ソードアート・オンライン 仮想世界に降り立つ暁の忍 -改稿版-   作:鈴神

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第九十六話 業火の薔薇

BoB本大会を終え、戦いの舞台である『ISLニヴルヘイム』から転送されたシノンは、大会のリザルト画面の確認を手短に済ませた後にすぐにログアウトし、早々に現実世界へと帰還した。

 

(誰も……いないわね。さて……)

 

仮想世界から現実世界へとログアウトする際に生じる一瞬の浮遊感覚の余韻に浸る間もなく、詩乃は部屋の周囲に誰もいないことを確認すると、ベッドから立ち上がる。向かう先は、玄関のドア。現在掛かっている電子ロックに加えて、チェーンロックを掛けるためである。

イタチの話によれば、死銃は自宅の傍に待機しているらしい。BoBの大会中、シノンは五四式・黒星による射撃を受けていないため、殺害される条件を満たしていない。故に、この期に及んで詩乃が狙われる危険性は低い。しかし、計画が狂ったことで自棄を起こした犯人が、この部屋へ襲撃を仕掛ける可能性は少なからずある。そのため、犯人の侵入を阻む必要があると、詩乃は感じていたのだった。

 

(外で見張っている警察が死銃を逮捕してくれるだろうけど……イタチ――和人が来るまでは、開けない方が良さそうね)

 

電子ロックが掛けられている扉にチェーンロックを重ねてかけ、ほっと一息吐いて安心する詩乃。あとは、和人が到着するのを待つばかりである。和人本人がこの場へ現れたことを覗き穴で確認するまでは、誰が来たとしても、居留守を通すことを心に決める。その後、踵を返して部屋の奥へ足を進める。だが、次の瞬間だった。

 

 

 

パァンッ――――――!

 

 

 

「っ!……なっ何!?」

 

先程チェーンロックをかけた扉の向こうから聞こえる、炸裂音。それは、GGO世界の中で聞き慣れた、戦闘の中で発生する音――『銃声』である。しかも、聞こえたのは一発分だけではない。立て続けに二発、三発と繰り返し響いてくる。何が起こったのかは、シノンには想像もつかない。しかし、この扉の外では今、恐ろしい何かが起こっていることだけは間違いない。その恐怖に、シノンは足を竦ませながらも、部屋の奥へ奥へと退いていく。だが、部屋の外において現在進行形で起こっている事態は、シノンを逃がしてはくれなかった。

 

(電子ロックが――――!)

 

シノンの目の前で起こった次なる事態。それは、先程確認したばかりの電子錠が開くというものだった。こじ開けられた様子はなく、まるで合鍵が使われたかのように開いた扉は――しかし、チェーンロックによって完全な開放は妨げられた。

 

(早く警察に知らせないと!)

 

鍵を開いた者が無理矢理に中へと入ろうとするが、チェーンロックに阻まれて儘ならず、ガン、ガンと音を立てるばかりの侵入者に背を向け、シノンはリビングへと走る。この部屋に侵入しようとする何者かのことを、警察に通報するためである。

しかし、その瞬間――――

 

パァンッ――――!

 

再び響き渡る、銃声。しかも、今度はかなり近い。恐る恐る振り返ったシノンの瞳に映ったもの…………

それは、途中から切れて垂れ下がったチェーンと、阻む者を失い、完全に開かれた扉。その向こうからは、硝煙の臭いとともに人影が現れていた。

 

(そんな……まさか!)

 

その姿を見るや、顔を驚愕に染める詩乃。目の前の扉を破った人物は、詩乃がよく知る人物だったからだ。

 

「やあ、朝田さん。BoB優勝、おめでとう」

 

「新川……君?」

 

詩乃の快挙を褒め称えた少年――新川恭二の姿を見た詩乃は、その笑顔に戦慄した。扉の向こう側から姿を見せた恭二の手には、その笑顔に似合わない……『拳銃』という名の凶器が握られていた――――

 

 

 

 

 

死銃達と死闘を繰り広げた第三回BoBを制したイタチこと和人は、ダイブ中に心拍のモニタリングを行っていた安岐ナースとの会話を手短に済ませ、病院の駐車場へ向かっていた。途中、依頼人の菊岡から電話が掛かって来ていたが、それも適当にあしらい、死銃に関する詳細な事情は後日話すとだけ告げて、強引に電話を切った。今の和人には、依頼人である菊岡と話をするよりも優先すべき事項があった。

 

(詩乃……色々と言われるのは間違いないんだろうな)

 

一方的にリアルを割っていながら、それを隠して接触していたのだ。事情はどうあれ、ネチケット違反なのは否定できない。何を言われたとしても、文句は言えない。そう分かってはいるものの、気が重い。だが、今更逃げるわけにもいかず、自身の愛車たるオートバイに乗り、詩乃の家を目指すことにするのだった。詩乃の自宅の住所は、死銃警戒のために、竜崎ことLが手を回して調べたものを確認していたので、覚えている。今からバイクで向かえば、五分とかからず到着できるだろう。そして、バイクに跨ってエンジンを掛けようとした、その時だった。

 

(……竜崎?)

 

和人の携帯電話が、着信を告げる振動を発した。通知を見ると、着信は名探偵Lこと竜崎。今回の死銃事件における、和人のもう一人の依頼人である。予め打ち合わせていた手筈通りに警察が動いているのならば、死銃は全員、逮捕されている筈。この期に及んで、何か不測の事態が発生したのだろうか。疑問と不安を感じながらも、和人は通話ボタンを押した。

 

「竜崎、どうした?」

 

『和人君、緊急事態です。死銃の一人が、見張りをしていた警官二人を所持していた拳銃で負傷させ、ターゲットの自宅へ押し入りました』

 

竜崎から齎された凶報に、僅かに目を見開く和人。『地獄の傀儡師』こと高遠遙一がバックに付いているのだ。拳銃を用意して持たせるぐらいは簡単であり、故に特別驚くべきことではない。

問題なのは、誰の自宅へ押し入ったかである。竜崎がわざわざ連絡を入れたということは、和人に関係のある人物なのは間違いない。半ば以上予想はできているが、確認のために現場の位置を聞くことにした。

 

「押し入られたのは、誰の家だ?」

 

『朝田詩乃さんです』

 

「分かった。俺が急行する」

 

竜崎の予想通りの返答に即答した和人は、通話を続けながらバイクに跨る。そのままエンジンを入れ、発進の用意をする。

 

『和人君、相手は拳銃で武装している上、劇物も所持している危険人物です。警察が急行するまでは、踏み込まないでください』

 

「あの場所では、警察が到着するには早くても十分は掛かるだろう。その間に、押し入られた被害者が無事で済む保証は無い」

 

ALO事件で須郷に銃撃を受けた時のことを警戒しているのだろう。竜崎は和人に対し、慎重に動くように促す。

 

『和人君、あなたが彼女を気に掛けていることは存じております。しかし、早まった真似だけは……』

 

「分かっている。だが、俺も奴を見殺しにするわけにはいかんのでな」

 

『……分かりました。しかし、本当に気を付けてください』

 

「ああ、任せろ」

 

知り合いたる詩乃の危機を聞かされたイタチは、しかし冷静に構えて竜崎に受け答えし、電話を切った。その後、携帯電話をポケットへしまうと、ハンドルに手を掛けてバイクを発進させるのだった。

 

 

 

 

 

東京都文京区湯島四丁目にあるアパート。その一室が、詩乃の自宅である。しかし今、詩乃が住まう部屋の中には、閑静な住宅街には似つかわしくない、非常に物騒な空気に包まれていた。

部屋の中に居る人間は、二人。この部屋の主である朝田詩乃と、その友人である新川恭二。ベッドの前に立つ詩乃に対し、恭二は拳銃を向けてその動きを封じていた。

 

(五四式・黒星……まさか、またあの銃を向けられることになるなんて……)

 

恭二が握るハンドガンは、詩乃にトラウマを植え付けた銀行強盗事件に用いられたものと同型の銃だった。恐らくこれは、偶然ではない。詩乃の過去を知る恭二が意図して用意したものなのだろう。だが、そこに思考を割く余裕は無い。

 

(それにしても……こうして立っていられるのが、自分でも不思議だわ……)

 

以前ならば、銃を模した指のポーズですら吐き気を催し、動けなくなっていた程に重篤なPTSDを抱えていた。しかし今は、実物を、それもトラウマの根源と同型の銃を前にして、かろうじてだが意識を保ち続けることができている。恐らくこれは、先程までのBoBの戦いの中での経験によるものなのだろう。だが、今はそれを気にしている場合ではない。

恭二に向けられた銃口への恐怖に踏み止まりながらも、詩乃は必死に冷静になって思考を働かせ、時間稼ぎを試みるべく、口を開いた。

 

「新川君……まさか、あなたが死銃の仲間だったなんて……」

 

「へえ、僕のことも知っているんだね。もしかして情報源は、僕の兄さんのコスプレをした、あの忍者もどきの男かな?」

 

対する新川は、詩乃を自由にできる圧倒的優位を獲得したこの状況に酔い痴れているのだろう。詩乃に対して笑みを浮かべ、得意気な様子で、饒舌に答えていた。拳銃を突き付けながら話すその態度は、詩乃がよく知る新川恭二そのものであり……それが詩乃にとっては、余計に恐ろしかった。何故、このような異常な状況下にあって、平静を保っていられるのか。比較的長い付き合いの友人だった筈の少年が、全く別の存在に見えてしまう。しかし、そんな中にあっても、先の恭二が口にした言葉の中には、聞き逃せないものがあった。

 

「兄、さん……それってまさか、あなたのお兄さんが、あの死銃の一人で……SAO時代に殺人ギルドの幹部だった人、なの?」

 

「これは驚いたなぁ……そんなことまで知っていたんだ。それも、あの兄さんの偽物の……イタチっていう男に教えてもらったのかい?」

 

詩乃の口から出た言葉に、浮かべていた得意気な笑みをさらに深め、共犯者たる自身の兄について語り始める。

 

「その通りさ。死銃の最初にやった銃撃事件では、僕がステルベンを動かしていたんだ。けど、今回のBoBでは、SAOで戦い慣れていた兄さんに代わってもらったのさ。僕以外の人に、朝田さんに触れて欲しくなかったからね。けど……」

 

「きゃっ……!」

 

そこまで口にしたところで、恭二は詩乃の鎖骨あたりに銃口を押し付け、そのままベッドへと押し倒した。詩乃の上へと覆い被さる恭二の顔には、先程までの余裕の態度とは打って変わって、凄まじい苛立ちが浮かんでいる。その豹変に、詩乃は凍りつくような寒気を覚えた。

 

「あのイタチっていう、兄さんの偽物のお陰で、全てが台無しだ!僕と兄さんが作り上げた舞台全部……この計画が成功すれば、朝田さんも、僕のものになる筈だったのに……!」

 

「新川、君……?」

 

意味不明なことを口走り、喚き散らす恭二に対し、詩乃は不気味なものを感じた。仮想世界と現実世界で、アバターと生身の身体とを同時に攻撃し、死に至らしめるという悍ましい殺人計画に加担していた時点で、その精神異常は疑う余地も無いのだが。

 

「そうだ……全部、何もかもアイツの……アイツ等のせいだ!散々兄さんと僕の邪魔をした挙句……朝田さんを奪っていった、あの兄さんの偽物!それに、AGI万能論なんてものを嘯いた、ゼクシード!奴等さえいなければ、シュピーゲルはもっと強くなれた……こんなくだらない現実を捨てて、強い自分でいられるあの世界に居続けることもできた!なのに……!」

 

怒りを露に、衝動のまま言葉を吐き出し続けた恭二だったが、唐突に黙り込み、顔を俯かせる。起伏の激しい感情を見せる恭二に、詩乃は戸惑うが、恭二はそんなものはお構いなしに再度口を開いた。

 

「でも、もういいんだ……こんなくだらない世界にいる意味なんてない。これから僕と朝田さんは、別の世界に旅立つんだからね……」

 

穏やかな表情に反して発せられた、ぞっとするような言葉だった。その意味を、僅かに残った冷静な思考の中で悟った詩乃は、いよいよ自らの命が危険に瀕していることを悟った。恭二はこれから、その手に握る拳銃で、詩乃と無理心中をしようとしているのだ。

 

(何とか……しないと!)

 

無理心中を図る恭二を止めるべく、口を開こうとする。錯乱しているとはいえ、自分の声がまだ届くのならば、思い止まらせることも不可能ではない筈。否、思い止まらせなければならない。でなければ、自分もまた死ぬのだから。

それに、恭二は五年前の事件以来、友人が一人もいなかった自分を支えてくれた。故に、詩乃としてはこのまま彼を殺人犯にはしたくないと思っていた。この期に及んでも、恭二のことを友達であると……そう信じていたかった詩乃は、一縷の望みに賭けて言葉を紡いだ。

 

「新川君……今ならまだ、やり直せるよ。一緒に、警察に行こう。予備校に通ってて、高認試験だってこれから受けて……お医者様に、なるんでしょう?」

 

「…………悪いけど、朝田さん。もう僕には、そんなことはどうだって良いんだ」

 

銃口を詩乃へ向けたまま、据わった目のまま、恭二はそう返答した。そして、懐から一枚の紙を取り出して詩乃へ見せつけた。それを見た詩乃は、再度驚愕に目を見開く。

恭二が見せたのは、自身の模擬試験の成績票だった。しかし、そこに記された得点と偏差値は、いずれを取っても惨憺たるものだった。

 

「これって……」

 

「こんな用紙なんて、今時プリンタでいくらでも作れるんだよ。分かったかい?僕にはもう、この世界には未練なんて、欠片も無いんだよ。そう……君を除いてね」

 

極めて落ち着いた口調で、それだけ言い放つと、恭二はその目に狂気を再燃させ、詩乃へと飛び掛かった。その形相に慄いた詩乃は、襲い来る恭二を避けることもできず、そのままベッドに押し倒されてしまった。

 

「朝田さん……君にはずっと、憧れていた。あの、君が関わった、五年前の事件を聞いた時から……!」

 

「え……それって……どういう……?」

 

恭二が発した言葉に、詩乃は耳を疑った。まさか、という感情が渦巻く中、その真意を確かめるために、必死で問いを口にした。対する恭二は、狂気に満ちた喜色を浮かべながら、話しだした。

 

「本物のハンドガンで悪人を射殺したことのある女の子なんて、日本中探しても朝田さんしかいないよ。死銃の伝説を作る武器に五四式を選んだのも、僕なんだよ」

 

恭二から返ってきた言葉を聞いた途端、詩乃は目の前が真っ暗闇に覆われたかのような感覚に陥った。自身がただ一人、心を許せる友人として疑わなかった目の前の少年は、詩乃とは同じ世界を共有できる人物などではなかったのだ。

詩乃がひたすらに強さを欲していたのは、過去のトラウマを乗り越えて、ごく普通の少女としての暮らしを取り戻すためにほかならない。対して、恭二が詩乃に対して抱いていた憧れとは、人を殺すことに躊躇いを抱かない、常軌を逸した殺人者としての姿だった。詩乃にとって、殺人者としての自身の姿は、忌むべき過去にほかならず……自身の本性として認めたいなどとは、微塵も思ったことの無い在り様だった。

互いの心の在り様を、今に至るまで正しく認識できなかった、詩乃と恭二。二人の間には、埋め難い隔絶、乖離が存在していたのだ―――

 

「でも、現実世界でも、本物の五四式を手にできるなんて、思っていなかったけどね。計画自体は失敗しちゃったけど、兄さんが紹介してくれたSAO時代の知り合いには、感謝してもし切れないよ。けど……」

 

恭二はそこで言葉を切ると、左手を懐へと突っ込む。そして、クリーム色のシリンダー状の物体を取り出した。一切の飾り気の無さ故に、不気味さすら感じらせるその装置に、詩乃はさらなる恐怖を感じた。

 

「やっぱり、朝田さんを僕のものにするなら、これしかないよ。うちの病院から持ってきた、無針高圧注射器っていう道具でね。中身は『サクシニルコリン』っていう筋弛緩剤なんだ。これで刺されると、肺も心臓も止まる……つまりこれは、『現実世界の死銃』なのさ」

 

イタチが言っていた、死銃が現実世界の無防備な身体に死を与えるために使っている劇物。それを手に、笑みを深める恭二。対する詩乃は、戦慄に次ぐ戦慄で身体が動かず、声を発することすらできない。

 

「現実世界の朝田さんも、仮想世界のシノンも、結局僕のものにはなってくれなかった。けど、これでやっと一緒になれる。朝田さん……愛してる……愛してるよ……」

 

狂的な妄言を繰り返しながら、詩乃の顔へと自身の顔を近付ける恭二の声は、既に詩乃のもとへは届いていなかった。他者と向き合うことを恐れ……自分自身にすら向き合う勇気を持てなかったこの五年間。その報いが、人の形を持って目の前に姿を現したのだ。傍に居てくれる温かさにすがり、その真意を確かめようとしなかった。これは、恭二による裏切りなどではない。現実から逃避し続けてきた因果が、詩乃自身へと回ってきたのだ。

 

(けど……それでも、私は……!)

 

現実を直視できず、人と向き合えなかったが故に招いたこの事態。絶望に動けなくなりそうになるが、詩乃はその意識を必死で繋ぎ止めようとしていた。

つい先程、銃の世界における決戦の中で、再会を果たした友人が掛けてくれた言葉。それが、現実世界から乖離しようとしていた詩乃の心を、この世界へと引き戻していた。

 

『俺はお前の足りないものを補える存在でありたいと思っている。シノン、俺の手を取ることはできるか?』

 

自身が知り得なかった……無意識に避け続けていた事実に気付かせてくれた少年。それだけでなく、自身を取り巻くあらゆるものと向かい合う勇気が足りない自分に、彼は寄り添ってくれると言ってくれた。ならば、詩乃自身もまた、支えられるに値するだけの抵抗をしなくてはなるまい。ただ縋り付き、助けてもらうだけでは、昔と何一つ変わりはしないのだから。

 

 

 

――――なら、一緒に戦おう。

 

 

 

そう考えた途端、詩乃の心の中に、直接語りかけるような声が聞こえた。暗闇の中、横たわったまま動けずにいる自分を見下ろして語りかけてきた人物。それは、ペールブルーの髪に、三度イエローのマフラーを巻いた少女。GGOにおいて、氷の狙撃手としてしられたプレイヤーにして、詩乃のアバター――シノンである。

 

――――あなたはずっと、自分を守るために私をもう一つの世界に置いて、遠ざけてきた。けど、守りたいものがあるのなら……きっと、私と一つになれる筈。

 

シノンが何を言っているのかは、理解できる。目の前のシノンは、過去の自分なのだ。五年前の銀行強盗事件で、母親を守るためとはいえ、人を殺すことに躊躇いを覚えず……それ故に、今まで忌避してきた己自身である。

 

――――遅過ぎたかもしれないけれど……それでも、自分を変えるなら、今しかない。だから、一緒に行こう――――さあ!

 

かつて、その存在を認めることを恐れたが故に、見て見ぬふりをし続けてきた己自身が差し伸べてきたその手を――――

 

 

 

詩乃は、迷いなく取った。

 

 

 

「う、おぉぉおおお!!」

 

「んなっ……!?」

 

恭二の唇が、詩乃の唇に触れようとした、その直前。詩乃が起こした、恭二にとって予想外の抵抗。押し倒された状態から、精一杯の力を振り絞って、覆いかぶさっていた恭二に対して反撃を試みる。右手を横薙ぎに振るい、恭二の頬を張る。乾いた音が部屋の中へ響くと同時に、呆然とする恭二。さらに詩乃は、その隙を突くように上体を起こすと、精一杯の力で恭二を突き飛ばした。あまりに急な反撃に、拳銃と注射器で両手が塞がっていた恭二はバランスを崩してベッドから落下。背中を床の上に強かに打ちつけた。恭二の拘束を脱した詩乃は、恭二から逃れるべく動き、ベッドの上から転がり落ちるように……否、転がりながら離れる。その勢いのまま、背中をライティングデスクにぶつけ、弾みで抽斗が開いた。

 

(これは……!)

 

その時、飛び出した抽斗の中身が、詩乃の視界に入った。第二回BoBの参加賞として送られてきたモデルガン――『プロキオンSL』である。過去のトラウマの象徴たる五四式・黒星を、仮想世界と現実世界、両方において向けられても、正気を保てた詩乃である。このモデルガンに恐怖する余地は、既に無かった。

完全に拭い去れないトラウマではあるが、己は確実に変化を遂げている。イタチと肩を並べて戦いに臨んだ経験を経てそれを確信した詩乃は、決意とともに、目の前のモデルガンを手に取った。

 

「なんで……なんで、こんなことするの?朝田さんには、僕だけなのに……朝田さんを守れるのは、僕だけなのに……!」

 

「新川君……お互いに行き違いはあったみたいだけど、私はあなたのことを今でも友達だと思っているわ。けど、私はこの世界で生きていたいと思う。辛い事も、苦しい事もたくさんあったけれど……それでも、大切なものを見つけることができた。だから、君と一緒には、行けない」

 

モデルガンの照準を恭二に合わせながら、はっきりと決別を口にする詩乃。対する恭二は、詩乃が口にした言葉の意味が理解できず、床に尻もちをついたまま目を白黒させていた。

 

「一緒に、いられ、ない……?そん、な……そんな!そんなことをぉぉっ!」

 

しかし、錯乱した意識の中で、詩乃の意志を理解し始めたのだろう。そんなことは認められないとばかりに勢いよく立ち上がり、右手に持った五四式・黒星を詩乃へ向けた。

 

「そんなことぉっ!そんなことあるもんか!朝田さんは、僕だけのものだ!それに、そんなモデルガンじゃあ、僕は止められないよ!」

 

勝ち誇り、狂ったようにそう告げる恭二に対し、しかし詩乃は動じた様子がなかった。狂気を宿した瞳を正面から見据え、モデルガンの照準すらぶれさせない

 

(あの時と……全く同じ、ね)

 

五四式・黒星を向けられ、自身もまたモデルガンとはいえ銃を握っているこの状況。詩乃にとっては、五年前の銀行強盗事件の再現そのものだった。眼前に立つ恭二の姿は、かつて自身が殺害した銀行強盗そのものに見える。

過去に立ち向かうべき瞬間が訪れたのだと、詩乃はそう感じた。逃げるわけにはいかない。ここから先が、本当の戦いなのだと、決意を新たに詩乃は臨む。

 

「新川君。君の言う通り、私には人を殺した過去があって……それを現実にやるだけの力がある。だから、この銃はモデルガンじゃない。引き金を引けば、本物の銃弾が発射されて……君を、殺す」

 

「!」

 

静かな声色で宣言された、詩乃の「殺す」という言葉に、大きく目を見開く恭二。目の前に相対する詩乃の瞳は、どこまでも冷たく……強い意志が秘められていた。その姿に、GGO世界のシノンが重なったのだろう。氷の視線に射抜かれて、恭二の先程までの狂乱ぶりはどこへやら。本当に凍りついたかのように、動かなくなり、やがて床へと崩れ落ちた。

 

(今だ!)

 

狂乱から冷めた恭二が見せた、大きな隙。そこに活路を見出した詩乃は、自室からキッチンに繋がる扉を潜り、ドアを目指して一気に駆け出す。死銃事件の捜査に携わっている警察の救援は、次期に到着する筈。そして何より、和人もここへ向かっているのだ。このアパートさえ脱出することができれば、安全な筈。この異常事態にあって、冷静に思考を走らせた詩乃は、生き残るために冷静な思考を走らせて行動していた。

そして、電子ロックのかかった扉へと至り、ロックノブを垂直に動かして解錠して、外へと脱出しようとした……その時だった。

 

「きゃぁっ!」

 

乾いた発砲音とともに、詩乃の顔の直横を銃弾が通り過ぎ、ドアを穿った。そして、驚いたのも束の間。今度は詩乃の左足に、冷たい何かに掴まれるかのような感覚が走った。それと同時に、強い力で引っ張られ、詩乃はバランスを崩して転び、悲鳴とともに玄関に倒れた。

一体、何が起こったのか。それを確かめようと、後ろを振り向いた詩乃の目に映ったもの。それは……

 

「アサダサンアサダサンアサダサンアサダサンアサダサン」

 

「ひっ……!」

 

虚ろな瞳で、壊れた機械ように詩乃の名前を連呼する恭二の姿に、詩乃はトラウマとは無関係に再度戦慄した。先程とは逆に、詩乃が恐怖に動けなくなる。そんな詩乃を、恭二は凄まじい力でリビングの方へと引きずり戻そうとする。詩乃は玄関やドアの淵に手を掛け、抵抗を試みるが、恐怖のあまり力が入らない。叫び声を上げようにも、こちらも極限状態の緊張のあまり、掠れた声しか出ない。

先程のように威嚇をして隙を作ろうにも、モデルガンは玄関で倒れた拍子に詩乃の手から離れている。譬えあったとしても、完全に壊れた状態の恭二に通用するとは思えない。かといって、このまま部屋の奥へと引き戻されれば、確実に殺される。この危地を脱するために、詩乃は必死で思考を働かせていた。

だが、それよりも早く、恭二は詩乃をキッチンまで引き摺り戻すと、再び上へと覆い被さる。右胸に五四式・黒星の銃口を押し付けられ、全く身動きが取れない。左手には、ポケットから取り出した、サクシニルコリン入りの注射器が握られていた。

 

「アサダサンアサダサンアサダサン」

 

今、この状況下で銃弾を胸に受ければ、悪ければ即死、良くても瀕死の重傷は免れない。だが、もとより決死の覚悟で行動に出ているのだ。今更、恐れるものなど何も無い。

狂ったように名前を連呼し続ける恭二の顔が急接近し、背筋が凍りつくような感覚に陥る中。詩乃は命を賭けた、最後反撃として、首筋に噛みつくべく口元を緊張させて備える。

だが、次の瞬間――――

 

「ぐ、えぇぇえっ!」

 

「……!?」

 

玄関の方角から流れ込んでくる冷気。それを肌に感じた途端、床に仰向けで倒れていた詩乃の視界を、黒い影が通り過ぎる。そして、自身の上に覆いかぶさっていた恭二の重みが、苦悶の声とともに消えた。

一体、何が起こったのか。それを確かめるべく視線を巡らせると、影が通り過ぎた方向に、中性的なシルエットの人影を捉えた。

 

「無事か、詩乃?」

 

その人影から掛けられた声。それは、つい最近聞いた、懐かしい……かつて憧れを抱いた人物の声だった。そして、声色こそ違っていたものの、先程までいたもう一つの世界では、同一人物と話をしていたのだ。その声色・口調を聞き違える筈が無かった。

 

「和、人……?」

 

「ああ。遅くなって悪かったな」

 

約束通り、この場所に助けに来てくれた友人の姿を目にし、詩乃は安堵した表情を浮かべる。だが、現実世界で再会したことを喜ぶ暇も無かった。

 

「お、まぇぇええええ!!お前がぁぁあっ!!」

 

「和人、危ない!」

 

「殺す殺す殺す殺す殺すコロスコロスコロスコロスコロスぅうっ!!」

 

和人に殴り飛ばされて床を転がった恭二が上体を起こし、右手に握った拳銃の銃口を和人に向けてきたのだ。錯乱した意識の中、和人を敵として認識した恭二の反撃。それに直面した和人は……しかし、眉一つ動かさずに対処に動く。

 

「ふん」

 

「死ね死ね死ね死ねシネシネシネ……ぐぅぁああっ!!」

 

拳銃を握った恭二の手へと回し蹴りを放ち、向けられた銃口ごと横へと逸らす。放たれた銃弾は、明後日の方向へ放たれ、壁を穿つ。至近距離で構えた銃を容易くあしらわれ、驚愕する恭二。対する和人は、その隙を見逃さずに、さらに畳み掛ける。

 

「ひっ……!」

 

「終わりだ」

 

目にも止まらぬ早業で、恭二の上へと覆い被さるように動いた和人。その冷たい光を宿した双眸を向けられた恭二は、小さな悲鳴とともに怯んだ。そして和人は、その無防備な鳩尾目掛けて、垂直に真っ直ぐ、極めて強力な掌底を放つ。

 

「ごぼぉぉおっ!」

 

数秒にも満たない、文字通り瞬く間の、攻防とも呼べない和人による一方的な攻勢。錯乱状態で暴れ回っていた恭二だったが、和人が放った掌底の一撃にて、短い苦悶の声と共に完全に沈黙した。両手は力なく開かれ、拳銃と注射器がゴトリという音とともに床を転がった。

 

「終わったぞ、詩乃」

 

死んだように動かなくなった恭二と、両手から落ちた武器を回収する和人。それを確認した詩乃は、今度こそ全てが終わったのだと確信し、安堵するのだった。

 

 

 

恭二を無力化した上、凶器を回収した和人は、詩乃のもとへと歩み寄ると、手を差し伸べる。

 

「立てるか?」

 

「えっと……ごめん、腰が抜けちゃって」

 

極限の緊張状態から解放された反動により、足腰が立たない状態に陥ってしまったらしい。和人に手伝ってもらって、ようやく上体を起こすことができた。そして、和人の姿を間近で見るや、その胸へと抱きついた。

 

「詩乃?」

 

突然の詩乃の行動に、若干の戸惑いを覚える和人。だが、自身に縋りつく詩乃の身体が震えていることに気付く。

 

「怖かった……本当に、死ぬかと思った……!」

 

「……巻き込んで、済まなかったな」

 

涙声で必死に言葉を紡ぐ詩乃を、和人もまた抱き締める。震えながら自身の身体に腕を回し、必死に離すまいとする。その姿からは、彼女が体験した恐怖がどれ程のものかを物語っていた。

仮想世界では精神の、現実世界においては、実際の命の危険に晒されたのだ。しかも、トラウマの根源となった銃は、仮想世界に止まらず、現実世界においてまで突き付けられ……果ては、友人だと思っていた少年に命を狙われたのだ。少なくとも、一介の女子高校生が耐え切れる恐怖ではない。

 

(これも、俺の責任だな……)

 

本来ならば、詩乃がこの事件に関わる可能性があると分かった時点で、大会からも手を引かせるべきだった。本選開始前に彼女を止めていたならば、仮想世界では勿論、現実世界でも無用な危険に晒されることは無かった筈なのだ。それを和人は、詩乃ことシノンの精神的な危うさを察しながらも、敢えて干渉しなかった。心に抱く問題の根幹は、本人の力で気付くべきであるとするのが、和人の考えだったからだ。

しかし、大会の途中、死銃に襲われた詩乃の危うさをそれ以上は看過できないと感じ……結果、私情を挟んで救援に立ち回った。依頼を受けた身としては、このような真似は本来するべきではなかった。少なくとも、前世のうちはイタチにはあるまじき行為である。

 

(忍としては失格……だな。幸いなのは、詩乃の命だけは守り切れたことか……)

 

友を想い、守るために行動したと思えば都合は良いだろうが、今回の行動選択は完全に間違っていた。感情を殺して任務に臨む忍としては、失格としか形容できない行為である。自身の見通しの甘さ故に、友人にまで累を及ぼした現状に、和人は自省するのだった。

唯一の救いは、和人が思っていた通り、多少の怪我こそしたものの、詩乃の命が無事だったことである。今回の事件は、一歩間違えれば詩乃は精神的にも身体的にも危険だったのは間違いないのだから。

 

「和人、大丈夫か!?」

 

そうして詩乃を抱き締めることしばらく。チェーンロックの壊れた扉を開けて、新たな救援が駆けつけてきた。長い髪を背中で束ねた髪型に、太い眉毛が特徴的な少年。捜査協力者の一人である、金田一一である。後ろには、一と旧知の仲である警視庁捜査一課の警部、剣持勇をはじめとした警察官数名が同伴していた。

 

「そちらもようやく到着か。犯人はそこだ」

 

「やっぱり、こいつだったか」

 

和人が目線で指し示した部屋の奥には、仰向けに倒れた恭二の姿があった。死銃事件の容疑者リストに載っていた恭二のことは、剣持警部も知っていたのだろう。その姿を確認した表情には、怒りが見て取れた。

 

「和人、怪我とかは無いんだろうな?」

 

「大丈夫だ。俺も詩乃も、大した怪我は無い」

 

「そうか……流石に今回は、間に合わないんじゃないかって思ったぜ。ま、お前のことだから、犯人も返り討ちにしちまうだろうとは思ってたんだがな」

 

苦笑しながらそう口にする一は、若干ながら顔を引き攣らせて、遠い目をしていた。恐らくは、SAO時代の黒の忍としての規格外ぶりや、ALO事件での活動を思い出しているのだろう。このような視線を向けられることは、仮想世界・現実世界はおろか、前世・現世を問わず珍しくなく……桐ヶ谷和人としても、うちはイタチとしても慣れていた。

 

「話しているところ悪いが、失礼するぞ」

 

そんな中、ドア付近に立っていた剣持が部下数名連れて、一と和人、詩乃の横を通り、部屋の奥へと向かっていった。さらに、剣持達が取ったドアの向こうに、新たな人物が姿を見せた。

 

「やっぱり、もう終わってたか。全く……相も変わらず、無茶苦茶し過ぎじゃないのか?」

 

「カンキチ……お前も来ていたのか」

 

玄関に現れたのは、二人の男。一人は、剛毛角刈りの太くカモメのように繋がった眉毛の、袖捲りした警官の制服に身を包み、サンダルを履いた胴長短足の男。もう一人は、丸刈りに太い眉毛の、緑色の軍服に身を包んだ筋骨隆々とした兵士然とした男。今回の死銃事件を解決するために、Lこと竜崎に紹介された、ゲーム内の協力者――カンキチこと両津勘吉と、ボルボことボルボ西郷である。

 

「わし等も一応、この事件の捜査に関わっているんでな。お前が現実世界で動いたと聞いて、何かあったと思って駆けつけたんだよ」

 

「尤も、心配は無用だったみたいだがな……」

 

両津に続き、ボルボが呟きながら、部屋の奥へと視線を向ける。そこには、気絶したまま剣持に手錠をかけられている恭二の姿があった。傍らには、恭二が持ち込んだ拳銃と注射器を回収する警官の姿も確認できる。この状況から察するに、和人は殺傷性の高いこれら凶器をものともせず、彼を無力化したことは明白だった。

 

「GGOのプレイぶりを見て、只者じゃないとは思っていたが……まさか、これ程とはな」

 

「こいつが現実離れしてんのは、今に始まったこっちゃねえんだよ。SAOん時から、俺達はこいつに驚かされてばっかだったからな……」

 

「…………」

 

仮想世界に止まらない和人の規格外ぶりを目の当たりにし、顔を引き攣らせる警官二人のコメントに対し、和人は沈黙するばかりだった。

 

「よし、パトカーへ運び、署まで連行するぞ」

 

そして、そうこうしている間にも、恭二を連行する用意は整ったらしい。剣持の指示により、同伴していた警官二人が恭二の腕を掴んで持ち上げ部屋から運び出していく。

 

「新川君……」

 

そんな恭二の姿を、和人との抱擁を解いて見る詩乃は、沈痛な表情を浮かべていた。やはり犯罪者と言えども、友人だと思っていた人物が警察に連行される姿を見るのは、辛いものがあるのだろう。そんな詩乃の心情を察した和人は、未だに震え続けるその手を握り、安心させてやることにした。

 

「…………和人、ありがとう」

 

「気にするな」

 

不安定な詩乃の精神を支えるために、より精神的に寄り添おうとする和人。その手を握り返す詩乃は、安心とは別の理由で、頬を薄らと赤く染めていた。

 

「あぁ~……お二人さん。悪いんだけど、そろそろいいかな?」

 

「む……悪いな」

 

危機を乗り越え、生還したことを確かめて抱き合う男女の姿に、一は何を思ったのか。想像には難くないが、和人は敢えて言及しないことにした。今はそれより、ここを動く方が先だ。

 

「済まないが、君達には後ほど事情聴取に付き合ってもらいたい。大丈夫かな?」

 

「ええ、問題ありません。詩乃も、良いな?」

 

「……うん」

 

「それじゃあ、早速…………!」

 

剣持に促され、事情聴取に同行するべく腰を上げようとした……その時だった。和人はふと、微かな機械音を耳にした。本当に聞こえるのか否か、微妙な程の、カチッカチッという小さな音である。だが、忍としての前世を生きた和人の直感は、それを気のせいだとは―――安全なものとは、どうしても思えなかった。

 

「和人?」

 

和人の様子の変化を訝しみ、名前を呼び掛ける一。だが、和人の注意はそちらを向くことはなく、詩乃の部屋全体へと視線を巡らせていた。

 

(あれだ……!)

 

そして、和人は自身が感じた違和感の正体を見つけた。和人の視線の先にあるもの。それは、キッチンのあたりの床の上に放置された、黒いバッグ。男物のデザインであることから考えて、恐らく恭二が持ち込んだものなのだろう。それを視認するや、和人は詩乃の抱擁を解くと、素早く近寄って手に取り、チャック開けて中身を確認した。

そこにあったのは、赤い光を放ちながら時を刻むデジタルタイマー。そして、タイマーから伸びたコードは、金属性の筒へ繋がっていた。その装置の正体を瞬時に見抜いた和人は、部屋の中に居る人間へ即座に警告を発した。

 

「逃げろ!爆弾だ!」

 

「なっ!」

 

「はぁあっ!?」

 

「っ!」

 

常の冷静なイタチからは考えられない、大声で発した警告。その言葉の意味を逸早く理解し、行動に移して行動に移したのは、SAO時代の同期達だった。

 

「おっさん!他の部屋の人達を避難させてくれ!早く!」

 

「わ、分かった!」

 

「ボルボ、ワシ等もこのアパートの住民を避難させるぞ!」

 

「ああ!」

 

一と両津に促され、正面の扉を通ってアパートの住人達を避難させるべく動く剣持とボルボ。一もまた、この部屋に残っていた和人と詩乃を連れて、共に避難させるべく動き出す。避難を促す剣持とボルボの声がアパート全体に響くが、和人にそれを気にしている余裕は無い。爆弾のタイマーは、三十秒を切っていたのだから。

 

「俺達も早く逃げるんだ!」

 

「えっ……ちょ、ちょっと……!」

 

一に促され、避難するために立ちあがろうとする詩乃。だが、先程恭二に襲われた恐怖の影響か。腰が抜けて、立ち上がることができずにいた。

 

「一、カンキチ。詩乃は俺が連れて行く!お前達は先に逃げろ!」

 

「お、おう……!」

 

「逃げ遅れて巻き込まれるんじゃねえぞ!」

 

自分達の力では詩乃を動かせないと判断した一と両津は、和人の言葉に従って扉を出て、剣持の後を追う形で階下へ向かった。

 

「詩乃、しっかり掴まっていろ」

 

「きゃっ?……ちょちょ、ちょっと和人!?」

 

一が踵を返して間を置かず、和人もまた、詩乃を連れてこの部屋から避難するべく動き出す。ただし、詩乃は腰が抜けて動けない状態である。そこで、和人が取った移動方法は、詩乃の膝と背中を両手で支えて横抱きにする……世間一般では、『お姫様だっこ』と呼ばれるものだった。

突然の和人の行動に、素っ頓狂な悲鳴を上げる詩乃だったが、和人はこれを黙殺。剣道や日々のトレーニングで培った運動神経をもって、詩乃を軽々持ち上げると、その重さを感じさせない軽い足取りで階下を目指す。

 

「和人、こっちだ、早くしろ!」

 

そうこうしている内に、詩乃を抱いた和人は階段を完全に駆け下りた。そのまま足を止めず、アパートの門を出ると、一や剣持、アパートの住人が避難していたパトカーの傍に到着した。あと一歩で警察関係者が待機する場所に辿り着く……その時だった。

 

「!」

 

「あっ……!」

 

アパートの詩乃が住んでいた一室から、青みを帯びたオレンジ色の閃光が迸った。次いで発生する、空間を震わせる衝撃。

 

「うわぁああっ!」

 

「のぉぉおっ……!」

 

爆弾の起爆に寄って発生した衝撃に耐えているのだろう。一や剣持の悲鳴、唸り声が聞こえる。そんな中、和人は姫抱きした詩乃を地面に下ろして上から覆い被さる。自らの身体を盾にして、爆発の衝撃と飛来物から、詩乃を庇おうとしていたのだ。

 

「和人!」

 

「じっとしていろ……!」

 

自身を守るべく、身を呈して盾となっている和人の心配をして声を上げる詩乃。だが、和人は覆い被さっている詩乃に被害が及ばないように身体を押さえ、衝撃と飛来物に耐えるのだった。

 

 

 

 

 

 

(やれやれ……私の舞台も、これで終幕ですか)

 

真夜中の静寂に包まれた、東京都の住宅密集区域。いつもと同じように、街優しく包み込んでいた夜の静寂は……しかし、爆音と爆炎によって、一瞬にして破壊された。その根源となったのは、街の一角にあるアパートの一室にて炸裂した、プラスチック爆弾である。

何の前兆も無く発生したこの爆破事件。しかし、現場に居合わせた警察官による避難誘導のお陰で、幸いにも死傷者は発生せずに済んでいた。爆発が発生したその後は、同警察官が呼び出した消防隊による消火活動が開始された。

そして、爆破事件の発生から消火活動が開始された現在。現場には、消防署の救助隊と救急隊、警察関係者、そして近隣住民が集まってできた人だかりが形成されていた。

 

 

 

その男は、そんな多くの人間が集まる混沌とした中に、立っていた――――

 

 

 

(まあ、大した仕掛けをしていたわけではありませんし……それに、今回の舞台の目的は、私の再来を皆さんに知らせることでしたからね)

 

目の前に広がる、爆発による爪後と、発生した火災の様子を見ながら、男は内心で満足そうな表情を浮かべていた。尤も、それを表に出すことだけは、絶対にしないが。

 

(しかし……私にも、譲れないルールというものがありますからね)

 

自身の立てた大掛かりな計画は、既に爆炎とともに粉々に粉砕されている。しかしそれでも、やるべきことはまだ残っている。少なくとも、全ての元凶であるこの男は、そう考えていた。

男が目を鋭くして睨みつける視線の先。そこに居るのは、複数の警察官と、それに引き摺られるように連行されていく、一人の少年だった。男の視線は、警察官に連行されていた、少年に注がれている。

 

(失態を犯した操り人形には……未来は、無い)

 

男はそう心の中で呟くと、右手から一輪の薔薇の花を取り出した。そして、爆発・火災事故の現場に周囲の人間の視線が集中している中で、それを投擲した。

薔薇の花の茎部分には、細いナイフが結び付けられていた。投擲されたナイフは、爆発の熱を帯びた夜気を切り裂き、一直線に進む。赤い花弁を、血の如く散らしながら飛来するナイフは、男の狙い通り、警官達に連行されている少年の背中へと吸い込まれるように向かい…………

 

「させんよ」

 

突き刺さる、一歩手前で止められた。

 

 

 

 

 

「ようやく姿を見せたな、スカーレット・ローゼス。……いや、『地獄の傀儡師』、高遠遙一」

 

目にも止まらぬ速さで放たれたナイフの柄を、グローブの嵌められた手で掴んだ和人は、投擲者の名前を口にする。その黒い双眸が捉えているのは、一人の警察官だった。

この現場に駆け付けた他の警察官と変わらない服装と、何の特徴も無い容貌である。この非常事態が起こっている現場においては、全く目立たない容姿をしたこの男……だが、和人がその正体に触れた途端、その口元が別人のように歪んだ。

 

「流石ですね、イタチ君……いえ、桐ヶ谷和人君」

 

和人のSAO時代のプレイヤーネームを口にした警察官の姿をした男は、右手を顔の左側、米髪のあたりに手を添え、爪を突き立てた。そしてそのまま、顔に貼り付いた皮膚ではない何かを力任せに引き剥がしたのだ。

 

「まさか、私がこの場所に来ることまで想定していたとは……流石は、『黒の忍』ですね。それとも、『死剣』と呼ぶべきでしょうか?」

 

ゴム状の何かを引き剥がした向こう側に現れたのは、整った顔立ちをした男の顔。だがその目には、人のものとは思えない……冷酷な光を宿していた。

その顔を和人が知ったのは、SAOから現実世界へ帰還した後のこと。SAO時代には、仮面に覆われて見えていなかったが、こうして対面したことによって、和人は確信した。目の前に立つこの男こそが、SAOにおいて殺戮の限りを尽くしたレッドギルド――笑う棺桶の幹部、スカーレット・ローゼスであり……そして、この事件の黒幕たる『地獄の傀儡師』高遠遙一なのだと――――

 

「貴様が操り人形の始末に動くのは、SAO時代から分かり切っていたことだ。爆破による始末に失敗したのならば、直接手を下しに来るのは、自明の理だ」

 

「フフ、そうですか。しかし、私が投擲したナイフを容易く受け止めるとは、全く思いませんでしたよ」

 

この爆破騒ぎの根源となったプラスチック爆弾は、恭二が心中のために持ち込んだものではないと、和人は瞬時に見抜いていた。この爆弾は、計画が失敗した時のために、高遠が操り人形としてえいた恭二を始末することを目的に仕込んでいたものだったのだ。

そして、爆破による始末に失敗したことを確認したならば、直接手を下すべく、この場に必ず現れる可能性が高い。そう予測した和人は、こうして待ち構えていたのだった。

 

「仮想世界における銃撃のタイミングに合わせ、現実世界で劇薬の注射を行う。……SAO事件を経験した、仮想課の認識の裏を突くという点では有効なトリックだったが、俺や一を欺くには至らなかったな」

 

「まあ、そう言われても仕方がありませんね。もとより今回の舞台は、私の再来をお知らせすることが目的でしたからね。序章の二人以上は、仕留められるとは思っていませんでしたから」

 

「ふざけるな、高遠!」

 

和人と並び立つように現れた、もう一人の少年。和人と同じく、今回の事件を解決に導いた立役者の一人にして、高遠遙一とは現実世界からの宿敵でもある高校生探偵――金田一一である。

 

「お前はそんな理由で、お前は笑う棺桶の元メンバーだけじゃなくて、無関係な人達まで嗾けて……人殺しをさせたってのかよ!」

 

「誤解の無いように言っておきますが、彼等を殺人者へと覚醒させたのは、私ではなくSAOそのものだ。今回の事件を起こした死銃の中には、笑う棺桶のメンバーではない者も混ざっていましたが……彼等もまた、殺人に至るに足るだけの殺意を滾らせていました。私の関与に関わらず、遅かれ早かれ彼等は同じ様な事件を起こしていたことでしょう」

 

「そんな言い訳が通用するか!お前がこの事件を引き起こした元凶には、違いないだろうが!」

 

元笑う棺桶所属のSAO生還者達をはじめとした、多数の人間に対して一度に殺人を教唆し、大規模な計画に走らせた張本人であるにも関わらず、高遠はふてぶてしい態度を崩さない。そんな高遠の態度に、一は怒りを隠せずにいた。

 

「トリックについても、特殊アイテムに頼り切った情報収集に、人数に物を言わせた偽装。我が舞台ながら、面白味に欠けていたことは否めませんでしたね」

 

「高遠っ……お前は!!」

 

「一、落ち着け。高遠、貴様の聞くに堪えん話も、そこまでにしてもらおうか」

 

和人は二人のやりとりを見る中で、これ以上の平行線を辿るだけの問答は不要と考え、早々に決着を付けることにした。周囲に視線を巡らせ、高遠を捕らえるための準備が終わったことを確認しながら、自らも高遠への警戒を怠らず、その一挙手一投足に神経を研ぎ澄ましていた。

 

「この場にノコノコと姿を現した以上、タダで帰れるとは思っていないだろうな?」

 

「動くな、高遠遙一!」

 

和人と相対する高遠遙一を包囲するように、剣持率いる捜査一課所属の屈強な警部や警官隊が動きだす。その数は、二十名以上に及ぶ。凶悪犯とはいえ、一人を相手にするための戦力としては過剰である。しかし、和人と一といった、高遠の危険性を知る人物としては、これでも安心はできないと感じる程だった。

 

「桐ヶ谷君の言う通りです。見苦しい言い訳は、そのくらいにしてもらいましょうか」

 

警官隊が高遠を包囲するべく動く中、和人の隣へ新たな人物が現れる。眼鏡を掛けた、容姿端麗な男性。警視庁捜査一課の警視、明智健悟である。一と肩を並べて数々の難事件を解決してきた人物であるとともに、一と同じく高遠の宿敵でもある。

万を持して、高遠を逮捕できるか否かのこの状況下で現れた明智の手には、拳銃が握られていた。

 

「ほう、物騒なものを……」

 

「私が撃たないと思ったら大間違いですよ。場合によっては射殺も止む無しと考えています」

 

「明智さん、狙うなら頭です。恐らく防弾チョッキを着ている筈ですから」

 

射殺も止む無しと告げた明智だが、生きて逮捕したいと考えていることは間違いない。しかし、相手は地獄の傀儡師、高遠遙一である。防弾チョッキの類を用意していることを見抜いていた和人は、確実に殺すべきと考え、明智に頭部を狙うことを進言する。

 

「おやおや、相変わらず怖いですね、イタチ君は」

 

「お前は危険だ。本来ならば、生かしておくことすら危険過ぎると俺は考えている」

 

和人の容赦の無い射殺進言と評価に対し、しかし高遠の余裕は全く崩れない。そんな態度を見た和人は、高遠がこの状況を脱するための手段を未だに隠し持っていると推測する。

 

(奴がこの状況を脱する手段を持っていることは、既に想定済みだ。そして、竜崎も同じ考えに至っている。だからこそ奴は、狙撃手まで用意したんだからな……)

 

この事件捜査の指揮を握っているLこと竜崎は、高遠を追い詰めるための最後の詰めとして、先の第三回BoBに参加していた捜査協力者でもある凄腕FBI捜査官、赤井秀一をこの場に呼び出し、狙撃位置に待機させているのだ。『銀の弾丸(シルバー・ブレット)』の異名を持ち、竜崎が全幅の信頼を寄せている狙撃手である。如何に相手が高遠であろうとも、防ぎ切れる道理は無い。

 

(さあ、どう出る?高遠遙一……!)

 

高遠が隠し持っている凶手を警戒しつつ、包囲を狭める警官隊。対する高遠本人は、その場に立ったまま微動だにしない。

 

「高遠遙一!これまでの数々の殺人容疑。そして今回の事件における、殺人教唆の容疑で、貴様を逮捕する!」

 

「申し訳ありませんが、それは御免被ります」

 

高遠を逮捕するべく、手錠を手に前へと出る剣持。対する高遠は、拒絶の意を口にし……指を鳴らした。途端――――

 

「ぬぉおっ!?」

 

「んなっ!?」

 

「これはっ!?」

 

高遠を中心に、地面から紅蓮の炎が迸った。マジシャンがよく使い、高遠も得意とする、発火系のマジックである。地面から立ち上った火柱は、瞬く間に周囲の警官隊と高遠とを遮る壁となり、その行く手を阻む。だが、事態はそれだけに収まらなかった。

 

「きゃぁぁああ!火が、火がぁっ!」

 

「火事だ、逃げろぉお!」

 

爆破・火災の現場から再度発生した火の手に、集まっていた群衆が混乱に陥った。我先にと逃げ出す者、火災の物珍しさ故に携帯電話で写真を撮影しようと逆に進む者、そして混乱する群衆を避難させようとする消防士達とで、その場に居た全員がパニックに陥った。警察でも手に負えない事態が引き起こされたその惨状を眺めていた高遠は、満足そうな表情を浮かべていた。そして、炎の中心に立ちながら、改めて自身の舞台の幕引きを宣言する。

 

「それでは最後に、炎の脱出マジックの披露をもって、この地獄の傀儡師再来の舞台の幕といたしましょう」

 

「待て、高遠!」

 

「高遠……!」

 

和人や一は、幕引き宣言と共に逃亡を図る高遠を止めようと動くが、炎に阻まれて動けずにいた。火柱は十メートル以上の高さに上っている。この状態ではどこかから高遠を狙っているあろう竜崎が手配した狙撃手といえども狙撃は儘ならないことは明らかだった。

炎を隔て、すぐ傍に立つ高遠に対し、しかし何も手の打ちようが無い和人と一の様子を一瞥した高遠は、まず一に向かって再度口を開いた。

 

「ハジメ君……いや、金田一君。君と私は、闇と光の双子のような存在。常に傍に在りながら、決して交わることの無い平行線だ」

 

次いで高遠は、和人へと視線を移す。紅蓮の炎を移す双眸に、かつてのイタチの面影を感じ、笑みを浮かべながら言葉を紡ぐ。

 

「そしてイタチ君こと、桐ヶ谷君。君は私と非常に近しい存在でありながら……それでいて、金田一君同様、交わることは無い存在。例えるならば、コインの裏と表だ」

 

燃え盛る炎の中、高遠はそれだけ口にすると、最後に分かれの言葉を口にする。

 

「またお会いしましょう……惨劇の舞台で。それでは、イタチ君、ハジメ君――――」

 

 

 

Good Luck

 

 

 

高遠遙一が逃亡時に必ず残す、終末を告げる決め台詞。それが聞こえた途端、次なる異変が群衆や警官隊を襲う。燃え盛る炎が発生していたアスファルトの地面から、周囲を覆い尽くす程の、大量の黒い煙が発生したのだ。

 

「まさか!」

 

「この煙に乗じて逃げるつもりですか!」

 

「こ、のぉぉお!」

 

高遠が逃亡を図っていると分かっていながら、しかし手も足も出せないことに、明智や剣持をはじめとした警察関係者達は歯噛みする。できることといえば、煙の向こうから繰り出される高遠の襲撃に備えつつ、包囲を維持することだけだった。

やがて煙が晴れた向こう側には、先程まで地面から立ち上っていた火柱は消えており…………その中心部に立っていた高遠もまた、姿を消していた。

 

「畜生っ……!」

 

「やられましたね……」

 

高遠の逃走という事態は、予想の範疇である。問題は、どのようにして、どこへ逃走したかである。手段さえ分かれば、追跡して逮捕する望みもある。高遠と対決した経験のある一と明智、そして和人は、高遠の消えた現場全体に瞬時に視線を巡らせ……手掛かりを見つけるに至った。

 

「明智さん、あそこ!」

 

「マンホールの蓋が開いていますね……剣持警部!」

 

「高遠は下水道に逃げた!追うぞ!」

 

剣持の指示に従い、警官隊は次々動き出す。一もまた、高遠を逮捕するべく、明智と剣持に同行する。

 

「…………」

 

警官隊が忙しなく動き、包囲を突破し、下水道へと逃げ込んだ高遠の行方を追いかける。そんな中、和人はただ一人、高遠を追いかけることもせず、その場に立ち尽くしていた。しかし、呆然としていたわけではなく……その視線の先には、高遠が逃走に際して発生させた火柱と煙を背に逃げ出す群衆の姿があった。そして、高遠が姿を消したその場所には、先程まで和人の手に握られていたものが……

 

 

 

薔薇の花が結び付けられたナイフが、刀身を血で濡らした状態で、転がっていた――――

 

 

 

 

 

 

 

「ぐっ……流石ですね、イタチ君……!」

 

爆破火災に次いで発生した、火柱と黒煙によって混乱に陥った群衆が、四方八方へと逃げ出していた現場のすぐ近く。人気の無い路地裏の隅に、高遠の姿はあった。その額には、びっしりと玉のような汗が付いており、呼吸も荒い。明らかに追い詰められているその姿は、地獄の傀儡師として警察や名探偵を手玉に取ってきた彼には、本来有り得ないものだった。

 

「あの黒煙が立ち上る中で、私の動きを予測し……投擲したナイフを私に投げ返すとは」

 

路地裏の闇の中、必死に息を整える高遠の左肩には、刃物による刺し傷があった。この傷を作った凶器の正体は、高遠が操り人形を始末するために投擲した、薔薇の花が結び付けられたナイフである。高遠が受けた傷は、高遠の投擲を受け止めた少年――桐ヶ谷和人によるものだった。

 

「解毒剤を私が所持していたのは、幸いでしたね……あと少し遅ければ、私の命はありませんでした」

 

操り人形の始末を行うにあたり、高遠は殺傷能力を上乗せするため、凶器のナイフに毒薬を塗り込んでいた。そのため、イタチこと和人が放った投擲を受け、そのまま放置していたならば、確実に命は無かった。念のために現場へ持ち込んでいた解毒剤が幸いして一命を取り留めた高遠だったが……本当に危険だった。

 

「彼のことだ……このナイフに、毒が塗ってあることは、察していた筈。つまり彼は……私の命を奪うつもりで、これを投げた!」

 

それは、非常に恐ろしい推測だった。殺人犯相手とはいえ……和人は、高遠を躊躇い無く殺傷しようとしていたのだ。SAOという特殊な状況下ならばいざ知らず、現実世界で抵抗無く殺人に及ぶことのできる人間など、そうそういない。少なくとも、一介の高校生の精神では為し得ない。

 

「SAOでも、その片鱗を見せてもらいましたが……やはり君は、金田一君と同様、私と並び立つに値する人間だ」

 

非常に近しく……本質的には同じと言っても良い存在でありながら、決して向き合うことはできない。コインの表と裏と呼べる少年のことを思い出しながら、高遠は笑みを浮かべた。

 

「この私を倒したあなたならば、“彼”に勝つことも、十分可能でしょう…………」

 

彼がこれから戦うであろう、鋼鉄の城で轡を並べて殺戮の限りを尽くした盟友を思い浮かべる。次に和人が仮想世界を舞台に命を賭けた闘争に臨むとするならば、相手は恐らく彼であると、高遠は考えていた。

 

「次の舞台を、楽しみにしていますよ……Good Luck、イタチ君」

 

闇夜に包まれた路地裏にて高遠が不敵な笑みとともに漏らした言葉。それは、高遠の影とともに、夜より深い闇の中へと溶けて消えていくのだった――――

 


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