――今夜、私は女になる。
私は吹雪。私は、司令官の事が大好きな吹雪。結婚したいと願っている吹雪。
だからこれは、私が心の奥底から望んでいた事。
私の部屋じゃないベッドの上で、電灯を隠すように私に覆いかぶさるお兄ちゃんを見上げて、胸の内で繰り返し呟いた。
◆
覚悟を決めよう。自分を捨て、兄のために……『吹雪』になる覚悟。
◆
結婚式があった。
誰の、と聞かれれば、『吹雪とその司令官の』としか答えられない。
そしてそれは、そのまま私とお兄ちゃんの結婚式になる。
嬉しかった。
兄妹での結婚……私はそれに何もおかしさを感じなかった。
挙式は正式なものではなかったけど、立派な教会に、本格的な内装に、牧師さんに、それからメイクリストさん達。運ばれてきたウェディングドレスを見た時は状況も忘れて見入ってしまった。それを着せられると、子供の頃の夢が叶った気がしてどうしようもないくらい嬉しくなった。
私、幸せになるんだ。
お兄ちゃんも言ってくれた。幸せにするって、私にキスしてくれた。
私も応えなきゃ。私もお兄ちゃんを幸せにしてあげなきゃ。
甘い痺れを残す唇に触れると、そこから暖かいものが体の中に広がっていく。充実感。忙しなく動くメイクリストさん達が椅子に座る私に筆や櫛を走らせて、私はぼうっとした目で前にある鏡を見つめていた。
兄妹という関係ではなく、異性としての関係で良いのか。
式を挙げる前、朝姫ちゃんと、真夕美ちゃんと、綾華ちゃんがそう問いかけてきた。
さすがに駄目な事だって、これ以上やらせる訳にはいかないって、三人とも怒ってた。
私は……私も、嫌だった。
消えたくなかった。死にたくなかった。
十三年付き合ってきたユキという女の子は、私がお兄ちゃんの……司令官の愛を受け止めれば、跡形もなく消えてしまうだろう。友達が覚えていてくれるなら完全に死んだ事にはならないだなんて、なんの慰めにもならない。
でも、もう遅いのだ。
私はもう、司令官の告白を受けてしまった。頷いてしまった。
桜吹雪の降り注ぐあの公園のベンチで、何度も何度も口づけを交わした。
体中熱くて、蕩けそうで、頭の中まで熱でいっぱいになって。
幸せを感じた。
これがそうなんだって思うと、涙があふれて止まらなかった。
だからさよならをした。
お兄ちゃんに別れを告げて、ユキという女の子にも別れを告げて。
きっとまだ私はユキに縋る。何かあれば、戻ろうとする。
……戻れない。何度も言った。後戻りはできないって、自分に言い聞かせた。
今さら私が何を言おうと、お兄ちゃんの愛は止まらないだろう。私だって、その愛を逃がしたくない。
やっと掴んだ幸せが目の前にある。愛を注いでくれる人がいる。
私、このままがいい。このまま進みたい。何があったって構わないから、幸せにさせて。
三人は私の言葉を聞くと諦めたように肩を竦めて、それから一転して乗り気になった朝姫ちゃんが教会を手配してくれた。本物の牧師さんを呼んでくれた。メイクリストさん達を雇ってくれた。
さすがに関係者だとか親しい人を呼ぶ訳にもいかないから、教会の中は静かで広々としていて、人の気配を感じさせなかった。
バージンロードと呼ばれる真っ白な道をお兄ちゃんと腕を絡めて歩いた。
この道は、お父さんや保護者の人と歩く道。だからお兄ちゃんと一緒に歩くのは正しい。
だから私は馬鹿なのだ。
なんでそんな事をしたのか自分でもわからなかった。
わざわざ兄妹だった事を思い出させるような動きをしてしまったのは……祭壇に辿り着くまでは、兄妹でいたかったからなのかもしれない。
ああ、やだ。
いやだ。
私、なくなりたくなんかない。
ユキのままお兄ちゃんと一緒にいたかった。兄妹として暮らしたかった。
自分でそうできなくした。『選んだ』結果、こうなった。
だから後悔しちゃいけない。これからを生きなきゃいけない。
胸を締め付ける切なさも不安も恐怖も、お兄ちゃんが晴らしてくれるだろう。きっと幸せにしてくれるだろう。私はこの体を
死神のような真っ黒な人がお兄ちゃんの傍に立っているのに気付いたのは、私が自分を騙して納得させた後だった。
その人は学校の先生だった。保健の先生。三原
お兄ちゃんの告白を受けた公園にも現れた先生は、あの時と違って無機質な瞳で私を見下ろしていた。何重のヴェール越しに見える紅い瞳から読み取れるものは何もない。でもなぜか私は不吉なものを感じて、お兄ちゃんの腕を引いて祭壇へ急いだ。……急いでしまった。
本当はもっとゆっくり歩いて気持ちの整理をつけるはずだったのに、なんて後悔したのは一瞬で、あっという間に私はお兄ちゃんと向き合えて、吹雪になれた。
指輪の交換はスムーズに、押し黙ったお兄ちゃんは格好良くて、私の手をそっと包む両手は暖かかった。
銀のリングに大粒のダイヤ。
渡された結婚指輪は、愛の証。お兄ちゃんに愛されてると実感できる。
だから肌身離さず持っている。学校では、首から下げている。
それが改めて渡され、左手の薬指に通されると、もう、最期。
ヴェールを捲られて素顔を晒す。両肩に手を置かれて、近付いてきたお兄ちゃんの顔をまぶたの裏に残すみたいに目を閉じた。
幸せにおちてゆく。
ユキは溶けて消え、今の私に遺ったのは吹雪だけだった。
だから、私が目を開いた時、目の前にいるのは司令官で、私は熱に浮かされるみたいに頬を朱に染めて、恋心を持て余した。
◆
捨てなきゃいけないのに。
もうなくなったはずなのに。
一秒の中のほんの一瞬、私を育ててくれたお父さんとお母さんの笑顔がまぶたの裏側に浮かんだ。
私に両親はいない。私は兵器。深海棲艦と戦うために生まれた艦娘。
ユキなんて子は知らない。私は吹雪。私は吹雪。私は吹雪……。
司令官に夜のお誘いをした。
たくさん本を読んだから、どういう風に言えば良いのかくらいはわかっていたけど、恥ずかしくてたまらなかった。
でもきっとそれが私の過去を忘れさせてくれるだろうって確信していたから、司令官に私の全部をあげようって思って。
怖かった。
そんな経験はないから怖くて怖くて、でも、司令官が私の緊張も恐怖も解きほぐして、なくしてくれた。
布団の上で裸になって体をくっつけ合うと、お互いの熱が伝わりあって気持ち良かった。それだけでも誘った甲斐があったと思えた。
男の人と触れ合うのも初めてなら、こういう行為をするのも初めてだ。
何をして良いかわからないし、何を求められているのかもわからなかった。高熱が出ているみたいにうまく言葉を喋れなくて、際限なく燃え上がるお腹の中の炎は胸の中の熱と合わさって、吐く息まですっごく熱い。
私の体を見て司令官が興奮しているのがわかる。いつもと違った眼差しが胸や下の方へ注がれて、それよりも多く私の目を覗き込んできていた。
気が逸った司令官に抱きかかえるようにして布団に押し倒された。消えていたはずの恐怖が鎌首をもたげる。本気で抵抗しようとした体を強張らせて食い止めていれば、閉じていた足の間に司令官が入り込んできて、それから……。
あ。
あ、あ。
やだ。
やだ、やだ、やだ!
やだ、私、こんなの……お兄ちゃん、気付いてお兄ちゃん! ユキだよ、私は……ユキ、だよ……。
「す、すまん。大丈夫か」
ギシリとベッドが鳴る。
重く
否応なしに感じさせる肉体的な繫がり。
これで……やっと家族に戻れる。
流れ込む情愛に痺れる頭の中で、ぽつりと、呟いた。
シーツに沈むほど強く押し付けられた手。絡めた指。擦り合う手の平の熱。
好き。大好き。愛してる。
熱い気持ちがじわじわと体の中に染み込んでゆく。
粘着質な音が響くたび、勝手にびくりと体が跳ねて動いてしまうたびに、まなじりから涙が零れ落ちた。
「やっと、やっと、やっと私、家族に……」
弾む息の中に混ざった声は、司令官に肯定された。
「ああ。俺と君はもう家族だよ。夫婦、なんだ」
夫婦。
兄妹じゃなくて、夫婦。
うれしい……。
何度も何度も司令官は私を求めてくれた。
私、必要とされてる。愛されてる。それが嬉しくて、幸せで。
これ以上何をしたら、もっと幸せになれるんだろう。
どうすれば全部幸せに塗り潰せるんだろう。
きつく抱きしめられながら、遠退く意識の中でうすぼんやりと思った。
◆
春休みが終わった。
桜の花びらは全て散り、人々の心に一抹の寂しさを残した。
夏が訪れようとしている。
青々と晴れ渡った空は高く、真っ白な雲が固まって流れている。
結婚式から一月が経って、私の妊娠が発覚した。
悪い事じゃない。とても良い事だ。
司令官も喜んでくれた。
この子の名前を考えなくちゃ。
それは司令官と相談した方が良いだろうけど、私の方でも幾つか候補を考えておけばスムーズにいくだろう。ああでも、何も考えてない段階から二人で頭を悩ませて決めるっていうのも捨て難い。
そんな感じで幸せ気分を満喫して、放課後。
三人を呼び留めて、人がいなくなってから妊娠したと告げると、みんな愕然として、それからわちゃわちゃと話し合って……なぜか私の周りを固めて下校する事になった。
私の体に何かあったら危ないって事だけど、でも、ここら辺に何か危ないものがある訳でもないのに。
「危険とは常に潜んでいるものなんだよ」とは朝姫ちゃんの談で、「今日は危険だ。私の勘は当たる」とは真夕美ちゃんの言った事で、「とにかく心配だ」とは綾華ちゃんの言葉。
そんな訳で、四人での下校となったのでした。
◆
「……止まって」
まだ日は斜めの空にあって、天はどこまでも青々と広がっている。薄い雲が流れていくのを見上げていれば、朝姫ちゃんがストップをかけてきた。鞄の持ち手を握り直しつつ、少し体を傾けて彼女の頭越しに道路の先を見れば、三原先生が立っているのが見えた。
だというのに私を囲む三人は警戒しているみたいに体を強張らせていた。それはきっと先生が普段見慣れない格好をしているからだと思う。
低いヒールの黒い靴。薄布が何枚も何十枚も重なってできたかのような真っ黒のドレス。細い腰を際立たせる、布と一体になったリボンは背中側で大きな蝶結びになっていて、指先からは薄手の黒手袋に覆われている。縛られてなく、風に揺れるまま流されている黒髪に、頭頂部に黒曜石か何かのティアラがちょこんと乗っている。
右手に持つ1.6mはありそうな杖もまた見慣れないもので、錫杖みたいな棒の上の方……先っぽは支えるものもないのに丸く黒い宝石が浮かんでいて、三つの牙みたいなのが宝石を囲んでいた。
その先端の周囲を×字を描くように二つの小さな光が回転し、交差し続けていた。先生の目の赤さより、格好より、肌の白さより、それが一番不思議だった。
「どこから現れた?」
綾華ちゃんが低い声で言う。問いかけるような声音だけど、先生に向けたものではなさそうだった。
カツン。先生が一歩踏み出せば、道路に足音が響き渡った。それでいやに周囲が静かな事に気付いた。
音に反応した三人が私の前に並び、先生に敵意を向ける。
右に立つ真夕美ちゃんが左手を突き出し、それを引くと同時に右手を突き出して構えた。
真ん中の朝姫ちゃんが前へ突き出した両手を交差させ、上下を入れ替えてすぐ両側へ広げ、空手みたいな構えをとった。
左に立つ綾華ちゃんも左手を突き出して、それを引くと同時に右手を突き出して……いつものふわふわした動きからは予測できない速さで手の平を返して、胸元に寄せて構えた。
「ど、どうしたの? みんな……」
「吹雪は下がってて!」
「見るからに怪しい奴だ」
「用があるみたいだが……聞く気はあるか?」
「ないね」
「ない」
おかしい。
どうしてみんな先生を警戒しているのだろう。
確かに先生の格好は変だし、よくわからない杖も持ってるけど……みんな知ってる人のはずなのに。
その答えを知る前に変化が訪れた。先生が杖を持ち上げ、緩やかに振ったのだ。まるで「魔法をかけますよ」と言っているように見えて不思議な感覚だった。
三人が左右に退いた。理由はわからない。先生から目が離せなくて、みんなの顔を確認する事もできなかった。カツカツと靴を鳴らして私の前に来た先生が、紅い瞳で私を見下ろす。威圧感や圧迫感などはなかったけど、いつもの先生と雰囲気が全然違うから緊張した。
「約束だ」
ふいに先生が言った。
耳元で話されたみたいに聞こえた声は、たしかに目の前の先生のもので……でも、約束って、なに……?
「君が約束を果たす時が来た」
「や、約束……?」
先生の目が細められた。どこか憐れむような、哀しそうな目。
「君は祈ったね。なんだってするから、と。
だから私は君に手を差し伸べた。君に選択肢を与えた。
私としては、君にはこの薄汚れた手を払いのけて、自らの道を歩んでもらいたかったのだけど……君は吹雪になる事を選んだ。
その結果、この世界に深海棲艦が誕生した。……最初の艦娘である
そもそもどの世界でも、かつて大きな戦いがあり、多くの人と船が沈んだなら、艦娘達の生まれる余地はあるのだ。きっかけさえあれば……だがね。
さあ、吹雪。準備は良いかと問いたいけど、時間はあげられない。君は今すぐに戦わなければならない。今始まろうとしている戦争が終わる、その時まで」
意味がわからなかった。
だけど、先生の言った通り時間なんかなくて、先生が杖で地面を突くと、私達を闇のようなモヤが覆い尽くして……。
反射的に閉じてしまった目を開けば、そこは海の上だった。
海の上。水平線。
だけどすぐに私達を囲むように白い壁が現れて、のっそりと近付いてきていた。
足下にもそれが漂ってくる。……違う、壁じゃない。あの白いのは、きっと、霧……。
私の隣に立った先生を見上げると、海の向こうを見ろと目で促された。
だから霧に隠された水平線を見やれば、二つの人影があるのを見つけてしまった。
右側には座り込んで両手で顔を覆う女の子。小刻みに体が震えて、嗚咽の声がここまで届いてきている。
左側に立つのは足の短い女の子。革製の黒い服を着て、胸をはだけて黒いビキニを露わにしている。首に巻いたアフガンストールみたいなマフラーに、青白い肌……それから腰から伸びる怪物の尻尾。知ってる……あれは、戦艦レ級。艦娘の敵、深海棲艦。
「選択肢をあげよう。一縷の望みにかけ、自分のために今すぐ戦いを終わらせるか、それともいつ終わるかもわからない戦いに身を投じ、永劫戦い続けるか」
二つの選択肢が突き付けられた。
言い聞かせるような先生の声に体の震えを自覚する。
何がなんだかわからない。けど、先生の言葉の意味は不思議と頭の中に入ってくる。
「これは貴女が今すぐに決めなければならない事だ。第三者からの投票で決定されるなんて事はない」
ぐるぐるぐるぐる、頭の中が渦を巻く。
なぜ私が海の上に立てているのか。
なぜあの子達が海の上にいるのか。
なぜ私はこの場に立っているのか……。
「忘れないで。これは貴女が吹雪になる事を選んだ結果。代価が望まれている」
尽きない疑問に、答えはもう示されてる。
戦わなきゃいけないんだ、私……私が、吹雪になる事を選んだから。
だから……!
「さあ、答えを」
わ、たし……。
私は……。
TIPS
・『第三者からの投票で決定されるなんて事はない』
電話番号を用意できなかったのでアンケートの実施は見送りに。