百花繚乱クロニクルセブン-僕らのセカイとキミのミライ- 作:白鷺 葵
「おいモルス。大丈夫か?」
仲間のルシェから差し出された手を取り、モルスはどうにか体を起こす。背中がずきりと痛み、思わず呻き声を漏らした。
「うう、酷い目に遭った……」
体中が傷だらけだ。正直な話、モルスには怪我をしていないところを探すのが難しいように思える。うええ、と唸りながら、モルスは自分と対峙した相手へ視線を向けた。
陸の国からやって来た青年――如月ユウマは、傷だらけのモルスとは対照的に、傷の1つも見受けられなかった。しかも、息を乱しているような様子もない。
なんてやつだ。モルスは思わず苦い表情を浮かべた。クラディオン自警団No.2――もとい、元・親衛隊長の右腕としての自負が瓦解していく。所詮、自分は井の中の蛙だった。
陸からやって来た民を見下していなかったかと問われれば、即答することはできない。驕りがなかったわけではないと自覚しているからだ。それは、陸のルシェ――那雲シキの覚悟に敗れたエーグルにも言えることであった。
彼もまた、地上の民を侮り敗北した者である。実際、エーグルはシキのことを「ニアラの尻尾にすら触れられない」と判断していた。しかし、実際の結果はどうだ。ニアラの尻尾すらまともに捉えられないはずの少女が、エーグルを倒したのである。
(姉上の言った通り、イノリたちが“遥かなる
ウィータの託宣を思い出し、モルスはふっと表情を緩める。やはり、姉の託宣は間違いじゃなかった。
アトランティスの滅びは、彼女たちの手によって覆されるであろう。だが、だからといって、このまま彼女たちに全部を押し付けて、何もしないでいるつもりも毛頭ない。
自分の実力が陸の民に及ばないことは証明されてしまったけれど、それでも、モルスたちの故郷――アトランティス奪還に関わらないではいられなかった。
(……俺だって、戦いたい。自分の故郷を取り戻すためにも、できることがあるはずなんだ)
きっと、姉はイノリたちについていこうとするだろう。己の託宣で、彼女たちの力になろうとする。モルスに自警団の守りを任せて、行ってしまうのだ。両親が王と共に戦場へと赴いたときのことが頭をよぎる。
ウィータとモルスの両親は騎士/星占術師の中でも一二を争う精鋭であった。誰もが王の勝利を信じていたし、モルスも両親が帰ってくると信じて疑わなかった。恐らくは、両親も必ず帰ってくる心づもりでいたのだろう。
しかし、結果はどうだ。王も、両親も、自分に稽古をつけてくれていた母の部下たちも、姉に星占術を教えていた父の部下たちも、誰1人帰ってこなかった。そのときの気持ちは、今でも忘れていない。
もう、誰かの背中を見送るのは嫌だった。
その背中が二度と戻って来ないなら、尚更。
■■■
低層区クラディオンの鍛冶場で、竜殺剣が作られた。この集落に住まう人々は、ヒュプノスの姉妹――エメルとアイテルから竜殺剣の作り方を教わった鍛冶師の子孫なのだという。
エメルとアイテルの名前を耳にした祖父は、何とも言い難そうに遠い目をした。ミカゲは彼女たちと深く関わっている。懐かしいのかもしれない。イノリはそう思った。閑話休題。
大戦開始直後、ルシェ族の民はここの奥地にある鍛冶場で竜殺剣を鍛えたそうだ。だが、竜殺剣は先の戦いで失われた。もう一度作り直すにしても、竜殺剣を作るための鍛冶場が帝竜に占領されている。
「自警団を帝竜退治に向かわせれば、ここの守りがおろそかになる。集落に居る住人の大半が非戦闘員なんだよ」
モルスは苦々しい表情を浮かべて、奥の道へと視線を向けた。気のせいか、そこからは殺気が漂っているように思える。
あそこから一歩踏み出せば、雑魚竜やマモノが湧いて出てくるだろう。もし、何らかの事態が発生して、ここにマモノやドラゴンが雪崩れ込んで来たら――。
彼らの様子からして、これ以上戦力を割くことは難しいようだ。モルスの言葉を引き継いで、エーグルが悔しそうに項垂れた。
「畜生……ッ! 鍛冶場はオレたちの魂だってのによ……!!」
「魂……」
『魂……』
エーグルの悲痛な叫びを聞いて、ソウセイとリョウスケも表情を歪ませた。
しかし、彼らは即座に真剣な面持ちになってエーグルを見返す。叫んだのは、リョウスケだった。
『ね、今すぐ鍛冶場を取り戻しに行こう!!』
「待てよ! あんた、俺たちの話を聞いてたのか!?」
『聞いてるよ! だから、俺たちが取り戻しに行くの!!』
猛犬のように吼えたリョウスケの様子に圧倒されたのか、エーグルが思わずたじろぐ。
リョウスケは――否、旧ムラクモ13班の面々は、フォーマルハウトに拠点を襲撃されている。自分たちの居住区を瘴気まみれにされたり、住人や戦友を惨たらしく殺されたりしたと、悔しそうな顔で語っていたことを思い出した。
当時の悔しさと怒りが再発したのだろう。息巻くリョウスケにつられて、旧ムラクモ13班員の表情が歪む。ヒイナとヨツミが得物の整備を始め、マサハルが拳と掌を打ち付ける。ユイ、シラユキ、ミカゲが剣呑な顔つきになった。
「……な、なあ。あいつら……」
「私たちの故郷も、真竜ニアラやフォーマルハウトに踏み荒らされたことがあるのよ。特に後者の襲撃時は、最後の砦だった拠点を瘴気まみれにされたことがあったわ」
助けを求めるように、エーグルはシキの方へ視線を向けた。シキはその原因となった出来事について軽く説明する。2021年の竜戦役の話を聞いたクラディオンの民は目を丸くした。
陸の国にはオリハルコンの守りがない。そんな中で、生き残りを集めた最後の拠点が、真竜の瘴気によって汚染された――話を聞いたルシェたちの顔から血の気が引いていく。
イノリが「瘴気を巻き散らかした原因と大本は絶ったから大丈夫」と補足を入れなければ、エーグルがシキを質問攻めにしていたであろう。それ程の勢いがあった。
エーグルは視線を右往左往させる。時折、気遣うような眼差しをシキに送っていた。シキは力強く微笑み返す。それを確認したエーグルは、安堵したように頷いた。
……気のせいか、エーグルはシキに声をかけやすいみたいだ。その理由は分からないが、2人の関係性は悪いものではないということは分かる。
「大丈夫ですよ。俺たちも一緒に鍛冶場へ向かいますし、リハビリ中とはいえ、真竜を狩った張本人もいますから」
ユウマが涼しげな笑顔を浮かべて、ミカゲを指さした。
まさか自分が指名されてると思ってもみなかったのか、ミカゲが眉間に皺を寄せた。
そんなミカゲの様子など気にも留めず、ユウマは立石に水の如くすらすらと話を続ける。
「彼は、俺たちの国で起こった真竜との戦いで、竜殺剣の担い手となりました。それだけではありません。集落へと至る洞穴の入り口付近の岩場に倒れていた帝竜も、彼が狩ったんです。当時の力をほぼ失いながらの辛勝でも、彼には帝竜を狩る力がありますから」
「なんと……!」
「おいこら優男。勝手にハードル上げるんじゃないよ。俺はそんなんじゃないから」
ユウマによって盛大に持ち上げられたミカゲが眉間に皺を寄せる。心底めんどくさそうな表情だ。そんな祖父の気持ちなど露知らず、ルシェ族の長老トグラウが畏敬の眼差しを向けてきた。
いや、トグラウだけではない。エーグルが目を剥き、モルスが年甲斐もなく興奮し、ウィータが慌てた様子で敬意の礼を取ろうとしていた。ミカゲは渋い顔のまま、ルシェたちを制した。
彼らをどうにか諌めた後、ミカゲはユウマを睨んだ。ユウマはニコニコ笑うだけである。暫し2人は無言の応酬を続けたが、最終的にミカゲが肩をすくめることで決着した。……この2人は仲が悪いのだろうか?
長老トグラウは、何かを思案するように顎に手を当てていた。そうして、こちらを見返して頷き返す。陸の民の言葉を信じ、イノリたちに帝竜退治を任せることにしたようだ。
トグラウから説明を頼まれたエーグルが、鍛冶場を占領する帝竜に関する情報を提示する。帝竜の名前はメイヘムといい、巨大な四足竜で、猛毒の息を吐きかけてくるらしい。
『他には、どんな攻撃をしてくるんだ?』
「え?」
話を黙って聞いていたヨツミが首を傾げる。ルシェ族たちは怪訝そうな顔で彼を見返した。
『だから、毒以外に何か攻撃してくるのかと』
「そうだな。周辺の水脈は毒に汚染されちまった。今、まともに使える水は集落に流れてくるものをオリハルコンの力で浄化したものだけだ」
『それ以外には?』
「……そのぐらいだが」
今度は、ヨツミが拍子抜けしたような表情を浮かべた。――いや、ヨツミだけではない。
ミカゲを筆頭とした旧ムラクモ13班員全員が、似たような表情を浮かべている。
「――なんだ、それだけか」
ミカゲがあっけらかんと零す。彼の言葉が、兵団に所属しているルシェたちの逆鱗に触れたらしい。噛みつかんばかりに身を乗り出す。特に、モルスが顕著だった。
「ふざけるなよ! 奴のせいで、仲間が何人犠牲になったと――」
「だって、音で死体を操って襲わせるわけでもなく、超強酸の雨で生きてる人間を溶かすわけでもなく、鱗粉使って人を同士討ちさせるわけでもなく、電磁砲で人間を黒焦げに焼き殺すわけでもなく、地震を発生させて拠点を壊そうとするわけでもなく、幻覚で人間を追いつめるわけでもないんだろう? 汚染されてると言っても、それを防ぐ手段は存在してるわけだし。特に、拠点に降り注ぐ超酸性雨なんて防ぎようがなかったぞ」
ミカゲの瞳から光が消えた。彼は乾いた笑みを浮かべ、朗々と語る。それを耳にしたルシェ族たちが一気に凍り付いた。
旧ムラクモ13班は、竜戦役で様々な帝竜と戦った。帝竜の力に苦戦しながらも、勝ち星を重ねてきた人間たちである。
音で死体を操り生者を襲わせた女帝竜ロア=ア=ルア、超強酸の雨で人間を溶かした狂羽竜オケアヌス、鱗粉で人を惑わせ同士討ちを誘発した夢喰竜スリーピーホロウ、電磁砲で人間たちを焼き払った轟雷竜ジゴワット、地震を発生させ議事堂を破壊しようとした重剛竜ジャバウォック、人間たちに幻覚を見せることで狂わせる闇淵竜インソムニア等、厄介なドラゴンを相手にしてきたのだ。
故に、“鍛冶場を占領し周囲の水脈を汚染しているが、汚染問題はなんとかなりそう”な上に、“特筆すべき攻撃は毒”というメイヘムのことを「それだけ」呼ばわりするのも当然だと言えよう。感覚がマヒしていると言えばそれまでだ。
帝竜たちによる環境変化をどうにかできなかったのかと問われれば、そうではない。後手ではあったものの、ムラクモ最終総長や技術班が突破口を見出してきた。だが、それも最低限度――13班員を守るので手一杯だったらしい。故に、拠点に対する全体攻撃にはほぼ無力であった。
乾いた笑みを浮かべたままのミカゲを見て、自警団の兵士たちがひそひそ話を始める。メイヘム以上に厄介なドラゴンを退治してきたならば――と、期待しているらしい。正直、イノリも同じ気持ちである。数多の帝竜を倒し、真竜ニアラを退け、真竜フォーマルハウトを屠った祖父のことを、深く尊敬していた。
ミカゲが居るなら大丈夫だとイノリは思っている。ミカゲの場合はその逆らしく、「イノリが居るから大丈夫」と常々語っていた。
「ま、アイツの方がヤバかったけど。サンダーブレス吐いてきたり、怒涛の連続斬りから突き攻撃繰り出してきたり、千切り潰し刻み斬ってきたり、細胞活性化で自分の傷を癒したりするし」
「結局は人類戦士タケハヤへ帰結するんですね……」
虚ろな顔して語り始めたミカゲを見て、ヨリトモがひっそりと遠い目をした。彼もまた、「人類戦士がどれ程凶悪だったのか」というミカゲの講義を聞かされていた人間だったのだろう。良くも悪くも、祖父にとっての人類戦士タケハヤは印象的な相手だった。
「教訓を語っているというより、愚痴を零しているようにしか見えないわね。……あの様子からして、相当鬱憤が溜まってたのかしら」
『まあ、大体事実だし』
「……事実……」
『今でも忘れられないなぁ。タケハヤって人、凄く強かったのよ。有していた力も、最期まで“人”であり続けたその心も』
何とも言い難そうなユマに対し、シラユキは苦笑しながら頷いた。それを聞いたユマは眉間に皺を寄せてため息をつく。彼女は何かを思案している様子だった。
まるで、隠されていた真実がどれ程の価値と意味を持っているのか値踏みしているかのようだ。彼女が見据えているものが何なのか、今のイノリには知る術がない。
むやみに踏み込んだとしても、ユマは頑として口を開かないような気がした。丁度そのタイミングで、ミカゲは正気に戻ったようだ。周囲を見回し、申し訳なさそうに頭を下げた。
イノリは長老たちの方へ向き直った。ユウマやミカゲの話を聞いたトグラウは、13班とISDFにメイヘムを任せることにしたらしい。鍛冶場へ続く道を指さした。
奥の洞穴からは、ピリピリとした殺気が漂ってきたように思う。早速奥地へ進もうとしたイノリたちを、エーグルが引き留めた。
「ちょっと待ってくれよ。お前等、その人数で帝竜を狩るつもりなのか!?」
「ああ。我々には充分それが可能だ」
エーグルの問いに対して、ヨリトモが頷き返す。揺らぎのない返答に、エーグルが苦々しい表情を浮かべる。
彼からすれば、“イノリたちの人数で帝竜メイヘムに挑む”というのは自殺行為に見えるらしい。
「自警団の面々がメイヘム討伐を試みた際、イノリたちの倍の人数が向かったが失敗した」と、自警団兵士が零した。
エーグルは、暫くイノリたち――特にシキ――と鍛冶場へ向かう道を見比べていた。何かを考えるように俯いたが、すぐに顔を上げて頷き返す。
「分かった。鍛冶場の帝竜はお前等に任せる」
「本当!?」
「但し、1つ条件がある。アトランティスの代表として、ウィータを連れていけ。
そう言って、エーグルはウィータの方を向いた。ウィータも「それが自分の使命だ」と言わんばかりに、力強い笑みを浮かべて頷き返した。
「お任せください」と語って会釈したその動作には、一片の乱れもない。流れるように洗練された動作からして、彼女は只者ではなさそうだ。
戦力増強の申し出らしい。ISDF側は戦力が充分なので補充は必要ないが、ノーデンス側からしてみればありがたい申し出である。
「ねえ、ナガミミ。自警団側の協力者としてウィータさんを迎えたいんだけど、いいかな?」
『おう、話は聞かせてもらったぜ。新規採用の件なら、アリーとジュリエッタに訊いてみろ』
ホログラムに映し出されたナガミミは、早速上司へと通信を繋いだ。別画面にアリーとジュリエッタの姿が映し出される。
前者も後者も快諾の返事をくれた。アリーは仲間が増えると大喜びし、ジュリエッタは新規採用者に対して一種の浪漫を抱いているようだ。
「待ってくれ! 姉上が行くなら、俺も行く!!」
次の瞬間、エーグルの隣に居たモルスが身を乗り出して名乗りを上げた。そんな弟の様子を見たウィータは眉をハの字に曲げる。
「モルス。これは遊びではないのですよ? それに、自警団の副隊長としての仕事を投げ出すと言うのですか?」
「分かってるよ! でも、俺だって! 俺だって、アトランティスの滅びを覆したいんだ。そのための力になりたいんだ!!」
翡翠色の瞳には、一切の揺らぎがない。数多の悲しみとただ1つの決意を宿し、輝いていた。
「父上も、母上も、国を救いに行ってくると言ったっきり、二度と戻って来なかった! 俺は、2人の背中を見送ることしかできなかった! ――もう、見てるだけしかできないなんてのはこりごりだ!!」
「モルス……」
姉を見つめる弟の眼差しは、どこまでも真摯である。揺るがぬ決意を宿した眼差しは、決して姉から逸らされることはない。
ウィータは助けを求めるようにしてエーグルに視線を向けたが、彼はモルスの味方になることを選んだようだ。
「分かった。――モルス・クリュティエ、お前も陸の民に力を貸せ。団長命令だ。アトランティスの騎士の力、存分に振るってこい」
「やりー! サンキュー、エーグル!」
「……ああもう、仕方がありませんね……」
団長直々の命令を受けたモルスが万歳し、ウィータが頭を抱えて項垂れた。もう1名の新規採用についてアリーたちに尋ねれば、即座に許可が下りた。
これで、ノーデンス13班は
互いに軽く自己紹介を終えて振り返れば、こちらの話が済むまで待っていたヨリトモ、ユウマ、ミカゲらも談笑をやめてこちらへ戻ってきた。
和やかな空気が漂い始めたときである。急に向こう側がざわめきはじめた。周囲を覆い付したのはマモノの殺気だった。思わず面々は身構える。
「団長! 向うからマモノの群れがやってきました!」
見張り役の少女が、慌ただしい様子でエーグルに報告する。オリハルコンの守りを掻い潜って、多数のマモノが集落近辺に現れたらしい。
エーグルをはじめとした自警団は、そちらの掃討に専念するようだ。団長を務めているだけあって、彼の指示出しは手早く的確であった。
「それじゃあ、鍛冶場の帝竜は任せたぜ!」
「待って!」
駆け出そうとするエーグルを引き留めたのはシキだ。呼び止められたエーグルは足を止める。シキは鞄から何かを取り出して、エーグルへと手渡した。
東京で一般的に使われている治療薬――メディス、ヒールエアロ、マナ水等――の詰め合わせだ。シキは薬の使い方を簡単に説明する。
「メディス系の薬品は飲み薬で、これを飲めばある程度の傷は治療できるわ。ヒールエアロはマナの霧を発生させることで、周囲に居る人々の傷を癒すことができる。マナ水はその名の通り、飲めばマナを回復することができるの」
「……これ、本当に効果あるのか?」
「あるわよ。実際、貴方にも飲ませたし」
「――えっ?」
シキの言葉を聞いたエーグルが凍り付く。自分は飲んだ覚えはないと言わんばかりに、彼の口元が引きつった。エーグルの様子を見たシキは何かを察したのだろう。ああ、と納得したように頷いた。
「そういえば、マナ水を飲ませたとき、エーグルは気絶してたわね」
シキの言葉を聞いたエーグルから、さっと血の気が引いた。
ぎこちない笑みを浮かべたエーグルが、恐る恐るシキに訊ねる。
「……なあ。お前、オレにどうやって薬を飲ませたんだ?」
「口移しだけど」
躊躇いも淀みもない返答を聞いたエーグルの顔が真っ赤になった。「お、おおう」等と挙動不審になりながら視線を彷徨わせる。ウィータが頬を赤らめて口元を抑えた。モルスも顔を赤らめながら笑みを浮かべ、エーグルとシキを見比べた。
長老のトグラウに至っては、「季節外れの春が来た」と笑う始末である。彼女はエーグルとシキに対して、期待に満ちた眼差しを向けていた。ヨツミも笑ってはいたのだが、得体の知れない悲壮感が漂い始めたのは何故だろう。自爆特攻しそうな気配がする。
ミカゲはハラハラしながらヨツミを見守っていた。「エグゾーストサクリファイスはやめてくれ」と、呪文のようにブツブツ呟いている。そんなヨツミを、シラユキは苦笑しつつも生温かい目で見守っていた。ユマは獲物を見つけたみたいにニヤニヤしていたし、彼らの姿を見ていたユウマはポカンと首を傾げていた。
暫く動作不良に陥りながらも、エーグルは立ち直った。彼は薬を受け取ると、シキに礼を言って去って行く。
その背中を見送った後、イノリたちは準備を整えるために、一端東京へ帰還することにした。
■■■
「ここが、東京……」
「うわぁぁ! すげー、超すげー! 見ろよ姉上! なんかすごいのがいっぱいある!!」
異邦人であるイノリたちに連れられて来た場所――東京は、アトランティスとは比べ物にならない程の文明を有していた。陸の民は野蛮であると言われていたが、全然そうじゃない。むしろ、自分たちよりも知的で洗練されているように思う。
弟のモルスはぎゃあぎゃあ騒ぎながら、ポータルルームを駆け回った。点滅する物体に手を伸ばしては、白い服を着た人々から叱られている。不用意に触ってはいけないと言われても、モルスは止まらなかった。最終的に、怒り心頭のソウセイに叩きのめされ連行される。
本当に手のかかる弟だ。ウィータは白い服を着た人々やソウセイに頭を下げる。「弟が申し訳ありません」と謝れば、みんなから生温かい眼差しを向けられた。ご察しの通り、ウィータはモルスのことで色々と苦労してきたのだ。
鍛冶場を占領するメイヘム撃破が決まったのは、つい数時間前のこと。作戦準備を整えるため、13班とISDFたちは東京へと一時帰還することになった。13班はそこを拠点としているらしい。
イノリたちに先導されるような形で、ウィータはレストフロアに足を踏み入れた。そのまま部屋へと案内される。大人数が座れる椅子――とても柔らかそうなものだ――や調理台、本棚が並んでいる。
ウィータは吸い寄せられるように本棚へ歩み寄った。何の気なしに本を手に取る。色とりどりの花が描かれた本だ。東京の言葉は読めないため、題名から内容を推察することができない。けれど、ウィータは構わず本を開いた。
「わぁ……!」
アトランティスでは見たことのない植物――特に、花――の絵が描かれている。その絵の脇に、東京の言葉で何かが書かれていた。ウィータの予想では、この文章が、描かれた花々の説明になっているのだろう。
実に興味深い。興味深いのだが、内容が理解できないというのが癪に障る。王宮の本を読み漁っていた本の虫であったウィータにとって、東京の書物はとても魅力的なものだった。読めないのが非常に腹立たしい。
「むむ……」
「どうしたの? ウィータ」
ウィータに声をかけてきたのは、東京から来た同胞――シキである。彼女は頼れるお姉さん気質の持ち主だった。ウィータの方が年上だというのに、敬服してしまうくらいに。
「シキ。この本に興味があるのですが、東京の言語が読めなくて……」
「翻訳なら任せて! どれどれ? ……『よくわかる花言葉辞典』ね」
「花言葉辞典?」
「うん。この地球上に存在する花には、花言葉と呼ばれるものがあるの。花に思いを託して、誰かへの贈り物にすることもあるのよ。由来は神話や各国の伝承まで様々でね……」
ウィータはシキの説明に耳を傾ける。花に想いを託して相手に贈るとは、なんて素敵な文化だろう。老害どもが言っていた「野蛮」なイメージとは程遠い。むしろ洗練されているように思う。
シキの翻訳を頼りにしながら、ウィータは辞典を読み進める。どの花も美しくて、目移りしそうだ。ぱらぱらとページを開いて――ふと、ウィータは目を留めた。そのページに描かれた花の絵に見覚えがあったためだ。
紫の花。ウィータが見た夢の中で出てきた、あの花と瓜二つだ。甘くかぐわしい匂いが、脳の奥底から甦ってくる。絵が香るはずがないけれど、あの匂いが漂っているような錯覚に見舞われた。
同時に、思い出す。ウィータが花畑で出会った青年の姿を。
イノリやシキたちとは違う服に身を包み、外套を身に纏った青年。今となってはおぼろげで、名前すら思い出せない。ただ、凄く長い名前で、愛称で呼んでほしいと言っていたことは覚えていた。
探究心に満ち溢れた眼差し。ウィータを射抜いたそれを鮮明に思い出す。途端に、胸の奥底がざわついた。記憶の中に浮かぶ青年の微笑から、目を逸らすことができない。ああ、なんだか頭がクラクラしてきそうだ。
「シキ。この花は何というんですか?」
ウィータはシキに問いかけた。シキは図鑑を覗き込む。そうして、その花の名前と、花に込められた意味を告げた。
「この花は……ヘリオトロープね。花言葉は、『献身的な愛』、『夢中』、『熱望』というの」
■■■
準備を終えたイノリたちは、再びクラディオンへと戻ってきた。坑道へ繋がる道へと足を踏み入れる。
ここも集落へ至る道同様、鍾乳洞と清流のせせらぎが特徴的な洞窟であった。
イノリたちを先導するように、ISDFの3人が数歩前に出た。彼らの後ろにミカゲが並び、イノリたちは最後尾につく。――それが、現在の自分たちの力関係/主導権の順位だ。
『オイ、オマエら。新規採用を加えて戦力強化したんだ、いつまでもISDFに主導権を握られてんじゃねえぞ!』
「あ、あははは……。頑張ります……」
ナガミミから飛んで来た喝に、イノリは苦笑しながら曖昧に答えた。世界を救うという共通目標に対して、主導権云々で火花を散らしているのは上層部のようだ。
正直、イノリは主導権云々など興味はない。竜を狩ることが人類滅亡を回避する方法なら、どちらの組織が真竜を倒しても問題ないように思う。
どちらが真竜を狩っても、人類滅亡は回避されるためだ。結果が一緒なら何も問題ないはずなのだが、利権争いで火花を散らす輩はどこにでもいるらしい。
「でもナガミミ、あんまり言うと、“おじいちゃんのスイッチが入って、長々と話を聞かされる”可能性が出てくるよ。おじいちゃんはそういう足の引っ張り合い嫌いだから」
『……チッ。面倒臭いヤツだ』
「なあナガミミ。お前の個人アドレスって、XXX-XXXX-XXXXだったよな?」
イノリとナガミミの会話にミカゲが割って入る。彼は前方を向いたまま、自分の端末を弄りまわしていた。端末の画面には、『眞瀬ブンイチ』の名前が表示されている。
ミカゲの様子からすべてを察したのだろう。ナガミミはそっぽを向いて閉口した。ウサギのマスコットは、『どうしてそれを!?』と言わんばかりに鬼気迫っていた。
近々、ナガミミは自分の個人アドレスを変えるだろう。勿論祖父のことだ、変更後のアドレスも即座に割り出して握るに違いない。祖父は残念な天才のためだ。閑話休題。
襲い来るマモノを倒し、坑道を進む。奥へ進めば進むほど、マモノも凶暴になってきた。
しかし、思った以上に脅威を感じない。マモノを屠り、先へ進もうとしたときだ。
「う、うわああああ!」
「! あそこにルシェが! 助けないと!」
向うの方から悲鳴が聞こえてきた。悲鳴の主は、初老の男性である。彼はドラゴンに襲われかけていた。頭が異常に発達した雑魚竜――ドラグハンマードである。
彼の姿を発見したリヒトが駆け出す。その後にソウセイが続いた。イノリも彼らの背中を追いかけ、男性を守るように躍り出る。
男性は驚いたように目を白黒させたが、自分たちの中にウィータとモルスの姿を見つけると、安心したように微笑んだ。
「おお、モルス! ウィータもいたのか!」
「じいさん! アンタ何してるんだよ!?」
「すまんな。マモノ用のワナを調整していたら、ドラゴンに襲われてしまって……。ワシ以外にもいたのだが、逃げ回っている間に逸れてしまったようじゃ」
魔物が大量発生したと言う報告を受けて、初老の男性は集落を守るために行動していたらしい。だが、それが裏目に出てしまったようだった。
集落の住民を守ろうとして、自分が助けられている――その事実に、彼は申し訳なさそうに苦笑する。次の瞬間、ドラグハンマードが高らかに咆哮を上げた。
イノリたちが身構えたのと同じタイミングで、別の場所からもドラゴンが飛び出してくる。新手であるドラグメガマウスを迎え撃ったのは、ヨリトモたちだ。
イノリは初老の男性を安全な場所――ノーデンスへと転送する。ナガミミが適宜対応してくれた。
初老の男性が安全地帯へ非難したことを確認し、モルスが短剣を構えて飛び出した。ウィータも鎌を構え、弟の援護に動く。
イノリたちもそれに続くようにして、己の得物を構え、ドラグハンマードへ挑みかかった。
「取り扱い注意、っと!」
モルスはそう言って、短剣にマナを込めた。短剣は紫電の光を纏った剣へと姿を変える。モルスは躊躇うことなくその刃を振り下ろした。紫電が爆ぜ、ドラグハンマードが悲鳴を上げた。奴の動きが鈍る。どうやら、追加効果で麻痺したようだ。
「あらあら……――せいっ!」
ウィータは薄く微笑みながら、思い切り鎌を振り下ろした。異様なマナが爆ぜ、ドラグハンマードの動きを乱した。奴はうとうとと微睡み始めたが、それを振り払うように首を振った。
フォーチュナーは死相を操ることで戦いをサポートするという。彼女の攻撃は、マモノやドラゴンに状態異常を誘発させるものらしい。モルスの攻撃にも、状態異常を誘発する攻撃がある。
「現地住民に負けていられないな」
「そうですね。僕らも行きましょう!」
ソウセイとリヒトが前線へと躍り出た。ソウセイはデータボックスを展開し、罠を仕掛ける。炎属性で作動するファイアTROYが仕掛けられた。
イノリもそれに続いて双剣を抜き、割きモミジを打ち放った。直後、罠が作動して追撃が発生した。ドラグハンマードが溜まらず悲鳴を上げる。
間髪入れず、リヒトがXバーンを発動させた。程なくして、上空から隕石が降り注ぐ。それを起点にして、再びトロイが発動した。
勿論、ドラグハンマードも反撃行動に移った。奴は発達した金槌のような頭部をシキへと振り下ろす。シキはそれを受け止め、即座に反撃した。
最初から迎撃スタンスで受け止める準備をしていたのだから、反撃行動に移ることなど容易い。叩きこまれた一撃に、ドラグハンマードの巨体が揺らぐ。
『派手に畳みかけるよ! みんな、テンション上げていこう!』
リョウスケがキーボードを展開する。普段は1枠だけなのだが、今回は沢山の画面を展開した。せわしなくキーボードを叩いた彼は、飛びあがるようにしてEnterキーを叩く。次の瞬間、炎のマナがイノリたちの得物に宿った。
「ユイ、陣形は任せとけ! ――じゃあ、そろそろ起きていこうや!」
『任せてミカゲくん! ――それじゃあ、お願い!』
それを確認したミカゲが、刀からメガホンに得物を持ち変えて陣形を指示した。攻撃特化の陣形、ATK☆フォームである。更に、ユイもメガホンを構えて指示を飛ばす。軽快なリズムが響き、それに導かれるようにしてイノリたちは駆け出した。
炎を纏った武器を振るう。一撃一撃は大したことはないのだろうが、トロイが炎属性に反応して誘爆を引き起こした。連続で追撃を喰らい、ドラグハンマードが呻き声を上げた。トドメと言わんばかりに、リヒトが炎のカードをかざす。
「集中……! ――炎熱のマモノよ!」
ワームを模した炎のマジュウが現れ、ドラグハンマードを焼き払った。火傷を負ったドラグハンマードが呻きを上げる。
「マモノを召喚した!? すっげぇ!」
「モルス、戦いに集中なさい」
アトランティス出身者であるクリュティエ姉弟にとって、リヒトの力――デュエリストの能力は珍しいものなのだろう。モルスがぱああと目を輝かせ、そんな弟をウィータは叱りつけた。
勿論、姉弟も戦いを忘れたわけではない。モルスは短剣にマナを込める。今度は氷属性だ。それを確認したソウセイが、再びデータボックスをドラグハンマードへと仕掛けた。氷属性で反応する罠、アイスTROYだ。
罠が仕掛けられた刹那、モルスの攻撃がドラグハンマードに叩きこまれた。凄まじい冷気がドラゴンの皮膚を焼く。凍傷を喰らったのか、ドラグハンマードの動きが鈍くなった。それを確認したウィータが鎌を振り上げた。
「非情ですが……!」
振り上げた鎌を、ドラグハンマード目がけて投げつける。弧を描いて飛んでいった鎌は、ボロボロ状態のドラグハンマードの命を刈り取った。
青いマナが弾け、イノリたちの元へと降り注ぐ。癒しの光となったそれは、イノリたちの傷をすっかり消してしまった。攻防一体の技らしい。
間髪入れず、ドラグハンマードの体が崩れ落ちた。イノリたちは周囲の安全を確かめると、即座にドラゴン資材を回収する。ヨリトモとユウマもドラグメガマウスを撃破しており、それにつられて湧いてきた雑魚竜も何体か狩ったようだ。
安心するのもつかの間、今度は別の方向から悲鳴が響いた。年若い少年少女の声である。ルシェの少年少女はボロボロで、互いに互いを庇いながら戦っている真っ最中だった。
相対峙しているのはドラグメガマウス。奴は派手な咆哮を上げ、大口を開けて襲いかかろうとしていた。少年少女は恐怖で体を委縮させながらも、短剣を構える。
「危ない!」
イノリは迷うことなく駆け出して、少年少女の眼前へと躍り出た。大口を開けたドラグメガマウスに突っ込むようにして、刃を口内に突き立てた。双剣を引き抜き、口内を蹴って距離を取る。
「まずは軽く!」
入れ替わるようにして、シキが拳を唸らせた。速攻で叩きこまれた
『追撃、行くぞ! たぁーりゃあッ!!』
シキの後に続いたのはマサハルだ。彼は見事な足技――崩伏連脚を披露する。ドラグメガマウスは壁へ叩きつけられた。
勿論、このまま終わるはずがない。次に飛び出したのはヒイナだ。彼女は不敵な笑みを浮かべて、拳銃を構える。
『外さない!』
ヒイナの銃から打ち出された弾丸は、容赦なくドラグメガマウスの目を潰した。視界を塞がれたドラグメガマウスは雄たけびを上げながら、見当違いの方角へ攻撃を仕掛けた。
四方八方に飛び交う毒のブレスを掻い潜り、ソウセイがニーブレイクを叩きこむ。体勢を崩したドラグメガマウスに追撃したのは、ヨツミとシラユキ夫婦である。
ヨツミに斬り付けられたドラグメガマウスがよろりと傾く。彼のナイフに毒が塗ってあったようだ。毒を吐く竜が毒に苦しむとは、なんて皮肉だろう。
もがき苦しむドラグメガマウスに与えられたのは、更なる苦痛。シラユキのマイクロバーストで発生した重力によって、ドラグメガマウスの体は地面にめり込む。
動きを止めた雑魚ドラゴンの呻きを潰すかのように、ウィータとモルスが攻撃を放った。爆ぜた魔力によって血飛沫が舞い、紫電が爆ぜる。
「――これで決める!」
トドメとばかりに、イノリが双剣を構えて駆け出した。勢いそのまま割きモミジを叩きこむ。炎がドラグメガマウスの体を焼き払った。
崩れ落ちたドラグメガマウスは他の面々に任せ、イノリはルシェの少年少女に声をかける。2人は異邦人に対し、怯えた様子で身を縮ませる。
だが、同族――シキ、ウィータ、モルスの姿を確認すると、彼と彼女は安心したように表情を緩ませた。シキの指示に従い、2人は東京へ転移する。
『なんだか調子がいいね。トリスアギオンと戦ったときよりも、私たちの攻撃が通じるようになってきたよ』
『ふふ、そうだな。今日の私は、阿修羅すら凌駕できるかもしれん』
倒れた雑魚ドラゴンを見つめながら、シラユキとヨツミが嬉しそうに微笑む。中途半端に実体化させられた弊害か、ミカゲ以外の旧ムラクモ13班は、ドラゴンやマモノに攻撃が効きにくかった。それが、クラディオンを探索しているうちに、ある程度の攻撃が通るようになったらしい。
調子がいいと実感しているのは那雲夫婦だけではなかった。東雲兄妹も、リョウスケも、ユイも、笑顔を見せている。勿論、そんな仲間たちの様子に喜んでいるのはミカゲも一緒である。彼もまた、昔の勘を取り戻しつつあるようだ。
「キミたちの成長には驚かされますね。自警団の兵士たちが倒したドラゴンを、こうも容易く倒せるようになるなんて」
「そんなことありませんよ。ユウマさんだって、全然余裕じゃないですか」
イノリたちの様子を見守っていたユウマが、涼し気な笑みを浮かべて声をかけてきた。彼らの方もドラゴンを倒し終えたようだ。誰1人として息一つ乱れていない。
流石はISDFのエースたちだ。「格好良いです」と拙い賛辞を述べれば、ユウマは照れくさそうに苦笑した。当然のことだと彼は言うが、そんなことはないとイノリは思う。
ユウマはもう少し、自分が凄いことを自覚すべきである。ユウマは自分の実力を誇っているが、自身に課しているハードルが高いように感じた。
例えるならそれは、薄氷の上を歩いているかのような危うさだ。一度氷を踏み抜き落ちてしまえば、二度と這い上がれないような気がしたのは何故だろう。
イノリとユウマの距離は目と鼻の先なのに、手が届かない程、ユウマが遠く感じる。一瞬でも目を離せば、イノリの視界から消え去ってしまいそうだ。
伸ばしかけた手をぐっと握り締める。この衝動を何と言えばいいのか、イノリには分からない。同時に、いきなり手を伸ばされればユウマにとって迷惑だろう。どうにか踏みとどまる。
「どうかしましたか?」
「なんでもないです」
イノリの心情など露も知らないユウマは、こてんと首を傾げた。イノリは慌てて首を振る。訝しがられるのは嬉しくない。イノリは微笑んで見せた。
ユウマも同じように笑い返し――次の瞬間、彼の表情が苦悶に歪む。ユウマは呻き声を噛み殺すように歯を食いしばり、頭を抑えた。
その動きには見覚えがある。スペクタスを屠った一撃を放つ際の予備動作だ。この場に竜は居ない。なら、何故、彼は頭を抑えるのだろう。
考えて、気づく。
そういえば、スペクタスを一撃で倒したとき。
予備動作をしていた彼の声は、どこか苦悶に満ちてはいなかったか。
「……もしかして、どこか体調が悪いんですか?」
「――いいえ、心配は無用です。俺は大丈夫ですから」
イノリの問いに、ユウマは綺麗な笑顔で答えた。普段と変わらない、自信に満ちた笑みである。
しかし、その笑い方が作り物めいているように見えたのは何故だろう。冷たい仮面のように見えたのは、何故。
普段は彼の笑みを見ると安心するのに、どうしてだろう。今は、ユウマのその笑顔が、イノリの不安を掻き立てた。
改定前と流れは変わりませんが、クリュティエ姉弟の過去について少々掘り下げました。2人の母親はルーンナイト、父親はフォーチュナー。どちらも国王が認めた精鋭です。しかし、2人ともニアラとの戦いで戦死しました。
ようやくメイヘム戦まできました。改定前に追いつくまでもう少しですが、改訂版で追加された要素を加えていくと確実に話数が増えますので、改定前の時間軸まで到達するにはまだまだかもしれませんね。申し訳ないです。