俺たち孫呉は袁紹が放った董卓討伐の檄に対して行動を開始した。
使者は丁重に扱い、返事を認めた文を預けて帰って頂いている。
内容は幼き帝をお救いする為に参じるというものだ。
ここで大切なのは『参じるのが袁紹の側である』と明言していない事。
屁理屈ではあるがいざという時に糾弾を避ける工作はどのような小さな事でもやっておいて損はない、とは冥琳嬢と美命の言葉だ。
「西平から返事は来たの?」
「我々に賛同してくれるそうだ。その証として娘と甥っ子を先にこちらに寄越すと」
計画の為の準備を急ぐ中、何度目かの会議での雪蓮嬢と冥琳嬢のやり取りに俺たちは安堵の息を付いた。
大多数が袁紹に付く中で、数少ない味方として気心の知れた軍勢が来るというのは非常にありがたい事だ。
しかもあちらは『決して裏切らない』事の証明として人質代わりに血縁者を躊躇いなくこちらに送り込んでくれた。
流石殴り合いで絆を深める涼州の猛者集団と言えるだろう。
うちも余所の事を言えないが。
それはともかくとして彼女らがこちらについて裏切る事など疑っていなかったが、馬騰たちは信頼していいという認識を俺たちは改めて共有する事が出来た。
さらにありがたい事に。
馬騰たちは俺たちに協力する返答をするのと平行して洛陽に使者を送り、董卓側と交渉を進めてくれていた。
俺たち建業軍に対しては相変わらず懐疑的なようだが、長年の友祖を結んでいる馬家の顔を立てる形で彼らは俺たちを洛陽側に招き入れることを認めている。
馬家への義理立ては勿論あっただろう。
しかし重い腰を上げた最も大きな要因は、味方があまりにも少ない事だろう。
現在、分かっている範囲でも名だたる領主たちは概ね袁紹に付いている事が分かっているのだ。
公孫賛、袁術、劉備、劉表、陶謙(とうけん)、孔融(こうゆう)、鮑信(ほうしん)、劉岱(りゅうたい)など。
そして反董卓連合で最も危険な存在である曹操。
名だたる勢力が袁紹側となれば、四の五の言ってもいられない。
董卓の思惑としては『信用できなくとも使えるものは使うしかない』と言ったところか。
こちらの計画を遂行するための最初の取っかかりは得られたので、ひとまずはそれくらいの認識で良いだろう。
董卓たちに胸襟を開くほど、こちらも信用しているわけではないのだから。
お互いを信用できるようになるには時間が必要だ。
さてどうにか洛陽入りの算段は付いた。
今度は誰があちらに赴くかを決めなければならない。
激戦になる事は確定的だ
無傷で事を済ませられるとは思っていないが、目的を達成し且つ可能な限り被害を少なく出来る人選をしなければならない。
これについては雪蓮嬢と冥琳嬢の方で選抜済みで、今回の会議はその発表の場でもあった。
もちろん人選に問題があると感じれば意見するつもりだ。
「まず私ね。孫家の主たる私が行かなきゃ始まらないわ。それくらいしなければ董卓の信用なんて得られないだろうし、帝へのお目通りなんてもっと無理よ」
「私も筆頭軍師として同行いたします」
まず雪蓮嬢、冥琳嬢が向かう事は確定か。
「蓮華、小蓮は残ってちょうだい。蓮華はこのまま曲阿を、小蓮には建業を預けるわ。小蓮はわからない事があったら母さんたちに聞きなさい」
孫家直系の二人を残した理由。
それはもしも雪蓮嬢が戦死した場合の後継を残す事。
暗黙の了解なのだろうその配置に反論する者はいなかった。
蓮華嬢は雪蓮嬢を物言いたげに見つめていたが、自分の中で納得したのか口を開くことはなかった。
「私たちと同行するのは……駆狼、祭、慎、激、塁」
孫呉の四天王、孫呉の懐刀。
そんな風に言われ、武官の顔と言っても過言ではない俺たちをすべて動員するという決断。
それは勝利する為の采配であるが、深冬や老先生、陽菜たちを建業と曲阿に残す事で俺たちに何かあっても後の事を任せられる采配でもあった。
「「「「「御意っ!」」」」」
俺たちに反対意見はなかった。
「思春と明命にも裏方としていろいろ動いてもらう。お前たちの仕事は多岐に渡る。苦労もかけるだろうが、やり遂げてみせろ」
「「はっ!」」
若い二人の透き通る声は気合いに満ちていた。
「あちらに行かない者たちは建業、曲阿の治安に全力を尽くしてもらうわ。詳細な配置は後で冥琳から聞いてちょうだい」
「主戦力が領地を離れた隙を狙う者どもに対処する為、戦力の配置換えをいたします。竹簡に書き記しましたので後ほどお渡しします」
冥琳嬢の隣に積まれた竹簡は、人員配置について記載した物だったようだ。
「我々の計略が為されるまでの間、少なくとも二度、いえ三度は戦わなければなりません」
いよいよ最も重要なあちらでの行動に話が及ぶ。
「一度は董卓側の信を得る為の戦。二度目は袁紹側の勢いを徹底的に削ぎ落とし足止めする為の戦となるでしょう」
どれほど言葉を重ねても、誠意を見せ合っても、勢力同士の信頼関係を結ぶには時間が掛かる。
袁紹たちが動き出すまでという時間制限がある中で、何の憂いもなく背中を預け合う関係になる事は残念ながら不可能だ。
故にあえてこちらから背中を晒す。
こちらは必要ならば信用出来ないお前たちにも無防備になれるぞ、という気概を示す。
貴様らが寝首をかかんとしたところで恐るるに足りんのだ、と傲慢とも言える意志を示す。
さらに追い打ちとして貴様らにはこんな事は出来ないだろう、と挑発する意志を示す。
俺が生きた時代では、このような挑発は受け流されてしまうかもしれない。
しかし今の時代ならば、見栄や度胸、誇りが大切にされる今の世ならば。
ここまでされて尚、発憤しない者はいない。
「逆にこれだけ虚仮にされても動かないのなら、西平の方々には申し訳ありませんが、董卓はとんだ腰抜けだと言う事になります。董卓自身が動かなかったとしても、主に忠誠を捧げる配下が我々の行動を果たして看過出来るとは思えません」
そんな事を言いながら笑う冥琳嬢の顔はおとぎ話の魔女か、男を堕落させる悪女か。
まぁうちの筆頭軍師なので、頼もしいと思いはすれども怖じ気づく道理はない。
嫁の貰い手がなくなりそうだな、などと失礼な事を考えてしまったのは絶対に言えないな。
「この戦いでは袁紹側の勢いは残しておかねばなりません。あちらの足を止めさせなければなりませんが戦力の差からして、苦労する事は目に見えております。難しい事ですが、どこまで撃退し、どこで引くのかその境界を見極めねばなりません」
ただ勝つだけでは駄目、ただ負けるだけでも駄目。
普段の賊討伐では決して気にしない事柄を意識して戦場を動かなければならない。
「二度目の戦いは、帝が袁紹を糾弾する準備を整えるまで時間を稼ぐ為にひたすら耐え忍ぶ戦いとなるでしょう。あの手この手でこちらを抜こうとする敵軍のすべての計略をその時が来るまで受け止め、あるいはいなし続けなければなりません」
いつ終わるともしれない根比べ。
味方の神経はすり減り、下手をすれば内部分裂も起こりうる。
敵はもちろんだが、今までよりも自軍を御する事を強いられる難しい戦いだ。
「最後の三度目はどのような戦になるんじゃ? 冥琳……」
俺たちを代表して質問する祭の問いかけに、冥琳嬢は切れ長の瞳を一層鋭くして告げる。
「三度目。それは敵を食いちぎり、戦う意志を根こそぎ奪い、帝が全ての者に声が届くように、つまり糾弾する為の場を整える戦です」
耐えて耐えて耐え抜いて、その上で敵を叩き潰す。
口にするのは容易い。
だが間違いなく過去最高の厳しい戦いになるだろう。
誰のともしれない唾を飲み込む音が静まり返った会議室に響く。
「厳しい戦いになるわ。どれだけ策を練っても、戦場がどう動くかはやってみないとわからないもの」
「我らの中には故郷の地を踏む事が出来ない者も出るでしょう。それは将とて例外ではありません」
死。
かつて味わった何もかもが消えていく感覚を俺は二人の言葉で思い出していた。
「それでも私たちは行く。孫呉の安寧のために。貴方たちにはその為に命を賭けてもらうわ。でも安心して、私も命を賭け、戦場を共に行く。それが配下である貴方たちに出来る私なりの誠意よ」
淡々と、しかしどこか熱く語る雪蓮嬢の熱が、死の恐怖を吹き飛ばし室内を熱意で満たしていく。
「命は賭けても安売りする必要はないわ。袁紹たち如きに軽々しくくれてやる命なんて一兵卒にだって無いもの」
「我らは事を為してこの後の世も生きる為に戦いましょう。迫る死など撥ね除け薙ぎ払ってしまえばいいのです」
雪蓮嬢は腰に佩いていた剣をゆっくり抜き、眼前にかざす。
「この劣勢甚だしき戦(いくさ)。勝って我らの名を大陸中に轟かせる!!」
君主に応える俺たちの雄叫びが会議室はおろか城中に響き渡った。
時を前後して陳留では。
その手に握られた竹簡の内容を咀嚼するように何度も読み直す少女が居た。
「華琳様……」
玉座の間に集う家臣を代表して声をかける夏侯惇。
その声に、主たる少女は瞑目したまま応える。
「愚かだ愚かだと思ってはいたけど、ここまでとはね」
高飛車女の高笑いが彼女の脳裏に浮かぶ。
「浅はかも極まっているけれど、だからこそ厄介。十常侍が消えた事で、麗羽(れいは)は何もかもを思い通りに出来る立場を得たのだから」
袁紹という人物と曹操は幼い頃からの腐れ縁である。
本人はノリと勢いで物事を進める阿呆であり、それは今も大して変わらない。
しかしこれに袁家の力が噛み合うと、何もかもを意のままに動かしてしまうというろくでもない相乗効果を発揮するのだ。
曹操自身、それとなく彼女を先導して美味しいところを掻っ攫った事もある。
割を食っても翌日にはけろっとして気にしない性質はある意味での大器と言えるかもしれない。
「本人が機を見ているわけでもないというのに、最上の時機を狙い澄ましたように突く。今回もそうね。意図せず董卓に手柄を横取りされた時は愉快だったけど、巡り巡ってこうなるとは。これだから麗羽は……」
十常侍がいない、自分の頭を抑えられる者が誰もいない。
己の八つ当たりを正当な物として押し通せる環境が整ってしまっている。
「董卓には同情するわ。勢いに乗ったあの馬鹿は止まる事の無い暴れ馬。偶然とはいえ、それに目を付けられてしまった以上、自分の気が済むまで追いかけ回され、追いつかれれば踏み潰されるだけ」
ここまで事が進んだ状況では袁紹は、降伏以外は会話にもならないと彼女は断言する。
理不尽にも程がある。
「どうなさいますか?」
静かな問いかけは夏侯淵からのものだ。
「袁紹の暴走により、黄巾の乱で明らかになっていた王朝の衰退はより明確になった」
彼女の中で漢王朝はもはや風前の灯火であり、自らの覇道の礎となる踏み台でしかなかった。
故に董卓側に付こうなどと彼女は考えない。
「己が認めた貴族の筆頭の好き勝手を許してしまう哀れな帝をお救いするのも一興ね」
しかし、帝については今後のためにも自分たちが丁重にお救いせねばなるまいとも考えていた。
「董卓の配下にはあの呂布もいるとの事ですが……」
懸念の一つをあげる臣の言葉に彼女は口の端を釣り上げる。
「使えるようなら首輪でも付けて持って帰るわ。ただ強いだけの獣だったなら首を刎ねるだけよ」
「承知しました」
油断も慢心もない、気高い自信を持って呂布などどうとでもなると断言した。
呂布の武勇など、所詮は長江に浮かぶ小舟でしかない。
大きな流れを変える事などとうてい敵わず、ただただ翻弄されるだけなのだと。
「これより我が覇道が始まる。立ち塞がる者はすべて蹴散らし、平伏させて進むと心せよ。……ついてきなさい」
静かな言葉への答えは綺麗に揃った肯定の言葉であった。
黄巾党討伐時、学友だった公孫賛の元で一定の成果を上げた劉備。
彼女らはその功績を認められ、公孫賛と一時期行動を共にしていた曹操の推挙により平原の相に任命されていた。
今は諸葛亮孔明(しょかつりょう・こうめい)、鳳統士元(ほうとう・しげん)という頭脳となりうる人材を仲間に加え、平原の治安維持に勤めている。
身一つで立ち上がった義勇軍だった頃からすれば破格の躍進と言えるだろう。
しかし劉備の頭の片隅には黄巾の乱の際に出会った人物との会話が棘のように刺さったままであった。
「……」
政務を終えた劉備は景観の良い中庭で、一人で勉学に励んでいる。
彼女は相に任命されてから、一日に一度必ず一人になる時間を作っていた。
公孫賛の元で黄巾党討伐に励んでいた頃は、ただただ必死で落ち着いて考える時間など取れなかったが今は違う。
勉学の時間というのも半ば一人になるための方便でしかない。
頭に浮かぶのは『刀功』と名乗った三十路は越えているだろう男性。
隙の無い佇まいで隊を率いる彼から投げかけられた容赦の無い現実を突きつける言葉の数々。
「(あの時、私は協力し合えば戦いが楽になるって本気で思ってた……)」
彼女の言葉への回答は協力拒否。
それも自分たちは足手纏いだと、その理由まで丁寧に提示されてしまった。
ぐうの音も出ないほどの正論で打ち負かされた記憶。
「(私、仲間と一緒に戦うって言ったのに。仲間たちの上に立つって事を何も分かってなかった)」
彼女は『刀功』の言葉について考えるうちに自分の中にとても許容出来ない考えがある事に気付いてしまった。
「(愛紗ちゃん、鈴々ちゃん、仲間になってくれた義勇軍の人たち。すべての人が苦境に立たされた時、私は義妹たちを優先しちゃう。もし愛紗ちゃんたちより義勇軍の人たちの方が危なくても……)」
劉備は身内への情が人一倍強い。
しかしそれは身内とそれ以外とで無意識に優先度を付けているという事でもあった。
「(兵士の人たちが亡くなったら悲しい。だけど……愛紗ちゃんたちが亡くなった時ほどじゃない)」
この大陸を平和にしたい、全ての人が平和に暮らせる場所を作りたいと願い立ち上がった劉備にとって、この思考はとてもではないが許せるものではなかった。
義勇軍を立ち上げる時の必死の呼びかけで集まってくれた百名の民。
劉備は彼らを自分たちの盾としてしか考えていなかったのだと、そんな風に考えてしまっていた。
実際、黄巾の乱が終結した頃には彼らのうち半数は亡くなっているのだ。
劉備は彼らの名前すら知らない自分が、彼らの命を糧にして生きている自分が、酷く醜い存在のように思えていた。
これは大なり小なり誰の心にあるはずのものであり、戦場に立って誰かに命じる立場ならば誰もが経験している事である。
しかし彼女は誰かと自分とを比較する事が出来ず、自分の中のものだけを見つめていた。
「どうすればいいの?」
平和な世を作りたい少女は、その思想に共感してくれた仲間に自らの醜さを見せる事に怯えていた。
故にその苦悩を誰にも相談できずにいる。
彼女はこの苦悩を抱えたまま、反董卓連合へ参加する事になる。
そしてそこで『刀功』と名乗った人物が何者であるかを知る。