ソードアート・オンライン 仮想世界に降り立つ暁の忍 -改稿版-   作:鈴神

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第五十五話 帰還

 『SAO事件』――それは、2022年11月6日に正式サービスを開始した、世界初のVRMMO『ソードアート・オンライン』を舞台に起こった、大量殺人事件である。ゲーム開発者の茅場晶彦は、正式サービス開始と同時にログアウト手段の一切をプレイヤーから剥奪。ゲーム内におけるHP全損と共に、プレイヤーが現実世界に置いてきた身体、その脳が高出力マイクロウェーブによって蒸し焼きにされて死に至るという理不尽なルールを突きつけた。幽閉されたプレイヤー達に遺された脱出手段はただ一つ。ゲームの舞台である浮遊城、アインクラッドの全層制覇だった。斯くして、プレイヤー達は凶暴なモンスターの跋扈するフィールドや、次の層へとつながる迷宮区へと出向き、命懸けの攻略に身を投じる事となったのだった。

 現実世界においても、SAO事件発生によって世間は恐怖と混乱の嵐だった。事件発生初日から、犠牲者は二百十三名に上り、日に日にその数は増えるばかりだった。警察をはじめ関係各局も全国規模で捜査線を張り、容疑者であるゲーム制作者の茅場晶彦を逮捕すべく動いた。だが、結局その行方は事件解決まで掴めずに終わったのだった。

 事件が解決を迎えたのは、2024年11月7日。ゲーム内部において、攻略に当っていたプレイヤーの一人がパーティーに紛れていたゲームマスターにして、一連の事件の容疑者である茅場晶彦を割り出した。茅場は己の正体を看破したプレイヤーに対し、報酬として全プレイヤーの解放を賭けた立ち合いを提案。正体を見破ったプレイヤーは、この提案に乗り、戦いの末に茅場を倒し、全プレイヤー解放を果たした。これがSAO事件の顛末である。

そうして二年もの月日を経たSAO事件は、2024年11月7日を以て、全プレイヤーの解放にて解決したかに見えた。事件に巻き込まれた、合計一万名の被害者。事件解決時までに死亡した人間は、二千三十七名。事件解決時にゲームからログアウトし、現実世界へ生還したプレイヤーは、七千六百六十三名。

 

 

 

 

 

事件解決を見た2024年11月7日より、およそ二カ月が経過した現在。三百名ものプレイヤーが、未だ目を覚まさずにいた――――

 

 

 

 

 

2025年1月19日

 

「めぇぇええん!!」

 

 埼玉県の南部の住宅街。その一角にある、広い敷地の中に立つ、母屋とは別の小さな道場にて少女の威勢のいい声が響き渡っていた。

 

「甘い……!」

 

「へっ!?」

 

 道場の中には、防具を着込んで稽古をしていた二人の少年少女がいた。少女が勢いよく、しかも的確なタイミングとスピードで繰り出された竹刀を、しかし少年は容易く往なす。そして、少年は少女が見せた間隙を突いて容赦なく畳みかける。

 

「胴!」

 

「わわっ!」

 

 胴に打ち込まれた突きの一撃に、少女の身体が後ろへ傾き、尻もちを付いてしまう。少年の繰り出した突き自体は大した威力を持っていない。だが、少女が竹刀を振るって踏み込んだ勢いに乗せて叩き込まれた一撃は、反動で体勢を崩すには十分なものだった。

 

「少しは腕を上げたようだな、直葉。相手の動きを先読みして狙いを定められるようになった点は、立派に成長したと言える」

 

「それでも、和人お兄ちゃんは敵わないんだもの……相変わらず、無茶苦茶だよ」

 

 この少年――桐ヶ谷和人は、ネット上において、SAO生還者(サバイバー)と称される人間の一人である。その意味は文字通り、恐怖の世界初MMORPGを舞台としたSAO事件に被害者として巻き込まれた人間を指す。二年もの間昏睡状態同然の状態にあり、食事もできない状況だったのだから、被害者は全員、目覚めた当初は骨と皮だけと言っても過言ではない状態だった。暫定的な事件解決を見た十一月七日から二カ月以上が経過した現在も、病院通いを余儀なくされている人間も少なくない。年齢や体質等から回復までの時間には、被害者の間で個人差が会った中、和人はたった一カ月で歩行可能となって退院、通常の生活を送れるに至ったのだ。若さも手伝ったのだろうが、その回復速度は人並み外れているとしか言いようがない。

常人ならば三日ともたず根を上げていてもおかしくないリハビリを自らに課し、それを実行し続けることができたのも、一重に忍び耐える者――忍者たるうちはイタチとしての前世を持つ和人だからこそできた荒業だろう。退院して自宅療養に至って以降も、和人は病院から与えられたリハビリプランに加えて筋肉トレーニングを重ねたお陰で、今や義妹たる直葉と稽古し、勝利する程にまで回復したのだった。

 

「これじゃあ、全中ベストエイトも形無しだよ……」

 

「卑屈になることはない。単純に、実戦経験の差だ」

 

 その言葉を聞いた途端、直葉は和人が自分から遠い存在になってしまったような錯覚を覚えた。実戦経験ということは即ち、命懸けの戦いに身を投じた経験を意味する。戦国の乱世でも、血で血を洗う幕末でもないこの時代において、そのような戦いが起こることはまず有り得ない。それもその筈。和人が戦いに身を投じていたのは、現実世界ではないのだから。和人が命懸けの戦いを繰り広げた場所……それは、武器も敵も、自身の肉体も、世界を構成する要素全てがデジタルデータで構成された『仮想世界』だった。

 

(お兄ちゃん……)

 

 今こうして目の前にいて……こうして話すらできる距離にいる兄が、遠く感じてしまう。尤も、それも仕方の無いことなのかもしれない、と直葉は思う。和人がSAOと関わりを持ったのは、事件発生より以前のことだった。コンピュータ関連雑誌の編集者だった和人と直葉の母親である翠の伝手で、和人は制作責任者の茅場晶彦と知り合い、制作スタッフになったのだ。以来、和人の貢献によって、行き詰っていたSAO制作は飛躍的に進行した。そしてそれに比例し、和人が制作業務に携わるために家を空ける時間も増えていったのだった。直葉が和人に疎外感を覚えたのは、それと同じ時期だった。最初は、何事にもあまり関心を示さず、感情の読めない和人が初めて自らの意志で打ち込もうとしていただけに、好意的にすら思っていた。だが、仮想世界にのめり込む和人の姿に、直葉はどこか危うさも覚えていた。和人という存在が、現実世界から乖離しているように感じられたからだ。別に、和人がゲームと現実の区別が付かなくなったわけではない。自分と同じ世界にいる筈の和人が、まるで異世界の存在のように思えてしまったのだ。根拠の無い、直感的なものだったが、ただでさえ義兄との距離が曖昧だった直葉は、不安を覚えずにはいられなかった。

 和人が『イタチ』と言う名の剣士として、SAOの舞台である鋼鉄の城、アインクラッドへと旅立ったあの日もそうだった。いつもとは違う、まるで長い旅に赴くかのような雰囲気を纏っていたその姿に、本当に仮想世界から返ってきてくれるのだろうかと言い知れぬ不安を感じた。そして案の定、あの事件である。永遠に自分のもとへ戻って来てくれないのではないかと心底不安になった。だが幸い、和人はその不安を裏切って帰ってきてくれた。和人が生還した時には、それはもう歓喜した。死さえ覚悟した兄が帰ってきてくれたその喜びは、言葉に表せるものではなかった。もう二度と、兄の手を離さないためにも、曖昧だった距離をもっと縮めようと、直葉はより一層の努力をすることを決意した。

しかし、その想いも空しく、帰還後の和人の心は事件前以上に現実から離れてしまっていた。

 

(でも、絶対に諦めない……お兄ちゃんを一人にさせない……そのために、頑張って来たんだから……!)

 

 兄を理解するための努力は、今始まった事ではない。そのために始めた、新しい趣味もある。それに、直葉は既に、和人との本当の関係を知っているのだ。

 

(お兄ちゃん……もう、私も知ってるんだよ)

 

 自分が和人との関係を知っていること……自分が和人と世界を共有できるようになったことを明かせば、きっと今以上に距離を縮めることができる筈。だが、今はそれを実行することはできない。何故なら、和人の……イタチの戦いは、終わっていないのだから――――

 

「私はシャワーを浴びに行くけど、お兄ちゃんはこれから病院に行くんだよね?」

 

「ああ。だから、今日は留守を頼む」

 

「あの人のお見舞いかぁ……今度、私も行っていい?」

 

「ああ。アスナさんも、きっと喜ぶ筈だ」

 

 それだけ言葉を交わすと、和人はざっとシャワーを浴びた後、自室へ戻って着替えて、自転車の鍵を手に玄関へと向かう。靴を履くと、自転車に乗って自宅を出て行った。向かう先は、所沢にある高度医療機関……SAO事件における最終決戦にて、共に戦った少女が眠る場所である。

 

 

 

「アスナさん、お久しぶりです」

 

 高級ホテルと見紛わんばかりの高度医療施設。その最上階である十八階の一室に、和人の姿はあった。視線の先に鎮座するベッドの上には、艶やかな栗色の髪を流した端整な顔立ちの少女が横たわっている。穏やかな表情で眠り続けるその姿は、まるで童話に出てくる眠り姫のようだった。ただ一つ、その頭部に装着された、無骨なヘッドセット型のゲーム機、ナーヴギアを除いて――

 

(SAO事件解決……アインクラッド崩壊から、既に二カ月か……)

 

 和人が見舞いに訪れた少女、アスナこと結城明日奈は、SAO事件の未帰還者三百名の一人だった。

和人が未帰還者三百名の存在、そしてその中にアスナが含まれていたことを知ったのは、ログアウトした翌日のことだった。当初はサーバー処理に伴うタイムログと考えられたが、どれだけ時間が経過してもその三百名だけは目覚めることはなかった。

メディアでは、SAO事件の主犯である茅場晶彦の陰謀が継続しているとする説を唱える者もいた。だが、茅場晶彦の最後を見届けた和人の見解では、その可能性は非常に低い。茅場晶彦の目的は、ソードアート・オンラインという世界を創造し、観賞することである。これは、本人がチュートリアル時におよそ一万人のプレイヤー達を前に明言していたことであり、デスゲームの開始をもってこれは達成されている。そして、鋼鉄の城に抱いた空想は、和人ことイタチが茅場の駆るアバター、ヒースクリフを討ち破ったことによって終焉を迎えている。つまり、茅場にはこれ以上企むべき陰謀も、三百名のプレイヤーを未だ閉じ込める理由も存在しないのだ。よって、全てを為し終え、自身が創造した世界すら自らの手で終焉を与えた茅場晶彦は、自ら命を断って死亡している筈である、というのが和人の私見だった。

 

(だが、アスナさんをはじめ、三百人ものプレイヤーが未だに目覚めていない。未帰還者の行方には、茅場さん以外の要因が間違いなく関わっている……)

 

 和人の見解では、三百人のプレイヤーが目覚めないこの状況には、間違いなく何者かの思惑が働いている。そしてその黒幕は、茅場晶彦ではない何者かであり、三百名ものプレイヤーを現実世界から何処かへと隔離し、何らかの目的のために利用している。

 

(アスナさん……必ず、目覚めさせてみせます)

 

 だからこそ、桐ヶ谷和人の……黒の忍・イタチの戦いは、終わらない。この事件がSAO事件に端を発しているのならば、自分の手で解決へと導かねばならないと、和人は考えていた。病室にて眠るアスナの姿を目に焼き付け決意を新たに、踵を返そうとした。と、その時だった。

 

「おお、来ていたのか、桐ヶ谷君」

 

「こんにちは。お邪魔しています、結城さん」

 

 病室に、新たな見舞客がやってくる。恰幅のいい初老の男性で、仕立てのいいブラウンのスリーピースを着込んでいる。この男性は、アスナの父親にして、総合電子機器メーカー、『レクト』のCEO、結城彰三である。

 

「よく来てくれたね。たまにこうして会いに来てくれるだけでも、娘は喜ぶ」

 

「大したことではありませんよ」

 

 和人の姿に顔をほころばせる彰三。対するイタチは、本当に何でもないような表情で返す。SAO事件の未帰還者の中にアスナがいると知った和人は、在学していた私立中学の連絡網を利用し、当時生徒会長だった明日奈が入院している病院を調べた。以来、週に一回から二回程度の頻度で見舞いに訪れるようになったのだった。

 そんな風に娘を気遣う和人を、彰三は快く思っていた。また、一般生徒の中でも抽んでた学力を持っていた和人の評判は、明日奈を通じて知られていたこともあって、和人のイメージは生徒会長だった明日奈も認める勤勉な学生として好印象を持たれていた。

和人と入れ替わる形で明日奈の枕元へ向かう彰三。すると、さらにその後ろにはもう一人の男性が立っていることに、和人は気付いた。ダークグレーのスーツに身を包んだ長身で、薄いレンズの眼鏡をかけている。レクトの関係者だろうか、と和人が考えたところで、彰三が若干慌てた様子で紹介する。

 

「ああ、彼とは初めてだね。うちの研究所で主任をしている、須郷君だ。」

 

「須郷伸之です。よろしく」

 

 見かけどおり、人のよさそうな笑みを浮かべて挨拶する男性に、とりあえずは和人も返す。

 

「初めまして。桐ヶ谷和人です」

 

「そうか!君があの英雄イタチ君か!」

 

 和人の名前を聞くや、かつてのSAOにおけるプレイヤーネームを口にしながら手を握ってくる須郷。和人は若干困惑した様子で彰三の方へ視線をやると、少しばつの悪そうな顔をした。

 

「いや、すまん。SAOサーバー内部でのことは、口外禁止だったのだね。あまりにもドラマティックだったので、つい喋ってしまった……」

 

「いえ、特に気にしてはおりません」

 

「そうかい。彼は私の腹心の息子でね。昔から、家族同然の付き合いなんだ」

 

「社長、そのことなんですが……」

 

 唐突に、握っていた和人の手を離し、彰三に向かい合う須郷。対する彰三は、複雑な表情を浮かべる。

 

「正式に、お話を決めさせて頂きたいと思います」

 

「おお、そうか……しかし、君はいいのかね?まだ若いんだ。新しい人生だって……」

 

「僕の心は昔から決まっています。明日奈さんが、今の美しい姿でいる間に……ドレスを着せてあげたいんです」

 

「そうだな……そろそろ覚悟を決める時期かもしれないな……」

 

 そこまで話したところで、ベッドの時計に目をみやった彰三は、用事を思い出し、踵を返して病室を後にしようとする。

 

「ああ、話の途中で申し訳ないが、会議があってね。続きは、いずれ改めて。桐ヶ谷君、また会おう」

 

 和人にそれだけ言うと、彰三は病室の扉へ向かっていった。自動ドアである扉が開閉する音がした後には、病室内には和人と須郷が残されたのだった。

 

「君はあのゲームの中で、明日奈と随分親しくしていたんだって?」

 

「……ええ、まあ」

 

 彰三がいなくなった途端、須郷の纏っていた雰囲気が変わる。先程までの柔和なそれとは違う、禍々しいものへと。この部屋へ入って来た時から悟っていたが、これがこの男の本性なのだろう。和人は目の前の須郷に対する警戒レベルを上げて、しかし表面上は全く変化の無い風を装いながら様子を窺うことにした。

 

「それなら、僕と君は、やや複雑な関係ということになるかな?」

 

 ベッドの下端から、和人の向かい側へ回り込み、明日奈の寝顔を眺めながら話すその仕草には、常人ならば背筋が震えるような不気味さがある。須郷はそのまま、明日奈の髪をひと房手に取り、鼻元へ持ってきて音を立てて臭いを嗅ぐ。その姿に嫌悪感を覚えた和人は、僅かに目を険しくする。

 

「さっきの話しはねぇ……僕と明日奈が結婚するという話だよ」

 

 口にした後、舌なめずりをする須郷。常人ならば身の毛もよだつような寒気を覚えても仕方の無いそれを、しかし和人は微動だにせずじっと見つめ、そして思考を走らせる。

 

「……この状態では、法的な入籍は不可能……ということは、あなたは書類上結城家の養子となるつもりですか」

 

「ご名答。察しがいいね、君。実のところ、この娘は昔から僕のことを嫌っていてね……親達はそれを知らないが、いざ結婚となれば、拒絶される可能性も高い。だからこの状況は僕にとって、非常に都合がいい」

 

 得意気に話しながら、今度は眠っている明日奈の頬と唇に指を這わせる須郷。その行為は、流石に和人も許容できるものではなかった。身を乗り出し、須郷の腕を掴んでそれを止めさせる。

 

「そこまでです」

 

 絶対零度の瞳を向け、殺気すら滲ませながらその動きを止める和人。だが、須郷はそんな和人に対してもどこ吹く風。自身を止めたその行動を、明日奈を弄ばれる怒りと取ったのだろう。表面上は無表情な和人に、しかし非常に満足そうだった。

 

「あなたは、明日奈さんの昏睡状態を利用するつもりなのですか?」

 

「利用?……正当な権利だよ。ねえ、桐ヶ谷君。SAOを開発したアーガスが、その後どうなったか知っているかい?」

 

「事件の補償で莫大な負債を抱えた末、解散したと聞いています」

 

「その通りだよ。やっぱり、開発スタッフだった君はよく分かっているようだねぇ」

 

 嫌味な笑みを浮かべる須郷に、和人はますます不愉快になった。そんな和人の内心を知ってか、須郷はさらにうすら笑いを浮かべながら続ける。

 

「そして、SAOサーバーの維持を委託されたのが、レクトのフルダイブ技術研究部門さ。具体的に言えば、僕の部署だよ」

 

「……成程。つまりあなたは、明日奈さんをはじめ、未だ目覚めない三百人の命を維持していることになる。それを対価に、明日奈さんとの結婚を正当化しようとしているのですか」

 

「察しがいいね。説明の手間が省けて本当に助かるよ。」

 

 的を射た和人の推察に、須郷は軽く舌を巻く。だが、顔に浮かべた酷薄な笑みと余裕はそのままだ。饒舌になったまま、見下した態度のまま須郷は続ける。

 

「君がゲーム内でこの娘と何を約束したかは知らないが、今後ここには、一切来ないで欲しいな。結城家との接触も、遠慮してもらおう」

 

「…………」

 

「式は一週間後の、一月二十六日にこの病室で行う。大安吉日でないのが残念だがね。友引だから君も呼んでやるよ。それじゃあな、最後の別れを惜しんでくれ。英雄君」

 

 最後まで厭味ったらしくそう語りかけると、須郷は病室を後にした。残された和人の表情は、明確な変化こそ無いが、その内心には怒りと苛立ちが積もり積もっていた。反論らしき言葉は一切口にしなかったが、須郷の不快な態度に腹が立ち過ぎてそれ以上言葉が出なかったのかもしれない。何しろ、これが前世の忍世界での出来事だったならば、強力な幻術で報復していたかもしれないとさえ思う程だったのだから。

だが、和人は猛烈な怒り鉄面皮の下にある内心で燃やしていた一方で、須郷の口にした情報をもとに、ある方向へ思考を走らせていた。

 

(SAOサーバーを維持しているのがレクト……それも、あの男が管理する部署。そして、アスナさんはレクトCEOの娘……全ては、あの男にとって都合の良い状況であり、あの男はそれを作り出すことが可能な身分にある……)

 

 須郷の話から得た情報を整理して和人の至った結論は、レクトのフルダイブ技術研究部門――もっと言えば、主任の須郷伸之――が、SAO事件未帰還者三百名と何らかの関係があるということだった。全くの見当違いであり、和人が須郷に対して覚えた嫌悪に端を発した根拠の無い推理とも取れる。だが、全てを偶然で片付けるには出来過ぎているとも考えられる。

 

(どの道、当ては無い……ならば、考えられる可能性を手当たり次第探るほか無いか……)

 

 頭の中に想い浮かべた推理を立証するには、情報も証拠も不十分であり、しかもそれらを集めるための手段は存在せず、手掛かりすらも掴めないのが現状である。明日奈の父親であり、レクト・プログレスのCEOである彰三氏に取り入って、本社に潜り込むという手もある。だが、彰三は須郷を相当信用している様子だった。明日奈の婿にしようとしていた点からしても、それは間違いない。これでは、須郷の疑惑を唱えたとしても、到底受け入れてもらえないだろう。

 方向性は不明瞭で、取れる手段は全く無い。まさに八方塞がりと表現して現状でどう動くべきかと思考を張り巡らせながら、和人は病室を出て病院のロビーを目指す。通行パスを受付に返すと、病院を出て駐輪場へと向かおうとした。その時だった。

 

「桐ヶ谷和人様ですね?」

 

 唐突に、和人へ向けて声が掛けられる。名前を尋ねるその声のする方を振り返ると、そこには白髪に白い髭を生やした、執事服の老人が立っていた。記憶にない見知らぬ人物からの問いに、怪訝な顔をしながらも和人は答えた。

 

「確かに、俺は桐ヶ谷和人ですが、あなたは誰ですか?」

 

 声色は何ら変わった様子は無いが、和人は目の前の老人を内心で警戒していた。一般人から見れば、どこにでもいる普通の老人にしか見えないが、その所作には全く隙が無い。明らかに何らかの武術、あるいは軍事訓練を積んだ人間である。

 

「申し遅れました。私は、ワタリと申します。あるお方の頼みで、あなたをお迎えにあがりました」

 

「あるお方?」

 

「『リュウザキ』という名に覚えはありませんか?」

 

 ワタリと名乗った紳士が口にしたその名前に、和人は僅かな驚愕とともに目を細める。同時に、目の前の得体の知れない老人に対しての警戒心を強める。

 

「……あなたとリュウザキの関係は?」

 

「私は、彼の協力者です。“二年以上前”から、彼の補佐を務めています」

 

「……何か証拠はありますか?」

 

 和人の問いに対し、ワタリと名乗った老人は懐から携帯電話を取り出す。そして、操作することしばらく。電話をかけて相手が出たのを確認すると、一言二言交わした後、通話状態のまま和人に差し出した。どうやら、和人を迎えに行くよう命じた人物に繋がっているらしい。和人は警戒を怠らず、携帯電話を受け取って電話に出る。

 

『もしもし、イタチ君ですか?』

 

「……あなたは?」

 

『リュウザキです。あなたとは、アインクラッドの『笑う棺桶討伐戦』以来ですね』

 

 電話口に聞こえる男性の声は、確かに和人が聞き知ったものだった。だが、安易に信用することはできない。本人かどうかを確認するべく、和人は問いを投げ掛ける。

 

「……あの時、俺が取り決めた合言葉は?」

 

『大勢の敵の騒ぎは忍び良し、静かなかたに隠れ家も無し、忍には時を知ることこそ大事なり、敵の疲れと油断するとき』

 

「……分かった、本人だな」

 

電話口の相手が自分と面識のある人物である確認が取れた和人は、若干警戒を緩める。ワタリと名乗った目の前の老人も、戦闘能力が高いことは間違いなさそうだが、出会った当初から敵意は微塵も感じられない。和人は渡された携帯電話を通じて、リュウザキと呼ばれた男と話を続けることにした。

 

「俺に迎えを寄越した理由は、何だ?」

 

『SAO未帰還者三百名のことについてです』 

 

「!」

 

 電話越しにリュウザキの口から出た言葉に、若干目を見開く和人。だが、それは半ば予想していたことでもあった。

 

「居場所が掴めたのか?」

 

『いえ……しかし、既に見当は付いています。手掛かりらしきものを掴めました。ぜひとも一度、あなたと顔を合わせて話したい』

 

「……分かった。そちらに行くとしよう」

 

『感謝します。そちらのワタリが車を用意していますので、よろしくお願いします。それでは、また後で』

 

「ああ」

 

 それだけ言葉を交わすと、和人は携帯電話の通話を切り、ワタリへ返した。

 

「事情は分かりました。リュウザキのもとへ、連れて行っていただけますか?」

 

「了解しました。こちらへ」

 

 ワタリに先導され、移動用の車が停められている病院の駐車場を目指す和人。確証こそ無かったが、この予想外の人物による誘いが、八方塞の現状を打破するための突破口となる。そんな予感を、和人は抱いていた。

 


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