乱世を駆ける男   作:黄粋

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第百五話 汜水関の戦い その四

 汜水関の放棄は予定通りに行われた。

 韓当、祖茂、程普は黄蓋による合図を見て、即座に戦闘を切り上げて撤退。

 

 馬超、馬岱も騎馬隊の機動力を遺憾なく発揮して敵本陣から帰還している。

 反董卓連合からの追撃は当然行われたが、馬家の騎馬隊に追いつけるほどの速さを持つ軍はいなかったようだ。

 唯一、馬家に対抗出来ただろう白馬長氏を初戦で半壊させた事が功を奏した。

 公孫賛を除いて足が速いだろう曹操軍が戦場に散らばった俺たちに対して自軍を散らばらせて対応した事も良い方に転がっただろう。

 

 しかし全てが上手くいったわけではない。

 流れるように撤退していく董卓連合側に対して、反董卓連合側は何がなんでも重要人物を捕えようと動き出す。

 夏侯惇との一対一の勝負でお互いしか見えないほどに白熱していた事が原因で、張遼隊というか張遼が敵陣に孤立してしまったのだ。

 撤退する気配がない者がいれば、蟻のように群がるのは当然だろう。

 

 しかし一対一に熱中する二人を取り囲み、いざ捕まえようというところで反董卓連合側に誤算が生じる。

 あまりにも熱を持ちすぎた張遼と夏侯惇には誰の言葉も届かなかったのだ。

 決闘を止めようと不用意に近付いた者、その悉くが暴風と化した二人によって吹き飛ばされてしまう有様。

 曹操に対して揺るがぬ忠誠心を持っている夏侯惇に主の言葉すらもまったく届かなかったというのは、彼女を知る者からすれば驚きだ。

 彼女の親衛隊ですらも被害の及ばない距離を取って包囲する事しか出来ない状況になってしまっていた。

 袁紹軍など一部の兵士たちは懲りずに止めにかかったが、枯葉のように吹き飛ぶのみ。

 

 大岩での奇襲とはまた別の混乱が戦場を支配する中、俺は聞く耳持たずの隊長に懸命に声をかけ続ける張遼隊に先に戻るように声をかけて回った。

 張遼は引きずってでも連れ戻す事を建業と主の名、自分の二つ名に誓い、後ろ髪を引かれる思いの彼らを説き伏せてその時を待つ。

 

 もう何度目になるかわからない武器の交錯。

 互いに押し合いへし合い火花を散らす攻防。

 そんな激突の合間に息継ぎするかのように互いの距離が開いた瞬間。

 俺は包囲の外から張遼隊から借りた投げ縄を投げ込んだ。

 次のぶつかり合いのために足に力を込めていた張遼の腕に頑丈で太い大縄が絡みつく。

 絡みついたタイミングで俺が渾身の力で引っ張ると彼女の身体は宙を舞った。

 

「なんやぁっ!?」

 

 張遼は素っ頓狂な悲鳴を上げる。

 彼女の馬が主の後を追って走ってくるのを確認して放物線を描いて落ちてくる彼女を受け止めた。

 即座に下ろすと口頭注意するよりも先に、不満げな表情をしている張遼の額にデコピンをお見舞いする。

 

「いったぁっ!?」

 

 悶絶する彼女に努めて冷静に告げる。

 

「撤収の時間だぞ、張遼将軍」

「うっ……、おおきに」

 

 やや嫌みったらしく役職を強調して呼んでやれば彼女の頭は瞬時に冷えたようだ。

 彼女は近付いてきた愛馬に飛び乗り、俺もその後ろに乗り込むと汜水関目掛けて駆け出す。

 当然ながらすぐ後ろには反董卓連合の兵士たちが大挙して押し寄せてきていた。

 

「まぁてぇっ!!!」

 

 先頭は夏侯惇。

 決闘に水を差された為か、恐ろしくドスの利いた叫び声だ。

 彼女の横に付いた夏侯淵が姉を宥めているが効果は望み薄だろう。

 

「結果的にだがお前のお蔭で隊全体を撤退させる時間は充分稼げた。あとは俺たちだけだからとっとと逃げるぞ」

「了解や」

 

 全速力で汜水関の門へ向かう張遼の愛馬。

 そんな俺たちに足止め、あわよくばそのまま射殺すつもりなのだろう追っ手からの容赦ない矢の雨が降り注ぐ。

 それを三本連結した棍でまとめて弾きながら、俺は腰に下げていた掌サイズの袋を手に取りそのまま後方へと放り投げる。

 

 その袋を汜水関の外壁から黄蓋の放った鏃に火のついた矢が貫いた。

 ずっと援護の機会を窺っていたのだろう妻には頭が上がらないな。

 

 袋の中身は油だ。

 そんなものに火が付けばどうなるかは自明の理。

 あっという間に油に火がつき、重力に従って地面に落ちた油が火柱を上げて広がっていく。

 

 動物は本能的に火を恐れる。

 突発的に発生した炎に対して人間は気合いで怯まずにいられたとしても馬が驚かないというのは難しい。

 

「ぬっ!? 落ち着けっ!」

 

 目の前に広がる炎の壁から逃れるように前足を挙げてその場に急停止する夏侯惇とそれに続いていた騎馬兵たち。

 それを尻目に俺は自分の分に加えて駄目押しとばかりに張遼が持っていた油袋も燃え上がる火に向けて投げつける。

 

 炎が広がった油によって蛇のようにのたうちながら地面を奔る様に他の騎馬隊の足も止まっていった。

 その隙を逃さず張遼は馬の速度を上げる。

 追っ手も即座に止まった騎馬の足を動かすが、一度止まってしまった馬の速力は風に乗った張遼の愛馬に追いつくには足りない。

 

 しかしそれでも敵は諦めないようだ。

 お互いの距離が開いていく中、夏侯淵が弓を構える姿が見える。

 狙いは俺でも張遼でもなく騎馬の足だ。

 

「せいっ!」

 

 後ろ足を狙った矢を棍を腕ごと伸ばして弾いた事で馬に乗っている俺は前のめりになって体勢を崩してしまう。

 それを好機と見たのか、炎を飛び越えて迫り来る影。

 

「お師様、お覚悟っ!!」

「楽進かっ!」

 

 落下速度と体重を乗せた渾身の跳び蹴り。

 あの一撃を騎乗した状態で受け止めれば、俺や張遼はともかく馬が持たないだろう。

 

「俺に構わず撤退しろ」

「はっ!? おい、ちょっ……」

 

 馬の尻に思い切り手を付き、その反動で跳躍する。

 崩した体勢のままで跳躍した俺は、迫る蹴撃に対して下から掬い上げるように蹴りを放って迎え撃つ。

 

 蹴りと蹴りがぶつかり合う。

 しかし無理に放った蹴りでは威力が足りず、押し負けた俺は地面に叩き付けられた。

 

「ぐっ!?」

 

 だが只では転ばない。

 地面に叩き付けられる寸前、俺は逆の足で楽進の腹へ蹴りを打ち込んだ。

 

「がはっ……」

 

 楽進が吹き飛んだのを確認する時間も惜しい。

 叩き付けられた背中の痛みに顔をしかめながら素早く立ち上がる俺に夏侯惇が迫る。

 

「凌操様、お覚悟をっ!」

「こなくそっ!」

 

 馬上から水平に振り切られる大剣。

 受け止める事は出来ない強力な一撃を手甲でどうにか受け流すも、その衝撃で俺は後方へと吹き飛んだ。

 これ幸いにと流れに逆らわず地面を転がりながら距離を取る。

 ぐらぐらと揺れる視界を気合いでねじ伏せて立ち上がればすぐに次が来ていた。

 

「ちょおおりゃぁあああああっ!!!」

「てぇえええいいいいっ!!!」

 

 許緒の馬鹿でかい鉄球と典韋の冗談のような大きさのヨーヨー。

 それらが地面を削りながら並走して迫ってくる。

 

「ふっ!」

 

 目前まで迫ってきた鉄球に両の掌底を叩き込む。

 その打ち込みで鉄球の進路をずらし、狙い通りにヨーヨーにぶつかった結果、両方の進路が俺から逸れていった。

 

「嘘やろ。あんだけの攻撃全部捌きよった」

「化けもんなの……」

 

 失礼な事を言う三羽烏の二人を視界の端に捉えたが、俺には突っ込んでいる余裕はない。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 足を止めた俺はあっという間に囲まれた。

 目だけで周りを見回せば曹操軍だけでなく袁紹軍や他の軍勢もいる。

 まぁ董卓連合の武官が一人取り残されればこうもなるか。

 俺でも敵側の武官相手なら同じようにするだろう。

 

「おーほっほっほっ! ずいぶんと好き勝手やってくれたようですがここまでですわねっ!!」

 

 絵に描いたような金髪縦ロールお嬢様が神輿?のようなものの上の豪華な椅子に座って現れる。

 無駄によく通る声だな、とどうでもいい感想を持ちながら俺は大きく深呼吸を一つ。

 

「武器を捨ててその場に跪きなさいっ! そうすれば命だけは保証しますわっ!」

 

 曹操軍の緊迫した表情に気付かず、余裕綽々な態度で包囲の中に入る袁紹の神輿。

 無防備過ぎるだろう、馬鹿なのか?

 

「ちょちょ、袁紹様!」

「今は駄目です。ここは曹操さんたちに任せて下がってください!」

 

 慌てて主を諫める側近らしい武官が二人駆け寄ってくる。

 たぶん文醜と顔良だろう。

 彼女らの言葉をまったく意に介さず、さらに近付いてくる袁紹の姿。

 俺はこいつが超が付くほどの馬鹿なのだという事を確信した。

 

 人質に取ってくださいと言わんばかりの無防備さだが、しかし現状で俺が動くのは難しい。

 包囲して安心し切っている他はともかくとして、曹操軍は一兵卒に至るまでもが俺の一挙手一投足を警戒していた。

 先ほど曹操の包囲を出し抜いた事、そして今さっきの攻防を切り抜けた事でその警戒心はうなぎ登りなのは間違いない。

 迂闊な行動一つすれば即攻撃されるだろう。

 

「袁本初、一つ忠告だ」

「? 帝を誑かす一味がこの私に何を忠告するというんですの?」

 

 しかしそんな状況でも俺は袁紹に声をかけた。

 総大将へ敵対者からの問答という形を取れば、見栄に拘る傾向が特に強いだろう袁紹は応えざるを得ない。

 そして問答が成立した今の状況では、いくら警戒していたとしても曹操たちには手出しが出来ない。

 このやり取りを遮ってしまえば、総大将の顔に泥を塗ったと言うことになりかねないからだ。

 

 俺の不遜な物言いに不快そうに眉を顰めながら、首を傾げる阿呆。

 曹操たちが苦虫を噛み潰したような顔をしている事に気付いた様子はない。

 

「自分の周囲を任せる兵士の顔ぐらい覚えておく事だ」

「「はっ?」」

「えっ?」

 

 次の瞬間、神輿が真っ二つに斬り捨てられた。

 神輿の近くにいた『袁紹軍の兵士の格好をした甘卓』の一撃だ。

 

「な、なぁあああああっ!?」

 

 神輿から転げ落ちて地面を転がる袁紹の悲鳴が周囲に混乱を振り撒いていく。

 さらに包囲の外から幾つもの影が煙を放物線上に残しながら降り注いだ。

 ボトリと落ちたそれらは導火線に火が付いた球体。

 

「っ……うわぁああああああっ!?!?!?」

 

 曹操軍を除いて勝ちを確信して油断していたのだろう。

 突然振ってきた爆弾にしか見えない物体に兵の一人が、後退り悲鳴を上げて逃げ出し始める。

 それを引き金にして恐怖が伝染して包囲はあっという間に崩れていった。

 

 同時に導火線が本体に届き、球体は黒煙を噴き出す。

 一つでもかなりの量の煙が噴き出すというのにこの数だ。

 あっという間に視界は真っ黒になってしまう。

 

「凌操様!」

「甘卓!」

 

 よく知る声に応えると手を取られ、そのまま誘導されて走り出す。

 この方向にいた武官は許緒だ。

 

「どけっ!」

「わっ!?」

 

 攻撃を警戒して楯のように構えていた鉄球を甘卓が弾く。

 

「ふんっ!」

「うわぁああああっ!?」

 

 次いで俺が武器を頭上にかち上げられて隙だらけになった少女の腕を掴み、彼女が気を取り直す前にそのまま引き込むようにして背負い投げで後ろに投げ飛ばした。

 小柄なせいで冗談のようにぽーんと飛んでいく許緒を尻目に速度は緩めない。

 

「追いなさい!!」

 

 曹操の鋭い声が響く。

 しかし兵士たちはともかく武官たちから即座に攻撃される事はない。

 俺を逃がさない為に自軍の武官を分散して囲んでいた為に、煙で周囲が確認出来ない今の状況では同士討ちする可能性があるからだ。

 少なくとも許緒の鉄球、典韋のヨーヨー、夏侯惇の大剣、曹操の大鎌はこの状況で攻撃するには大振り過ぎる。

 夏侯淵の弓は狙いを付けられれば危ない。

 だが流れ弾の危険性が高いこの状況では、そうそう射られる事はないはずだ。

 

 だからこそ煙が晴れる前になるべく距離を取らなければならない。

 俺たちは出来うる限りの速度で走り続けた。

 駆け抜け様に目に付いた兵士は打ち倒し、足元に転ばせて追っ手への障害物に仕立てる事も忘れない。

 

「そちらの首尾は?」

「我々の工作は万事予定通りに。袁紹麾下に潜り込まれた事が露呈しましたので今後内通者の炙り出しが行われると思われます」

「総大将が被害を被ったんだ。炙り出しは徹底的に行われるだろうから、多少は時間は稼げそうだな」

 

 数少ない接触の時間を無駄にするわけにはいかない。

 俺と甘卓は走りながら情報交換を行う。

 

「張遼が戻った時点で汜水関の門は閉じました」

「当然だな。他の皆は?」

「無事に撤退しております」

「周泰や隠密隊は?」

「煙幕の投擲後、それぞれ隠れる手筈となっております。それとこちら汜水関の程普様より投げ渡された物です」

 

 誰かに聞かれてもよいように最低限の言葉でやり取りし、さらに程普から預かったという物を受け取った。

 門を潜らずにこの場から逃げる為の道具だ。

 

「では俺はこのまま撤退する。無茶はいいが無理はするな。周泰たちにも伝えておいてくれ。お互い次も無事に会うぞ!」

「はいっ! 皆様もどうかご無事で!」

 

 すぐ前を先導していた甘卓の姿が消える。

 黒煙があるうちに敵の中に紛れて身を隠したのだ。

 

「……とっとと逃げるか」

 

 俺は緊急脱出の手段として用意していた物を両手に一つずつ持ち、汜水関ではなくその横にそそり立つ絶壁へ向かう。

 走りながらもう一度大きく深呼吸し、俺は気合いの声を上げながら絶壁目掛けて全力疾走する。

 

「おおおおおおおおおおおおおっ!!!!!」

 

 走る勢いそのままに持っていた鉄製のL字型ピッケルもどきを絶壁に左右交互に突き立て勢いよく登り始めた。

 原始的も原始的で且つこの世界の恵まれた身体能力があってこそ成り立つ脱出方法だ。

 万が一の最終手段として用意していたものだが、準備しておいて本当に良かった。

 

 俺は敵から矢を射かけられる前に登り切ろうと限界が近い腕を必死に動かして崖登りを続けた。

 俺の必死な想いが伝わったのか、矢が放たれる事はなく絶壁を無事に登り切るとそこから汜水関の外壁へと跳躍して乗り移る。

 

 こうして反董卓連合は武官を一人として失う事無く、汜水関から撤退する事が出来たのだった。

 

 


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