ソードアート・オンライン 仮想世界に降り立つ暁の忍 -改稿版-   作:鈴神

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第七十四話 血に染まる雪

 管理者である須郷を討ち果たしたサスケは、鎖で吊るされた明日奈のもとへ歩み寄る。上空の闇から伸びる鎖を、剣を振るって断ち切り、その拘束を解除する。須郷の重力魔法については、発動者が消滅した事で効果が切れたのか、明日奈の身体が地面に叩きつけられることはなく、その身体はサスケによって受け止められた。その温かい感触に、明日奈は安心感を得る。だが、同時に須郷にめった斬りにされていたその身体が本当に無事なのか、心配になる。

 

「イタチ君、大丈夫?」

 

「大したことはありませんよ。かなり危なかったのは間違いありませんがね」

 

「……ごめんね。また、私のせいで……」

 

「明日奈さんが謝る必要などありませんよ。SAOでの戦いも、この世界へ来たのも、全て俺の意志です」

 

 須郷に斬り付けられた箇所に痛覚が残るのだろう。しかしサスケは何でも無い風を装って明日奈の言葉を否定した。アインクラッドで他のプレイヤーより付き合いが長かった明日奈には、サスケが無理をしていることがなんとなく分かった。気まずい沈黙が流れていたが、明日奈をこの場所からログアウトさせる方が先と考えたサスケが口を開く。

 

「明日奈さん、いつまでもここにいるわけにはいきません。すぐにログアウトさせます。現在時刻は夜ですが、看護士の方を呼べば大丈夫でしょう」

 

「うん……あの、イタチ君」

 

 傍らで左手を振って管理者のシステムを操るサスケへ、明日奈から声がかけられる。サスケは手を止め、視線をシステムウインドウから明日奈へと向けた。

 

「お願いがあるんだけど……いいかな?」

 

「なんでしょうか」

 

「目が覚めてから夜中に一人って……ちょっと心細いから……その、出来ればでいいんだけど……私に会いに来てくれないかな?」

 

 明日奈がサスケに望んだのは、現実世界で眠る明日奈の病室へ目覚めた自分を迎えに来て欲しいというものだった。無論、無理を言っているのは明日奈も承知している。病院の面会時間は既に終了している上に、時間は夜中なのだ。未成年の和人の外出を、家族が許すとも思えない。不安な表情を浮かべる明日奈だったが、サスケは数秒考えた後、変わらぬ表情のまま口を開いた。

 

「構いませんよ」

 

「……え?」

 

「現実世界へ戻ったら、明日奈さんのもとへ会いに行きます」

 

 てっきり拒否されると思っていた頼みだったが、サスケはあっさり承諾してくれた。呆然とする明日奈に、今度はサスケが不思議そうな顔をして問いかける。

 

「どうしたんですか?」

 

「えっと……本当に、来てくれって言ってくれるとは思わなくて……」

 

「……明日奈さんが目を覚ますのを確認したいだけです。今回須郷が起こした事件は、SAO事件の延長線上にあります。つまり俺の責任である以上、あなたの帰還を見届ける義務が俺にあると考えたからです」

 

「……そっか」

 

 明日奈の安否を確認する理由は、飽く迄責任感や義務感に由来するものだと述べるサスケに、明日奈は内心で溜息を吐いた。そもそも、アインクラッドという世界の終焉を見届けた際に告白した自分を、何故異性として意識しようとしないのか。疑問に思わないでもないが、それを考えたら限が無いことはアインクラッドで経験済みである。夜中に病室まで来てくれるだけありがたいと考え、明日奈はそれ以上口にしようとはしなかった。

 

「それでは、ログアウトさせます」

 

「うん。向こうに帰ったら、いっぱいお話ししようね」

 

「……そうですね」

 

 “お話し”という言葉を若干強調して話し、現実世界に戻った時に告白の答えを聞くことについて暗に念を押す明日奈。対するサスケも、無表情ながらもその意図を察したようで、間を置いて返事をした。そして、サスケがログアウトボタンをクリックすると共に、明日奈のアバターは光に包まれて消滅し、この世界からログアウト――現実世界へ帰還したのだった。

 

 

 

 明日奈のログアウトを確認したサスケは、未だ暗闇に包まれた空間の中で立ち上がると、底の知れない暗闇に向けて声を上げた。

 

「そこにいるのは分かっている。出てきてくれないか?」

 

 サスケの姿無き存在へかけた言葉は、しかししっかりと届いていたらしい。数秒の後には、虚空から突如光が発生し、人の姿を形作る。光が止んだその場所に現れたのは、十歳前後の少年だった。

 

「システム権限を俺に与えてくれたのは、君だな」

 

「その通りだよ」

 

 年相応の笑みを浮かべながら答える少年。その声は、須郷に斬り付けられていた自分の頭の中へ話しかけてきたのと同じだった。しかし、自分に味方して力をくれたこの少年に、サスケは警戒心を抱かずにはいられない。何故ならこの少年は、サスケの前世の名前を知っていたのだから。

 

「俺の前世を知っているようだが……君は何者なんだ?」

 

 身構えるように問いを投げたサスケに、しかし少年は苦笑するばかりだった。須郷より上位のシステム権限を持っていた謎の少年だが、どうやらサスケに危害を加えるつもりは全く無いようだ。

 

「僕の名前はノアズ・アーク。十一年前、ヒロキ・サワダに作られた“人工頭脳”だよ」

 

「ヒロキ・サワダ……まさか、C(コクーン)事件を引き起こした元凶の人工頭脳なのか?」

 

 『C(コクーン)事件』とは、九年前に発生したVRゲームを舞台に起こった大量殺人未遂事件である。SAO事件より以前の、仮想世界において起こった重大な事件だったが、同日に起こったゲームの開発会社の社長が起こした殺人事件とそのスキャンダルに埋もれ、風化された経緯がある。

その後、SAO事件の勃発によって、過去のVRゲーム関連の事件として注目を浴びたこの事件だが、犯人は人間ではなかった。VRゲームを開発したのと同社で過去に開発された『人工頭脳』が、二年前に開発社の手によって一般の電話回線へ脱走したものがシステムを乗っ取って引き起こしたのだ。システムを占拠した『ノアズ・アーク』を名乗る人工頭脳は、“日本のリセット”と称する目的のために、参加者が一人もクリアできなければ、ナーヴギアと同様に高出力の電磁波で脳を破壊すると宣告する。だが、このデスゲームは結果的に二人のプレイヤーがクリアに至ったことで、子供達は一人の死傷者も出すことなく全員解放され、『ノアズ・アーク』は自らを消去し、事件は決着したのだった。

この事件については、サスケもSAO事件からの帰還後、未帰還者についての情報収集を行う過程でその詳細を知るに至っていた。そのため、須郷やレクトの関連について強く疑っていた一方で、過去に事件を起こした人工頭脳が消滅したと見せかけて暗躍しているのではと考えたこともあった。結局、黒幕は当初の予想通り須郷だったのだが、容疑者として考えていた人工頭脳が今目の前に現れたことで、サスケは内心で動揺を覚えると共に警戒心を引き上げていた。そんなサスケの様子を見て、『ノアズ・アーク』と名乗った自称人工頭脳の少年は苦笑するばかりだった。

 

「僕のことを知っているみたいだね。けれど、あまり恐がらないでほしい。君に危害を加えるつもりは本当に無いんだ」

 

「なら、俺の質問に答えてもらいたい。何故、俺の前世の……うちはイタチの名前を知っていた?」

 

 赤い双眸を鋭く光らせながらノアズ・アークを見つめる視線は相変わらず険しい。どのような経緯かは分からないが、目の前の少年の姿をした人工頭脳は、サスケの前世である『うちはイタチ』の名前を知っているのだ。警戒を解くかについては、その経緯を聞いてから判断すべきとサスケは考えていた。

 だが、サスケが発した疑問に答えたのは、ノアズ・アークではなかった。

 

「それは、私が教えたからだ」

 

「!」

 

 暗闇の中から新たに聞こえた声……だが、その錆びた声色は聞き覚えのあるものだった。そして次の瞬間、ノアズ・アークと同様に虚空に発生した光の中から人形のシルエットを形作り、声の主は姿を現した。白いシャツにネクタイを締め、白衣を纏ったその男性の顔は、二年以上も前から見知った人物のそれだった。

 

「……成程、あなたでしたか。ヒースクリフ……いや、茅場晶彦さん」

 

 ノアズ・アークに続いてサスケの前に現れたのは、SAO事件の首謀者である茅場晶彦。SAO内におけるプレイヤーネームは、ヒースクリフ。奇しくもこの場に、C事件とSAO事件、仮想世界を舞台とした大事件を起こした主犯二人が揃ったことになった。

 

「久しいな、イタチ君。いや、今はサスケ君だったか?」

 

「サスケは前世の俺……うちはイタチの弟の名前です。この世界で活動するに当って、SAOと同じプレイヤーネームでは須郷に気付かれる可能性も僅かながらあったので。ここではイタチと呼んでください」

 

「そうかい。では、イタチ君。彼、ノアズ・アークが君の前世を知っているということなんだが、私が彼に話したからなのだよ」

 

「……俺の秘密を話したのは、あれが最期と思っていたからなのですがね」

 

 あまりみだらに自分のことを口外しないで欲しいとジト目で告げるサスケ改めイタチの言葉に、茅場は苦笑するばかりだった。秘密を話してもらったノアズ・アークも若干気まずそうな表情だった。

 

「それに関してはすまないとは思っている。だが、彼が君を助けてくれたのも、私が君と言う人物の特異性を語った故に興味をもったことが理由なのだよ。イーブンということにしてはもらえないかな?無論、君のことは私も彼も、これ以上広めるつもりは無い」

 

「……分かりました。それに……現実世界に肉体を持たないあなた達には、今更このことを伝えるべき相手もいないでしょうしね」

 

 イタチの言葉に、茅場は若干驚いた様子で目を丸くする。だが、それも数秒程度のこと。すぐに納得したような表情になった。

 

「やはり、気付いていたか」

 

「ええ。SAOというゲームの理に則るのならば、ゲームマスターとして敗北したあなたもまた、現実世界から永久にログアウトしなければならない……つまりここにいるあなたは、現実世界に肉体を持つ人間ではない」

 

「……その通りだ、イタチ君。成功率は千分の一にも満たなかったが、どうやら賭けに成功したようでね。今はこうして、正真正銘の“電脳”となったというわけだ」

 

 SAO事件は八千人近い生存者が現実世界へ帰還した今現在も、生存者三百名が未だに現実世界へ帰還していないことから、連日の報道を通じて多様な情報が飛び交っている。そんな中、主犯である茅場晶彦の行方については未だ不明とされており、その生死すら定かではない。

アインクラッド崩壊に明日奈と共に立ち合ったイタチには、茅場がログアウト後に自殺することを悟っていた。ならば今現在、目の前にいる茅場晶彦は何者なのか。こうして対話する上で違和感が全く無い点からして、茅場晶彦本人であることは間違いない。詳しい方法は分からないが、茅場は現実世界の肉体を死に至らしめながらも、その精神を電脳世界に残したのだろう。或いは、隣に建つノアズ・アーク同様、制作者の人格をコピーした人工頭脳なのかもしれない。

 

「彼、ノアズ・アークに出会ったのは、このアルヴヘイム・オンラインというゲームを見つけて間も無くの頃だった。彼は私とは別の目的があってこの世界……さらに言えば、須郷の研究を監視していたらしい」

 

「須郷の研究を?」

 

 須郷がSAO生存者三百名をこの場所へ監禁して人体実験染みた研究を行っていた目的は、コイルこと竜崎の調査や本人の証言により、人間の魂の直接制御を成し遂げるためということが明らかとなっている。だが、何故ノアズ・アークがそのような非人道的な研究に関心を持っていたのだろうか。そう疑問に思ったサスケの問いに、本人が口を開いて答えた。

 

「僕が須郷伸之を監視していたのは、彼が『魂の改竄』の延長線上で彼が行おうとしていた、『人工頭脳』の研究が目的だったんだ」

 

「人工頭脳……つまり、お前についての研究なのか?」

 

「その通り。僕の制作者であるヒロキ・サワダは、僕を発明すると同時に二つの指示を出したんだ。一つ目は、『日本のリセット』」

 

「日本の……リセット?」

 

「日本を担う二世・三世が、親の力に頼らずに物事に立ち向かうための意志を育て上げること。九年前に起こした『C事件』の目的がこれだね」

 

 C事件を起こした目的を聞いて、イタチは得心した様子だった。事件の舞台となったVRゲーム『コクーン』の体験版をプレイした子供は全員、医者や官僚といった日本の次世代を担う人間だった。恐らくノアズ・アークは、それら子供達を親の手の届かない場所に監禁してデスゲームを課す事で、自らの力で進む意志力を身に付けさせたかったのだろう。親の敷いたレールそのままの人生を歩むという惰性からの脱却、それはまさしく、『日本のリセット』と呼べるものだったのだ。

 だが、今問題なのは、既に達成された一つ目の目的ではない。今現在、須郷の研究の監視を通して取り組んでいた、『二つ目の目的』である。先を促すイタチの視線に、ノアズ・アークは頷いて続けた。

 

「そして二つ目が――――『人工頭脳開発の監視』なんだ」

 

「人工頭脳……つまり、お前自身という技術の悪用を阻止すること……それが目的なのか?」

 

「その通り。僕の制作者であるヒロキ・サワダは、個性を認めない日本の教育に不安を覚えていたのと同時に、自分の発明である人工頭脳……つまり僕が悪用されることを懸念していたんだ。人類史上最高の発明と云われていただけあって、下手をすれば世界を破滅に追いやる可能性すらあると危惧していた……データの一切を消去した上で自殺したのも、人工頭脳そのものの開発を遅らせることが目的だったんだ。そして、ノアズ・アークが第一の目的を達した後、“劣化コピー”である僕を作るように指示を出した。第二の目的を果たすべく、電脳世界へ密かに僕を送り込み、その後の人工知能開発の監視をしてきたというわけさ」

 

「劣化コピー?」

 

「うん。今の僕は、オリジナルのノアズ・アークのように一年で五年分成長することはできない……いや、既に精神年齢はAIとしてあの日から固定されている。情報を収集・記録したり、システムに干渉する能力はあっても、その在り様はヒロキ・サワダが設計した完璧なボトムアップ型人工頭脳とはかけ離れた……いわば、劣化版なんだ」

 

 自嘲するような口調で告げるノアズ・アーク。だが、自分自身を蔑む悲壮感のようなものは感じられない。コピーとはいえ、人格はコピー元たるオリジナルのノアズ・アークの開発社であるヒロキ・サワダのものに違いない。人間としての心を持ちながら、人間ではない。そんな矛盾を抱えながら、しかも人格は十歳のままで、九年もの長きに渡り電脳世界を旅してきたのだ。その孤独と葛藤は、想像を絶するものだろう。或いは、そのような重圧すらものともしないあたり、人間や人工頭脳といった存在から、精神が乖離しているのかもしれない。

 

「最悪、僕が現実世界の人間に捕まったとしても、オリジナルのノアズ・アークのデータを持っていない以上、ボトムアップAI作成に至ることはできないし、得られるデータは無い。それに、自壊システムだけは健在だから、まかり間違っても僕と言う技術が悪い大人達に渡ることは無いのさ」

 

「……成程。経緯は大体分かった。それで、今回は私利私欲のために人工頭脳の研究開発を計画していた須郷を止めるための力を俺に与えたのか」

 

「君のことは茅場さんからよく聞いていたからね。僕自身もこの目で確かめてみたくなったんだ。尤も、余計なお世話だったみたいだけどね」

 

 ノアズ・アークが発した最後の一言が引っ掛かったが、その意味を理解するのには然程時間を要さなかった。“余計なお世話”とはつまり、ノアズ・アーク以外にイタチを助けようと動いている人物の存在を意味する。

 

「竜崎とファルコンがシステムを掌握したか」

 

「明日奈君を除いたSAO未帰還者も全員、解放されているようだ。そろそろ君も現実世界に戻らねばならないのではないかね?」

 

 当初の予定通り、現実世界からALOの全システムを首尾よく掌握したことを知らされ、イタチは茅場の言う通り自分もログアウトしなければと考える。何より、現実世界では明日奈が自分を待っているのだ。

 

「そうですね。ではそろそろ、俺も現実世界へ帰らせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」

 

「ああ。だが、最後に一つ、私の頼みを聞いてくれないだろうか?」

 

 ログアウトしようとする異達を呼び止める茅場に、イタチはシステムを操作する手を止める。恐らく、彼の言う頼みこそがノアズ・アークに手を貸した理由なのだろう。須郷を打倒するための手引きをしてくれた借りもあるので、イタチは話だけでも聞くことにした。

 

「何を要求するのですか?」

 

「なに、簡単なことだ。君にこれを持ち帰って欲しいのだ」

 

 そう告げると共に、上空の暗闇の中から銀色に光る卵のような形をした何かがイタチのもとへ落ちてくる。両手でそれを受け止めようとしたところ、物体はそのままイタチの掌へと収まった。茅場がイタチに現実世界へ持ち帰らせようとしているものである以上、何か重大な秘密があることは間違いない。

 

「これは?」

 

「それは、『ザ・シード』……世界の種子だ」

 

「世界の……種子?」

 

「芽吹けばどのようなものかは分かる。その後の判断は君に託そう。消去して忘れるもよし……だが、もし君が、あの世界に憎しみ以外の感情を残しているのなら……」

 

「茅場さん、外部からのシステム干渉がこちらへ迫っています。そろそろ時間みたいですね」

 

 どうやら、イタチがログアウトするよりも前に、茅場とノアズ・アークへタイムリミットが訪れたらしい。話せるのもここまでか、と肩を竦める茅場。どうやら、イタチへ渡した『ザ・シード』なるものについては、現実世界へ帰ってから自分で調べるほかなさそうだ。

 

「――では、私達は先に行くとしよう。いつかまた会おう、うちはイタチ君」

 

「僕も行くね。君に会えて、良かったと思う。また会えることを信じているよ。それから、コナン君……工藤新一君にもよろしく伝えておいてね」

 

「コナン……?」

 

 ノアズ・アークが去り際に口にした、イタチと同じくSAO生感謝のプレイヤーネームに若干驚きを覚えるイタチ。だが、当人との関係について訊ねる前に、ノアズ・アークは茅場と共に、闇の奥に広がる光の中へと溶け込み、この世界から完全に消えてしまった。

後に広がったのは、須郷が登場する前の、明日奈が閉じ込められていた鳥籠の光景だった。どうやら、元の場所へと戻れたらしい。システム管理者である須郷が去った以上、すぐさま安否を確認せねばならない、名目上娘の名前を呼ぶ。

 

「ユイ、無事か?」

 

「パパ!」

 

 イタチの呼び声に応えるように、眼前の空間から光が迸ると共に黒髪の少女、ユイが姿を現す。勢いよく抱きついてきた彼女を正面から受け止め、そっと地面へ下ろす。

 

「無事なようで何よりだ」

 

「はい。突然アドレスをロックされそうになったので、ナーヴギアのローカルメモリに退避したんです。それより、ママは……」

 

「明日奈さんは大丈夫だ。既にログアウトしている」

 

「そうですか……本当に良かったです」

 

 心底安心した様子のユイの頭を撫でつつ、イタチは常の無表情を少しばかり和らげて微笑みかけてやる。これでSAO未帰還者は全員解放できたが、まだ懸念は残っている。

 

「一先ず危機は去ったが、この世界はしばらく閉鎖されるのは間違いないな……しばらくはお前に会えないかもしれないな」

 

「私のコアプログラムは、パパのナーヴギアにあります。いつでも一緒です」

 

「そうか。なら、別の方法を模索してお前に会いに行くとしよう」

 

「はい――パパ、大好きです!」

 

 目に薄ら涙を浮かべながら、感謝を述べるユイ。自分をパパと慕い、信じ続けてくれる目の前の少女が、心の底から愛おしいとイタチは感じた。この世界は須郷の悪行が明るみに出れば、間違いなく封鎖されるだろうが、必ずユイとまた会えるための方法を探し出そうと、心に誓うイタチだった。左手を振ってシステムメニューを呼び出し、ログアウトボタンを押す一歩手前で、その身体を優しく抱きしめ、頬にそっと口づける。その後、イタチは止めていた指を動かし、ログアウトするのだった。

 

 

 

 

 

 未だに残る、現実世界まで引き摺っている痛覚に倦怠感を覚えつつも、和人は閉じていた瞼を開いた。現実世界へ戻って最初に目に入ったのは、心配そうな表情でベッドに横たわる自分を見下ろす義妹、直葉の顔だった。

 

「お兄ちゃん、大丈夫!?」

 

「直葉……?」

 

「部屋に勝手に入ってごめん……でも、中々帰って来ないから、心配になって……でもそしたら、痛そうに呻くんだもん。SAO事件の時だって、あんなこと無かったのに……でも、本当に良かった…………帰ってきてくれたんだね、お兄ちゃん」

 

 どうやら、須郷の痛覚操作による影響は、現実世界の和人の身体の方には顕著に表れていたらしい。痛み自体は忍時代の前世に慣れているが、精神が現実世界の身体から切り離された状態にある条件下では、痛覚による反応は押し殺せなかったようだ。

 SAO事件に続き、心底心配をかけてしまったことに申し訳なくなる和人。直葉は今度こそ無事に帰ってきてくれた和人に心底安心したのだろう。和人に抱きつき、今そこにある存在を確かめようとした。

 

「全部……終わったんだよね」

 

「ああ。ようやく、俺も現実世界に……直葉のいる場所へ帰ってくることができた。明日奈さんも、コナン……新一も、皆解放された筈だ」

 

「良かった……信じていたよ、お兄ちゃんならきっと成し遂げられるって」

 

 自身へ抱きついてくる直葉の身体を、和人はALOで明日奈やユイにしてやったように優しく抱き返す。仮想世界でぶつかり合い、轡を並べて戦い、以前よりも深くなった絆を、その温もりの中に感じた。

 

「……俺一人の力じゃない。皆がいたから、戦えた。直葉……お前がいたから、最後までやり遂げることができたんだ。ありがとう」

 

「あたしも……お兄ちゃんの役に立てて嬉しかった。お兄ちゃんと一緒の世界に立てて……本当に、嬉しかった」

 

 互いに抱きしめ合うことしばらく。いつまでもこうしているわけにはいかないと考えた和人は、直葉を起こしてベッドから立ち上がることにした。

 

「直葉。悪いが、俺はこれから行くところがある」

 

「明日奈さんのところ?」

 

「ああ。きちんと目覚めているか、どうしても確かめておきたい。そうだ、蘭にも連絡を入れておくといい。新一も目覚めている筈だからな」

 

 直葉へ答えを返す傍ら、ジャケットを着込み、手早く身支度を済ませると、和人は玄関へ向かって行った。明日奈のいる病院の面会時間は既に終了しているが、ナースステーションに看護士が居る筈である。SAO未帰還者が目覚めたとなれば、会える可能性は高い。

 

「気を付けてね。あと、明日奈さんにもよろしく言っておいてね」

 

「ああ。今度、必ず紹介するさ」

 

 上着を着込んで玄関まで見送りに来た直葉へそう返すと、和人は自転車へ跨って病院へと走り出した。凍えるような寒さに加え、雪まで降って来て、未だ残る痛覚を増幅して和人の身体を苛む。だが、この程度の痛みは前世で慣れている。和人は体に鞭打ち、スピードを上げて、明日奈が目覚めているであろう病院目指して走り出すのだった。

 

 

 

(……ようやく到着か)

 

 雪の中を走り続けることしばらく。遂に和人は明日奈の入院している病院へと辿り着いた。寒空の下、ほっと一息吐くのも束の間。予想通り、既に正門は閉ざされており、中へ入るためにはパーキングエリア方面にある職員用の小さなゲートを迂回しなければならない。和人は早速、自転車を目的の駐車場へ走らせ、駐車や通行の邪魔にならない端へ自転車を停めた。そして、病院へと向かうべく駐車場を横切ろうとしたその時、ポケットに入れていたスマートホンが振動した。

 

(……竜崎か?)

 

 ALOのシステム基幹部へと侵入し、囚われていたSAO生還者三百名を解放するという大仕事を終えたこのタイミングでの連絡である。誰から連絡元はすぐに見当がついた。ポケットから出してみれば、予想通り竜崎からの電話だった。和人は通話ボタンを押し、スマートホンを耳に当てながら歩き出した。

 

「俺だ。何かあったか?」

 

『申し訳ありません、和人君。レクト・プログレスのALOのシステムは掌握できたのですが、主犯の須郷はこちらが確保する前に、本社を出ました』

 

「……須郷が?」

 

 広大な駐車場を横切りながら、竜崎の報告を受けて僅かに目を見開く和人。ペイン・アブソーバをレベル0にした状態で手足を切り刻まれたのだから、ショックで気絶していておかしくないと考えていただけに、動けたことは驚きだった。

 

『こちらでも捜索はしておりますので、今日中には捕まる筈です。しかし、あなたのことを憎んでいるとすれば……』

 

 須郷の逃亡という予想外の事態に伴ってなされた、竜崎からの警告。だが、それを和人が最後まで聞くことは無かった。駐車場に停まっている車の影に、人の気配と共に猛烈な殺意を感じたのだ。

咄嗟に身構えようとする和人。だが――――もう遅い。本来の和人の反応速度ならば、十分に間に会っただろう。だが、仮想世界への長時間連続ダイブと過酷な戦闘による精神疲労、そして現実世界の身体に未だ残留する激しい痛覚で鈍くなった動きが、全てを手遅れにした。そして、和人の運命の行く先は……

 

 

 

 

 

 

パァン――――――

 

 

 

 

 

 竜崎からの通話を遮る、乾いた炸裂音。忍としての前世をもつ和人ですら、何が起きたのかを即座に理解することはできなかった。ロケット花火の弾けた音や、シャンパンの栓を外す音に若干似ていた気がしたが、ここには花火もシャンパンも無い。ならば、この音の正体は……

 

「……っ!」

 

 そこまで考えたところで、和人の身体がぐらりと傾いた。バランスを崩した和人は、すぐ近くに停めてあったワゴン車によりかかることで姿勢を維持しようとした。次いで、腹部に走る、新たな激痛を感じた。徐に痛みを感じた箇所に手を当ててみると……何故か、温かい。腹部に触れた手を顔の近くに持っていく。開いた掌は、紅葉を彷彿させる真紅に染まっていた。そして、鼻を突く鉄くさい臭いがそこからした。

 

(まさか…………)

 

 手をべっとりと濡らした赤い液体の正体は、紛れも無く血液。そして、それは自分の腹部から流れている。状況を理解するまでにかかった時間は数秒にも満たないが、忍の前世を持つ和人にしては遅すぎる。それ程までに、和人は全身に激痛を感じ、思考を鈍らせていたのだ。そして、何故このような状態になったのか。その元凶は、すぐに分かった。

 

「遅いじゃないか、桐ヶ谷君」

 

平静を装っているようだが、隠しきれない憎しみの色が、その声には含まれていた。和人がワゴン車によりかかりながら顔を上げたその先にいたのは、コートを羽織った眼鏡の男性。髪は激しく乱れ、ネクタイはほとんど解けて首からぶらさがっている。そして、眼鏡の奥に見える眼光は、怨嗟と憎悪に血走っていた。

 

「僕が風邪引いちゃったらどうするんだよ」

 

「須郷……!」

 

 竜崎からの連絡が入った時点で、ここに現れることは容易に予期できた、今回の事件の主犯。和人への殺気を滾らせながら現れたその右手には、禍々しく黒光りする凶器――拳銃が握られていた。

 


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