ソードアート・オンライン 仮想世界に降り立つ暁の忍 -改稿版-   作:鈴神

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第六十七話 それぞれの想い

2025年1月22日

 

 日も昇り切らない朝七時頃の桐ヶ谷家。この家の住人の一人である和人は、庭の手洗い場に姿を現していた。常ならばどれだけ短時間の睡眠であっても全く隙を見せないが、今朝の和人の動きにはどこか緩慢さがあった。

 

(やれやれ……やはり生身の肉体とVRワールドのアバターとでは勝手が違う。身体が付いて来ないな……)

 

 昨日夕方からALOへダイブした和人がサスケとして冒険した時間は、8時間以上に及ぶ。当初予定していたルートを外れたサスケは、仲間であるリーファとランを伴い、スイルベーンから世界樹を目指していた。道中、シルフ=ケットシー両種族の領主を狙った陰謀を挫くべく、最強プレイヤーとのデュエルに及んだ。その後、パーティーの不注意によって地底ダンジョンのヨツンヘイムへ叩き落とされた後、象水母の邪神の救済、遭遇したウンディーネの部隊と戦闘といったイベントを経て、ヨツンヘイムを脱出した末にアルンへ到達したのだった。

 連続でダイブしての冒険だった上に、激戦の連続。精神の休まる暇などある筈が無く、睡眠時間はたったの三時間だったのだ。現実世界の身体がベッドの上で横たわっていたとしても、精神が酷使されている以上、疲労は蓄積するばかりである。忍の前世をもっているとはいえ、SAO事件による二年間の昏睡状態による後遺症が未だ残る状態では、動きに影響が出るのも無理は無いことだった。

 

「ふぁあ……おはよ~、お兄ちゃん……」

 

「……眠そうだな、直葉」

 

 欠伸混じりにふらふらと現れたのは、和人の義妹である直葉だった。彼女もまた、自分と同じく寝不足の様子である。

 

「何時まで起きていたんだ?」

 

「ええと……四時くらいかなぁ?」

 

「……お前にしては珍しいな。何をしていたんだ?」

 

「ネットとか……かな?」

 

 直葉の言葉に対し、和人は内心で少しばかり驚いていた。剣道少女の直葉がパソコンに手を付けることなどこれまで無かったことである。ましてやネットに嵌まって夜更かしをすることなど、和人の中では有り得ないことだった。

 

「……そうか。まあ、程々にしておけよ」

 

「はーい」

 

 だが、和人は深く追求することはしなかった。同程度の時刻までALOにダイブしていた自分も人の事を言えた立場ではないのだ。加えて、自分がSAOに囚われている間に二年もの月日が経過している以上、直葉も夜更かしくらいはする年齢なのだろうと思えないことも無い。もとより、SAO内部で女性関係の問題に悩まされていた経験をもつ和人である。義妹とはいえ年頃の少女相手に一々事情を確かめて地雷を踏むことは避けたかったので、それ以上踏み込む事はしなかった。

 

「今日は朝食の後、明日奈さんの入院している病院へ行く。お前はどうする?家にいるか?」

 

 直葉に対し、一緒に来るかと尋ねる和人。先日、和人が明日奈の見舞いに行くと言った時、次は直葉も一緒に行きたいと言っていた。病院の見舞いに大勢で押し掛けるのは迷惑だが、二人程度なら問題は無いだろうと考えた和人は、直葉の予定が合うならば同行させようと思っていた。

対する直葉は若干迷った表情をしたが、すぐに返事を返した。

 

「……あたしも付いて行っていいかな?」

 

「ああ、構わない。アスナさんも歓迎してくれるさ」

 

 未だに眠り続けている明日奈だが、目を覚ましたら直葉ともきっと仲良くなれると思っていた。直葉の方は、SAO事件以前からほとんど知る機会の無かった和人の交友関係を知りたいと思っていたため、相手が眠っているとはいえこの見舞いは良い機会だと思っていた。

 

「あ、そうだ。お兄ちゃん、明日奈さんが入院しているところの病院なんだけど、あたしの知り合いの友達も入院しているの。明日奈さんのお見舞いが終わったら、ちょっと寄らせてもらってもいいかな?」

 

「ああ、構わない。だが、あの病院は民間の高度医療機関だぞ。その知り合いというのは、相当な良家の出身なんだろうな」

 

「いやぁ……知り合いの知り合いってだけで、あたしも直に話したことが無いんだけれどね」

 

「話したことがない……まさかとは思うが……」

 

 直葉の言葉に、彼女の知り合いが抱える大凡の事情を察して言い淀む和人。知り合いであり、見舞いに行ったことがありながらも話したことが無いということは、話せない状態だからこそ入院しているのだろう。事故や何らかの病気による昏睡状態など、原因はいくつか考えられるが、和人の脳内に真っ先に浮かんだのはかつての自分や現在の明日奈と同じ理由だった。そして、そんな和人の予想は、直葉の苦笑した顔が的中していることを意味していた。

 

「うん。お兄ちゃんや明日奈さんと同じで、その人もSAO事件に巻き込まれた人なんだ」

 

「そうか……」

 

「その人の知り合いはね、空手の都大会優勝者なんだよ。武道系の部活をやっている縁で知り合って、仲良くしてもらっているんだよ」

 

 自分がSAO事件に巻き込まれたことをきっかけに知り合った人物という事情には複雑な心境だったが、お互いに気持ちを共有して支え合えたからこそ不安に押し潰されずに済んだのだろう。知り合いが明日奈と同じ病院に入院している以上、機会を見つけて一度会って礼を言わねばならないだろうと考えていた。

 

「そういうことなら、俺も付き合おう。SAO生還者(サバイバー)である以上、知り合いの可能性もある。一度顔を合わせた方がいいだろう」

 

「そうだね。その時は、あたしが案内してあげる」

 

「ああ、よろしく頼む」

 

 互いに今日の予定が決まったところで、再度稽古を始める和人と直葉。病み上がりにも関わらず、事件以前と同レベルの激しい運動にも息を上げない和人に対し、直葉は半ば唖然としながらも竹刀を振るっていた。

 朝稽古が終わった後は、朝食である。手際よく朝食を済ませると共に、いつも通り未だ自室で爆睡している母親のために料理を作り置きするのだった。その後は身支度を整えた後、お互いに身支度を整えた後、病院を目指すのだった。ちなみに、今日は直葉が同行するので交通手段は自転車ではなくバスを利用することにしている。

 

「そういえば、お兄ちゃん。学校の方はどうなるの?」

 

「学校?」

 

 バスに乗り込みながら、唐突に尋ねてきた直葉からの問いの内容に、和人は疑問符を浮かべる。

 

「本当なら、去年からお兄ちゃんは高校生活を送っている筈だったでしょ?」

 

「ああ。都立高の統廃合で空いた校舎を利用して、SAOから帰還した中高生向けの臨時学校を作るそうだ。入試無しで受け入れて、卒業したら大学受験資格もくれるらしい」

 

「へえ……いい話だとは思うけど……どこか十把一絡げな風にも見えるよね」

 

「仕方ないだろう。俺達は二年間もデスゲームに明け暮れていたんだ。現実世界にある俺達は、存在そのものがある意味異端だ。心理面の影響を鑑みれば、一カ所に集めて管理した方が効率的だ」

 

「そんな……」

 

 仕方ないだろう、と言わんばかりに淡々と語る和人の言葉に、直葉は不満そうな表情を浮かべる。

 

「だが、SAO内部では表沙汰に出来ないことが多々あったことも事実だ。一般高へ通うとなれば、俺達へのメディアスクラムをはじめとした厄介事が降りかかる可能性が少なからずある。総務省の庇護下にある学校に通う限りは、そういったリスクが降りかかることは無い」

 

「お兄ちゃんの学力なら、トップ校を目指すのも難しくないのに……」

 

「俺が成績優秀者と呼ばれていたのは既に昔の話だ。二年も学業から離れていた以上、当時の学力を取り戻すのは不可能だろう」

 

「それでも、お兄ちゃんだったら絶対大丈夫だと思うけどなぁ……」

 

「買いかぶり過ぎだ。それに、仮にかつての学力を取り戻すことができたとしても、俺はSAO帰還者専用の学校以外へ通うつもりは無い」

 

「どうして?」

 

 直葉からの疑問に対し、和人は表情を若干曇らせながら口を開いた。

 

「罰せられないとはいえ、俺もSAO事件を引き起こした共犯者の一人だ。俺一人だけ過去を捨て安穏な生活を送ろうなんて虫が良過ぎるだろう」

 

 犯罪者に選択の余地は無いと告げる和人。何の感情も介さない表情で口にした言葉は、直葉の心にも影を差した。SAO事件中、ゲーム内部で和人がどのような立ち回りをしていたかは、直葉には分からない。だが、事件に巻き込まれた一万人の中でトップクラスのレベルを有していたという話はSAO事件対策本部から訪れた人間から聞いている。ゲーム制作のスタッフに抜擢される程の実力を遺憾なく発揮し、死と隣り合わせの戦いであろうと恐れること無く挑み続け、突出した実力を身に付けたことは想像に難くなかった。

だが、ネットゲーマーというものは元来嫉妬深いものである。突出した能力をもつ和人はゲーム攻略の最前線で戦う中で、プレイヤー同士の人間関係について複雑な事情を抱えていたのだろう。家族にすらほとんど感情を見せなかった和人である。SAOのゲームをプレイする中で、自然と、或いは自ら孤立していったのだろうその姿は簡単に想像できた。

 

(お兄ちゃん……それでも、あたしは――――)

 

 和人の味方でいたい。心の底からそう思っていた。だが自分は、SAOの中で戦い続けた和人のことを何も知らない。和人の悩みを、何一つ理解できない――痛みを共有できないのだ。こんなに近くにいるのに、何故か和人を遠く感じる。どうしても埋められない距離を認識し、言いようのないもどかしさを感じていた。

 

「直葉、着いたぞ」

 

「!……う、うん」

 

 気が付けば、バスは病院の近くに到着していた。一人思考の海に埋没していた直葉は、和人に促されてバスから下車するのだった。和人は直葉の様子を訝りながらも、思春期の少女にはよくあることだろうと考え、深く追求することはしなかった。

 

「何度見ても、おっきい病院だね~」

 

「言っただろう、良家の出身が頻繁に使う病院だと。ほら、早く行くぞ」

 

 守衛を通過してダークブラウンの建築物の中へと入っていく二人。その後、エントランスでこれから訪れる二部屋分のカードキーを受け取る。ホテル並みに豪華な内装に直葉は目を奪われながらも、和人にしっかりくっついてエレベーターへと乗り込む。最上フロアに到着した後、突き当たりを目指せばそこが明日奈の部屋なのだ。

 

「結城……明日奈さん。へえ、キャラネームが本名だったんだ。あんまりいないよね、そういう人」

 

「……一般的にはそうだな。だが、案外本名そのままでプレイする奴はいるものだぞ」

 

 和人がSAOから帰還した後に病院で出会い、本名を確認した攻略組プレイヤーの中には、キャラネームと同一の名前を使っている人間が多々見受けられた。攻略組で言えば、ヨウ、アレン、ゼンキチ、ナツ、テッショウ、キヨマロ、ギンタ、ヨシモリが主なところだろうか。カズゴについては、本名の一護(いちご)を読み変えてカズゴとしたらしい。また、事件以前から知り合いだったシバトラについては、本名の柴田竹虎の略である。

 

「それにしても、お前もよく知っているな」

 

「う、うん……まあね」

 

 ゲーム嫌いな筈の直葉がMMORPG事情に通じていることには軽く驚く和人。だが、SAOに囚われた自分を心配していたのならば、自分が閉じ込められたMMORPGについて調べていてもおかしくはない。そう内心で納得する和人だった。

 カードキーを使って扉を開くと、和人は直葉を奥のベッドが置かれている場所へと導く。カーテンの向こう、直葉の視界に映ったのは、寝台の上で横になる眠り姫の姿だった。その美しさに、直葉は病室の一部分だけがこの世界とは異なる、お伽の国と化したような錯覚さえ覚えた程である。だが、その頭部に装着されている装置が、ここが物語の世界などではなく、現実世界であることを示していた。無骨な形をした、濃紺のヘッドギア――ナーヴギアである。和人をはじめとした一万人もの人間の魂を二年もの間、仮想世界に拘束し続けた悪魔の機械であり、今尚明日奈をはじめとした三百人のプレイヤーをどことも知れぬデジタルデータの世界に閉じ込め続ける悪夢の鉄檻なのだ。

 ベッドに眠る明日奈の頭に装着されているヘッドギアを見て、恐らくは自分のことを思い出しているのだろう。辛いことを思い出させてしまったと悟った和人は、明日奈の紹介をすることにした。

 

「紹介しよう。彼女が結城明日奈。血盟騎士団副団長にして、閃光のアスナと呼ばれた人だ。剣の速さと正確さは、間違いなくトップクラスの実力者だった。現実世界でも、俺と同じ中学で生徒会長を務めていた優秀な人だ」

 

 直葉に対し、目の前で深い眠りについている少女について紹介する和人。続いて、妹である直葉を意識無き明日奈に紹介する。

 

「明日奈さん、妹の直葉です。」

 

「は、はじめまして!」

 

 緊張した面持ちで明日奈に挨拶する直葉。だが、醒めぬ眠りについている明日奈にはその声は届かず、何の返事も返ってはこない。直葉もそれに期待したわけではなく、頭を上げると和人の隣に立って揃って改めて明日奈の表情を見つめた。

 

「……綺麗な人、だね。もしかして明日奈さんってお兄ちゃんと恋人同士だったりしたのかな?」

 

 ベッドの傍で間近に見る明日奈の美貌に息を呑んだ直葉は、冗談半分でそんなことを和人に聞いてきた。問われた和人は、直葉の言葉に苦笑を浮かべながら口を開いた。

 

「有り得ないな……俺には勿体ない人だ」

 

「またまた。お兄ちゃん、向こうじゃどうせ最強だったんでしょ?閃光なんて二つ名をもってた明日奈さんとは会う機会も多かっただろうし、本人も満更じゃなかったんじゃないの?」

 

「……確かに、それなりには戦えていた。だが、それだけだ」

 

 ソードアート・オンラインの制作スタッフの一人であり、現実世界の剣道でも負け知らずの和人ならば、SAOでも最強クラスのプレイヤーであったことは間違いなく、同時にモテモテだったに違いないと考える直葉。そして実際のところ、その想像はほぼ的を射たものであり、明日奈から異性としての明白な好意を受けていた。

 だが、和人はその真意に気付きながらも、その想いから目を逸らし続けた。全ては、デスゲームという名の理不尽を押し付けられたプレイヤー全員の怨嗟を一身に背負う役割を担うため。前世と同様、進み続けた果てには破滅しか無い、最初から過ちであると知りながらも貫き続けた、全ての人間の敵という在り様。だが、明日奈だけはそんな救いようの無い自分を一人にさせまいと、真剣に向き合ってくれていた。対する自分は、そんな彼女の心を蔑にし続けてきたのに、決して見放そうとはしなかったのだ。本当に、自分には勿体ない人だと和人は思った。

 

「彼女こそ、本当の強さを備えたプレイヤーだった」

 

「……そう、なんだね」

 

 明日奈の顔を見ながら話す和人の表情には、憂いを帯びた影が差していた。和人が否定したように、SAO内では明日奈との間に色恋沙汰が無かったことは分かった。だが、一緒にいた時間が長い分、恐らく彼女の方が和人の内面に近づくことができていたことは間違いないのだろう。生まれた頃からずっと一緒にいた筈の自分ですら触れ得ぬ和人の心を僅かながらでも理解できたであろう明日奈に、直葉は嫉妬と羨望を抱いていた。

 一方の和人はといえば、目の前のベッドの上で眠る明日奈の姿に、かつての自身を重ねていた。SAO事件当時、直葉も今の自分と同じ気持ちで見守っていたのだろうか。

 

(…………直葉。本当によく待っていてくれた)

 

 こうして直葉と並び立つことで、改めて認識させられる。共に戦った仲間を置いて自分だけ現実世界へ帰ったことに罪悪感を覚えている和人だが、横たわる自分を前に直葉が抱いていた心労は比べ物にならないくらいの重圧だったことは想像に難くない。

仮に自分が逆の立場で、死と隣り合わせの世界に閉じ込められた状態で覚めるか分からない眠りについている直葉の帰りを待つ立場だったら……。想像するだけで胸が張り裂けそうになる。ましてや、自分は前世で実の弟――サスケに対し、真実を偽ったまま己を殺させるという苦行を課して死んだのだ。想像を絶する悲しみと絶望を押し付けたことは間違いない。破綻すると予感しつつも実行した計画が、どれだけ罪深いものだったのかを思い知らされる気分だった。

 

「?…………お兄ちゃん、どうしたの?」

 

「……いや、何でもない」

 

 どうやら知らぬ間に、視線がベッドで眠る明日奈から、直葉の横顔へシフトしていたらしい。自分を見つめる和人の視線に気付いた直葉が、訝しげに兄の様子を窺う。対する和人は、何でも無い風を装ってお茶を濁していた。

 

「花瓶の水、交換しておくね」

 

「ああ、頼む」

 

 兄の様子が気になったが、すぐにいつもの無表情に戻ったため、直葉はそれ以上の追求をしなかった。和人に一言判ると、水の入った重たい花瓶を手に部屋の洗面台へと向かう。

 病室の入り口付近の水道へと向かい、花瓶の水を交換する傍ら、ベッドと入り口側を遮るカーテンの向こうで立ち尽くす兄の影へと、直葉は視線を向けていた。

 

(お兄ちゃん……お兄ちゃんは、今どこにいるの?)

 

 今この病室の中で自分と彼を隔てる壁は、カーテンの布一枚のみの筈なのに、直葉には兄が果てしなく遠い存在に思えて仕方が無かった。自分と同じ現実世界にいる筈なのに、兄は文字通り心ここに在らずと呼ぶべき状態なのだ。

 

(こんなに……こんなに近くにいるのに……)

 

 今の和人が、直葉の身では触れる事すら叶わぬ場所にいるような錯覚に陥る。隣に立つ自分よりも、眠っている明日奈の方が和人に近しい場所にいるような気がしてならない。唯一の救いは、明日奈を心配する和人の顔に表れている感情が、罪悪感のみであることだろうか。

 

(!……どうしてあたし、安心してるんだろう?)

 

 そこまで考えて、ふと自分が抱いた感情に気付く。理由は分からないが、自分は和人が明日奈に対して特別な感情を抱いていないことに安堵していた。否、分からないというのは違う。直葉とて、本当は気付いている。自分が和人にどのような感情を抱いているのかを……

 

(お兄ちゃん……)

 

 だが、それを認めるわけにはいかない。和人の心が未だ仮想世界から帰ってきていないことはもとより、未だ互いに真の関係を明確にしていないのだ。お互い真実を知っていながら、和人だけは直葉が未だ知らないと思っている。或いは、勘の鋭い和人である。状況的に気付いていても何ら不思議は無いが、直葉にはそれを確認する勇気は無かった。

未だ認められない自分の感情と向き合うこともできない状態で、今ある関係を崩すことに恐れを抱くことに直葉は忸怩たる思いだった。結局のところ、現状維持という逃げ道に走る以外に選択肢を用意できないかった自分が、直葉は嫌になりそうだった。

 

「直葉、そろそろ行くぞ」

 

「あ、うん……」

 

 明日奈の見舞いも終わったところで、そろそろ次の見舞い先へ行こうと思った和人は、直葉に退室を促した。直葉もまた、ベッドの脇の台へと花瓶を置き直すと、和人に従い病室を出て行くのだった。ベッドで横たわる明日奈に、後ろ髪引かれながら……

 

「それで、お前の知り合いが入院している病室は……確か一つ下のフロアだったか」

 

「うん。正確には、知り合いの友達なんだけどね。もしかしたら、今日も来ているかもしれないね」

 

「そうか。まあ、俺は入院している方が知り合いかを確かめたら、もう一つの私用を済ませに行く必要がある。知り合いがいたら、一緒に話でもしているといい。俺は席を外して、そのまま帰る」

 

「分かった。それじゃあ、行ってみようか」

 

 アスナの病室へ行ったときとは逆に、今度は直葉に先導されて下層の病室を目指す和人。目的の病室は、階段から程近い場所にあった。入口に付けられたネームプレートに視線を向け、名前を確認する。

 

「工藤新一……か」

 

「お兄ちゃん、分かる?」

 

「いや、リアルネームそのままのプレイヤーが多かったとはいえ、“シンイチ”という名前に心当たりは無いな。そもそも、SAO生還者は七千人以上いるんだ。SAO内部で知り合った人間である可能性はかなり低いぞ」

 

「そうだよね。ま、実際に顔を見てみれば分かるでしょう」

 

 名前から推測するよりも、顔を見れば一発で分かるという指摘に納得した和人は、カードキーを使って扉を開く直葉に続いて入室していく。明日奈の部屋と同じ造りの室内で、件の人物はやはり奥のベッドに横たわっていた。そしてもう一人、二人より早く訪れていた先客がいた。

 

「あら、直葉ちゃん。いらっしゃい」

 

「ランさん。やっぱり来ていたんですね」

 

 部屋の中にいた、工藤新一以外のもう一人の人物。ストレートヘアにはねた前髪が特徴的な、優しげな表情の女性。入室した直葉とのやりとりを見る限り、どうやらこの女性が直葉の知り合いで間違いないらしい。

 

「その人は、直葉ちゃんのお兄さんかしら?」

 

「はじめまして、桐ヶ谷和人です。うちの妹がいつもお世話になっています」

 

「こちらこそはじめまして、毛利蘭です。直葉ちゃんとは、仲良くさせてもらっています」

 

 互いに挨拶を交わす二人。初対面の和人だが、ランが温かく人当たりの良い性格であるということはすぐに分かった。同時に、直葉と仲が良いという理由も理解できる。ただ、“蘭”という名前を聞いた時、つい最近始めたゲームの中で知り合った少女のことを思い出した。

 

「蘭さんとは、武道系の部活を通して知り合ったんだ」

 

「そうなのか。それでは、蘭さんも何か武術を嗜んでおられるのですか?」

 

「蘭でいいわ。直葉ちゃんから聞いたけど、同い年なんだから、敬語もいらないわ」

 

「そうか……分かった。それで、彼が工藤新一か?」

 

「ええ。新一、お客さんよ。直葉ちゃんと、お兄さんの和人君」

 

「久しぶりです、新一さん」

 

「はじめまして。桐ヶ谷和人です…………!」

 

 改めてベッドの方へと視線を向けた和人。だが、次の瞬間その表情が硬直する。身動きの止まった和人の異変を悟った直葉と蘭が、和人へ視線を向ける。

 

「コナン……なのか?」

 

「もしかして……新一のことを知ってるの?」

 

 和人の言葉に驚いた様子の蘭。同時に、直葉も兄の反応から、彼と新一はSAOで面識があったのだと悟った。

 

「蘭さん。新一さんのプレイヤーネームって、『コナン』っていうんですか?」

 

「ええ。新一から事件前に聞かされたんだけど、プレイヤーネームはシャーロック・ホームズの原作者から取って、『コナン』にするって言っていたから」

 

「それは俺も本人から聞きましたよ」

 

 SAO事件当時、攻略最前線で共に轡を並べて戦いに臨んだことを思い出しながら、和人は語る。

 

「シャーロキアンという理由でプレイヤーネームを決定したのみならず、武器の選択に至ってもフェンシングを嗜んでいたホームズをリスペクトして細剣を選択。攻略ギルドの血盟騎士団に所属して、最前線で活躍していたのみならず、その推理力でプレイヤー達の危機を幾度となく救ってきた強豪プレイヤーだ」

 

 和人の口から語られる新一ことコナンの武勇伝に、直葉は素直に感心し、蘭は苦笑した様子だった。

 

「やっぱり、私が想像した通りね。結構無茶をして、あなたや他のプレイヤーの人にも迷惑をかけたんじゃない?」

 

「いや……それどころか、逆に助けられることが多かった」

 

 圏内事件然り、剣の件然り。忍の前世を持つ自分と互角以上の推理力をもって攻略組を導いてきたその実力のお陰で和人一人ではカバーし切れなかった穴に関して幾度となくフォローをしてもらったものだ。攻略の戦闘以外で以外の場面での活躍ならば、和人を凌駕し得る貢献度だったと思う。

 

「そうなんだ……やっぱり、新一は新一だったんだね」

 

 九年前もそうだった。SAOより以前に起こった、仮想体感ゲームを舞台に起こった事件で、デスゲームの境遇に見舞われたあの時も、コナンは自分を含め戸惑うプレイヤー達の中でも、果敢に挑み続けていたのだ。蘭はSAO事件には巻き込まれていないが、コナンが攻略最前線で戦い続けていたという話を聞いて、その姿を容易に想像することができた。同時に、喧嘩別れに近い形で仮想世界へ行ってしまった幼馴染が、変わらぬ勇気と優しさをもっていたという事実に安心感を抱くのだった。

 

「それじゃあ、俺はこれで」

 

「え?もう帰っちゃうの?」

 

「私用があるからな。あと、悪いがこっちの見舞いは寄り道に近い形で来たんだ。挨拶したら、すぐに出るつもりだった」

 

「お兄ちゃん、それじゃああたしはもう少しここにいるね」

 

「ああ。夕飯までには家に帰ってくるんだぞ」

 

 それだけ言うと、和人は新一の病室に直葉を置いて退室するのだった。残された直葉と蘭は、恐らくはSAO生還者である兄と幼馴染を話のネタに談笑するのだろう。そんな風景を頭の隅に浮かべながら、和人は次の目的地を目指すのだった。

 

(ここだな)

 

 直葉と別れた後、続いて和人が訪れたのは、128号室。一階の病室で、現在は使用されていない場所である。和人が直葉と別れてまで来たこの病室には、三日前にある人物と待ち合わせする約束をしていた。

 和人は会い言葉代わりに指定していた方法でノックをする。すると、病室の扉が開いて待ち合わせしていた人物が姿を見せた。

 

「よく来てくれました、和人君」

 

「ああ、竜崎」

 

 病室の中から和人を出迎えたのは目の下に黒い隈を蓄えた猫背の青年。和人がアルヴヘイム・オンラインにて行われている、須郷伸之の恐るべき野望について確信を得るきっかけを作った人物、竜崎である。

 必要な情報のやりとりを行うべく、病室へと和人を招き入れる竜崎。和人もそれに応じて病室へと入っていく。

 

「和人君も大変だったみたいですね」

 

「予期せぬアクシデントだったが、どうにか央都アルンまで到達することができた。そっちはどうだ?」

 

「こちらはスプリガンとレプラコーンを中心とした大規模攻略パーティーですので、中々スムーズにはいきません。しかし、今日中にそちらへ合流できる予定です」

 

「分かった。ならば、攻略を始められるのは明日明後日以降だな」

 

 最終目標地点であるアルヴヘイムの中心たるアルンへは、和人ことサスケの方が先に到着したらしい。だが、竜崎ことコイルが率いる世界樹攻略用のパーティー本隊と合流できなければ、いかに和人といえども突破は不可能である。今日中に合流した後、アイテム等各種装備を揃えた上で初めて攻略に挑めると言ってもいい程の難易度なのだ。だが、世界樹を攻略するための戦力が揃ったとしても、全ての条件がクリアされるわけではない。

和人と竜崎の推測が当たっているのならば、違法研究の隠れ蓑となっている空中都市への入り口はシステム的にロックされている可能性が高いからだ。プレイヤーの身ではどうしようもない障害を排除するには、こちらもシステム的に扉をこじ開ける方法を用意せねばならない。肝心要の最終関門突破の鍵となるそれを手に入れると言っていた竜崎に対し、和人は確認するように問いかけた。

 

「竜崎、ファルコンとのパイプは確保できたのか?」

 

「はい。向こうも須郷の企みについて大凡見当を付けていたようです。依頼を話したら、快諾してくれました。システムロックを突破するためのプログラムについても、明日までに完成させる算段だそうです」

 

 確実に手に入るかと懸念していた、天才ハッカー・ファルコン謹製のプログラムが確実に手に入ることを確認できたことに安堵する和人。ゲーム攻略という正攻法よってセキュリティホールをこじ開けることができれば、その間隙を利用して運営が管理しているゲームのシステム中枢を直接的に掌握できる公算が高い。そうなれば、実験体とされているであろう未帰還者達へのリスクも大いに減らすことができる。

 

「分かった。ならば、勝負は明日だな。全ての未帰還者を解放するためにも、必ず世界樹を攻略することを約束しよう」

 

「ええ、よろしくお願いします」

 

 互いに必要事項を確認し終えたところで、用は済んだとばかりに和人は踵を返して病室を出ていく。向かう先は、自宅。間近に迫った決戦に備え、ALOで最終調整を行うためだ。

 

(今度こそ、全てを終わらせる……!)

 

 和人の中で、SAO事件は未だ完結していない。二年もの間続いたデスゲームを経て、未だ囚われ続けている今、その心は未だに仮想世界に縛り付けられているのだ。故に、和人は非道な人体実験に供されている未帰還者達を解放しなければならない。生き残った全ての人間の魂を現実世界に解き放ったその時こそ、SAO事件に終止符が打たれる。そして同時に、はじめて和人は新しい時間を生きることができる――前へ進むことができるのだ。

 決意を新たに、忍の前世をもつ少年は、再び己の戦場たる仮想世界へと足を踏み入れるのだった――――

 


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