ソードアート・オンライン 仮想世界に降り立つ暁の忍 -改稿版-   作:鈴神

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第九十二話 沈黙の15分

「私達……助かった、の?」

 

「そのようだな」

 

半壊した照明が明滅し続ける薄暗い空間の中、息も絶え絶えのシノンと、比較的余裕のあるイタチの声が響いていた。

鉱山の麓にてヘカートⅡの狙撃にて雪崩を引き起こしたイタチとシノンは、限界に近かったスノーモービルを全速力で走らせた。イタチとシノンを武装ヘリ諸共押し潰さんとした雪崩の中を突っ込んだスノーモービルが飛び込んだのは、採掘場跡地に残された坑道だった。イタチが危険を承知で雪崩を引き越したのも、この逃げ道があったからこそだろう。

 

「だが、無事なのは俺達だけではないらしい」

 

「……どういうこと?」

 

イタチの言葉に、不吉なものを感じたシノンは、その意味を問う。対するイタチは、薄暗闇の中でも冷たい光を発する赤い瞳を、シノンのもとへ向けながら、口を開く。

 

「坑道へ入る直前、雪崩に呑まれるヘリを見たが、助手席は空だった。間一髪で脱出したとみて間違いないだろう」

 

「そんな……」

 

無論、通常あの雪崩の中でヘリから飛び降りたとしても、押し寄せる雪の下敷きにならずに済む可能性は極めて低い。だが、採掘場跡地の斜面には、至る場所に坑道への入り口があった。それらの一つに入り込むことができたならば、雪崩から逃れることは可能である。

 

「ヘリを操縦していた奴は雪の下敷きになったとみて間違いないだろうが、助手席に座っていた男は十中八九まだ生きている」

 

「…………」

 

シノンに過去のトラウマを想起させた、あのぼろマントの男が生きている。それを聞かされたシノンの顔は、みるみる蒼白になっていき、冷や汗が浮かんだ。アバターが見せたそれらの反応は、シノンの心に抱いた恐怖を如実に表していた。

 

(駄目……落ち着かなくちゃ……)

 

まだ戦いは続いているのだ。この大会を制すると誓った以上、鉱山都市で犯したような失態は許されない。恐怖に悲鳴を上げようとする脆弱な内心を封じ込め、常の冷静さを呼び起こそうと努める。

 

「奴が生き残ったとしたら、この鉱山のどこかにいることは間違いない。お前を付け狙っている以上、ここに長居は無用だ。移動するぞ」

 

一方のイタチは、エンジン部分が破損して煙を上げているスノーモービルから降りると、素早く状況を把握して次の動きへと移行しようとする。半ば行きずりの状態で動向しているシノンにも声を掛け、廃鉱山の坑道の奥へと足を踏み入れようとする。

 

「…………」

 

「どうした、シノン?」

 

しかし、対するシノンからは、全く返事が無い。スノーモービルから降りてはいるものの、イタチに背を向けたまま、ヘカートⅡを持ったまま立ち尽くしていた。一体どうしたのかと問い掛けようとし、イタチはシノンのもとへと歩み寄ろうとする。

すると、シノンはここで初めてイタチに対して反応した。だが、それは言葉による返答ではない。

 

「……何のつもりだ?」

 

イタチに対し、ヘカートⅡの銃口を向けるシノン。言うまでもなく、敵対の意思を示す行為である。

 

「見ての通りよ。これ以上、あなたと一緒に行動する理由は無い……ここであなたの命を貰うわ」

 

氷のように冷え切った視線にてイタチを捉えるシノンの目には、迷いや躊躇いが一切感じられない。加えて、今シノンとイタチの間には、十メートル弱の距離があるのみ。GGOに名を馳せた狙撃手たるシノンが、この距離で外すことはまず有り得ない。

イタチとシノン――赤と青の、相反する色でありながら、凍り付くような光を宿した視線が交錯する。そして、先に動いたのは、シノンだった。余計な感情を一切介さない表情のまま、引き金に掛けた指もまた、機械的に動かした――――

 

「…………」

 

通常の狙撃銃とは比にならない、轟音のような銃声が坑道の中に響き渡る。同時に、ヘカートⅡの銃口から、アバターを粉砕して余りある威力の対物弾が発せられる。しかし、放たれた弾丸は、イタチのアバターの、顔の真横を通り過ぎ……その背後の土壁を抉るのみだった。そして、いきなりの敵対宣言に次いで、対物弾による射撃を受けたイタチは、無言のまま、一歩も動かず、瞬きすらせずに立ったままだった。

 

「……助けてくれた借りは、これでチャラよ。お仲間ごっこはこれまで。次に会ったら……容赦なく撃ち抜く」

 

底冷えするような声で、脅すようにイタチへそう告げると、シノンはヘカートⅡを担ぎ直してその場を後にしようとする。だが、ここまで立ったまま微動だにしなかったイタチが、シノンとすれ違おうとしたその時、初めて口を開いた。

 

「今のお前では、奴には勝てんぞ」

 

「…………」

 

単身でステルベンとの戦闘へ赴こうとするシノンに対し、苦言を呈するイタチ。対するシノンは、無言のまま立ち止まり、背中合わせで対峙する。図星を突いたためだろうか。背中越しに、イタチはシノンの殺気を感じていた。だが、この程度のことでイタチは怯まない。冷静な口調のまま、シノンに対して言葉を続ける。

 

「敵はサプレッサーが標準装備の狙撃銃に加えて、光学迷彩機能付きのマントを装備している。お前が単身で戦うには、分の悪い相手だ」

 

「…………」

 

「奴の実力はお前に迫るものがある。装備面を考えても、まともにやり合えばお前の勝ち目は薄い。それに、奴を追跡していたのなら、お前も見た筈だ。奴が所持しているハンドガンは、プレイヤーを強制的に回線切断させる力がある」

 

「…………さい」

 

「それに、あのハンドガンを向けられた時……お前は反撃するどころか、動くことすら儘ならなかっただろう。次に奴と相対した時、同じように動けなくなるんじゃないのか?」

 

「………………る、さい」

 

「お前はあの銃の、プレイヤーを回線切断させる力ではなく…………銃そのものを恐れていた。あの銃はお前の――」

 

「うるさいっ!!」

 

イタチが次々に重ねていく的確な指摘に対し、ヒステリー気味に声を上げてそれを遮るシノン。そして、怒りの形相を露にイタチの方へ振り向き、同時に肩に担いでいたヘカートⅡを構える。先程とは違い、今度は距離そのものが無いに等しい状況。ヘカートⅡの銃口は、イタチの背中のど真ん中を捉え、数センチ手前で静止している。如何にイタチといえども、回避することは不可能である。

 

「ここで俺を殺したところで、状況は何一つ好転せんぞ」

 

「黙れ!黙れ!黙れぇっ!!」

 

先程までの冷静さはどこへやら。感情のままに怒声を張り上げ、ヘカートⅡの銃身を闇雲に振り回し、イタチの背中へその銃口を突き付ける。アバターを粉砕して余りある威力の武装を突き付けられたこの状況で……しかしイタチは、全く動じない。まるで、対物銃であるヘカートⅡも、シノンも脅威にならないと言わんばかりの余裕が垣間見える。そんなイタチの態度が、シノンの苛立ちをさらに助長する。

 

「知ったような口聞かないで!私は……私は、戦わなくちゃならないのよ!!」

 

「仮に戦ったとして、勝算はあるのか?その様子では、狙いを定めることはもとより、引き金を引くこともでず……戦いにすらなるまい」

 

「黙れぇぇえ!!」

 

イタチに対し、再度引かれる引き金。対するイタチは、弾丸が射出される直前で身を翻し、無駄の無い最低限の動きでそれを回避した。至近距離で、しかも背中を向けたまま回避したイタチに驚愕を覚えるシノンだが、即座に次弾を装填すると、その銃口をイタチの顔面へと向ける。対するイタチは、ヘカートⅡの銃身を素手で掴むとその銃口を顔の横へと逸らす。間髪いれずにシノンが再度放った対物弾は、またしてもイタチの顔の真横を通り過ぎ、長い髪を揺らすのみに終わった。そして、露になるイタチの表情。

 

「っ!」

 

それを見たシノンは、ぞくりと背筋が凍るような感覚がした。ヘカートⅡの銃身を掴みながらシノンを見つめるイタチの瞳にあったのは、窮地を救ったにも関わらず牙を剥いたシノンに対する怒りでも、力の及ばない身でありながら歯向かったことに対する呆れでもない。

そこにあったのは、『憐れみ』――――イタチは、シノンの姿に憐憫の情が籠った瞳を向けていた。

 

「…………やめろ」

 

それはシノンにとって、侮られるよりも、蔑まれるよりも耐え難いことだった。単純に実力の差を見下されているわけではなく、もっと内面を見透かしたような視線――――

 

「やめろぉぉおお!!」

 

以前相対した時、シノンが強さを求める理由を……その本質を、イタチは即座に理解していた。これ以上、その内心を悟らせるわけにはいかない。自分の何もかもを暴かれるかもしれない……そんな恐怖に、シノンは半ば本能的に、抵抗すべく動いた。

 

「うわぁぁぁああ!!」

 

イタチに掴まれて動かないままのヘカートⅡを投げ捨てるかのように手放し、悲鳴にも似た声を上げてイタチに殴りかかる。銃の世界たるGGOでは、素手による格闘で与えられるダメージはごく僅か。ましてや、光剣により接近戦を極めたイタチに通用する筈の無い攻撃である。しかし、シノンにはそれ以外に抵抗の手段が残されていなかった。

 

「やめろ!やめろ!やめろぉぉお!」

 

がむしゃらに腕を振るって、精一杯の抵抗をするシノン。対するイタチは、僅かとはいえダメージを受けているにも関わらず、全く動かなかった。その瞳に宿した光は変わらず、シノンを真っ直ぐ見据えていた。殴り掛かられているにも関わらず、文字通りまるで動じず、瞬き一つしないイタチに対し、シノンは決して逃れられないと感じた。しばらく感情のままにイタチを殴り付けていたがシノンだったが、次第に冷静になり……その行為自体がイタチに対して無意味であることを悟ったのか、その拳も止んだ。

実力だけでなく、精神の脆弱ささえ見抜かれたことに対し、シノンは敗北感に顔を俯かせてしまった。拳を振り回したことによる仮想の疲労で乱れた息を整えながら、シノンは精一杯言葉を紡ごうとする。

 

「お願い、だから……そんな目で……私を、見ないで…………」

 

「…………」

 

悔しさと悲しみに身体を震わせながら発した涙声のシノンに対し、イタチは沈黙を貫くのみだった。

 

 

 

 

 

「おや、これは予想外な展開になりましたね」

 

窓一つ無い、無機質で薄暗い部屋の中。薔薇、或いは血のような色の赤ワインの注がれたグラスを片手にパソコンの画面を見ていた男、高遠遙一はそう呟いた。画面に映っているのは、VRMMORPG『ガンゲイル・オンライン』にて行われている最強決定戦『第三回BoB』の実況映像である。

 

(しかし、彼女と繋がりがあると分かっていた以上は、ある意味納得のいく行動でもある……)

 

複数ある画面の中、男が特に注目している映像では、雪原にて繰り広げられているスノーモービルとヘリコプターによる追撃戦が映し出されていた。機動力に圧倒的な差のあるこれら二つの乗り物、正確にはその操縦者が互いの武装や乗り物の特性を駆使し、鎬を削る壮絶な戦いを制したのは、スノーモービルに乗る男女だった。

ヘリコプターを雪山の斜面近くまで誘導した後、スノーモービルからの対物銃の射撃を敢行。その際に引き起こした銃声で発生した雪崩で、ヘリコプターは大量の雪の下敷きとなった。ヘリコプターの搭乗者の一人は、雪が迫りくる前に間一髪で脱出したが、操縦を担当していたプレイヤーはヘリコプター諸共に雪に埋もれてしまった。

現実世界で雪崩に埋没した場合、十五分以降に急激に生存率が低下する。ゲーム世界でもそれは同様で、雪崩等でアバターが生き埋めになった場合、意識は持続するもののHPは減少し、最長十五分で尽きるらしい。

 

(雪崩に埋もれた彼にとってここからの十五分は、死へと近付くカウントダウン。そして、鉱山の中ではサテライト・スキャンによる位置情報の探索は不可能。故に彼と彼女、それに私の人形達は、しばらく動くことは儘ならない。つまり、彼等にとってここからの十五分は、皆が息を潜める雌伏の時間……『沈黙の十五分』、といったところでしょうか)

 

詩的な表現でBoBにおける現在の戦況をそう締め括った高遠は、満足そうな表情を浮かべてグラスのワインに口を付けた。予想外の出来事が発生したが、これはこれで面白い。否、こうでなくてはならないと、高遠は一人頷いていた。そんな風に、自ら作り上げた舞台の進行に笑みを浮かべて悦に浸っていた……その時だった。

 

「ん?」

 

高遠の所持していた携帯電話が、通話着信を告げる音と振動を発した。現在進めている舞台の進行に関する定時連絡には、まだ若干の時間がある筈。一体、どこからの電話なのだろうと、徐にその携帯電話を手に取り、発信元の名前を確認する。そこに表示されていた名前を確認した高遠は、苦笑を浮かべながら通話ボタンを押すのだった。

 

「はい、私です」

 

『僕だ。用件は……言うまでも無いな?』

 

通話に出て早々の、横柄な物言い。電話の相手は年下で、年上の人間に対する態度としては些か以上に不躾な言動だが、高遠は特に気にした様子は無かった。もとより、この舞台に招待した人間には、世間一般の常識や倫理観から外れた者ばかりなのだ。この程度のことで目くじらを立てていては、やっていけない。

 

「ええ。彼女へ撃ち込む予定だった、『死銃(デス・ガン)』のことですね」

 

『その通りだ。邪魔が入って、撃ち損ねたぞ。計画が狂ったぞ。どうするつもりだ?』

 

「私としても、驚いているんですよ。彼がまさか、あんな行動に出るなんてね」

 

『戯言はいい。それより、どうするかと聞いているんだ』

 

高遠の飄々とした、余裕ぶった態度に苛立ちを募らせながら、通話の相手は次の行動指針について尋ねる。これ以上、冗談の類を口にするのは得策ではないと考えた高遠は、手短に指示を出して通話を切り上げることにした。

 

「舞台は今も進行中です。幸い、彼女を撃つ担当者は、同じエリアにて生存しています。彼ならば、必ず標的を仕留めてくれることでしょう」

 

『フン……当然だ。ステルベンが負けることなんて有り得ない』

 

「では、このまま待機をお願いします。戦況のモニタリングを続け、来る時に備えてください」

 

『いいだろう』

 

その言葉を最後に、通話は途切れた。通話の相手は最後まで不遜な態度だったが、高遠にとってその構え方は滑稽にしか思えない。まるで、計画も何もかも、全て己の力で動かしているような物言い。人形として、地獄の傀儡師たる高遠に操られていることにまるで気付いていないその姿は、道化そのものである。

 

(まあ、彼程度では、イタチ君相手するには、力不足も甚だしいところですが……)

 

何の偶然か。先の電話の相手が、計画時に是非自分の標的にと頼み込んできた相手が、今まさに高遠が注目するプレイヤーと同行している少女なのだ。電話の相手が、件の少女に対して異常な執着を抱いていることは明らかであり、あの少女は高遠が注目するプレイヤーとの間に何からの因縁がある。この複雑怪奇な人間関係が、この舞台を如何な結末へと導くのか……この劇をセッティングしたプロデューサーたる高遠には、非常に興味がある。

 

(私の人形達を相手に、彼女を守りながらどう立ち回るのか……お手並み拝見といきましょうか……イタチ君)

 

混迷を極める戦場の中継映像を眺めながら、高遠はその笑みをより一層深めるのだった。

 

 

 

 

 

薄暗い坑道の入り口付近。出入り口が雪崩の雪で塞がれ、坑道の奥には照明の光さえ届かない深い暗闇が広がる空間の中……イタチとシノンは並んで、壁に背を預けて座り込んでいた。半ば以上自暴自棄になって殴り掛かっても尚、イタチの視線をどうすることもできなかったことに、シノンは抵抗する意思を喪失。今に至っている。

イタチとしては、シノンを協力者として、鉱山の奥へと進みたいと思っていたのだが、今の彼女の精神状態を鑑みるとそういうわけにもいかない。柄では無いが、この後も戦いが続くことを考えれば、シノンの不安定な精神状態をある程度フォローしておくことは必須だった。

 

「…………イタチ」

 

「どうした?」

 

十分程度の沈黙を経て、シノンはようやく口を開いた。ようやく口を開いたシノンに対し、何でもない風に口を開いたイタチだが、内心では困惑していた。女性の悩みの相談に乗る役目など、今の自分に務まるか、まるで分からないが、やらねばならない。イタチが柄でもない、前世でもあまり経験の無いカウンセリングを行うのは、現世ではこれで二度目である。

幸いなのは、今回は相手のリアルを知り、抱えている悩みについても感知していることだろうか。リアル事情を詮索することが御法度とされるゲーム世界において、相手のリアル一方的に認知している状態は、甚だマナー違反である。しかし、シノンは勿論、イタチも余裕のある状況ではない。今現在の優位性をフルに活かし、イタチはシノンのカウンセリングに集中することにした。

 

「私ね……人を、殺したことがあるんだ……」

 

「…………」

 

絞り出すように、悲痛な表情のままシノンが口にしたのは、しかしイタチの予想した通りの言葉だった。普通ならば、大きな衝撃を受けることは間違いない告白に対し、しかしイタチはまるで動じる様子がなかった。何も言わず、ゆっくりと、シノンの方へ顔を向ける。その赤い双眸は、独白のように自身の過去について語るその表情へと向けられていた。

シノンが話した内容は、かつてイタチも……正確には、桐ヶ谷和人が、祖父に連れられて向かった東北の街で聞いた話だった。

 

幼い頃、銀行強盗事件に巻き込まれた母親を救うために、犯人に噛みついたこと――――

 

母親を庇うために、犯人が落とした拳銃を拾い、無我夢中で抵抗する最中、犯人を撃ち殺したこと――――

 

それ以来、銃に対するトラウマが自身の心を蝕み、作り物や指で形作ったものすら直視できないこと――――

 

銃に対する恐怖を克服するために……恐怖に動けない自分を強くするために、あらゆる方法を模索してきたこと――――

 

その末に、銃の世界たるガンゲイル・オンラインの世界へ来て、戦いに身を投じてきたこと――――

 

「…………」

 

シノンが話を聞いている間、イタチは終始無言だった。シノンの隣に佇んだまま微動だにせず、瞬きすらほとんどしていない。傍から見れば、本当に話を聞いているのか疑わしい態度である。だがその内心では、彼女の精神に対し、大きな危険を感じていた。

銃へのトラウマを抱く理由については、イタチこと桐ヶ谷和人も聞いていた話だった。その後についても、トラウマ克服のためにさまざまな活動をしていたことは知っていた。イタチと出会ったことを契機に始めた剣道も、その一環であることを。

だが、その後に始めたこのゲーム――『ガンゲイル・オンライン』だけは、彼女にとって勝手が違った。銃の世界たるこのゲームをプレイするシノンには、他には無い精神面の危うさがあった。これは、幾度となく矛を交えたイタチだからこそ気付けたものであり、今の話で確信したことでもあった。そして同時に、それだけでは済まないと、イタチは思った。

 

(こうなったのは、俺の責任でもある……か)

 

シノンがトラウマを克服するための方法として、戦いの中で己を強くするという手段を取るようになったのは、イタチこと桐ヶ谷和人の出会いがきっかけであることは間違いない。故に、強さを追い求めた末に彼女がガンゲイル・オンラインに手を出し、彼女の精神がこのように危険な状態に陥っている原因は、和人にもあるのだ。決して他人ごとではなく、責任は確実にあると、和人は感じていた。何より、シノンこと詩乃は、イタチの昔からの友人でもある。責任云々の事情抜きでも、力になりたいという気持ちもイタチの中にはあった。

シノンが抱える問題の本質や、追い求める強さの意味は、彼女自身が気付かなければ意味が無い。そして、それは自覚しただけでは終わらない。その問題と、向き合わないことには、本当の解決には至らないのだ。今までは、敢えて答えを出さずに放置してきたが、ここに至ってはそんなことは言っていられない。

 

「シノン……」

 

「!」

 

故にイタチは、意を決して“荒療治”を行うべく口を開いた。対するシノンの表情には、若干怯えのようなものがあった。しかし、イタチは微塵の容赦もなく、シノンが抱える問題の核心に触れる。

 

「お前はいつまで、自分自身から逃げ続けるつもりだ?」

 

 

 

 

 

「…………え?」

 

イタチの口にした言葉に、シノンは意味が分からないという表情を浮かべていたが、無理も無い。いきなりこんなことを言われても、その真意を理解することはまず不可能である。そんな反応をするシノンに大志、イタチはさらに言葉を重ねる。

 

「お前は、弱い自分を強くしたいと言っていたが、何故弱いと感じたのか……その理由を考えたことがあったか?」

 

「それは、私が銃を怖がるから……」

 

「違うな」

 

イタチの口から告げられた否定の言葉に、シノンは戸惑いを見せる。これまでシノンは、銃に対する強い恐怖心こそが、自身が弱い理由と考えていた。銃を写真や指の動作で見ただけで、PTSDによる吐き気や過呼吸を引き起こし、パニックに陥る自分の姿が、情けなくて仕方が無かった。

しかしイタチは、その考えを間違っていると口にした。シノンの弱さが、銃に対する恐怖心にはないのならば……一体、何が弱さの根源だというのか――――

 

「お前が本当に恐怖しているのは、銃ではない。この世界でお前が銃を手に戦えていることがその証拠だ」

 

「それは、仮想世界だからの話で……」

 

「仮想世界と現実世界も関係無い。お前が持っているのは、正真正銘の“銃”だ。銃と認識している以上、現実世界であろうと仮想世界であろうと、恐怖が消えることなど有り得ない」

 

淡々と、シノンの内面を少しずつ暴こうとするイタチに、しかしシノンは一切抵抗することができない。これ以上触れられてしまえば、シノンの精神が揺らぎ……崩壊するかもしれない。そんな危機感があった。

それでも、シノンはイタチの話を止めようとはしない。何故なら、彼は自分が抱える問題の本質を見抜いている。自身の弱さに対する認識が間違っているのならば、それを正さないことには何一つとして始まらない。シノンはただ、イタチが語る正確無比な論拠に耳を傾けるのみだった。

 

「現実世界では直視すらできないそれを、仮想世界では手に持つどころか、それを武器に戦うことすらできる……その矛盾の本質は、お前自身にある」

 

「……私に?」

 

「お前が今日まで引き摺っている恐怖の根源である、銀行強盗事件……あの時お前は、何に恐怖した?」

 

いよいよ、ここからがシノンが抱える問題の核心なのだろう。イタチの問いに対し、シノンは思い浮かべることすら躊躇われた当時のことを必死に思い出して答えを出そうとする。

あの銀行強盗事件の時、一体自分は何を見て、何を感じ――何に恐怖したのか――――

 

(私は、あの時…………)

 

忌まわしい記憶の中の光景。自分があの事件の中で、とりわけ恐怖を感じた場面。そこに映るものを、シノンは必死に思い出そうとした。血に塗れた、惨劇の一幕を…………

 

(私はあの時、何を見た…………?)

 

記憶の中に刻まれた光景ではあっても、その詳細について思い出そうとしたことは、今まで無かった。自身が手にした拳銃を発砲したことで強盗が死に至り、血の海の中に倒れた……それが、シノンに未だ消えない心の傷を残した事件の全てだった。しかし、極限状態の恐怖に晒されていた故に、あの時自分が何を感じたのか、それを明確に考えようとはしなかった。あの時見た光景の全てが、常軌を逸した恐怖に満ちていたことは、間違いなかったのだから。

だが、五年の月日が経った今ならば、思い出せそうな気がする。何より、今の自分は朝田詩乃ではない。GGOに在りし氷の狙撃手、シノンなのだ。現実世界の自分に無い強さを持つこのアバターならば、あの時のことを思い出すくらい、簡単に出来る筈。シノンは自分にそう言い聞かせながら、あの日の記憶を辿った。

 

 

 

銀行強盗事件が発生したあの日。母の命を守るために、満身創痍の意識の中で、強盗が落とした拳銃を手に、反撃に転じた。一発目の弾丸は右肩を貫いた。しかし、男は再度起き上がってシノンに狂気の視線を向けて危害を加えようとしてきたため、動転して二発目の弾丸を放った。今度は頭部に命中し、今度こそ男の命は絶たれた。そこで詩乃は危地を脱して安堵したのだが……問題はここからだった。

 

強盗ではなく、自身に対して恐怖の眼差しを向ける母の姿――――

 

自身の手には、薬莢を排出した拳銃が握られており……手の甲は返り血に濡れていた――――

 

そして、目の前には、二発目の銃弾によって死に至った男が流した血溜まり――――

 

 

 

「っ!」

 

そこまで思い出したところで、シノンは気付いた。自分があの事件の中で、最も衝撃を受けたのは、その時だったことを。そして、その理由すらも理解した……してしまった。

自身が抱く恐怖の正体は、強盗犯を撃ち殺した銃でも、瞳の中に潜む殺した男の幻影でもない。

 

 

 

 

 

その惨状を作り出したのが、自身であるのだから――――

 

 

 

 

 

「あっ……あぁ…………!」

 

今まで気付かずにいた……或いは、無意識に目を逸らしてきた恐怖の正体。朝田詩乃があの強盗事件を境に恐怖したのは、銃ではなく、銃を手に人を殺し、母に恐怖された“自分自身”だったのだ。大切な人を守るために凶器を手にして、躊躇い無く引き金を引き、人の命を奪った。そして、自身の手を血で濡らしてまで護ろうとした母親の表情にあったのは、感謝でも安堵でもなく……殺人というおぞましい所業を犯した自分に対する恐怖する視線。

それを認識した途端、シノンは震えが止まらなくなった。それだけではなく、視界がぼやけ、音が遠ざかり、動悸が激しくなっていく。視界には危険信号を示すマーカーが点滅し、アミュスフィアの安全機構による強制ログアウトが発動しかけていた。パニックに陥り、呼吸すら儘ならないこの状況は、この世界からログアウトしたところで変わらない。パニック状態そのままに、窒息死してしまう可能性すらある。正気を完全に失う一歩手前の世界の中で、シノンはそう直感した。

だが、そこへ――

 

「シノン!」

 

「!!」

 

シノンの名前を呼ぶイタチによる一喝が入る。普段の冷静なイタチからは考えられない大声に驚いたシノンだが、お陰でパニックから目を覚ますことができた。恐る恐るイタチの方へと顔を向けてみると、イタチの整った美貌がシノンの方へ向けられていた。木の葉を模した紋章に横一文字の傷が入った額当ての下で光る赤い双眸には、真剣な光を宿していた。

 

「分かったか?お前の弱さは、銃に対する恐怖ではなく、銃を手に人を殺めた自分自身に対する恐怖に由来するものだ。自分のやったことを認められないまま、このGGOという仮想世界へ来たお前は、人を殺した自分自身を無意識の内にアバターという形で乖離させた。シノンの姿でいる時にだけ、銃に対するトラウマが発生しなかったのも、シノンという存在をこの世界に生きる別人として認識し……現実世界の自分と同一視しようとしなかったからだ」

 

シノンの、自身ですら正しく認識していなかった内面を切開し、容赦なく酷評するイタチ。しかし、それらの指摘には見当違いの点は一切無く、故にシノンは全く反論できずにいた。

 

(全部が見当違いだった……私がこの世界で求めた強さは、何もかもがまやかしだった!)

 

朝田詩乃がシノンというアバターに求めた強さは、一方的な感情に由来するものである。故に、シノンがそのアバターに対して抱く失望めいた感情それ自体が見当違いである。無論、シノンとて頭の中では自分が思っていることが理不尽であることは理解している。アバターの強さをまやかしにしているのは、他でもない自分自身。ガンゲイル・オンラインというゲームや、シノンのアバターに怒りの矛先を向けることは、完全な筋違いである。しかし、過去のトラウマを乗り越えるという切実な願いのもとでこのゲームをプレイしてきたシノンには、行き場の無いこの感情を自身のアバターへぶつけるしかできなかった。譬え、八つ当たりを承知でも……

 

「強くなる以前の問題だ。己を認められない者が、前進することなどできる筈が無い。このゲーム世界の中でシノンを強くするだけでなく、現実世界のお前が変わらなければ、何一つ変えられはしない」

 

「けど……私は!」

 

愛する者――母親にさえ恐怖され、拒絶された自分を受け入れることなど、そう簡単にできる筈が無い。この世界で戦い続け、その末に現実世界の自分とシノンを一つにすることが目標だった。しかし、シノンというアバターそのものがトラウマの根源たる自身の暗黒面であると理解した今では、それを果たすことは儘ならない。今もこうして、シノンのアバターで話すことは勿論、動くことすら忌避している。少なくとも、今すぐ解消できる問題ではない。

そんなことを考えて暗い表情を浮かべるシノンを、イタチは変わらず冷静な視線で見据えていた。その怜悧な光を宿した瞳は、やはりシノンの内心を見抜いていたのだろう。葛藤を抜けだせないシノンを見かねたイタチは、やがて意を決したように再び口を開いた。

 

「己を認めるということは、己が出来ない……或いは、出来なかったことを許すということだ。個人がどれだけの力を持っていたとしても、何もかもが一人でできるわけではない。だからこそ、己の無力を……失敗を許すことこそが必要とされる」

 

上辺だけの説教ではなく、経験に基づいた助言であるとシノンは感じた。ならば、目の前の完全無欠と言っても遜色無い実力者たるイタチにも、同じことがあったのだろうか。己一人では解決できない問題に直面して失敗し……それを解決したという経験が。そう思ったからこそ、シノンは問わずにはいられなかった。

 

「……イタチ。あなたには、無力を感じたことなんてあったの?」

 

「ああ。あった」

 

シノンの問い掛けに、イタチは即答した。予想はしていたものの、本当に意外だった。この世界において実力で右に出る者はおらず、ゲーム内だけとは思えない強さを秘めたこの男が、無力や失敗を経験する場面が想像できない。一体、この完全無欠の剣士に何があったのか……非常に疑問で、気になることだったが、それに触れることは流石に躊躇われた。

 

「自分以外、誰一人として信用しないことで、全て己一人でできると誤魔化し続け……その結果、何もかも失敗した。そして、それに気付くまで重ねてきた、多くの失敗の中で学んだことは、一つとして、一つで完璧なものなど、有りはしないということ。足りないもの同士が引きよせ合い、そばで対を成して、初めて少しでも良い方向へ近付けるのだと、その時になって初めて至ることができた」

 

しかし、その体験の中で何を感じたのか、それだけは答えてくれた。自身の『失敗』について語るイタチの横顔には、悲痛さが感じられた。シノンはこれまで、イタチというプレイヤーを、失敗などとは無縁の、真の強者と信じて疑わなかった。しかし、なんのことはない。彼もまた、シノンと同じように過ちを犯した過去がある。そして、それを乗り越えた経験があるからこそ、強いのだ。

イタチの強さの理由について考えようとせず、自分の中で偶像を作り上げていたことに、シノンは自身に対して怒りを覚えた。そして、過ちを乗り越え、強く在ることができるイタチのことが、羨ましくもあった。イタチの持論に当てはめるならば、シノンに今足りないものは、過去の自分と向き合い、受け入れるための勇気だろう。だがそれは、五年の月日を掛けてもできなかったことである。相反し、拒絶し合う二人の自分を一つにするには、きっかけが必要なのだ。そしてそれは、シノンが自ら作り出せるものではなかった。

 

「シノン」

 

「……なに?」

 

結局、自分一人では何もできないという結論に至り、目の前が真っ暗になるような感覚に陥る中、イタチが名前を呼び声が聞こえた。その声には、先程までの冷たさだけでなく……近くへ歩み寄ろうとする温かさのようなものが感じられた。

顔を上げ、イタチの顔を見つめると、赤い瞳の中にある怜悧な光には、先程の声色に近い、微かな温かさがあった。今までの戦闘の中では見ることの無かった、穏やかさと思いやりに似た感情が籠った視線に、シノンは若干戸惑った。

 

「お前の考えていることは分かる。足りないものが分かっているが、それを受け入れることができない……違うか?」

 

「!」

 

やはり、イタチには全てお見通しだった。仔細は分からないものの、過去に大きな失敗を経験したことで達観しており、故にシノンが抱える問題の真実を見抜けたのだ。今、何を考えているかなど隠せる筈も無いのだろう。しかし、それを指摘したところでどうしようというのだろうか。真意を図りかねたシノンだったが、それに答えるように再びイタチは口を開いた。

 

「足りないものを補うことは確かに必要だ。だが、必要なものだけ手に入れなければならないという決まりは無い筈だ」

 

「え……?」

 

一体、イタチは何を言いたいのだろうか。シノンはさらなる疑問を抱くが、言葉による回答の代わりに差し出されたのは、イタチの右手だった。

 

「足りないものが己自身だとしても、他者に頼ることが必要な場合もある。かつての俺がそうだったように……お前にも、それがあっても良い筈だ」

 

そこまで聞いて、シノンはイタチの真意をようやく理解した。イタチは、シノンに足りないものがあることを知っている。だからこそ今、補おうとしているのだ。こうして、右手を差し出すことで……

 

「俺は、誰かと共に並び立つことを目的に助けを求めたことも、助けを差し伸べたことも無い。それでも、俺はお前の足りないものを補える存在で在りたいと思っている。シノン、俺の手を取ることはできるか?」

 

シノンを助けるために、足りないものを補う存在でありたい。それは、過去に失敗した経験を持ち、シノンの姿にかつての自分を重ねたイタチだからこそ思ったことだった。打算や、憐れみもあっただろう。しかしそれ以上に、対等な立場で並び立ち、良い方向へ進みたいという想いが感じられた。少なくともシノンには、そう感じられた。

 

「イタチ……」

 

初めて差し伸べられたその手に、シノンは若干の困惑を抱かずにはいられなかった。シノンはこれまで、強くならなければならないと自分に言い聞かせ続け、他者に助けを求めることをタブーと考えてきた。しかし、問題解決の糸口が別にあるというのならば、そちらへ手を伸ばしたいとも思っていた。果たして、シノンの思いが行き着く先は――――

 

「……お願い。私を、助けて」

 

震える手を自らも伸ばし、シノンはイタチの右手を包み込むように握った。弱い自分を見せることに対する躊躇いは捨てきれなかったが、シノンは確かにその手を取ったのだ。

 

 

 

差し伸べられた手を伝う、仮想の体温を感じたシノンの表情には、穏やかさや安らぎが戻り始めていた。そして、右手を握られているイタチの表情も、ほんの少しだが変化があった。シノンが手を取った途端に、イタチが安心したような表情を浮かべていたことに、しかしシノン自身は気付くことは無かったが。

 


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