍自体も、ディアベルさん主導の治安維持組織を独立させ、第一層本部は解散するつもりです」

 

「それは……随分思い切りましたね」

 

「軍は巨大化し過ぎた……そのために、私一人では御し切れない事が、今回の件で露呈されてしまいました。解散後は、改めてもっともまともな互助組織を作るつもりです」

 

 強い決意を秘めた瞳でそう言い切ったシンカーの隣に、同様の覚悟を秘めたユリエールが並ぶ。

 

「軍が蓄積した資材は、この街の全住民に分配するつもりです。ケンシンさんやサーシャさんをはじめ、皆様には酷い迷惑を掛けてしまいましたから……」

 

「気にする必要は無いでござる。軍の中には、フィールドでモンスターに襲われていた子供を助けてくれた善良な者もいることは、拙者もサーシャ殿も分かっているでござる」

 

「そうですね。一概に、軍の方全員が悪者だなんて思っていませんよ。」

 

「ありがとうございます。それから、イタチさんへ、ディアベルとキバオウから言伝があります」

 

「あの二人から?」

 

 予想外な人物の名前が出たことに、二人は困惑の表情を浮かべる。特に後者の名前には、あまり良い思い出が無い。恐る恐るといった具合に、イタチが問いかける。

 

「……それで、二人は何と?」

 

「ディアベルは、第一層から始まり、イタチさんに迷惑を掛けっ放しで心底申し訳ないと謝っていました。キバオウも、あなたのことを気に入らないといっておりましたが、今回ばかりは感謝すると言っていました」

 

 ディアベルには、第一層ボス攻略においてLA目当てで無茶な特攻を行い、危うく命を落とすところをイタチに救ってもらった経緯がある。そして、それが原因でビーターという誹りを受けることになったのだ。故に、イタチには常日頃から多大な負い目を感じていたことは明らかだった。

 キバオウに至っては、二十五層の大規模MPKの救援や、その後のレッドギルドとの戦いで命を救われたこともある。ビーターであるイタチを毛嫌いしている人種の筆頭とも言える人物だが、今回の一件も相まって、イタチには感謝せざるを得なかったようだ。

 

「二人とも、今後のギルド運営においては、軍内部の組織腐敗の取り締まりを徹底するとのことです」

 

「それは、安心ですね……」

 

 犯罪者プレイヤーが起こす事件は、最大レッドギルドだった笑う棺桶の討伐戦以降、激減している。だが、主犯たるPoHと一部のメンバーが未だ逃走中である以上、予断を許さない状況である。解放軍には、ゲーム攻略を完遂するその日まで、治安維持に務めてもらわねばならない。

 

「それはそうと……」

 

 サーシャはふと、何を思い出したのか、イタチとアスナの方へ顔を向けた。

 

「昨日の女の子……ユイちゃんは、どうしたんですか?」

 

 その問いに、アスナは頬笑みを浮かべて答えた。

 

「ユイは……おうちへ帰りました」

 

「そうでござるか……」

 

 あの日、イタチ等を罠に掛けた軍のプレイヤーを麻痺させた、プレイヤーには有り得ない権能を示したユイ。だがケンシンをはじめ、ほかの攻略組プレイヤー達は、その行方に関してそれ以上尋ねようとはしなかった。勘の鋭いメダカあたりは、ユイの正体に気付いていもおかしくないが、他のプレイヤーには話せない訳ありの事情があると考えて追求は控えたのだろう。或いは、ユイと出会ってから、ほんの僅かに変わったイタチの雰囲気を見て、棚上げしても良いと感じたのかもしれない。「おうちへ帰った」という短い説明を受けた一同の顔には、ユイを警戒する様子も訝る様子も無く、ただただ穏やかな表情で、その言葉に納得していた。

 

 

 

 

 

 はじまりの街で催されたガーデンパーティーを終え、イタチとアスナは、サーシャとケンシン、シンカー、ユリエールや、教会の子供達に見送られ、転移門から第一層を後にした。向かう先は、二十二層にあるイタチの別荘である。

 

「本当に、これは俺が持っていていいものなのでしょうか?」

 

 郊外にある森の奥へと続く道すがら、イタチはアスナに問いを投げ掛けた。現在、イタチの首には鎖の細いペンダントが下がっている。そして、手の平の上には一滴の涙のように透明なクリスタルが乗っている。

 

「これは、いわばユイの心……あの子を利用しようとした俺には、持っている資格など……」

 

「いいの!あの子の望みは、イタチ君の力になりたいっていうことなんだから、こうしているのが一番なんだよ」

 

 イタチの首に下がったペンダント、その先端に付いた宝石は、先日の一件でイタチがオブジェクト化に成功した、ユイのプログラム本体である。ユイの心と呼べるこのアイテムを、当初イタチはアスナに身に付けるよう言ったが、アスナはこれをイタチが付けるべきと言い張り、現在に至る。

 

「このゲームがクリアされた後、ユイちゃんを現実世界に連れて帰るのは、イタチ君しかできないんでしょ?」

 

「……確かに、ユイのプログラムは、俺のナーヴギアのローカルメモリに保存されることになっていますが……共通アイテムウインドウを設定すれば、アスナさんが所持した状態でも問題は……」

 

「イタチ君だって、ユイちゃんのことを本当は自分の娘だって思っているんでしょ?なら、自分の手で守ってあげればいいじゃない」

 

「それは、アスナさんも同じでは……」

 

「だから私は、ユイちゃんを守るあなたを守る。少なくとも、これでイタチ君は一人じゃなくなる……ユイちゃんの願いは叶えられるわ」

 

 アスナの言葉に、イタチはそれ以上反論を唱えることはできなかった。一方のアスナは、してやったとばかりに得意気な笑みを浮かべている。思えばここ最近、アスナがイタチから一本取る場面が多くなった気がする。

 イタチの思慮が甘くなった結果なのか、アスナがイタチという人間に対する理解を深めた結果なのかは分からない。いずれにせよ、この一件を境に、アスナをはじめ他者との繋がりが深まったとイタチは感じていた。

 

(俺には許されなかった筈の繋がり……それが確かに今、ここにある。これもまた、ユイが齎したものなのか……)

 

 自分と同じ苦しみを背負い、自分と共に歩きたかったと言ってくれた一人の少女がくれた、確かな絆と温もりを胸に、少年は歩いて行く。以前と同じ、しかし孤独ではない、果て無き旅路を、どこまでも。

 

 

 

パパ、頑張って

 

 

 

 風の中に響いたその声が、少年の背中を押した――――

 


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