乱世を駆ける男   作:黄粋

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第九十七話 月下の再会

 反董卓連合への対応と平行して、俺は桂花との接触の機会を窺っていた。

 軍議で一緒になることが多い賈駆に霊帝の崩御の後、献帝と名乗った帝のお子とその周囲についてそれとなく聞いてみたが、どうやら董卓の側近である彼女ですらも謁見する機会は早々ないようだ。

 

 献帝自身が宮の奥に篭もっており、政の全権を董卓に委譲してからは特にそうだと言う。

 月に一度だけ董卓を呼びつける事があるらしいが、同行者は許されておらず。

 謁見の内容を当事者以外が知る事を許さないと取り決められているという話だ。

 

 当然、教育係として都入りを果たし、現在は教育係をしていたお子が帝となった為にそのまま傍仕えをしている桂花の事もわからない。

 徹底した情報規制と接触の制限は、おそらく帝の身を守るための物なのだろう。

 

 董卓に全権を委任しているのはまだ幼い献帝が政治に関わるのは荷が重いと判断されたのか。

 あるいは何者かによる意思、それこそ霊帝が崩御した際にかの人物が何か言い含めていた可能性もある。

 

 最後にもらった手紙で、あの子は自分の事を『死んだものとしてお考えください』と綴っていた。

 それほどの覚悟が必要だった十常侍の影響化にあった宮中の様子など想像も出来ない。

 

 俺は反董卓連合への対応を見据えながら、水面下で桂花の様子を探り続けた。

 

 それは別に俺だけに限った話ではなく。

 祭たちはもちろん、雪蓮嬢や冥琳嬢もまた徹底的に隠された宮中の奥の様子を探っていた。

 思春や明命も探ってくれているが、あの子たちには反董卓連合の内偵もしてもらっている。

 そちらを優先しなければならない状況、宮中については流石の警備の厳重さもあってどうしても二の足を踏んでいるのが現状だ。

 

 対反董卓連合の準備を整える為に東奔西走することかれこれ三ヶ月ほど。

 しかし明確にこれだという情報を、俺たちは誰一人として未だ見つけられていなかった

 

 

 その日、いよいよ動きだし始めた反董卓連合に対して、こちらも本格的に軍を動かす事になった。

 

 第一陣の選抜が終わり、数日後には出兵。

 俺たち孫呉の四天王が指揮する建業軍、翠を主体とした西平軍、張遼率いる洛陽軍。

 洛陽軍の張遼を総指揮官に置いた混成軍となる。

 

 反董卓連合が洛陽へ攻め入るに当たって攻略しなければならない要所は二箇所。

 汜水関(しすいかん)、そして虎牢関(ころうかん)だ。

 

 この二つの関所は、歴史上だと同じ場所の事を指していると言われている。

 二つの関所となったのは三国志演義の創作らしい。

 しかしこの世界では反董卓連合を阻むように立地される洛陽東方を守る二つの砦。

 大軍で洛陽に向かうならば汜水関、虎牢関の順での攻略が必要であり、避けては通れない場所だ。

 

 この戦に勝利する為の一手として、まずこの汜水関でなるべく長い時間、敵軍の足止めを行う。

 奴らには『最終的に虎牢関まで来てもらう必要がある』ので、ここで求められるのは勝ちすぎず負けすぎない事。

 相手が攻める気概を失う事なく、さりとて容易く関を抜かれてはならない。

 

 呆れるほどに物量に差がある反董卓連合相手にこれを行わなければならない。

 字面だけみればなんとも無謀な事だが、これでもただでさえ薄い勝ちの目が高い方なのだから、改めて董卓を取り巻く状況の悪さが理解できるというものだろう。

 無茶無謀を押し切ってやり遂げてみせなければ、この戦いで俺たちが求めている結末は訪れないのだ。

 

 

 俺は出兵が決まった事で昂ぶった心を静める為、夜更けに訓練場で一人鍛錬を行っていた。

 いつも通り頭に思い浮かべた仮想敵を相手に拳を、蹴りを、棍を振るう。

 

 思い浮かぶ限り、予想出来る限りあらゆる状況を想定して。

 集中し過ぎた俺は、月が真上に昇る頃にようやく身体の疲れを自覚して動きを止めた。

 同時に訓練場の外からこちらを見つめる者がいる事にも気付いた。

 

「……何か御用でしょうか」

 

 月明かりから隠れた物陰に視線を向けずに声をかける。

 洛陽は目上の人物の城なので、誰がいるかわからない。

 故に身内のみの場以外は敬語を心がけていた。

 

「……」

 

 しかし俺を見ていた誰かは沈黙したまま話さない。

 この洛陽へ不当に侵入した者の可能性を考えるが、それなら鍛錬に夢中になっていた愚か者の事など捨て置いてこの場を離れるはず。

 

「……」

 

 お互いに沈黙する事しばらく。

 虫の声すら聞こえない真夜中で、僅かに聞こえるのはお互いの小さな吐息のみ。

 やがて観念したのか、それとも覚悟を決めたのか物陰の者は、ゆっくりと俺に見える位置に姿を現した。

 

 出てきたのは蓮華嬢と同じくらいの背丈の女性だった。

 薄めの亜麻色の髪、肌を極力晒さない薄い青色を主体とした服に濃い緑色のぱっちりとした瞳が印象的だ。

 

 俺は成長したこの子の姿を見れた事を喜ぶ気持ちが溢れ、万感の思いを込めて彼女の名を呼ぶ。

 

「桂花……」

 

 俺が名を呼ぶと、あちらはひどく動揺したように瞳を揺れ動かし、口を開いては閉じるという行為を数回繰り返す。

 声をかける事を躊躇い、名を呼ぶことを躊躇っている。

 俺は辛抱強く、彼女からの応答を待った。

 

「駆狼、様……」

 

 この子はずっと自分に向けられる悪意に耐えてきたのだろう。

 上擦り震えながら紡がれた言葉だけで、それが伝わる。

 信頼して許された真名一つ口に出す事にすらも、これだけ時間をかけて躊躇する。

 そんな環境にこの子はいたのだ。

 

「成長したな。お母上に似て綺麗になった」

「っ……」

 

 嗚咽を漏らさぬように唇を噛み締める桂花。

 それでも目元が湿り気を帯びていく事が止められない。

 泣く事すらも律し続けてきたのだ、この子は。

 

 俺はゆっくりと彼女に近付く。

 涙が零れそうになっている桂花をそっと胸に抱き寄せた。

 

「俺は今、ただの置物だ。誰も聞いていないのだから……お前は泣いていい」

 

 言い終わるよりも早く、桂花は俺の背中に手を回して胸に顔を押し付けた。

 触れる事でわかるこの子の身体の病的な細さに、俺は最大限の注意を払いながら抱き締める手に力を入れる。

 決して声を漏らさぬように、誰にも知られないように、けれど今までずっと我慢してきたものを吐き出すように。

 声ならぬ声を意図的に無視し、俺はただ桂花を労るように抱き締め、その小さな頭を撫で続けた。

 

「当主が死し、実質的な人質として宦官どもの元に行った娘の事など、過去の思い出ごと葬り去って欲しかった」

 

 目を腫らしながら桂花は言う。

 

「私のことなど手の届かぬところにいったものとして忘れて欲しかった」

 

 独白のように言葉が続く。

 

「貴方方が忘れてくれれば……私もまた桂花という人間を殺し、帝の教育係という名の人間として生きていく事が出来ると思いました」

 

 少女である事を捨てる決断。

 そこまでしなくてはならない環境など俺には想像もつかない。

 しかしそんな悲痛な覚悟の中に彼女はいたのだと、俺は天を仰いで助ける事が出来なかった悔しさに歯噛みした。

 

「私は霊帝のご子息を、陛下を悪意からお守りするため、八方手を尽くしました。決して口に出せぬような事もしてきました。……駆狼様たちが聞けば失望するような事もしてきたのです」

 

 聞いているだけで悲しくなる、身を切るような言葉。

 正しく懺悔のように語る桂花を抱き締める腕に少しだけ力が入った。

 

「貴方方の元にいた桂花はもういないのです」

 

 この子にそんな言葉を言わせた宮中に、俺は改めて強い怒りを覚えた。

 

「だから……だ、から……」

 

 その先は言わなくてもわかる。

 あの手紙の通りに、今繰り返して告げたように。

 自分の事を死んだものとして扱えと言うのだろう。

 

「言わなくてもいい。これ以上、お前に傷ついて欲しくない」

 

 より強くこの子を抱き締め、嗚咽交じりに紡ごうとした言葉の続きを封じる。

 

「俺はお前が大切なものを奪われていくのをただ見ている事しか出来ない自分が憎かった」

 

 母親を亡くし、思い出の詰まった家を焼かれ、上洛という人聞きの良い言葉で自由を奪われたこの子を俺は助けられなかった。

 助けたいと願っても、何も出来ない。

 孫呉の懐刀などと呼ばれても、大切な子を理不尽から救う力はないという事を思い知らされた。

 

「自分の言葉で自分を傷つけなくていい。俺は、俺たちは……決してお前を傷つけないから」

 

 隠れて様子を窺っている者たちにも届くように告げる。

 俺は牽制する為に周囲に視線を巡らせながら、桂花が落ち着くのを待った。

 名残惜しげに俺の身体から手を離し、向き合う彼女の目を見つめる。

 

「今はどうだ? 十常侍がいなくなってお前は少しでも楽になったのか?」

 

 宮中の情報など外部には漏らせば、お互いにただでは済まない。

 だから俺は桂花の近況のみを、抽象的に問いかけた。

 

「はい。私どもを取り巻く環境は改善されました。貴方様の変わらぬ優しさに感謝いたします」

 

 だが桂花の顔は暗いまま。

 今も尚、懸念事項があることは明白だろう。

 

「十常侍が消えた後、董卓が都入りした事で宮中は平和になりました。董卓は献帝様とそれに連なる我々に最大限の敬意と尊重を持って仕えてくれております。お蔭で私どもに危害を加える者はおりません。……反董卓連合を除いては」

 

 桂花は語る。

 袁紹は帝や洛陽の民を救うのだと謳い、董卓誅すべしと反董卓連合を立ち上げた。

 だがそれはようやく十常侍の支配から抜け出し、董卓という安全な守護者を得た帝たちからすれば余計なお世話でしかないのだと。

 

「董卓が厳しい状況に立たされている事を知った陛下は、彼女に助力しこのまま洛陽に残せないかとお考えになりました」

 

 今の帝は董卓がいる今の状況を変えたくないのならば、ますます袁紹の行動は朝廷の意図に背く反逆になる、か。

 しかし今まで接触を董卓のみに制限して、帝や宮中の情報を外に漏らさぬよう徹底させてきたというのに、今ここでこれだけの情報を個人的親交があるとはいえ、ただの一武官に話す桂花の意図はなんだ?

 話してくれるというのならば、その内容はありがたく受け取らせてもらうが、俺への敬愛だけでこんな事はしない。

 否、してはいけない立場に桂花はいるんだ。

 

「一応の確認だが、陛下から袁紹を糾弾する文を出せばこの戦いは始まらずして終わるという事にならないか?」

「……今の陛下の言葉は董卓が言わせているだけ。天の意思をねじ曲げる董卓の悪逆は名門たる我が名に置いて許さぬ、との事です」

 

 半ば予想していた事だが、献帝の言は握り潰されたのだな。

 つまり董卓を悪とする今の情勢では帝本人の言葉すらも受け入れられる事はないという事だ。

 全てが『董卓のせいである』とされてしまう。

 なんともあちらの都合の良い悪役に仕立て上げられたものだ。

 

「となれば、そんな言い訳が通用しない状況を作らなければならないんだな」

 

 その為にも、やはり戦は避けられない。

 場を作るという意味でも、今後の暴走を抑止する為にも、連中の戦力を削らなければいけなくなった。

 結果的にではあるが、建業でさんざん話し合った計画通りの流れになったと言える。

 

 とはいえ、想定される流れの通りに物事を進めるには董卓軍のみでは圧倒的に戦力が足りない。

 どれほど精強な軍を持っていたとしても、一騎当千の武将がいたとしても、物量の差がこれほど大きいとなればいずれ待つのは敗北。

 

 ああ、なるほど。

 

「俺たちが董卓側に付くようにそれとなく誘導したのはお前の策だったんだな」

「……はい。私は陛下の願いを叶える為にさんざんお世話になった恩人である貴方方を巻き込みました」

 

 ここまで細かい事情を俺に話したのは先の話とはまた別の、勝ち目の限り無く薄い戦へ俺たちを巻き込んだ事への懺悔だったのだ。

 

 しかし告げる言葉に謝罪はない。

 罪悪感はあるのだろうがそれでも必要な事として実行した以上、頭を下げる事は許されないと考えているのだろう。

 

 おそらく建業に来た袁紹の使者辺りが洛陽の息のかかった者だったのだろう。

 あの男、建業の返事を袁紹に届けてから一ヶ月と経たずに職を辞したらしい。

 将来的な安定がほぼ確定している名門袁家の配下に収まりながら、特に失敗などしていないというのに去って行くという不可解な行動が引っかかっていたが、そもそも間者で役目を終えて撤収したと考えれば納得がいく。

 

「思えばあの書簡は雪蓮嬢と俺たちの反感を的確に煽る内容だった。お前が監修したのなら納得がいく。流石は冥琳嬢が好敵手と認めた智だ」

「ご明察です」

 

 俺の推測が正しい事を肯定し、暗い顔のまま桂花は語り続ける。

 

「厚顔無恥と軽蔑される事も承知の上。舌の根の乾かぬうちに貴方様の好意を、善意を利用して目的を果たそうとする私は……」

「言ったはずだ。自分の言葉で自分を傷つけなくていい」

 

 桂花の言葉を遮り、何度でも分かるように告げる。

 

「俺はお前を助けたいと思っている。それは今こうして会ってからも変わらない」

 

 泣き腫らして真っ赤になっていた桂花の瞳がまた潤み始める。

 

「誇れ、とまでは言わない。だが自分を卑下するな。お前は帝のために奔走出来る立派な忠臣だ」

 

 権謀術数の宮中に疲れ果てたこの子の心を少しでも慰める為に俺は言葉を重ねた。

 

「そしてそんなお前がこの状況を打開する為の手段として俺たちを選んだ。それだけ俺たちを買ってくれているという事。帝を手助けできるなんて大役を授かるなんて後世にまで自慢できる。ほら、俺たちにも利益があるだろう?」

 

 だからいいんだ、気にするなと言い続ける。

 そうして俺は桂花から帝の考えを伝えられ、俺から雪蓮嬢たちに伝える事を約束する。

 

 

 そして。

 

「……孫呉の皆様が董卓側に付いてくださった事、私はずいぶん前から存じ上げていました。しかし私は陛下の住まう宮から出ないように、どうしても外に出なければならない時は鉢合わせる事がないように裏に手を回して出会う事がないように避け続けてきた」

 

 小さかった子供が年月を感じさせるほどに成長した姿での再会。

 その終わりをを惜しむ俺に桂花は告げる。

 

「本当なら今、私が伝えた計画は董卓からお伝えする予定でした」

 

 俺に接触をしてきた時の澱んだ空気はもうない。

 吹っ切れたその表情は目が真っ赤である事を除いても年相応の可愛らしさに満ちていた。

 

「でもどうしても、貴方に一目お会いしたいという想いを抑える事が出来なかった。たとえその結果、嫌われるとしても……」

 

 桂花は昔と変わらぬ猫耳が付いたフードのような物を被って頭を下げる。

 

「ありがとうございます。私を慈しんでくれて、私を信じてくれて。……次は戦いが終わった後にお会いしましょう」

「その時は出来れば皆も一緒にしてほしいな。お前を独り占めにしてしまっては、あいつらにどやされてしまう」

「はい。勿論です」

 

 再会を誓い合った俺たちを月が優しく見守っていた。

 

 

 


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