百花繚乱クロニクルセブン-僕らのセカイとキミのミライ- 作:白鷺 葵
死にたくなかった。生きたかった。役立たずだと断じられて、廃棄処分になんてされたくなかった。
だから、何でもやった。生きるために必死だった。生きられるなら、他のことなんて考える必要はない。
『今日は対人訓練だ。お前には、こいつを殺してもらいたい』
白衣を着た研究者は、1枚の写真を差し出した。
金髪の髪に菫色の瞳が印象的な紳士だった。快活に微笑む男の顔を、しっかりと刻みつける。
『失敗したら、どうなるか分かっているよな』――研究員の言葉が何を意味しているか、知っていた。
失敗したら、廃棄処分されてしまう。殺されてしまう。それは嫌だ。それだけは嫌だ。
成功すれば、自分は生きていられる。この男さえ殺せば、自分は“使える”ことを示せるのだ。出来損ないと言われずに済むのだ。迷う理由がどこにある?
少女は無言のまま頷き返した。研究員は満足げに笑うと、少女の前にナイフを投げてよこす。武器の使い方は、何度も叩きこまれた。――大丈夫、殺せる。
『……死にたくないから、殺す……』
理論は単純明快。それがいい。それでいい。すべきことはシンプルだ。少女は戦闘服に着替えると、手渡されたナイフを片手に駆け出した。
ターゲットが出没する場所の周辺地図は、頭に叩きこまれている。あとは、相手を見つけて息の根を止めるだけだ。少女はナイフの柄を握り締める。
足音が聞こえてきた。少女は身を潜めて機を待つ。闇の向こうから現れたのは、白衣を着た紳士であった。
手には大きなビニール袋が握りしめられていた。ネギやリンゴ等の食材が顔を覗かせている。足取りは軽やかだ。見上げれば、紳士は楽しそうに表情を綻ばせている。
哀れな獲物は何も知らない。菫色の瞳は、平穏な日常が進むと信じて疑わなかった。――息の根を止める相手としては、やや不足のように思う。
『今日はナユタくんが来るからなぁ。鍋だけでなく、果物を使ったデザートも用意しないと。……シラユキの負担が酷いな。私も料理ができたらよかったんだが……』
紳士は少しだけ苦笑した後、すぐに楽しそうに駆け出した。鼻歌混じりに歩く姿は、あまりにも能天気だ。頭の中はお花畑なのだろう。――ならば、簡単に殺せる。
少女は大地を蹴って飛び出す。鼻歌を歌っていた紳士が何かに気づいたように足を止め、こちらを向いた。
気づかれたかと思ったが、飛び出してしまったら止まれない。……むしろ、この勢いのまま突っ込むのが最善。
紳士の目が大きく見開かれた。何かを言おうと口を開く。彼が言葉を紡ぐよりも先に、少女はその刃を紳士へ突き立てた。
***
ハワイ艦隊を壊滅させ、極東艦隊に甚大な被害を与えたフォーマルハウトの復活事件は、奴の撃破と数多の犠牲によって幕を閉じた。
ヨリトモ提督は竜因子研究部門の“秘蔵技術”によってなんとか存命した。その際、副作用で外見が大きく変わっていた。傷口は塞がったものの皮膚は硬化し、まるで竜の皮膚を連想させる有り様だ。本人や周囲曰く、「秘蔵技術に適応できなかったため」らしい。だが、詳しいことを知るには、一尉という階級の権限は低すぎた。
如月ユウマもまた、竜因子研究部門の“秘蔵技術”を施されたそうだ。こちらは無傷且つ適合したため、外見上には大きな変化はない。ただ、それでも反動が大きいようで、現在ユウマは安静を言い渡されている。暫く戦闘には参加できないらしいが、元気に動き回っているところを見るに、日常生活を送ることについては支障はないようだ。
伊倉ユマの所属していた対マモノ海兵戦術部隊は解散。ヨリトモ提督やユウマと共に、竜因子研究部門の特殊機動隊14課に異動が決まった。ユウマの教育係という役割も続投することになり、忙しくて窮屈な日々はこれからも続いていくことだろう。自由からは程遠い、お役所仕事が待っていることは想像に難くない。
雪待シズクは――フォーマルハウトの復活事件ごと闇に葬られた。事件自体が機密事項のため、『とある事故によって、作戦行動中に死亡した』ということにされた。
死体は何も残らなかった。残されたのは、彼のネームタグと別荘の鍵。その別荘こそ、今からユマが向かう場所だ。
「ここが、アイツの別荘……」
住所が書かれたキーホルダーがついた鍵を片手にたどり着いたのは、危険区域に近い場所だった。別荘を構えるにしてはデンジャラスな立地である。しかも、建物の外見も、別荘というには貧相だった。どこかくたびれた様子の、平屋建ての一軒家。
持ち主が帰ってくることのない建物は、心なしか薄暗く感じる。扉を開ければ、殺風景なリビングダイニングが広がった。奥の方には、部屋に繋がる扉がある。リビング以外の間取りは、建物の大きさからして、大部屋が2つある程度であろう。
扉が1つだけということは、壁を取り払って1室にしたのであろう。ユマは扉を開けた。そこは書斎になっており、様々な本や資料で埋め尽くされている。資料はすべてファイリングされており、背表紙には事細かな分類があった。
書斎は庭と直通だった。庭の木はモクレンで、白、紫、淡いピンクの花を咲かせている。――シズクの体に咲いたモクレンは紫色だったか。
ユマは思わず目を伏せた。失ってしまった背中が脳裏をよぎる。ふと見れば、プランターや鉢植えにも花が植えられているようだ。外に出て確認する。
「鉢植えに咲いてるのはスノードロップね。……こっちのプランターでぐちゃぐちゃにされている花は、モミジガサ?」
ユマは首を傾げながら、モミジガサのプランターを覗き込んだ。この花は、定期的にユマ宛に届く鉢植えの花と同じ品種である。
しかし、何故か、モミジガサは土に埋められていた。自然に腐り落ちるようにしているかのようだ。
まるで、「もうこの花は必要ない」とシズクが判断し、ひっそりと枯らそうとしたかのように。
室内へ戻ろうと振り返れば、窓辺に置かれたゴミ箱に視線が向いた。箱の中には、沢山の伝票の控えが捨てられている。差出人に名前はなく、受取人は
庭の鉢植えと同じ、スノードロップ。春を告げる花と呼ばれる、白くて可憐な花だった。ゴミ箱を漁れば、アクツ宛の伝票だけではなく、極東理事会の重役の名前がずらりと並んでいる。はて、と、ユマは首を傾げた。雪待シズクという男が、どうして極東理事会にこんなものを贈る必要があったのか。
……いや、発想を変える必要がある。
(対マモノ陸兵前述部隊の現場ナビゲーターとして前線に赴いていた彼なら、あの石碑に刻まれた事件を目の当たりにしていてもおかしくない。……だから、石碑に刻まれた事件について詳しかった。そして、それを隠蔽した理事会を恨むのは当然のことね)
友人を目の前で失ったナユタは、事件を事故と処理した上層部に憤ってもおかしくはない。何も語らない男だと思っていた雪待シズクだが、
明星ナユタの片鱗は、ユマが分かっていなかっただけで、随所に溢れていたのである。彼がいなくなった後で気づくなんて、節穴もいいところだ。ユマは自分が聡い方だと自負していたのだが、単なる自惚れだったらしい。
他には何があるだろうか。ユマは本棚に視線を向けた。
『アクツの不正関連のまとめ』、『那雲ヨツミ先生の事件についてのまとめ』や『渡来ミカゲ先生の事件についてのまとめ』と書かれたファイルが目につく。
この2人は、75年前にドラゴンを倒した英雄たちだ。前者は通り魔によって、後者は孫をマモノから庇って亡くなったという共通点があった。
ファイルのほかには、写真立てがあった。仲良さそうに笑いあう青年や女性の脇に、シズクが写っている。
「……驚いた。アイツ、こんな風に笑えたのね」
別な写真立てには、ISDFの制服を着たシズクや黒髪に金の目をした女性――制服についたネームプレートには、
写真立てに触れた際、カサリと音がした。見れば、茶色くなって枯れ果てたモクレンの花が転がっていた。1つは握り潰してしまったが、他にもいくつか転がっていた。
どのモクレンも、誰かに踏み躙られたような形跡がある。おそらく、踏み躙られたのは枯れるより前だ。……でも、どうしてこんなものが転がっているのだろう。
「このファイルをどうしろというのかしら? ……しっかし、膨大な量ね。ここまで調べるのは、並大抵のことじゃなかったはず……」
ユマは首を傾げながらも、『渡来ミカゲ先生の事件についてのまとめ』と書かれたファイルを手に取った。ぱらぱらとページを開く。
真っ先に出てきた書類に目を奪われた。見覚えのある面影を宿した少年の顔写真と、彼についての情報が事細かく書かれている。
少年の情報がまとめられたページには、アクツ総司令に関係すると思しき書類も出てきた。書類と一緒に挟まっていたメモが覗く。
“実行犯である
“作り出した命の優劣を、個体の能力で分類した物差しを使う⇒優劣思考による、一種の洗脳行為”
“しかも、ミカゲ先生が殺せなかったときのために、近隣の研究所から竜因子の組み込まれたマモノ検体を放つ。しかも、イノリたちが遊び場にしている裏山に”
“ミコトの命を奪うだけでなく、イノリに危害を加えようとし、先生を亡き者にした。絶対に許せない”
最後の一文は、酷く震えている。シズクは――ナユタはどんな気持ちで、このメモを書いたのだろう。この資料を集めてきたのだろう。
しかも、この写真の少年は、青年となって
ユマはファイルを戻した後、『那雲ヨツミ先生の事件についてのまとめ』と書かれたファイルを開いた。――そうして、ユマは絶句する。
「これ……私?」
幼い頃の自分の写真。書類に綿密に描かれていたのは、伊倉ユマの成り立ちだ。7歳になるまで、ユマがどんな環境に置かれてきたのかが克明に記されている。ユマがどんな訓練を受けてきたかのリストまであった。
その中に、赤い線でラインが引かれている個所があった。『対人戦闘訓練、対象者の暗殺』。日付は那雲ヨツミが亡くなった当日、亡くなったと思しき時間帯である。『訓練は滞りなく行われる。結果は成功』という文面に、寒気を覚えた。
この記述が本当だと言うならば――ユマが、那雲ヨツミを殺したということになる。そんなバカなと笑い飛ばそうとしたが、それはできなかった。ノイズまみれの記憶が、ユマの脳裏によぎったためである。
生まれてから3年間は、ユマの人生にとって暗黒期と言えた。データを収集するため、研究者たちは様々な実験を行ったためだ。
結果が悪ければ廃棄処分にされてしまう――その恐怖と、ずっと戦ってきた日々でもある。……思い出すことすら悍ましい。
(那雲ヨツミが亡くなったのは、丁度、私の記憶が曖昧な時期と一致する。……死にたくないという一念で、様々な実験や訓練をがむしゃらに行っていた時期だった)
生きるために、自身を正当化し続けた日々が脳裏をよぎった。対人格闘訓練と称して、対象者の暗殺を命令されたことだってある。……もしかしたら、その中に?
まさか。いや、そんなことなどあり得まい。ならば、雪待シズクにとって伊倉ユマは、愛すべき相手になるはずがない。顔を合わせる度に口説き落としてくるなんて、そんな馬鹿なことなどあり得ないではないか。
恩師を殺した張本人を口説くなんて、それでは狂人だ。……いや、先程見たメモの震える筆跡を思い返せば、彼は相当切羽詰っていたことは明らかだった。仏頂面だけれどユマを気遣ってくれた雪待シズクが、狂っていた?
信じられない。信じたくない。道を踏み外しそうになったユマの手を引いて、正しい場所に引き戻してくれたシズクの姿が脳裏をよぎる。あれが演技だったと言うのか。演技だとしたら、どうして彼はそんなことを。
震える手を落ち着けて、ユマはファイルを元の場所へ戻した。振り返り、机に目を向けた。
小奇麗に整頓された机の上には、鍵のかかった日記帳と銀色の鍵が無造作に置かれている。
「鍵穴は、日記帳のものと同じなのね。……読め、ということかしら? ご親切だこと」
ユマは苦笑しながら鍵を外した。ぺらり、と、日記帳をめくる。
“ヨツミ先生は犯人を見ていた。なのに、あの人は犯人を庇っていた”
“「あの子を救ってやってくれ」とヨツミ先生は言った。ヨツミ先生がそんなことを言う可能性は、たった1つしかない”
“犯人は、シラユキさんと同じ遺伝子配列を持つルシェクローンだ”
日記の中から、ひらりと写真が落ちる。那雲ヨツミと那雲シラユキの写真だ。特に、シラユキの顔はユマと瓜二つである。
同じ遺伝子配列なのだから当然のことだったが、今は、その事実が何よりも恐ろしい。
“富士の研究所で、人工S級のルシェクローンを作る計画があった。計画は頓挫したようだが、生き残りである唯一の被検体がいるらしい。上層部も扱いに困っているようだ”
“被検体の情報を入手。――ああ、彼女だ”
“あの手この手で接触を試みようと努力した結果、教育係になる”
“試金石に贈ったモミジガサの鉢植えは枯れ果てていた。伊倉ユマは自分の罪と罰を知らないし、知ろうともしないのだろう”
“この命は、生かしておくべきではない? ……でも、始まったばかりだ。まだ、選択の
“拗ねている彼女も可愛らしい。笑った顔は、さぞかし綺麗なんだろう”
“でも、憎たらしい。こんな奴が、ヨツミ先生の命の上に”
“守りたい。でも、殺してやりたい。大切にしたい。でも、彼女を許すことはできない”
“僕は伊倉ユマを愛している。守ってあげたいと思っているし、道を踏み外さないよう見守りたいし、彼女の傍に居たいと思っている。それは本当だ”
“でも、それと同じくらいに彼女が憎い。ヨツミ先生を殺して、そのことを忘れて、のうのうと生きている伊倉ユマが許せない”
ページを読み進めていくたびに、シズク――ナユタの筆跡が、ぐちゃぐちゃになっていく。
“愛している。愛しているんだ。本当なんだ”
“憎いんだ。許せないんだ。認められないんだ。残念ながら”
“忘れられないんだ。魘されていたシラユキさんが、うわ言のように「ヨツミをとらないで」と泣いていた姿が。泣かせたのはここにいる伊倉ユマだ。だが、ユマは何も知らない。自分の命に支払われた犠牲なんて考えずに、のうのうと生きている”
“マリナ姉さん。僕の運命の人は、間違いなくユマだ。確証を持って言える。でも、でも、僕の愛のカタチは、姉さんたちのような優しいモノじゃない。こんなぐちゃぐちゃでドロドロしてて、相手を害するモノであっていいはずがないんだ”
“ごめん。ごめん、ユマ。愛している。愛しているんだ。本当なんだ。でも、憎い。許せない。憎くて堪らないんだ。笑顔であってほしいのも本当なのに、その笑顔を踏みにじってやりたくてたまらないんだ”
“憎い憎い憎い殺せ殺せ。こいつは犠牲の意味を理解していない。こいつのためにヨツミ先生が犠牲になるなんておかしい犠牲に不釣り合いだ、あああ違う違う。大切な人だ愛しているんだ幸せになってほしいんだ笑顔でいてほしいんだ。キミを守りたいんだ愛しているんだ大切にしたいんだ。本当なんだ、本当なんだよ”
“ごめん、ユマ。ちゃんと、キミを愛したかった”
込められた想いの深さに、ユマは身を震わせた。シズクの仏頂面の下では、狂おしい程の愛憎が渦巻いていたということになる。記憶の中の彼は、いつもいつも涼しい顔をしていたから、こんな風に苦しんでいたなんて知らなかった。
確かに、表情一つ崩さなかったシズクに対して「少しは痛い目に合えばいいのに」と思ったことがある。しかも、それは一度や二度だけではなかった。ああ、なんて浅はかだったのだろう。雪待シズクは――明星ナユタは、こんなにも苦しんでいたのに。
痛い目を見たのはユマの方だ。痛い目を見るべきだったのも、苦しむべきだったのも、雪待シズク――明星ナユタではない。伊倉ユマの方だった。ふらりとユマの体が傾き、そのまま床の上にへたり込んだ。
最後のページは、涙の跡が残っていた。涙以外にも色々垂れ流したのか、紙が凸凹になっている。そのページを開いた拍子に、ひらりと栞が落ちた。
レモンの花とスイートピーの花を押し花にした栞だ。奇特な組み合わせだなと思い、ユマはふとファイルを見返した。
那雲ヨツミの誕生日は11月12日で、誕生花はレモン。渡来ミカゲの誕生日は3月20日で、誕生花はスイートピー。――彼は、恩師たちを悼んでいたのだ。
「……呆れた。呆れて、何も言葉が出てこないわよ……」
ユマの声は乾ききっており、無様に震えている。これ程の激情を抱きながらも、シズクは最後までユマを守り抜いた。自分の恩師を手にかけた相手を、命懸けで救ったのだ。
人としての一線を超えて、ユマを手にかけようと思ったことは何度もあっただろう。それでも彼は、手を下さなかった。……その事実が、何よりも重い。
携えた小猫丸は沈黙を守り通すのみ。この刀をユマに差し出したのはシズクだった。何も語らない相棒は、最初からすべてを知っていたのかもしれない。すべてを知って、伊倉ユマを担い手に選んだのだろう。……そうして、これからも、ユマの愛刀として傍にあり、ユマを守り続けるのだ。――シズクの想いを受け継いで。
しばしの沈黙の後、小猫丸が囁くような声色で玉鋼を振るわせた。1112、0320――何かの番号だろうか? ユマが首を傾げれば、「机の鍵」と小猫丸が補足を入れる。
椅子の足元を見れば、小さな箱が転がっていた。どうやらこの箱にはロックがかかっているらしい。小猫丸は相変わらず「1112、0320」と数字を唱えていた。
小猫丸の言うとおりに番号を入力すれば、軽い音を立てて箱が開く。中には小さな鍵が入っていた。どうやら、机の引き出しを開けるためのものらしい。
ユマはよろよろと立ち上がり、引き出しの鍵を開けた。引き出しの中には一通の封筒が入っていた。
「……シズク……」
宛名は伊倉ユマ。モクレンの花が描かれた封筒に書かれた文字は、流麗で丁寧な筆跡だった。
暫し躊躇ったユマだが、意を決して封を切った。モクレンの花が描かれた便箋が数枚入っていた。
その便箋を取り出した際、ひらひらと何かが落ちる。落ちてきたのは、青い花の押し花で作られた栞だった。裏側には、青いペンで花の名前と花言葉が書かれている。
「馬鹿」
ユマは苦笑した。その拍子に、視界がジワリと滲む。
溢れたのは、熱を持った涙だ。服の袖で涙を拭い、ユマは便箋に目を通す。
“この手紙をキミが読む頃にはもう、僕は
この手紙は、陳腐でありきたりな決まり文句で始まっていた。けれども、文面からは、“この手紙の書き手が
流麗に書かれた文字が、伊倉ユマの予感を掻き立てる。悲しいことだが、聡明と自負する己の想像力はどこまでも翼を広げ羽ばたいていく。本来ならば至ることのない領域まで飛躍したイメージが、
彼はどんな気持ちでこの手紙を書き綴っていたのだろう。あるいは、どのような
“僕はキミにこんなものしか残せない”
“罪も罰も関係なく、ただ純粋にキミを愛することができたら――”
ユマは庭に放置されたプランターへ視線を向けた。自身の領域を滅茶苦茶にされたモミジガサは、最早虫の息である。
テリトリーの環境を整えたとて、この花が元通りに咲くことはない。腐れ、枯れて、土に還りゆくだけだ。
……そういえば、彼はやたらと花言葉に詳しかった。気障な知識の裏側には、長い時間をかけて熟成された感情が煮えたぎっていたのである。
“新しい季節が巡ってきたら、どんな花を咲かせようか。モミジガサの花は処分して、土の中に埋めてしまおう。僕が抱え続けてきた秘密と一緒に、葬り去られるべきことだ”
“僕は何も伝えない。伝えないから、どうかキミが――キミたちが覚えていてくれ。土に還った植物が、新たに花を咲かせる植物の礎となる摂理を”
“忘れないでくれ。僕は、犠牲になったのではない。僕は、僕の役割を果たしただけだ。僕が僕自身に課した僕の存在意義を果たした”
“ありがとう。僕はキミたちと出逢えて、本当に良かった”
「……ウソツキ」
浮かんでは消える文面を切り貼りしたのち、ユマはぼそりとひとりごちる。
写真立ての裏にあったのは、踏み躙られたような形跡を残した枯れて腐り果てたモクレンの花。
栞に加工され、日記帳に挟まれていたのはレモンとスイートピーの花。
伊倉ユマと如月ユウマ宛に送られた鉢植えに咲いていたのはモミジガサの花。
――そして、手紙に同封されていた栞は。
「“何も伝えない”と言った割には、はっきり主張してるんじゃない。伝えようとしてたんじゃない」
とんだ気障野郎だ。そのくせ、中途半端に聖人君子である。寸でのところで人間として踏み留まろうとした名残りに、乾いた笑みがこぼれた。
彼は冷酷にしては優しすぎて、他人を甘やかすには厳しすぎた男だ。可はなく不可ばかりの、難儀で不器用な――ユマの教育係兼相棒。
「最期の最期まで気障なんだから、本当に癪に障るわね。しかも天然だから笑えないわ。私のようないい女を弄んで……本当、貴方って罪な男ね。――まあ、貴方のような男に弄ばれた私も私なんだけど」
手紙に同封されていた栞を弄びながら、ユマは苦笑した。こんなものを残して、こちらの返事も聞かずに
押し花の栞は、青く可憐な花だ。濁流に飲まれ死にゆく恋人が、相手に向かって投げた花。それに因んだ名前と花言葉を宿すその花は、男が残したささやかな我儘だ。
「忘れないで、って言われても困るわよ。……忘れられるわけがない。貴方のこと、絶対忘れられるはずがない」
これは、ユマの
だが、希望は絶望と隣り合わせ。呪文は福音にも呪詛にも変わる。
「希望こそがタチの悪い呪い」等と語ったのは誰だろうか。
「ああもう、厄介だわ。厄介すぎて頭を抱えたくなる!」
言葉とは裏腹に、ユマは目頭に手を当てた。視界が滲むのも、鼻が詰まったような感覚も、すべて気のせいだ。
「とんだ呪いをかけてくれたわね!」
呪いに身を浸された王女は悪態をつく。しかし、それを解くことができる王子はもういない。
残された王女には、呪いを背負って生きていく以外の選択肢は――最早許されていないのだ。
■■■
「……そうか。貴方はもう、いないのか」
端末に届いたのは、親友からのメッセージ。自動で送信されるように設定されていたそれには、友人が集めていた資料群の扱いについて書かれていた。
彼が集めた資料および証拠類は、彼の別荘に保管されているという。アナログ系列は『親愛なる
おそらく、友人のことだ。恩師が亡くなる直前に相棒へ託した情報を、より綿密且つ最新のものへ昇華したデータが保存されているのだろう。
「無茶しないって言ったくせに。すべてが終わったらまた会えるって言ったくせに」
ウソツキ、と、少年は呟いた。でも、それに答える声は聞こえない。
記憶の中にいる友人は、困ったように苦笑していた。
……悲しいことに、少年は1人ぼっちになってしまったのだ。
昔を語り合える仲間も、追いかけた恩師の背中も、もういない。残されたのは、彼らの背中に奮起して、格好悪く地面を這いつくばる自分たちだけだ。
無様さを武器にして突き進むしか能のない自分たちにも、きっとできることがある――そう信じて、突き進むことしかできない。
――でも、今は。
「……ウソツキ……!」
失ったものを悼んで、立ち止まって、涙を流したかった。
***
神話の終わりは呆気ない。それは、人の人生にも言えることだ。どんなに屈強な人間でも、人は死ぬ。たとえ、世界を救った英雄であっても例外はない。
病死、事故死――吹けば飛ぶような命は、些細なことですぐに燃え尽きてしまう。抗いようのない摂理。当たり前のことを諳んじる。
その摂理が他者の悪意によって生み出されるのもまた、この世界では日常茶飯事だ。己の視界に入らなければ、人は異常を認識できない。
認識できたとしても、悪意を白日の下に晒すというのは難しいのだ。悪意というものは空気を読まず、陰湿で、陰惨で、黒を白へ――あるいは白を黒へと塗り替えてしまう。非常に迷惑極まりない。
「あれからもう、80年。……検体の一件からは、もう30年近く経過してるんだよなあ」
ある者は研究者、ある者は軍人、ある者は政治家。立つ戦場は違えど、確かにブンイチと彼/彼女らは仲間同士であった。――その仲間はもう、いない。写真の中で微笑むのみだ。一抹の寂しさを振り払うが如く、ブンイチは天を仰いだ。
視界いっぱいにモクレンの花が飛び込んできた。居住区にある、空き家の庭に植えられていたものだ。風が強かったのか、はたまた子どもか動物の悪戯か、手折られた花が地面に転がっている。
ブンイチ以外の通行人は、手折られたモクレンに関心がないようだ。気に留める素振りもなく、無遠慮にそれを踏みにじり、雑踏の中へと消えていく。踏みにじられた花は、無残な姿を晒していた。
志半ばで散った仲間たちの姿が重なる。堪らなくなって、ブンイチはモクレンの花を拾い上げた。今更どうにかなるものではないが、かといって、往来に放置するのも気が引ける。
(……どうしようかな)
手の施しようがないことは、知っている。花にこんな感傷を抱くのも、馬鹿げていると言えるだろう。
それでも手を伸ばさずにいられなかったのは、今日が亡き友の命日だからだろうか。
「モクレンは、貴方の誕生花だったよね」
ブンイチは小さく呟き、写真へと視線を向ける。青い髪に赤いコートを身に纏ったルシェ族の青年――
モクレンの花言葉は『自然への愛』、『崇高』、『持続性』だったか。英語では『忍耐』や『威厳』というものもあるらしい――とは、ナユタ自身が語っていたことだ。
……最も、それはブンイチの師匠からの受け譲りであったのだが。師匠から熱心に教えを乞うナユタの背中を思い返しつつ、ブンイチは踵を返す。
空には雲がかかりつつある。今にも雨が降ってきそうな気配が漂ってきた。
早く帰らなければと駆け出そうとしたブンイチは、思わず目を丸くした。モクレンの花を中心にして作った花束を抱えたルシェ族の女性が歩いてくる。彼女の瞳はブンイチなんて見ていない。だのに、ブンイチは、何故か彼女から目が離せなかった。
頭にキャスケット帽を深々と被り、茶色のコートを羽織った女性の腰には、見覚えのある刀が一振り。友人が作った刀であり、作り手本人曰く「最高傑作」だった。あれはナユタが形見分けの際に持っていって以来、行方知れずになっていた代物である。
「…………小猫丸?」
まさか、と思いながら、友が打った剣の名を口にした。心なしか、女性の被っていたキャスケット――正確に言えば、帽子の中に突っ込まれた耳――が動いたような気がした。
ブンイチとすれ違った女性は、そのまま向こう側へと歩いて行く。丁度、ブンイチが墓参り――実際には、崖から弔いの花束を投げ込んだ場所――をした場所へ向かうらしい。
彼女もまた、5年前の“事故”で誰かを亡くした遺族なのだろうか。なら、あの刀は、犠牲者の形見と考えるとしっくりくる。その刀が小猫丸とそっくりなのは、きっと偶然だ。
「彼女に造られたお前だったら、その刀が小猫丸かどうかわかったのかな?」
腰に下げられたのは、友人が鍛えた打刀――和泉守兼定。嘗て実在した日本刀・和泉守兼定を、対竜戦闘を想定した武器として再現した代物だ。彼女が亡くなった際、形見分けとして引き取ったものである。
彼女が鍛えた刀のテストは、大体ブンイチが引き受けていた。和泉守兼定以外には、歌仙兼定、大和守安定、堀川国広などのテストも行っている。その中で一番いい結果を残したのが、和泉守兼定であった。
ルシェの血族ではないブンイチには判別できないが、鍛えた人間が同じ刀同士が顔を合わせた場合、何かしらの反応があるものらしい。ブンイチは和泉守兼定をくまなく確認してみるが、これと言った変化は見当たらなかった。
やはり、ブンイチの思い違いらしい。ブンイチは和泉守兼定の柄から手を離し、市街地へ向かって歩き出す。
心なしか、雨の香りが鼻をくすぐった。空模様から見ても、本格的に振り出してきそうである。
このまま濡れ鼠になる趣味は無いので、ブンイチは慌てて駆け出した。
■■■
何をすればいいのか、どうすればいいのか、少年には何もわからない。
ただ、今、目の前で泣きじゃくる少女の涙を止めてやりたかった。
少年は無言のまま、少女の隣に寄り添う。奥の方では人々がざわめいている。誰かの陰口や怒鳴り声がひっきりなしに響いてきた。
祭壇の上には、快活に笑う青年の写真。遺影に使うには場違いなのではなかろうかと思うような写真だ。あとは仏頂面や間抜け面など、葬儀に不適切な写真しかなかったという噂話を聞く限り、仕方ないことなのかもしれない。
周りの人々は噂する。「彼は、少女たちを庇って命を落としたのだ」と。彼がどれ程素晴らしかったのか、どれ程敵に回したくなかったのか。中には、その彼が庇った少年少女たちの価値を疑問視する声もあった。近代神話の英雄を惜しむ声が止まない。
「みんな言うの。“お前じゃなくて、おじいちゃんが生きていたらよかったのに”って。……そんなの、私が一番分かってるよ……!!」
少女はそう言って、ぼろぼろ涙をこぼしていた。
自分の価値を探すその姿を、どうしてか、少年は放っておくことができなかった。
普段は他人のことなんて気にしないのに、彼女から目を離すことができなかった。
「だったら、キミが証明すればいい」
少年は、当たり前のことを言った。
「彼が命を賭けて救う価値が自分にはあったのだと、証明すればいい」
少年の言葉を聞いた少女が、ぴたりと動きを止めた。
「……証明、する?」
「そう。そのためには、キミはもっと強くならなくちゃいけない。こんなところで泣いているような暇なんてないんだ」
少年はそう言って、ハンカチを差し出す。少女はおずおずとそれを受け取った後、ハンカチで涙を拭った。すん、と、最後に小さく鼻を鳴らして、彼女はまっすぐ前を向く。
涙にぬれて途方に暮れていた空色の瞳は、揺らぐことのない意志で満たされていた。少年は一瞬、呆けてその瞳に釘付けになる。目を離すことは、できなかった。
「――ありがとう」
少女はにっこりと微笑む。ハンカチを洗って返すという彼女に、返さなくていいと返答した理由は分からなかった。
丁度そのタイミングで、少年を呼ぶ声が聞こえた。少年は声の主の元へ行こうとし、寸前、少女に手を引かれる。
意味が分からず、少年は一応その場に留まった。少女は庭先に出ると、花壇に咲いていた花に手を伸ばした。
小さくて可憐な花。薄く雪を被ったかのような白い花だ。
少女はそれを一輪摘むと、少年へと差し出す。
ますます意味が分からない。少年が首を傾げると、少女ははにかんだ。
「これ、あげる」
「……うん。ありがとう」
少年は彼女を直視できなくて、ふいっと視線を逸らした。そのタイミングで、少年を呼ぶ大人の声が鋭く響く。少年は無感動のまま、大人に連れられて家を後にした。
車に乗り込んだ後も、少年はじっと、白い花を眺めていた。この花の名前は確か、エーデルワイスと言っただろうか。スイスの国花であり、今の季節が見ごろの花。
少女はどうしてこの花を差し出したのだろう。庭に生えていたからか。自分の問いに自分で答えながら、少年は白い花を見つめていた。
――以来、少年は、彼女に会っていない。
***
「ん……」
懐かしい夢を見たような心地に、思わず微睡んでしまいそうになる。けれど、そんな誘惑に浸る暇も、意味も、価値もありはしない。如月ユウマは迷うことなく夢心地を振り払うと、勢いよく体を起こした。
カーテンを開ける。朝日はまだ出ていないため、外の様子はまだ薄暗い。ユウマは時計を確認する。只今の時刻は午前5:00。毎朝起きる時間には変動がない。いつもと変わらぬルーチンワークが今日も始まるのだ。
軍服を身に纏い、鏡で自分の様子を確認する。顔色は悪くないし、体調に異常はない。体調管理もまた己の重要な任務だ。
朝食前の早朝訓練に向かおうとして、一冊の本に目を留める。正確に言えば、本に挟まっている栞にだ。必要最低限のものしか置かれていないユウマの持ち物の中では、贈り主不明のモミジガサの鉢植え同様、あまりにも異質なモノ。
ユウマは引き寄せられるように、本のページを開いて栞を手に取った。エーデルワイスを押し花にし、ラミネート加工した手作りの栞。上部には穴があけられ、空色のリボンが結ばれている。
奇妙な懐かしさと親近感。惹きつけられてしまったかのように、栞から目が離せない。脳裏をよぎったのは、泣いていた女の子/自身を肯定した少女の横顔だ。その子がこちらを見て目を瞬かせ、柔らかに笑ったときの表情。
(……なんだ、これ)
胸の奥底に明かりが灯ったような心地になる。それが何なのか理解できなくて、ユウマは思わず首を傾げた。
これが感傷というモノならば、浸っている暇も余裕もない。青年は栞を本に戻す。しかし、その手つきは、貴重品を扱うかのように慎重、且つ、丁寧なものだった。
もう少し栞を眺めていたかった――不思議な名残惜しさに後ろ髪を引かれるような心地になったが、任務なのだから仕方がない。ユウマはかぶりを振った。
時間に遅れてしまえば、性悪な教育係から派手にからかわれるであろう。朝から弄ばれるのは御免被る。通いなれた廊下を過ぎて、早朝訓練を行う訓練場へと足を踏み入れた。
【参照および参考】
『セブンスドラゴンⅢ U.E.72 未完のユウマ』(カルロ・ゼン著)
『bokemaru.up.seesaa.net(http://bokemaru.up.seesaa.net/image/NNBBB2B9CD.txt)』より、『マッディストリーム(濁流)』
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只今、『未完のユウマ』第6章。あとは蛇足を1つ加えて、『未完のユウマ』編は完結となります。ユマが怒涛のSANチェックで正気度をごっそり持っていかれました。それでも彼女は踏みとどまり、ユウマの教育係として頑張っていく様子。
シズクによって蒔かれた種や、ユマやユウマの中で芽吹いたばかりの若い芽が、どんな花を咲かせるのか――それは、ゲーム本編の時間軸で明らかになることでしょう。ゲーム本編篇開始の暁には、改定前に大暴れしていた面々と、再び相見えることになります。
改定前以上に大事故を起こしている人間関係がどう転がっていくのか、ユウマとイノリを筆頭とした若者たちの青春の行方は、Code:VFDの行く末はどうなるのか、アクツ総司令は人として真っ当に終われるのか、生温かく見守って頂ければ幸いです。