第一話 吹雪、来ちゃいました
神様は、私の事が嫌いなんだ。
お父さんもお母さんも神様の悪戯でいなくなってしまった。
……それは、幼い私に周囲がついた些細な嘘。本当は、神様なんて関係ないんだって……今なら、わかる。
でも、それでも私は、神様が私達に酷い事をしているんだと思った。
正確には、私以外の私の家族に。
お父さんとお母さんは死んだ。交通事故だって知ったのはずいぶん後だった。それからは残ったお兄ちゃんと私の二人で暮らしてきた。
神様はきっと、それが嫌だったのだろう。
お兄ちゃんも事故に遭った。
そして――そして、私の……私と、私に関係するもの『だけ』を、忘れてしまうようになった。
私を見る目は他人を見る目に変わって、私達の家に、私の居場所はなくなった。
もう何度、実の兄相手に『初めまして』を言っただろう。
ふとした拍子に一緒に暮らしているはずの私を忘れてしまうお兄ちゃん。
そのたびに私は、自分があなたの妹なのだ、と……家族なのだと証明した。書類を用意して、写真を用意して……言葉だけじゃ、信じてもらえなかったから。
お兄ちゃんは優しいから、私の言葉が嘘でも本当の事でも、行き場のない私をここに置いてくれるだろう。
実際、疑っていながらもお兄ちゃんは毎回私の同居を許して、面倒を見てくれた。
……否定、してほしかった。
「そんなものは知らない」って。出て行けって、言って欲しかった。
そうして完全に他人扱いされた方が、きっと楽だったかもしれない。
同じ家で過ごしているのに、血も繋がっているのに、お兄ちゃんはいつだってよそよそしかった。
当然だ。あの人にとって、私は突然現れた赤の他人なのだから。
私が懇願するから、仕方なく置いていてくれる。
それが辛かった。
昔みたいに……お父さんとお母さんが生きていた頃みたいに、もっと近くで、もっと温もりを感じる距離で過ごしたい。
こんなのは嫌。距離を置かれるのも、他人のように振る舞われるのも、嫌。
だけど私は、私があの人の妹だと証明するのをやめなかった。
これをやめてしまったら、本当に私がお兄ちゃんの妹じゃなくなってしまう気がして、怖かった。
私の存在を置いてお兄ちゃんの時間だけが進んでいく。
歩幅を合わせようと走り寄っても、お兄ちゃんは私をちらりと見るだけで、引き離すように歩いて行ってしまう。
いつになったら一緒に歩けるのだろう。
いつになったら、また手を繋いでくれるのだろう。
神様に、お祈りする。
私達をこんな目に遭わせた神様に、どうか、お兄ちゃんが元に戻りますように、って。
お医者さまは、治らないって言ってた。保健の先生も、どうしようもないって。
だからあとはもう、神頼みするしかなかった。
神様、お願いします。
私を、もう一度お兄ちゃんの家族にさせてください。
そのためなら、なんだってします。
だから……。
◆
「ユキ」
私を呼ぶ声に振り返れば、廊下の半ばに一人の女の子が立っていた。
「こんな時間まで付き合わせて悪かった。礼を言う」
そう言って軽く頭を下げてお礼を言うのは、私の友達の
手塚真夕美。黒くて長い髪を編んで背中に垂らしていて、前髪が少し長めで目元に影がかかっている。赤縁の楕円形の眼鏡がチャームポイント。ちょっと暗く見えちゃうけど、クールで格好良い女の子だ。身長は私より10cm(!)も高い。スタイルも良いから、実は結構憧れていたりする。
薄暗い廊下は、桜ヶ丘中学校の北校舎、その三階。一年生ながらに占い研究会を一手に担う真夕美ちゃんは今日は特に忙しそうにしていて、だから私はこの時間までお手伝いをしていた。
「ううん、いいよ。また何かあったらいつでも言ってね」
全然迷惑じゃないよって気持ちを込めて笑顔になれば、顔を上げた彼女は「そうか」とだけ呟いて、私の隣に並んだ。自然な流れで、一緒に帰るために歩き出す。
「今日は美容院に寄ってから帰るつもりなの。だからそこでお別れだね」
「そうか……切るのか。結構髪も伸びてきたし、そのまま伸ばすものだと思ってた」
「それもいいかもしれないけど……お掃除の時とか、料理する時とか邪魔になっちゃうから」
腰ぐらいまで伸ばした髪を手に持って説明する。ゴムで縛るにしても、もう限界。酷い時はしゃがんでると毛先が床についちゃうし、そろそろ切り時だと思うのだ。
真夕美ちゃんの言葉には「もったいない」といったニュアンスが含まれている気がしたけど、私は特に髪の長い短いに頓着はしていない。機能性重視と言えば良いのだろうか。お洒落に興味がない訳ではないんだけど、あんまりそっちにかまけてたら、お兄ちゃんと過ごす時間をしっかりとれなくなってしまう。私は、何かしているよりお兄ちゃんの傍に居たい。
「ユキがそうしたいなら良いんだ。私にそれを止める権利はない」
「ちょっと大袈裟かな。真夕美ちゃんが伸ばして~ってお願いするなら、このままにしてもいいかなって思うんだけど」
「長い髪の君も魅力的だが、私は前に見た君の姿も魅力的だと思う」
「前って……初めて会った頃の事?」
「ああ。そちらの方が私好みだ」
好みって、真夕美ちゃん……さらっと恥ずかしい事言わないでよ。悪い気は、しないけど……。
でも、私は真由美ちゃんみたいなクールな……なんて言うんだろう、ミステリアスで……大人の女性? っぽくなりたいな。何があっても動じなくて、なんでもかんでもてきぱきやって、そういう風に私はなりたい。
「お前もお前でなんでもやれるだろう」
「なんでもは、できないよ……それに私、そんな凄い事やれないよ?」
「なぜお前がそう自分に自信を持てていないのか理解できない。客観的に見て、ユキは凄い奴だ。素晴らしい才能を持っていると私は思う」
「……ううん、自分じゃよくわかんないよ」
彼女の言う私の『なんでもできる』は、お勉強とか運動とかの事だと思うけど、ちゃんと授業を聞いて宿題もやってればテストで間違う事なんてないし、先生にさされても平気だし……運動は、どうだろう。確かに私、走るのは速い。でもそれくらいかな。あ、竹馬は得意! ……あんまりぱっとしない。
「体を動かすのは真由美ちゃんの方が得意なんじゃないかな。前に授業でバスケットやった時、すっごく遠くからシュートしてたし」
「あんなのは落ち着いてやれば誰にでもできる事だ」
あっけらかんと言うけど、たぶん誰にもはできないと思うな。特にその、何か凄い事をしてもいつもと全然変わらない落ち着いたところとか。……私だったら喜んで飛び跳ねちゃうのに。
「鞄が保健室にある。取ってくるから、ユキは昇降口で待っていてくれないか」
「一緒に行くよ。一人で待ってるの、ちょっと怖いし」
放課後の学校は人もまばらで寂しげな雰囲気が漂っている。階段の踊り場の壁にかかった縦長の鏡や、ぽっかり空いたトイレへの出入り口なんかを見ていると胸が冷たくなって、恐ろしくなってしまう。
だからあんまり、この時間は好きではないのだ。
……でも、友達と一緒なら、そんなには怖くはないっていうか。
彼女の後をちょこちょこ歩いてついていけば、もう一つの校舎の一階、端っこにある保健室に辿り着いた。扉の窓は内側に貼られているのだろうポスターのために明かりが確認できなかったけど、真夕美ちゃんが扉を開けば、強い電気の光が廊下に伸びた。
「失礼します。荷物を取りに来ました」
「ああ、自由にしなさい」
一礼してから入っていく彼女に倣い、私もお辞儀をして中へ入る。保健の先生はまだ残っていて、机に向かって紙に何かを書きこんでいた。真夕美ちゃんがベッドの方へ歩いて行くのを見送りつつ、私は三原
用があるという訳ではないけど、先生には頻繁にお兄ちゃんの事で相談にのってもらっているので、自然と体が動いてしまったのだ。
「何かな」
ペンを置いた先生が私を見上げる。細い糸のような髪がさらりと揺れた。
私より長い黒髪を無造作に一つに縛って、なのにすっごく決まっている。切れ長の目は宝石みたいな紅色。保健の先生なのに黒いスーツがびしっと決まっている。
三原先生は、凄い美人さんだ。中性的で男の人っぽいって表現する人は多いけど(たぶん原因は言動と……胸だろう)、私は女性的なものしか感じない。たおやかで、理知的で、まさに大人の女性って感じだ。何度も相談を持ち込んでいるけど、嫌な顔一つせずに聞いてくれる。
鋭利で、冷たくて、きっと先生は有名な彫刻家が『美』という塊から削り出した神様か何かなのだろう。どう言葉を尽くしても、すっごく失礼だけど、私は先生を人間だと思えなかった。
あ、性格が悪いとか、同じ人間とは認めないとか、そんな酷い意味で言ったんじゃない。『この世のものとは思えない』とか、そういう比喩的な表現というか……。決して先生を貶すような意味で言ってはいない。私は先生に普通とは違う何かを感じているのだ。それが何かは、わからないんだけど……。
「君に転機が訪れる」
「え?」
じっと私を見ていた先生は、明瞭な声でよくわからない事を言った。
意味を尋ねるべきか悩んで首を傾げていると、お構いなしに先生が続ける。
「これを」
「コインですか?」
机の前の方にあった一枚のコインをつまんで私に差し出す先生に、受け取ろうと手を伸ばすとぱしっと握り込むような動作で手を引かれた。その意味もまたよくわからず困惑する。そんな私に先生はコインの表と裏を見せた。見慣れた100の数字と、裏側の模様。
握った手の親指と人差し指の上にコインを置いた先生は、前置きなくコインをぴんと弾き上げた。まっすぐ飛んでまっすぐ落ちてきた物を手の開閉だけで掴み取る。
コイントス……表か裏かとでも聞かれるのかと思ったけど、声をかけられる事なくまたコインを見せられた。表の100の数字。裏返して、裏の100の数字……あれっ?
「あ、どっちも表になってる……?」
再度コインを回して見せた先生に見たままを伝えれば、静かに頷いて返された。
凄い……どうなってるんだろう、それ。取り換えたりする暇はなかったのに、コインの柄が変わっちゃった。
困惑していると、再度のコイントス。今度は表か裏かを問いかけられた。
「表……?」
「じゃあ見てみようか」
自信がないけど、答えを求められたなら言った方が良いだろうと思って無難に表を選ぶ。だって、そのコインはどっちも表だった……けど、今度もそうとは限らない。先生の手が開かれれば、そこにあるのはやっぱり裏面を見せるコインだった。
手品かな。凄い。
「結果を見るまで未来はわからない。だけど予測する事はできる」
コインを机の上へ置きながら先生が言う。いつもと調子の変わらない話し方だけど、きっと真剣な話だろうから、私も背筋を伸ばして耳を傾けた。
「これからの君達にはたくさんの選択が突き付けられるだろう。自分の運命を左右するような大きな選択も中にはある。その局面がくるのはずっと先かもしれないし、すぐかもしれない」
未来を予測し、よく考え、選ぶんだ。
先生は私と、鞄を持って私の隣に来た真夕美ちゃんにもそう忠告した。
「だが忘れるな。君達が選択した結果は良いものばかりではない。それを受け止めるか投げ出すかは自由だ。私としては……しっかりと受け止めて欲しいがね」
「……はい」
「今日はもう遅い。気を付けて帰りなさい」
「それでは、失礼します」
一礼して保健室から退室する。カラカラと扉を閉めた真夕美ちゃんは、鞄の持ち手を両手で握ってお腹辺りに当てると、行こうか、と私を促した。
昇降口までの道のりでもぽつぽつと言葉を交わす。
「先生のさっきの言葉って……」
どういう意味だったんだろう、と言おうとして、でも明らかに私達の将来……たとえば進路だとかの話だったと思い、言葉を切った。横を歩く真夕美ちゃんはちらりと私を見ると、さあな、と短く言った。彼女も意味は分かってると思うけど、意図がわからないのだろう。そういえば、私に転機が訪れるって言ってたような……『天気』の聞き間違えじゃないよね?
「あ、最初に先生が言ってた事、今朝の星座占いとおんなじだ」
毎朝学校に行く前、食事の時間なんかにテレビをつけるとちょうどやってるようなやつ。
今日は私は六位くらいで、変わった事が起こりそう、とアナウンサーさんが言っていた。
「占いか」
真夕美ちゃんが嘆息して、「私は占いは信じない」と切り捨てた。
「なぜなら――」
「『運命とは自分の手で切り開くものだから』……かな?」
「そういう事だ」
占いの話題が出ると、真夕美ちゃんはいつもこんな感じで同じ事を言うので、先取りして言ってみたら拗ねるように顔を背けてしまった。足早になった彼女に合わせて小走りになって隣に並ぶ。
「真夕美ちゃんは冬休みどうするの?」
「予定はないな。だいたい
話を切り替えれば、真夕美ちゃんはすぐにのってくれた。
綾華ちゃんも私のお友達だ。いつもは大人しいんだけど、時々すっごく元気になる小さな女の子。背の順で並ぶとクラスで前から数えた方が早い私よりも前にいるような、そんな子だ。
「うん、いっぱい誘うね」
「楽しみにしてる」
私も冬休みの予定はないけど、だからこそいつでもみんなと遊ぶ事ができる。お兄ちゃんの事もあるからあまり長く外にはいられないけどね。
暮れかけた街をしばらく歩いて、よく利用する美容院の前までやってくれば、真夕美ちゃんとお別れする。鞄を片手で持って、もう片方の手でばいばいと手を振れば、真夕美ちゃんも手を振りながら歩いていった。
さ、この長い髪ともお別れだ。右の手首につけているヘアゴムを弄りながら店内へ入り、案内を待った。
◆
冷たい風が温まった頬を撫でていった。
ふんわりとした髪を手で梳きながら家路を歩く。美容院で結構ばっさり切ってしまったから、ちょっと頭が軽い。真夕美ちゃんが最初に会った頃の髪の長さが良いって言ってたのを思い出して、それくらいにしてもらった。
小学四年生くらいの時の校外学習で水族館に行った時が、私と真夕美ちゃんが初めて出会った時だ。その頃は全然話した事もなかったんだけど、バスから降りて、水族館への道を行く途中、急に彼女が話しかけてきた。
さっきそこであなたを見た、なんて急に言うからなんの事かと思ったら、道中通りがかったコンビニに旗があって、私とそっくりのキャラクターが描かれていたんだって。そんな事言われても私には何がなんだかわからなかった。なんとかってアニメの、ええと、吹雪ちゃんってキャラクターは、その後お兄ちゃんがゲームをやってるのを見て知ったけど、そんなに似てるとは思えなかった。お喋りのきっかけはそれで十分だったけどね。
真夕美ちゃんは大人しそうに見えるから、みんな遠巻きにしちゃってたけど、実際に話すと明るい事がわかった。暗いのは目元だけ。人を見かけで判断するのは良くないと学んだ。
吹雪ちゃんうんぬんはまあ、どうでも良いのだ。後でお友達になった佐野
……ううん、でも、自分じゃわからないものなのかなぁ。
ふと傍のお店のガラス窓に私が映っているのが見えて、上から下まで眺めてみた。鞄の取っ手に腕を通して肘で支え、両手を頭の後ろに回して髪を束ねてみれば……雰囲気は、似てる気がする……かもしれない。
やっぱり自分ではわからない。ちゃちゃっと髪に手櫛を通しながら家に急いだ。
もうすっかり空は暗くなっていた。
◆
小さな緑色の門を通り、洋風の扉に鍵を差し込んで開く。ちりんちりんと鈴の音が鳴れば、きっと私の帰りがお兄ちゃんに伝わったはずだ。
「ただいま」
暗い廊下の電気をつけ、それから靴を脱いで廊下に上がり、しゃがんで靴の位置を整える。急な階段を螺旋を描いて二階に上がり、すぐ目の前の扉を見つめた。そこがお兄ちゃんの部屋だ。『ただいま』への反応がなかったのは、ゲームとかをしているからかな。最近熱心に同じゲームをやっているみたいだし……例の吹雪ちゃんが出てくるやつ。もしかしたら、それでまたご飯を食べてないかもしれない。そうだったら注意しなくちゃ。不摂生で困るのはお兄ちゃんなんだから。
右の扉が私の部屋。気持ち静かに扉を開けて自室に入り込む。カーテンは白い薄布。被さるように浅葱色の遮光カーテン。掛布団は桃色。衣装棚と勉強机。大きなベッド。枕元にはぬいぐるみ。
電気をつければ、見慣れた内装が出迎えてくれた。ちょっと体から力が抜ける。自分だけの空間はやっぱり安心する。
このままベッドにダイブして心地良さを堪能したいところだけど、やる事はたくさんある。ご飯を作らなきゃだし、ゆっくりお風呂にも入りたい。その前にまずはちゃんとお兄ちゃんにただいまを言わないと。
ベッドの脇に置いてある小さな机に鞄を置き、着替えは後回しにして部屋を出る。しっかり電気を消して節電。お兄ちゃんの部屋の前に立ち、コンコンコンコンと四回ノック。
……反応がない。
「お兄ちゃん……?」
扉越しに声をかけても、それでも返事がない。
嫌な予感がした。
もしかしたらお兄ちゃん、また倒れてしまったのかもしれない。
最近はそんな事全然なかったのに……!
一度その考えが浮かぶと、頭の中は全部それで埋め尽くされて、だから乱暴に扉を開いて飛び込んだ。
お兄ちゃんは、倒れていなかった。
右の壁にくっつくような大きな机に向かってパソコンをしている。コレクションなんとかというやつだ。よく見ればヘッドホンをしていて、だからなんの反応もなかったのだと納得した。
今も私がこうして入って来たというのに反応せず、カチリカチリとマウスを弄っている。
でも、部屋の中の暖かい空気が外に漏れ出せば、代わりに入り込んだ冷気で扉が開いてる事には気付いたのだろう。お兄ちゃんはヘッドホンを外しながらこちらを見て、目を丸くして――。
その時点で私は、とても嫌な予感がしていたのだ。
私を見てそんな表情を浮かべるお兄ちゃんを見たのは一度や二度じゃなかったから。
でもそうであってほしくない。だって、だって今回は半年も私を覚えていてくれたのに……ずっとこのままやっていけるって――。
「吹雪……?」
――思って、いたのに。
嘘だ、と私の心が叫んだ。
お兄ちゃんの心も頭も安定していた。一緒に過ごす私がそう感じていたのだから、だから、また私を忘れるなんて嘘だ、と。
じゃあ今お兄ちゃんが口にした言葉はなんなのだろう。
私を見て、私によく似ているらしいキャラクターの名前を呟いて。
それって、妹にするような反応なのかな。
そうじゃないって言って欲しくて、半ば無意識に一歩足を進めていた。靴下越しの硬いカーペットの感触が凄く煩わしい。指先が震えて、隠すように握り込んだ。
私の動きに反応したかは定かではないけど、お兄ちゃんが椅子を軋ませて回転し、こちらに体を向けた。その際にイヤホンが外れたのか、ゲームの音楽が流れ出す。
「まさか、ゲームの中から出て来たっていうのか……?」
ああ。
もう、誤魔化しが効かない。
お兄ちゃんは私の事を忘れてしまった。
また忘れてしまったんだ。
でもそれは仕方のない事だから、私は泣いたり取り乱したりしちゃいけないんだ。
忘れられたならまた教えてあげれば良いだけ。私が、あなたの妹なんだ、って。
……何回?
あと何回そうすれば良いのだろう。
何度同じ事を繰り返せば、お兄ちゃんは私の事をずっと覚えていてくれるのだろう。
……ううん、覚えているだけじゃ駄目だ。
全部思い出して、また昔みたいに一緒に過ごしてくれるようになって欲しい。
無理だって、わかってるけど。
私は馬鹿だから、何回も希望に縋りついて、そのたびに裏切られてきた。それでも諦め切れずに繰り返した。
……もう、疲れちゃったかもしれない。
家族として見てくれない。昔を取り戻せない。絆も思い出もぐちゃぐちゃで、その中で生きていけるのは……どうしてかなんて自分でもわからなかった。
もういいんじゃないかな。
もう、お兄ちゃんに、私が妹だって言うの、やめちゃっていいんじゃないかな。
だって苦しいだけだ。ずっと、苦しいだけなんだよ?
わかってもらえない。理解してもらえない。わかってくれた振りをする。理解してくれた振りをする。私もそれを見て見ぬ振りして兄妹を演じる。
歪だとわかっていた。だけど、縋っていた。
それしかお兄ちゃんを繋ぎ留める方法が思いつかなかったから。
でも、今はちょっと、違うかな。
ちらりとパソコンの画面を見る。吹雪ちゃんの姿がそこにある。お兄ちゃんですら間違えちゃうくらい私とそっくりで、しかも、お兄ちゃんのお気に入り……。
転機だ、と先生は言った。
変わった事が起こりそう、ってテレビが言ってた。
今日はまだ『変わった事』なんて起きてないけど……私が起こしたら、それはその通りになるよね。
「…………」
「…………」
お兄ちゃんと見つめ合う。
その目に映っているのは、きっと私じゃないんだろう。
私じゃなくて、ゲームの女の子。
笑っちゃえるのは、お兄ちゃんは『妹だ』なんていう『見知らぬ』私より、吹雪ちゃんに対する方が気を許しているって事だ。
私よりその子の方が近い。血の繋がった妹より、画面の向こうの、ほんとならいないはずの女の子の方が、お兄ちゃんに近い。
だったら、もう、私……。
私、そっちの方が良い。
私もそんな目で見られたい。近くに感じて欲しい。ずっと私には向けてくれなくなったその目を、私にも向けて欲しい。
だから……私。
何度か深呼吸をする。
今からしようとしてる事は、最低の行為だ。
お兄ちゃんを……家族に嘘を吐く、酷い行い。
だけど私は、もう、私に取れる手段はそのくらいしか思いつかなくて。
「司令官……」
しれいかん。吹雪ちゃんが、言ってた言葉。おやつやご飯をここに持ってくる時、何度か聞いた呼びかけ。
これであってるかは不安だった。間違っていたらどうしようって、心臓が爆発しそうなくらいどきどきしていた。でももう口にしてしまったから、はきはきと喋るのを意識して、しっかりやるしかない。
「吹雪、来ちゃいました」
どこかで見たのを真似して、敬礼をする。呆然としているお兄ちゃんは、それでも
嬉しくて嬉しくて笑ってしまう。
……笑うしかないよ、こんなの。
……もう、やだ。
TIPS
・
桜ヶ丘中学の一年生。身長は146㎝。
外見は吹雪に酷似している。
青がかった翠玉のような
物覚えが非常に良く、運動神経も抜群。それ以外は普通の女の子。
保健委員。
・手塚
手芸部。占い研究会。
ユキの友達。海に興味を持っている。
暗い雰囲気に反して、スタイリッシュにきびきび動く。
わりと運動が得意で、物怖じしない性格。
編んだ髪を纏めるリボンの名前は『えびるうぃっぷ』。
・佐分テツ。身長は180㎝、23歳。
社会人三年生。高校卒業後に就職、三年で辞職し、一人暮らしを続けている。
遺産等で金に苦労はしないが、出会いがない。
黒髪茶目の典型的な日本人。
顔立ちは悪くない。むしろ良い方だが、モテた事はない。
料理は不得手。