『凌刀厘、捕縛』の報は董卓連合、反董卓連合双方に動揺をもたらした。
反董卓連合側は袁紹を筆頭にした大部分が煮え湯を飲ませてきた相手が捕まった事による歓喜に包まれた。
個人的な関わりがある曹操軍と実際に対峙した劉備軍、公孫賛軍は心中穏やかではいられなかった。
磔にされた凌操を見た時の曹操、夏侯惇、夏侯淵、楽進の個人的親交があった者たちは顔を青ざめさせ、生きている事に小さく胸を撫で下ろしていた。
劉備は敵対していた人間とはいえ磔という彼を辱める行為を嫌悪したが、それを声に出せる立場ではないとして口をつぐんだ。
公孫賛は凌操の周到さや容赦の無さをこれまでの戦いで思い知らされているからこそ、そんな彼を捕まえた劉表たちに対する警戒を強めた。
翻って攻め込んでいた董卓連合側は自分たちの同士が捕まり、さらには戦場に晒されているという事実に総じて激怒した。
捕えられていたならば助ける為に全力を尽しただろう。
殺されていたならば悲しみながらも敵討ちに奮起しただろう。
抵抗の手段を封じられ戦場に晒されるなどととうてい許せるものではなかった。
しかしそれでも劉表という大きな戦力が増援を送り込んだという事実を冷静に受け止め、荒れ狂う怒りの感情を腹の奥底へ追いやって決断を下す。
「引け!」
張遼の短い言葉に煮えたぎるような怒りを感じ取りながらも、董卓連合騎馬大隊は鮮やかな動きでその場から撤退していった。
凌操を磔にした荷馬車を先頭にまるで見せびらかすようにゆっくりと前進する劉表軍を反董卓連合は喝采と共に迎え入れる。
彼らから見れば董卓連合は無様な仲間の姿に尻尾を巻いて逃げ出したという認識であり、その事も喝采を盛り上げる要因だろう。
袁紹は磔にされた男が自分を虚仮にした男だと気付くと、居丈高に引き渡しを要求。
「私自らの手で董卓連合の先兵に引導を渡して差し上げましょう!」
声高らかにそう叫ぶ神輿の上の袁紹に曹操は不快感を隠す事無く睨み付ける。
「貴様のような無能者に渡すわけなかろう」
劉表軍大将『黄祖』の言葉に場の空気が凍り付いた。
お祭り騒ぎの勢いで集まっていた全ての勢力の視線が彼一人に注がれる。
「ふ、ふふふふふ。私、なにやらありえない言葉が聞こえた気がしますわ。黄祖翁、私の要求に対する返答をもう一度聞かせていただけますかしら?」
「貴様のような無能者に渡すわけなかろう。儂らを嘗めとるのか、小娘」
訂正するなら今のうちだと言外に含まれていた袁紹の問いかけに対して、黄祖はにべもなく言い捨てる。
袁紹配下の顔良や田豊が慌てて主を取り押さえようと駆け出すも、袁紹が怒り狂う方が早かった。
「私を! 名門袁家を背負う私を無能ですってぇ!!!!」
「これだけの戦力差で戦を吹っかけておいて未だに虎牢関も落とせぬような総大将が無能で無ければなんだと言うんじゃ? ええ?」
金切り声を上げる袁紹をただただ冷めた眼差しで見つめる黄祖。
「挙げ句、自分たちの軍勢に紛れ込む十常侍の息がかかった虫どもの駆除すら覚束ないとは……これを無能以外になんと称せと言うのか? ああ、塵芥とでも呼んで欲しいのか?」
仮にも名門袁家の頭領を前にして、立て板に水の罵倒が次々と出てくる。
反董卓連合の軍勢からはざわめきが止まない。
それぞれに余りにもあんまりな総大将に思うところがあったが、それを口に出す事はなかった。
袁紹の不況を買うという事は、今後の進退に影響を及ぼしかねないからだ。
袁家という肩書きには先の事まで警戒させるだけの力がある。
だというのにこの老獪なる将軍は、そんなものに意味はないと言わんばかりに直接的な言葉を投げつけ続けていた。
これには袁紹も怒りを通り越して呆気にとられてしまう。
彼女の人生で今までこれほど塩対応された経験などない。
悪友である曹操ですらも呆れながらも、多少なりと言葉には気を遣っていた。
本人の気質と昔馴染みというところが大いに関係するところではあるが、それでも袁家に迂闊な事は出来ないという意識がなかったわけではないのだ。
黄祖の言葉に気遣いなどない。
冷徹なまでの第三者目線での酷評を、語気を荒げるような事もなく冷静に叩き付ける。
「謙った態度を取ってほしいのならば、そうするに足るだけの威厳を見せよ。それが出来んのなら、文句を垂れるな。鬱陶しいだけじゃ。貴様の使えぬ耳と頭を鑑みてもう一度言わせてもらうぞ? 我ら劉表軍にとって数倍の軍勢を擁しておいて未だに董卓連合を壊滅できん貴様、袁本初は歴史に名を残して笑いものになるべき無能者じゃ。反論の一つもなくただただ金切り声で叫ぶだけなら、学の無い童でも出来る」
この調子で奇声を上げる袁紹と冷静に罵倒する黄祖のやり取りが続き、彼らがきちんとした軍議の場につくのはなんとこれから一刻も後の事である。
そして彼らのやり取りを冷静に見ていた者だけが袁紹と黄祖の応酬によって凌操の引き渡しが有耶無耶になっていた事に気付いた。
一方その頃。
騎馬大隊によって報告された『凌刀厘、捕縛』の報によってまず呂布が武器を片手に飛び出そうとした。
普段の眠たげな面立ちが幻だったかのように思えるほどの鋭い目つきと身体から立ち上る殺気に、兵士たちが次々と倒れ出す有様。
怒りに支配され、自分がもたらした被害が目に入っていない様子で歩き出す呂布を黄蓋、程普、韓当に加えて戻ってきたばかりの祖茂、張遼、馬超、鳳徳の七人がかりで止める騒ぎになる。
最終的にどうにか呂布を宥める事に成功したが、今日の戦場以上の労力と被害を被る事になった。
「捕えてここまで連れてきた以上、なにか目的があるはずじゃ。狙いがなにか知る事が出来れば穏便に凌操を取り返すことが出来るかもしれん。お主が暴れるのはあらゆる手を講じた後。最終手段じゃ」
「………………うん、分かった」
ものすごく不服そうな返事ではあったが、一先ず黄蓋の説得によって呂布を落ち着かせる事が出来た。
やや乱暴に頭を撫でる黄蓋を可愛らしい上目遣いで眺める呂布。
本人たちはただただじゃれ合っているだけの様子だが、兵士たちは未だ呂布から発せられる闘気に顔色が青くなっている。
「しかしどうする?」
「あんなにこれ見よがしに晒されてると救出するのも骨が折れるわね」
「闇夜に紛れて……って言うのは厳しいですね」
「そんな悠長な事言ってる場合か!」
幼馴染組である程普、韓当、祖茂の会話を切り裂くような怒声が上がる。
馬超や馬岱、張遼は凌操の扱いに怒髪天を衝く勢いで怒っている様子を見ていれば、彼らが冷静に振る舞えているのは不満だった。
「あんな、戦士を侮辱する真似、一秒だって続けさせるわけにはいかない! 夜なんて待っていられないだろ!」
捕まった仲間を前にして引かざるをえなかった騎馬隊の無念は根深かった。
死体になって晒されていなかった事だけが救いだが、この場ではそんなことはなんの慰めにもならない。
「それにいつ公開処刑されるかわからん! あっちはさんざん凌操に煮え湯を飲まされてきてるんやで! 袁紹なんて嬉々として処刑の陣頭指揮を執るやろ! うだうだしとると取り戻す前に首を飛ばされてまうやろが!!!」
張遼がより現実的な意見を述べるも、その心中にはやはり仲間を目前に後退した事への悔しさが渦巻いていた。
これらの意見に対して総指揮官たる黄蓋の意見は。
「落ち着け」
たった一言。
しかしその発言に込められた様々な感情を感じ取ったその場の全員が黙り込んだ。
「馬超、張遼。勘違いするでない。儂や程普たちとて本当ならすぐにでもあやつを救いだしたい。その気持ちはお主らに勝るとも劣らぬよ」
生まれてからずっと苦楽を共にしてきた仲だ。
黄蓋に至っては子供がいる夫でもある。
助けたいと思わないわけがないのだと言う事に思い至った馬超と張遼は冷静になるべく深呼吸をすると頭を下げた。
「すまんかった。冷静になるわ」
「あたしも悪かった」
「構わんよ。お主たちがあ奴にそこまで心を砕いてくれていると分かって妻として嬉しく思っておるよ」
黄蓋の穏やかな笑みがすっと引き締まる。
「生きたままああして連れてきた以上、そこにはなにかしらの意図があるはずじゃ。公開処刑するにしても、それ相応の場を作るはず。まだ時間はあるんじゃ。必ず、助け出すぞ!」
全員の返答が唱和して会議室を揺るがす。
その夜、劉表軍から使者が送られてくるまで話し合う声が途切れる事はなかった。
「お初にお目にかかります、董卓連合のお歴々。姓は文(ぶん)、名は聘(ぺい)、字は仲業(ちゅうぎょう)と申します」
現れたのは大柄で角張った顔をした男性。
静かな雰囲気ながら洗練された闘気を纏う姿は、語らずとも強者である事を示している。
そんな彼に向けられる視線には怒気や殺気の入り交じったもの。
それを当然の事と受け止めながら、文聘は口を開く。
「此度の凌刀厘殿への仕打ち。さぞお怒りの事かと存じます。しかしその怒り、今だけは抑えていただきこちらの書簡に目を通していただきたい」
懐から出され、両手でそっと差し出される二つの竹簡。
黄蓋は眉間に皺を寄せながらも、それを受け取った。
「紅色の紐で縛られた方を先にお読みくだされ。そして内容に納得いかないという事であれば某(それがし)の首を落としていただいて構いませぬ」
文聘は己の武器を床に置き、その場に座り込んだ。
抵抗の意志はないという何よりも雄弁な行動だった。
「……そこまでの覚悟を持って使いとしてこの場に来たと言うことか」
黄蓋は受け取った書簡を読む前に深呼吸を一つし、一先ず己の怒りを頭の片隅に押しやった。
それは書簡の内容を冷静に吟味する為の行為であり、周囲の皆にも落ち着くことを求めるもの。
使者がこれほどの覚悟を持つ事を知った武官たちは黄蓋の意を汲み、落ち着くことを己に課した。
「……」
指示通りに紅色の紐で縛られていた方の竹簡を読み進めるうちに黄蓋の目が驚きに見開かれていく。
只事ではないその様子に程普たちが戸惑う中、文聘だけが変わらぬ姿勢でその場に座していた。