百花繚乱クロニクルセブン-僕らのセカイとキミのミライ-   作:白鷺 葵

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・いじめによる暴力描写があります。ご注意ください。
・動物への虐待表現があります。ご注意ください。
・キャラクターに対する暴言があります。ご注意ください。
・上記の要素はあくまでもフィクションです。
・書き手にはアンチ、ヘイトの意図はありませんが、そういう表現に見える可能性があります。


明日を待つ夜

 ――その日は、どしゃ降りの雨が降っていた。

 

 梅雨前線の真っただ中、東京の天気は連日のように雨が降っている。

 今日は一段と酷かった。――まるで、空が哭いているみたいで。

 

 

「やめろっ……! やめろよ! ミーコに何するんだよ……ッ!!」

 

 

 傘をさして河原を歩いていたミカゲが足を止めたのは、誰かの声が聞こえたからだ。視界の端に目を惹くものがあったからだ。

 子どもたちがぐるりと何かを取り囲んでいる。何かを叩く音が断続的に響く中、紛れるようにして呻き声がした。

 聞き耳を立てる。呻いているのは少年だ。少年の声に混じって、猫のか細い鳴き声が聞こえたような気がする。

 

 

「ミーコを……ミーコをいじめるなあっ……!!」

 

「いじめる? トウゴくんは人聞きが悪いですねぇ」

 

「俺たち、トウゴくんのオトモダチと遊んでるだけだよー?」

 

 

 悲痛な少年の叫びを、複数の声が嘲笑う。鈍い音と少年の呻き声。少年はコンクリートに尻餅をつきながらも、何かに向かって必死に手を差し伸べた。だが、同世代の子どもたちに羽交い絞めにされる。少年の手は無情にも空を切った。

 子どもたちの輪は少年から猫に中心を移す。子どもたちは楽しそうに笑いながら、猫に手を伸ばした。悲痛な――けれども弱々しい猫の鳴き声が響いた。金切り声をあげる少年とは対照的に、猫の声はどんどん弱々しくなっていく。

 

 そうして、ついに猫の鳴き声が途切れた。反応がなくなった猫を、子どもたちは面白半分で弄る。それを目の当たりにした少年は目を見開いた。「ミーコ!」と叫んだ彼の手は空を切る。

 

 

「おい、クソガキども。そこで何やってるんだ!?」

 

「うわあ! 逃げろ!!」

 

 

 ミカゲの姿を視認した子どもたちは、蜘蛛の子を散らすようにして逃げていく。

 残されたのは、体中にあざを作った少年と、ぼろぼろの三毛猫だ。

 少年はミカゲなど気にも留めず、猫の元へと駆け寄る。

 

 

「ミーコ、ミーコ!」

 

 

 少年は猫の名前を呼びながら、必死に猫を揺さぶる。猫はぐったりしたまま、ピクリとも動かない。少年の顔がどんどん青ざめていく。この現実を信じたくないと叫ぶかのように。

 

 ミカゲの目から見ても、猫はもう手遅れであった。竜戦役の最中、家族や恋人、友人を失った避難民の背中が、少年のそれと重なる。

 暫くして、少年は猫の死を理解してしまったのだろう。彼はボロボロ涙をこぼしながら、猫の亡骸を抱き上げた。大切なものを抱え上げるかのように。

 少年は無言のまま、猫の亡骸を抱えたきり動かない。雨の音に紛れて、少年の声なき悲鳴が響き渡る。その姿が、いつかの自分と重なった。

 

 竜戦役を駆け抜ける中で、ミカゲは見知った人々の死を何度も目の当たりにしてきた。自分たちを「希望だ」と言って、死地に赴くその背中を。

 泣く資格なんてない。死を悼む暇もない。泣きたければ、死を悼みたければ、何としてでも自分たちが勝たなければならなかった。生き残らなければならなかった。

 

 

「……風邪ひくぞ、少年」

 

 

 ミカゲは少年の元へ歩み寄り、傘を差し出した。

 少年は猫を抱えたまま微動だにしない。

 

 

「傷の手当もしなきゃならん。キミが病気になったり、怪我したままだと、その子を弔ってやれる奴が居なくなるだろ」

 

「!」

 

(ウチ)に来なさい。……大丈夫、俺はキミの味方だから」

 

 

 ミカゲの言葉を聞いた少年は顔を上げた。瞳一杯に涙を溜めた彼は、驚いたように目を瞬かせる。

 幾何かの沈黙の後、少年はおずおずとミカゲの方に歩み寄ってきた。ミカゲの言葉を信じてくれたらしい。

 2人は無言で歩き出す。雨脚は激しさを増してきた。まるで、少年の嘆きを現すかのように。

 

 

「――強くなりたい」

 

 

 ミカゲの家へ向かう道すがら、少年はぽつりと呟いた。

 

 

「もう、こんな思いをする命がなくていいように。俺自身も、こんな思いをしなくていいように」

 

 

 俯き加減だった顔が上がる。その横顔は、嘗ての13班員――シラユキを守るために奮戦していたヨツミを連想させた。黒の瞳には、揺らがぬ意志が宿っている。

 脳裏に浮かんだのは、2020年の池袋。自衛隊とアオイを守ろうとして命を散らした、頼れる兄貴分/上官だ。ミカゲの手は、自然と胸元のリボンを握り締めていた。

 

 

「今度こそ、大切な存在(もの)を守れるように、強くなりたい」

 

 

 拭えない過去、消せない後悔。そうして、痛みを知ったゆえの強い決意。少年の奥底で揺れるのは、失われた命を悼む優しい心だ。親愛なる総長の眼差しとよく似ている。

 

 人の上に立つべき人間は、この少年のように“痛みを知っている”人間だとミカゲは思う。その意志の強さに、揺らぐことのないその眼差しに、ミカゲは光を見つけた。

 彼のような人間がいるならば、自分が居なくなった世界でも大丈夫だ。漠然と――けれど絶対的な確証が、ミカゲを突き動かす。気づいたら、口をついて言葉が出ていた。

 

 

「少年」

 

「?」

 

「――俺でよければ、教えてやる。“大切な存在(もの)”の守り方」

 

 

 ミカゲの言葉を聞いた少年は目を剥いた。ミカゲの申し出が意外だったのか、パチパチと目を瞬かせる。

 しかし、それも一瞬のこと。少年はミカゲをまっすぐに見返して、躊躇うことなく頷き返した。

 13班の系譜は、世代や血筋など関係なく、次世代の担い手へと受け継がれていく。何と素晴らしいことだろう。

 

 いつか、彼の“何かを守るために強くなりたい”という想いが、数多の困難を打ち砕いていく。いつの日か、未来を切り開くための力になる――そんな予感があった。

 

 

「少年。名前は?」

 

「――東吾(トウゴ)

 

 

 彼の声は、とても小さな声だった。

 けれど、豪雨の中でも、はっきりと響く。

 

 

頼友(ヨリトモ)東吾(トウゴ)

 

 

 それが、渡来ミカゲと少年――頼友(ヨリトモ)東吾(トウゴ)との出会いであった。

 

 

 

***

 

 

 

 ――その日は、鰯雲が広がる秋晴れであった。

 

 庭にはコスモスの花が咲いている。縁側から望む景色は、平穏という言葉を具現化したようなものだった。

 

 

「俺、暁学園(しぼうこう)に合格しました」

 

 

 少年だった頃の面影を僅かに残しながらも、逞しい青年に成長した教え子――ヨリトモは、照れたようにはにかんだ。その手には、志望校の合格通知が握られている。成績開示も行ったようで、通知と一緒に成績も記載されていた。

 どの成績も平均より一回り上だが、中でも突出していたのは実技の近接戦闘だ。特に、ヨリトモの十八番――ミカゲが目を付けた彼の才能――であった剣術は文句無しである。二刀流も一刀流も優れているとコメントされていた。

 

 

「おめでとう、トウゴくん」

 

「ありがとうございます、ユイさん」

 

 

 ユイに褒められたヨリトモは、嬉しそうに表情を綻ばせる。そんな教え子の様子を見た妻は、「今日はお祝いね」と言いながら台所へと引っ込んでいった。

 憧れの女性(ひと)に賛辞の言葉を貰った――だらしなく緩んだヨリトモの表情に視線を向ければ、彼はミカゲの言わんとしたことを察したらしい。そっと視線を逸らした。

 大人げない嫉妬と言うのは重々理解している。ただ、ミカゲの場合、そういう情緒が出来上がった時期が遅かった。出来上がったと同時に黒呪病が発症し、現在に至る。

 

 今、どうしてか、「男の嫉妬は醜いものだ」と笑っていた天敵/ヒイナの言葉が脳裏をよぎった。趣味で使うメモ帳を片手に、恍惚とした表情を浮かべていたことは記憶に新しい。閑話休題。

 

 

「入学祝の方は後で贈る。それとは別に、餞別があるんだ」

 

「え?」

 

「ちょっと待ってろ」

 

 

 ミカゲはそう言うなり、胸元に結んでいた紫のリボンを外した。それを真ん中から二つに折り、鋏で切る。切った端を針と糸で縫い、端の方に蜻蛉玉を結び付けた。明るい空色の蜻蛉玉が、陽光を受けて輝く。

 それを、予め購入していたお守りに結び付けて完成である。因みに、お守りは近所の神社で購入したもので、無病息災を祈るものだ。こちらの方には何の変哲もない。ヨリトモは不思議そうな面持ちで紫のリボンを見つめていた。

 

 

「あの、先生。このリボンは……」

 

「お守りだよ。仲間や俺たちを守って逝った、俺の上官の形見」

 

「えっ!?」

 

 

 お守りに結ばれた布切れの正体を知り、ヨリトモは目に見えたように狼狽する。なんだか微笑ましくなって、ミカゲはくすりと笑った。

 

 

(ガトウも、こんな気持ちだったんだろうなあ)

 

 

 2020年の竜戦役で散った男――ガトウの背中を思い返す。ムラクモの戦闘服を着た、厳つい顔の偉丈夫。厳しくも優しい眼差しでミカゲを見守り、気にかけてきた世話好きな男だった。

 このリボンは、彼が身に着けていた紫のスカーフを細分化したものだ。彼の死を悼む気持ちと、死して魂だけになっても助けてくれたことに対する恩義であり、彼の生き様を忘れたくないという自分たちの願いだった。

 ガトウ本人がこの場にいたら、「人のスカーフを細分化しやがって」と文句の1つや2つを投げつけてきただろう。それがミカゲたちの覚悟だと主張すれば、困ったような笑みを浮かべたに違いない。

 

 

「そ、そんな……悪いですよ。先生にとって、大事なものなんでしょう?」

 

「大事なものだからだよ。アイツの生き様にあやかって、な。――お前が、お前にとっての“大切な存在(もの)”を守れるように。軍人として、あるいは人としての使命や生を全うできるように」

 

 

 ミカゲの言葉を聞いたヨリトモは、おずおずとお守りを受け取る。無病息災のお守りの脇に結ばれた紫のリボンが揺れた。空色の蜻蛉玉が煌めく。

 飾りとして空色の蜻蛉玉を使ったのは、ガトウの他にもう1人、あやかりたい相手が居たためだ。最も、彼に関するものは殆ど残っていない。

 

 だから、色で代用した。鮮烈な空色を、覚えている。

 

 天下無敵、絶対的な“正義の味方”。ミカゲが惹かれ、妬み、憎み、敬愛し、親しんだ友の生き様が浮かんでは消えていく。

 こちらも本人が生きていたら「うっわ、気持ち悪いな。ストーカーかよ」と軽口の1つや2つが飛んできそうだった。

 

 

「頑張れよ、トウゴ」

 

「はい……!」

 

 

 ミカゲはヨリトモの肩を叩く。ヨリトモは真っ直ぐこちらを見返して、頷いた。お守りを大切そうに握り締める。

 丁度そのタイミングで、あるかなしかの風が吹き抜けた。紫のリボンと空色の蜻蛉玉が、太陽の光を反射して煌めいていた。

 

 

 

■■■

 

 

 

 アリーとジュリエッタの言っていた通り、テラスの眺望は絶景であった。眼下にはビル群と海が広がっている。風に乗って潮騒の響きが聞こえてきそうだ。

 空には星が瞬いている。静かな場所は、密やかな会話をするのに適していた。イノリたちが割り振られた個室に籠ったのを確認し、旧ムラクモ13班はここに集ったのである。

 新たに改築された4階フロアは、13班が寝泊まりするためのレストルームとなっている。大部屋の奥に、寝泊まりする程度の個室があるという設計であった。

 

 イノリは趣味に勤しんでいたし、ソウセイは徹夜で何かを作ることにしたようだ。リヒトは父親に現状を報告していたし、シキは医学の学術書に目を通している。用事が済めば、みなすぐに寝静まるであろう。

 

 

「よっこらしょ」

 

 

 ミカゲはキーボードとウィンドウを展開する。いや、展開したのはミカゲだけではない。ヨツミ、マサハル、リョウスケも情報処理Sランクの能力を惜しげもなく発揮していた。

 防壁をすり抜け、あるいは破壊して(勿論、何事もなかったかのように復元もして)、様々なサーバーに侵入する。自分たちが欲する情報は、あっという間に集められていった。

 

 

『……以前よりも、組織の闇が深くなっているように思うな。私の死をきっかけに、対竜兵器に関する研究が飛躍的に進んだようだ』

 

『極東支部総司令にアクツって奴が就任して以来、キナ臭さが一気に加速してるっぽい。……対竜研究を推し進める政治家みたいだけど、元は研究者だったらしいよ?』

 

「おまけに、民間団体が武力を有する際の規制がより一層厳しくなった。他にも色々やらかしてるようだが……トウゴくん、大丈夫かねぇ」

 

 

 ISDF関連の情報を集めていたヨツミの眉間に皺が寄った。リョウスケも難しそうな顔をして唸る。ミカゲもまた、上司に振り回されそうな弟子を憂いた。

 

 ISDFが恐れているのは、力を付けた民間企業が自分たちを脅かす存在になることだ。民間による新勢力出現は、ISDFによる世界統治が崩れてしまうことに繋がりかねない。嘗ての自衛隊とムラクモ機関、あるいは日本政府とムラクモ機関の関係性の再来である。

 2020年の竜戦役では、政府と自衛隊という公権力よりも、ムラクモ機関という秘密結社の方がアドバンテージを持っていた。もしもムラクモ機関が政治関連に手を出したら、あっという間に秘密結社側が政治を握っていたであろう。竜を退治して人類を守っている張本人たちだからだ。

 後に、ムラクモ機関は公権力――自衛隊と協力および戦友関係を築く。共に戦線を駆け抜けた仲間として、強い絆で結ばれた。どれ程かというと、“ムラクモが事を起こせば、自衛隊も一緒に決起する”レベルである。利権を得たい政府役人からすれば、これ程の脅威はない。

 

 他にも、ムラクモ機関の味方となり得る団体や企業は多く存在していた。アメリカのSECT11、渋谷のSKY、世界救済会、親ムラクモ派閥の議員たち――挙げればキリがない。竜戦役後も、協力関係を築いた組織や個人、民間団体は数多くあった。勿論、ISDF発足とムラクモ吸収により、そのコネクションは丸々引き継がれている。

 2020年の利権主義者たちが、ムラクモ>(超えられない壁)>公権力という力関係のせいで、幾度となく煮え湯を飲まされてきたことは周知の事実だ。故に、ISDFの利権主義者どもは同じ轍を踏まぬよう努めた。自分たちの足場を崩しかねない、新たな民間団体(きょうい)の出現を恐れたのだ。

 

 

(ノーデンス・エンタープライゼスがその標的にされなかったのは、上層部がうまい具合に隠し通してきたからなんだろうな)

 

 

 ミカゲの脳裏に浮かんだのは、社長のアリー、技術主任のジュリエッタ、主任のナガミミによるスリートップだ。特に、ISDFに対する隠蔽が得意そうなのはジュリエッタ――本名:渡真利(トマリ)十郎太(ジュウロウタ)である。

 彼は嘗てISDFに所属していた。古巣(ISDF)の人間たちがどこに注目しているかを知っているだろうし、規制の抜け穴を把握していてもおかしくはない。むしろ、それを利用してISDFから隠れていたのだろう。

 

 

「で、ノーデンス側はどうだった?」

 

『こっちもこっちでキナ臭いぞ。アイオトの検体入手のために子会社3つも潰してる。いくらドラゴンクロニクルの解析に力を入れてるとはいえ、普通、ここまでするか?』

 

「その分はセブンスエンカウントで黒字を稼ぎつつ、狩る者を探して待ち続けるってか。この測定システム、ムラクモ機関の能力判別システムがベースとして使われてるな」

 

『企業体質も、限りなく黒に近いグレーゾーンだ。社員やアルバイト、パートタイマー……次々と人が入れ替わってやがる』

 

「無事なのは重役クラスだけか。まあ、労働条件がバカらしいことになってるのはどの役職も一緒みたいだが」

 

 

 ミカゲとマサハルは深々とため息をついた。公権力(ISDF)民間企業(ノーデンス)も、大なり小なり薄暗いところを抱えている。

 嘗てのムラクモも、同じようにして後ろ暗いものを抱えていた。人竜の研究、都庁避難民行方不明事件、ルシェクローンの復活……挙げればキリがない。

 それでもムラクモが支持されたのは、帝竜を着々と退治し、人類の裏切り者を打ち取り、真竜を退け/斃して、文字通り“世界を救った”ためだ。

 

 この実績があったからこそ、ムラクモ機関は――13班は、英雄として語り継がれたのだ。

 ……正直な話、13班は英雄というより、ただの“クセモノどもの集まり”でしかなかったのだが。

 

 

「そういえば、結局、俺らの身柄ってどうなったの?」

 

『どっちが身柄を預かるかでモメにモメていたよ。特に、トマリくんが怒鳴り散らしてたな。『ISDFにヨツミ博士を渡すことは絶対にできない。その理由は、アンタたちが一番知っているはずだ!』って啖呵を切った。……自分の古巣を嫌っている様子だったよ』

 

『結局それもノーデンス側の条件ってことになったけど、司令部に報告するか否かの裁量は、先輩の教え子くんに一任されてたよ。教え子くん、『死人(センパイ)がここに居るって聞いたら、都合が悪い人間に心当たりがある』って耳打ちしてきたから、バカ正直に報告はしないんじゃないかな?』

 

 

 ヨツミとリョウスケはそのときのことを思い出したのだろう。どちらも何とも言い難そうに苦笑していた。

 

 

「はは、トウゴらしいや」

 

 

 ミカゲは教え子のことを思い出しながら苦笑する。

 これからの苦労を考えると、いつか貸しを返さねばなるまい。

 

 頼友(ヨリトモ)東吾(トウゴ)は、不愛想で不器用ではあったが、情に篤い男だった。弱いものの痛みを真摯に受け止め、それに応えようとする男だった。部下を率いて指揮するには、非常に優しすぎた男である。

 

 

『――強くなりたい』

 

『もう、こんな思いをする命がなくていいように。俺自身も、こんな思いをしなくていいように』

 

『今度こそ、大切な存在(もの)を守れるように、強くなりたい』

 

 

 傷だらけの虐められっ子が、動かなくなった猫を抱きしめて泣いていた姿が脳裏をよぎる。ヨリトモのルーツは、おそらくこの出来事だ。

 失ったものの痛みを理解できる人間は、上に立つに相応しい。人の痛みに寄り添えるからこそ、その優しさに惹かれて、人が集まってくる。

 自他ともに厳しく、けれど、部下たちのことを何よりも慮るヨリトモの在り方は、ミカゲが思った以上に慕われているようだ。

 

 その結果が、提督という地位なのだろう。叩き上げでのし上がってこれたのも、彼と彼の部下の間に築かれた信頼関係が成せる業だ。

 互いが互いの信頼に応えようとするからこそ、ヨリトモの部隊は華々しい活躍を挙げてきた。

 

 結果、「極東にはマモノはいない。居るのはヨリトモというドラゴンだけだ」なんて言われるようになったのであろう。なんだか嬉しくなってきて、ミカゲは思わず頬を緩ませた。

 

 

『ミカゲくん。そろそろ戻って休んだ方が良さそうだよ』

 

「そうだな。部屋に戻るか」

 

 

 時計を見たユイが声をかけてきた。ミカゲは頷き、ハッキングしていた3人に撤収の合図を駆ける。

 リョウスケ、ヨツミが頷いてウィンドウを消した。マサハルもそれに続こうとして――

 

 

『あれ? この子――』

 

『どうしたヒイナ? ……って、こいつは……』

 

 

 ヒイナがマサハルのウィンドウを覗き込む。マサハルが首を傾げ――その目は大きく見開かれた。ミカゲもそれを覗き込む。

 映し出されていたのは、パートタイム社員の名前だった。名前と写真を見て、ミカゲは生唾を飲んだ。その少年に、見覚えが合ったためだ。

 書類を確認し、彼の“名前の意味”を理解する。ミカゲは思わずヒイナに視線を向けた。彼女はじっと情報を凝視していたが、やがて、静かに微笑む。

 

 

『……貴方たちは、ここで頑張ってるのね』

 

 

 普段のようなケダモノの笑みではない。

 聖母を思わせるような、慈愛に満ちた柔らかな笑みであった。

 

 

 

■■■

 

 

 

 

「ううううう……。やっと、やっとノルマが終わったのです……」

 

 

 チカがそう言ったとき、壁掛け時計は既に深夜を回っていた。最悪なことに、腹の虫が盛大に鳴きだす。

 

 こんな時間帯だと、営業しているのはコンビニくらいなものだろう。しかし、4徹とオーバーワークによる疲労が振り切れてしまったチカは、最寄りのコンビニに行く力も残されていない。

 相方のリッカはバリバリ仕事をこなしている。彼女の場合は今日で8徹めだ。「体を休める時間は5分あれば充分」と言うが、最低でも休息は30分、睡眠時間はは6時間必要だと思う。

 

 最も、労働基準法も生理的欲求も、ブラック企業のノルマの前では何の意味もなくなってしまうのだが。

 ……考えても意味がない。自分の部屋に戻り、何かを胃に入れなければ――チカがそう思ったとき、ぐらりと体が傾いた。

 世界がぐるぐる回っているような錯覚に陥る。もう、立っていることすらできそうにない。そのまま崩れ落ちる。

 

 

「大丈夫か!?」

 

 

 チカの体は、床に倒れこむ前に誰かに支えられた。何事かと見上げれば、黒いマスクをした青年の顔があった。夜空を思わせるような黒髪に、切羽詰ったように揺れる紅蓮の瞳。先日アリーによってスカウトされた13班員の1人、風間ソウセイである。

 技術セクションや研究セクションに勤める社員や、残業による泊まり込みが確定している社員以外、この時間帯に起きていることは珍しい。Code:VFDが始まったとはいえ、現在はISDFの対応待ちだ。その間、彼らは準備期間が与えられていた。

 

 

「あ、ありがとうなのです……」

 

 

 ソウセイに助け起こされたチカは、ぺこりと頭を下げた。立ち上がろうと手に力を入れたが、動けない。

 普段は“なんとか自室に転がり込む”くらいの力は残されているはずなのだが、今回に限ってはそれすら難しいようだ。

 立ち上がることすらままならないチカの様子に、ソウセイの瞳が不安そうに揺れる。

 

 

「顔色が悪いぞ。何かあったのか?」

 

「大したことじゃないのです。デスマーチで4徹して、睡眠不足なだけなのです……」

 

「充分大したことじゃないか!」

 

 

 チカの答えを聞いたソウセイの表情が変わった。彼は「しっかり捕まってろ」と言い、勢いよくチカを抱きかかえた。

 この体勢は、俗にいう“お姫様抱っこ”である。一般女性の多くが夢見る、御伽話のようなシチュエーションだ。

 

 チカのキャパシティは即刻オーバーである。頭が真っ白になるとはこういうことを言うのか、と、辛うじて動く理性がそう理解した。

 

 ソウセイが駆け出そうとした丁度そのとき、チカの腹の虫が鳴いた。

 心なしか、先程よりも音が派手に響いた気がする。結果、ソウセイは反射的に足を止め、チカの方を見た。

 

 

「……あと、まともにご飯も食べていなくて……今日は、昼食と夕食を抜いて働いてたのです」

 

 

 気恥ずかしさと気まずさから、チカはソウセイから視線を逸らした。お姫様抱っこの体勢なので、ソウセイの視線が突き刺さってくるのを感じ取る。

 体の温度が急上昇する。間違いなく、チカの顔は真っ赤だろう。穴があったら入りたい。堪らなくなって、チカは顔を手で覆った。

 一緒に仕事をするノーデンスの花形――13班のメンバーに、こんな恥ずかしい姿を見られてしまったのだから当然だろう。

 

 沈黙が痛い。ソウセイの眼差しが真正面から注がれるため、辛い。チカの手の平では、それを遮る力はなかった。紙以下の装甲である。

 「ふむ」と声がした。チカは恐る恐る手を離し、ソウセイの様子を伺う。彼は何かを思案している様子だったが、決意したように頷いた。

 

 

「チカ。俺の部屋に行こう」

 

「…………えっ」

 

 

 

***

 

 

 

 チカの頭の中は大パニックである。13班の集う大部屋へと運び込まれ、部屋にあるソファに降ろされる。きちんとした体勢で座らせられた。

 深夜の時間帯とあって、大部屋には誰もいない。奥に備えつけられた個人部屋で、各々の時間を過ごしているのだろう。おそらく、大部分が眠っていると思うが。

 「少し待っていてくれ」と言い残し、彼は備え付けのキッチンへ向かった。冷蔵庫から食材を取り出し、調理する。ソウセイの手つきは鮮やかだった。

 普段から調理をしているのだろう。冷徹で不愛想な面持ちではあるが、器用で家庭的な一面もあるようだ。ギャップ萌えという単語が脳裏をかすめる。

 

 調理をするソウセイの真剣な面持ちに、チカの視線は釘付けだった。魅せられたかのように、目を離すことができない。鼻をくすぐる、良い香りが漂ってきた。

 

 チカの腹の虫が鳴き出す。唾液がじわじわ滲んできた。口から垂れ流すわけにはいかないので、何度も何度も飲み下す。その度、ごくんという音が鮮明に響いた。

 ソウセイは味見をするため、マスクを取った。チカは思わず目を見張る。彼の左頬に――薄らとだが――焼けただれたような跡が浮かんでいたためだ。

 

 

「あ……」

 

「出汁は極限まで薄く――……ん?」

 

 

 チカの異変に気づいたのか、味見をしていたソウセイが顔を上げる。彼は暫し目を瞬かせていたのだが、バツが悪そうに視線を逸らした。

 

 

「ああ、すまない。気持ち悪いか。……見苦しいかもしれんが、味見が終わるまで我慢してくれ」

 

「そんなことないのです。マスク、外したままで大丈夫なのです」

 

 

 どこか傷ついたように笑うソウセイに、チカははっきりと言い返した。確かに驚きはしたけれど、彼の傷跡を気持ち悪いと思ったわけではない。沈黙がこの場を支配する。

 一歩遅れてチカの言葉を理解したソウセイは、安堵したように口元を綻ばせた。花が咲くような、柔らかな微笑み。左頬の傷など気にならないくらい、魅せられた。

 彼はすぐに真剣な面持ちに戻ると、調理を再開した。口元が見えると、ソウセイの表情はころころ変わるのが分かる。“冷徹で不愛想な青年”という第一印象が嘘みたいだ。

 

 マスクの下では、こんな風になっているのか――ほう、と、知らず知らずのうちに息が零れる。

 程なくして、ソウセイの料理は出来上がったらしい。満足げに微笑んだ青年は、器に料理を盛りつけた。

 

 

「済まない。和食しか作れなくてな」

 

「おお……!」

 

 

 ソウセイが作ったのは、お茶漬けと飲み物である。お茶漬けには鮭の切り身が盛り付けられており、かすかに鰹の香りが漂ってきた。出汁が云々と言っていたのはこのためだろう。飲み物からは、ほのかに糀とシナモンの香りが漂う。どちらも美味しそうだ。

 

 食欲に従い、チカは蓮華でお茶漬けを掬う。そのまま、一口。鮭の塩味と鰹出汁の旨味がチカの口いっぱいに広がった。噛みしめる度に広がる味が――作り手の優しさが、じわじわと体に沁み込んでいく。

 ささくれていた心が潤うような感覚。人の優しさをはっきりと感じ取ったのは、チカにとって文字通り“初めて”のことだった。入れ違いで、心の奥底から熱いものが湧き上がってくる。気づいたときには、視界がじわりと滲んでいた。

 

 

「お、おい!? 泣く程まずかったか!!?」

 

「ち、違うのです。……お、美味しくて……美味しくて……! こんなに美味しいご飯を食べたの、初めてなのです……!!」

 

 

 口に出した途端、チカの目から涙が溢れだした。堰を切ったように涙がこぼれる。

 

 

「こんなに美味しいご飯を食べれるなんて……そんな機会なんて、“一生”無いと思ってたので、嬉しくて……」

 

「……大げさだな」

 

 

 服の袖で涙を拭うチカを見つめていたソウセイは、苦笑しながらもハンカチを差し出してくれた。そのまま、飲み物を勧める。彼に従い、チカは飲み物に口を付けた。

 甘酒と豆乳の甘さの中に、シナモンのアクセントが効いている。飲み物のはずなのだが、飲みごたえと言うか、食べごたえがあった。作り手同様、優しい味がする。

 チカは無心で料理を食べ進める。拭っても拭っても涙は溢れてきて止まらない。ずっとこの味を噛みしめていられたら、どんなにいいだろう。

 

 

(ずっと、ずっと、“このまま”でいられたら――)

 

 

 チカの願いは空しく、器もグラスもあっという間に空っぽになった。「ごちそうさま」を言うのが惜しい。でも、感謝の言葉を伝えないわけにはいかなかった。

 手を合わせて「ごちそうさま」と挨拶すれば、ソウセイは柔らかに笑った。「お粗末さま」と紡ぐテノールボイスが心地よい。なんだか眠くなってしまいそうだ。

 

 ――いや、実際に、眠い。自室に戻る体力も回復したし、これでもう大丈夫だ。

 

 

「ありがとうなのです。本当に美味しかったのです」

 

「そうか。……時間が空いたら、また明日も何か作るか?」

 

「え」

 

 

 ソウセイの申し出に、チカは一瞬凍り付いた。だって、あまりにも、チカにとって都合が良すぎるのだ。驚くのも当然である。

 このチャンスを逃してはならないと本能が叫ぶ。新しく紡がれる“このままの日常”が欲しい。また、あの優しい味を噛みしめたい。

 チカは暫し躊躇った後、首が千切れるんではないかという勢いで頷き返した。それを見たソウセイが表情を綻ばせる。

 

 

「期待してくれ。それじゃあ、また明日」

 

「はい。それじゃあ、また明日」

 

 

 ソウセイは何の気もなしに言ったのだろう。当たり前の光景が、当たり前に続いていくのだと信じて疑わない眼差しが向けられる。

 明日なんて永遠に来なければいいのにと/早く明日が来ればいいのにと願ったのは、チカにとって初めてのことであった。

 

 

 

■■■

 

 

 

 崩れ落ちた紳士へ追撃しようと、少女は刃を振り上げた。短刀は紳士の胸に突き刺さるより前に、別のもので止められた。戦場の人間とは思えぬ白い手が、少女が振り下ろした刃を握ったためだ。肌を切ったのだろう。流れた血が、少女の手袋を汚していく。

 少女は短刀を動かそうと力を込めたが、てんでびくともしない。本当にこれは、研究者の握力なのだろうか。微かな呻き声につられて紳士へ視線を向ければ、彼は荒い呼吸を繰り返しながら少女を見つめている。どこまでも真っ直ぐな眼差しが、少女を射抜いていた。

 

 ぞくりと体が震える。少女は何かを言おうと口を開いたが、何も紡ぐことができなかった。

 

 

「顔を、見せてくれないか」

 

 

 ぜえはあと息を吐きながら、額とこめかみに脂汗を浮かべながら、紳士はそう言った。咳き込みながら紡がれた言葉は、やけに鮮明に、強く響く。

 身動きが取れない少女の頬に、紳士は必死に手を伸ばす。伸ばされたのは、傷口を抑えていた方の手だ。血に塗れた白い手が、少女の頬に触れる。

 紳士は痛みを堪えて微笑んだ。菫色の瞳は優しく細められる。壊れ物――あるいは愛おしいものを撫でるかのような手つきと共に、鉄錆びた臭いが鼻についた。

 

 

「……ああ、そうか。……そういう、ことか」

 

 

 紳士は何かに納得したようで、苦笑しながら頷く。少女は紳士の様子に困惑した。

 

 

「ヨツミ先生!?」

 

「来るな!」

 

 

 誰かが紳士――ヨツミの異常事態と襲撃者である少女の存在に気づいたらしい。遠くの街灯の下に、若い青年の影がゆらめく。

 だが、ヨツミは青年を一喝した。青年の影はびくりと体を震わせ、動きを止めてしまう。それを確認したヨツミは、すぐに少女に微笑み返した。

 

 

「いきなさい、はやく」

 

「!?」

 

「……逃げなさい。……私のことは、気にしなくていいから」

 

 

 荒い呼吸を繰り返し、それでもヨツミは少女に微笑む。菫色の瞳には、深い慈愛が滲んでいた。

 

 何がどうしてこうなっているのか、少女はよく分からない。だが、ここで立ち止まっているのは悪手だ。距離的にこちらの顔は認識できないだろうが、目撃者もいる。

 それに、ターゲット――ヨツミの出血量からして、今から救急車を呼んでも助からないことは明白だった。なら、わざわざトドメを刺して息の根を止める必要性は薄い。

 理論は単純明快がベストである。少女はヨツミの手を振り払って短刀を回収し、即座に駆け出した。それに遅れて、「ヨツミ先生!」と叫ぶ青年の悲鳴が響く。

 

 少女は振り返ることなく、夜の闇を疾駆した。

 口元に、満面の笑みを浮かべながら。

 

 

 

***

 

 

 

「ッ!?」

 

 

 ユマは反射的に跳ね起きた。呼吸は荒く、下着は汗でびっしょりと濡れている。その原因はおそらく、つい先程見ていた光景が原因であろう。

 暗黒期の中で封じ込められていた記憶。愛した男の死や、殺したはずの相手との再会をきっかけに、おぼろげながらも見えてくるようになった。

 ……いや、その中の一部は、ユマの想像だ。人を殺した自分の顔がどんなものだったかなんて、当人に分かるはずがない。

 

 

『遠慮は不要だ。それに、私個人として、顔色が悪いキミを放っては置けない。……嘗ての妻の様子を見ているような気がして、辛いんだ』

 

『……()()()()()()()()()()()()()()()ような……?』

 

 

 金髪に菫色の瞳の紳士が、こちらを覗き込む様子がフラッシュバックする。自分が殺した張本人――那雲ヨツミの心配そうな眼差しが、頭から離れなかった。

 

 ヨツミや旧13班員の記憶が欠損しているという話は、ノーデンスのナビゲーター・ナガミミから聞いている。故に、ヨツミはユマとの関係性を知らない。彼の伴侶であるシラユキも、記憶の有無に関わらず、ヨツミとユマの関係性を知らないのだ。

 那雲夫婦が掴んでいる確証は、ユマとシラユキの遺伝子配列が同じであることくらいだろう。ヨツミがユマを見逃したのは、ユマがシラユキ――いや、愛する妻と瓜二つの顔だったためだ。そうでなければ、彼は犯人に一矢報いようと足掻いたはずである。

 

 

(アクツ派の奴は、それを見越して私に指示を出した。私が「生きるためなら何でもする」と必死になっていたことも見越して)

 

 

 利用されていたとはいえ、ユマがヨツミを手にかけたのは事実だ。伴侶を愛し、仲間や後輩を優しく見守るヨツミの表情が浮かんでは消える。

 命と真剣に向き合っていた、生命科学の権威。ルシェクローンを2021年に再誕させた張本人。そして、雪待シズク――否、明星ナユタの敬愛する師匠。

 

 

『組織の力の前に握り潰された()()()()()()はごまんとある。公権力が絶対的な正義であるとは限らないんだ』

 

『特に()()()()()()()()()()は、いつか必ず、組織が握り潰した()()()()()()と向き合わなければならなくなるだろう。己のために支払われた犠牲の大きさに思い悩むこともあるかもしれない。……だが、どうか選んでほしい。すべてを背負ってでも、命が枯れ果てるその瞬間まで――“不完全な人間”で在り続けることを』

 

 

 ナユタの言葉が、重石のようにのしかかってくる。

 

 伊倉ユマのために支払われた犠牲の価値は、あまりにも重すぎた。ただのルシェクローンと、高潔で慈愛に満ちた研究者……どちらが重要かなど、考えるまでもない。

 それでも、那雲ヨツミは伊倉ユマを選んだ。己の命を刈り取った未完の命を選んだ。妻と瓜二つの兵器を守り抜いた。その事実が、鋭利な刃物のように突きつけられる。

 本当に、伊倉ユマでよかったのだろうか。生き残るべき人物は、那雲ヨツミや明星ナユタではなかったのだろうか。答えのない疑問が、浮かんでは消えていく。

 

 

「……私が、あの人を殺した。私が、あの人たちを殺した」

 

 

 ぽつりと呟けば、胸がつかえた。込み上げてくるものを抑え込むようにして、ユマは口元を抑える。

 吐きだしかけた胃酸を飲み込み、ユマは体を起こした。コップに水を汲み、喉に流し込む。心なしか気持ちが落ち着いた。

 

 自室は暗闇に包まれており、まだ目覚めの時間ではないことを告げている。部屋に置かれたデジタル時計を確認すれば、時刻はまだ深夜であった。

 

 

(あのオコチャマ、まだ1人でデータの解析とバックアップに勤しんでいるのかしら)

 

 

 アクツから膨大な量の仕事を命令された教え子――ユウマの背中が脳裏によぎる。上司として、教育係として、彼の手伝いを申し出たユマであったが、情報秘匿および守秘義務という観点から断られてしまった。

 ユマがISDFの暗部に踏み込もうとする気配を、アクツ、もしくはアクツの関係者が察したのかもしれない。ユマの階級が中々上がらないのも、上がったとしても開示される情報が少ないのも、それが原因であろう。

 利権を貪る上層部たちは、ユウマに対する情報教育も徹底しているようだった。ユウマがユマに自身の状況を相談しなくなったのも、ユマの手伝いを頑なに断るのも、奴らの情報教育の賜物であろう。ユマは深々とため息をついた。

 

 

「そこまでして、“未完の命”を完璧な兵器に仕立て上げたいってワケ。アクツ総司令も、自身の手柄しか考えてないのね」

 

 

 ナユタが危惧していたことを思い出す。彼の予想した通り、如月ユウマはまだ“未完の命”であり、存在自体が不安定だ。その行く先は、まだ分からない。

 

 憂うべきことは、ユウマの行く末だけではない。明星ナユタの関係者と思しき少年の姿が脳裏に浮かんでは消える。■■カレンが作り上げた刀、和泉守兼定の持ち主だ。

 薄く笑った少年の表情。紫苑の瞳は、何かを値踏みしているかのようにユマを見つめていた。以前、シズク――否、ナユタが時折、ユマに向けた眼差しと同じ。

 

 少年は試しているのだ。伊倉ユマが、明星ナユタが命を賭して守るに相応しい命だったのかを。その価値があったのかを。明星ナユタの“選択”が間違っていなかったのだと、信じたそうな眼差しだった。

 ナユタが()()()()()()後も、伊倉ユマの命は値踏みされる運命にあるらしい。何も知らなかったときならば、ユマは悪態の1つや2つ、零していたに違いないだろう。すべてを知った今となっては、そんな愚痴を零すことすらおこがましいが。

 期待されているという事実に尻込みする資格も無ければ、その期待に背を向けて逃げるための退路も無い。もしもユマが逃げ出してしまったら、ユマのために犠牲になったヨツミやナユタの想いはどこへ行ってしまうのだ。

 

 

「“不完全な人間”であり続ける……中々難しいわね。正直、もう、逃げ出してしまいたいのだけど……!」

 

 

 愛する男が残した最後の祈り/呪いが、ユマを奮い立たせる。

 

 思考を止めてしまえば、ナユタの遺言を果たせなくなってしまう。明星ナユタが愛した伊倉ユマは、人間で在り続ける道を選んだ女だ。時にはふてぶてしく、時には子どもっぽく、気まぐれだけれどしなやかでブレない、強気な女。

 崩れ落ちてしまいそうになる自分を叱咤し、ユマは深呼吸する。情けない面を晒すのは、これが最後だ。――そうやって、何度、痛みを抱えてきただろう。震える体を丸めて、膝を抱えて、夜を超えようとしてきたのだろうか。……超えて、きたのだろうか。

 

 ユマは再びベッドの中へと潜り込む。羽毛布団を蹴り飛ばして、タオルケット一枚にくるまった。夏用の羽毛布団すら邪魔になるくらい、今夜は酷く寝苦しい。

 明日も早いと言い聞かせながら、ユマは無理矢理瞼を落とす。勤めて頭の中を空っぽにしようと試みたのだが、効果が出るまでに時間がかかりそうだ。

 自分の呼吸と心臓の音がやけに響く。深呼吸を続けるうちに、うとうとと微睡み始めた。心なしか、部屋を満たしていた暗闇が薄くなりつつあるような気がした。

 

 




【参考・参照】
『COOKPAD』より、『飲む夜食♪ホッと甘酒豆乳シナモン(古町糀製造所さま)』

―――
これで、原作Chapter1の時間軸は終了です。次回はChapter1とChapter2の間の時間軸へ突入。本格的な作戦が始まる前の、穏やかな幕間期間となります。主にクエストと日常回がメインになる予定。
Chapter1.5で、ISDFはアトランティカ周辺を調査します。ノーデンス近辺を巡回したり、ノーデンス陣営を見張りつつ懐柔しようと手を回すことでしょう。まあ、アクツとヨリトモたちの思惑には、大きな差がありますけどね。
特にユウマはイノリとの青春ターンになるでしょう。但し、ユマが一緒にいた場合、イノリは数歩下がることでしょう。そこから何が起こるのか、誤解の玉突き事故も見守って頂ければ幸いですね。
アトランティカ調査と聞いて、Pixiv版や改定前を読んだ方は「何が起きるか」を察すると思われます。きっと今頃、ユウマ絶対粛清するマンが愛用の得物を研いでいるのでしょう。こちらも見守って頂ければ幸いです。
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