乱世を駆ける男   作:黄粋

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番外之二 周異と周瑜

 わたしは自分の部屋で机に向かって日課の読書をしている。

 でもわたしは本を読みながら、その内容とは別の事を考えていた。

 

 

 物心ついた時から母上は、蘭雪様のほさをしていて忙しくわたしが眠るまでに帰ってこない事が多かった。

 

 あそんでもらえない事をつまらないと思った事はあったけれど、畑仕事を早めに終わらせた父上がいつもいっしょにいてくれたからさびしくはなかった。

 それに時々、母上が早めに帰ってきてくれて家族三人でいっしょにいられることもあった。

 だからわたしは幸せだった。

 

 

 父上は母上のように頭が良いわけでも、蘭雪様や豪人殿のように武に長けているわけでもない。

 

「出来る事ならずっと美命の傍で守ってやりたいって何回考えたかわからないよ」

 

 わたしが言葉を話し始めて字を習うようになったくらいの時、父上はそんな事を話してくれた。

 

「僕には美命を傍で手助けする事が出来るだけの力が無いんだ。本当に悔しいし情けないと思うけれどね」

 

 畑仕事に精を出し、わたしの話し相手をしながら、家の仕事をすべて一人で引き受けて父上は笑う。

 

「けれど美命の、そして冥琳の為になる事は出来る。だから傍にいられない事を寂しがったり、力が無い事を悔しがっている時間があれば自分に出来る事を探そうと、自分に出来る事を増やそうと思ったんだ」

 

 その時はまだ言葉の意味をよく理解していなかったから、私はたぶん首を傾げながら父上の話を聞いていたんだと思う。

 

「自分に出来ない事がある事を嘆いて立ち止まっていたんじゃ駄目なんだ。自分に出来る事が無いか手探りでもいいから探さないと。僕と美命は夫婦なんだから、どちらかがどちらかに頼りきりになってはいけない。お互いに支え合うのが家族なんだから」

 

 それでも何故か、その言葉は私の耳に、心にしっかり届いていた。

 意味はわからなかったけれど、それでもその言葉が大切な事なのだと、そう思えた。

 

 

 わたしに字を教えながら父上が話した言葉。

 その時は何を言っているのかわからなかった。

 

 けれど父上がとても真剣な目をして話していたから、わたしはその言葉を意味もわからないまま書き留めていた。

 

 わたしの部屋には今も父上の言葉を書き記した竹簡が残っている。

 今ならば言葉の意味もわかるから時々、内容を見返して父上の気持ちをかくにんしている。

 

 家族を大切にしていた父上の言葉。

 民として日々を生き続けた父上の言葉。

 民を守る立場になった事で身近ではなくなってしまった父上の言葉。

 

 母上にもないしょにしている父上の残した言葉の数々。

 わたしにとってお金なんかよりも大切な物だ。

 

 私が六つになった頃に流行り病で父上が亡くなってからは、その気持ちがそれまでよりもずっと強くなったように思う。

 

 

 父上の事をひ弱だ、なんじゃくだと悪口を言う人もいたけれど。

 私にとっての父上はあたたかくてやさしくて時に母上よりも強い、そんな人だった。

 

 

 そんな父上が残した言葉とおぶさるととても暖かかったあの背中が、駆狼殿のおっしゃる言葉とあの大きな背中に重なる事がある。

 

 

 父上と駆狼殿。

 父上は線が細く、武器を持つ事など似合わない『やさおとこ』。

 駆狼殿は逆に大柄でたくましい『いじょうふ』。

 私が覚えている父上と駆狼殿を並べてみると頭一つ分は駆狼殿の方が体が大きい。

 ずっと民として家族の為に働いていた父上と武官になれるほどの力をお持ちの駆狼殿では比べられっこない。

 

 外見はまったく似ていないはずの二人。

 でも……どことは言えないけれどどこか似ている二人。

 

 初めて出会った時の、熊から助けていただいた時の真剣な顔が。

 あの方にどう接してよいかわからなかった時にやさしく励ましてくださり、でもきびしくまちがっていた事をしてきしてくださった時の声が。

 

 わたしが勉強をしていることをほめてくださったあの時。

 なでてくださったあの大きな手の暖かさが。

 

 わたしに二人が似ていると思わせる。

 

 駆狼殿や祭殿たちが正式に士官されてから三ヶ月。

 あの方と話をすればするほどに、そのお姿に父上が重なっていった。

 

 駆狼殿に声をかける時、つい『父上』と呼んでしまいそうになった事もあるくらいに。

 

 

 自分でもわかっている。

 わたしはたぶんあの方のことが好きなんだ。

 

 父上と同じくらいに。

 父上とお呼びしたいくらいに。

 

 まったくの他人を父と呼びたいと思うなんて。

 

 死んでしまった父上といくら似ていても、違う人だとわかっているのに。

 

 この気持ちはわたしをあいしてくださった父上に対してとても失礼なことだ。

 あんなにも大切にしてもらったのに。

 あんなにもやさしくしてもらったのに。

 

 でも。

 このままではいけないとわかっているのに、どうすればいいかがわからない。

 

 

 もうわたしは本を読んでいなかった。

 わたしの頭に浮かぶのは父上と駆狼殿のことだけだ。

 

「ごめんなさい、父上」

 

 返事が返ってこないことがわかっているのにわたしの口からは勝手に言葉が出ていた。

 

「ごめんなさい、駆狼殿」

 

 お二人にしてはいけないことをしている。

 そんな気がして、わたしはそれから何度も何度もお二人にあやまり続けた。

 

 なぜか流れてきた涙を手でぬぐいながら、眠りにつくまでの間ずっと。

 

 

 

 

 娘と昼餉でも、と思いあの子の自室に来たら戸越しにそんな言葉が聞こえた。

 

「ごめんなさい、父上。ごめんなさい、駆狼殿」

 

 その弱々しく嗚咽が混じった声を聞いて戸を叩こうとした手を止めてしまう。

 

「冥琳?」

 

 娘の名前を小さく呟き、耳に入ってきた言葉の意味を考える。

 

 

 あの子が父上と呼ぶのは勿論、私の夫の事だ。

 冥琳が生まれる前から家事を一手に引き受け、私が帰った時に暖かく迎えてくれた最愛の人。

 あの人と巡り合えた事は、私の生涯で五指に入る幸運だったと今でも自信を持って言える。

 

 私は仕事で家にいない事が多くて当時は冥琳にほとんど何もしてやれなかったが、夫はあの子の傍にずっといてくれた。

 ずっと夫があの子の世話をしてきた。

 子育てを夫に頼り切りにしていた私は親としては失格……なのだろうな。

 

 だが夫は冥琳が6歳の頃に病にかかって死んだ。

 蘭雪の夫や当時住んでいた村の人間は男女問わず十人前後が同じ病にかかって死んでいる。

 

 病にかかって生き延びる事が出来たのは豪人殿、冥琳、蓮華の三人だけだ。

 豪人殿が生き延びたのは奥方殿の身を削る献身と彼自身の武官としての強靭な肉体があればこその結果だ。

 冥琳と蓮華はかかったのが病が猛威を奮っていた最後の頃だったから医者にもこの病に対する対応策が出来ていた為だ。

 

 力を入れれば折れてしまいそうな小さな鍼を刺し「元気になれーー!!」と叫びながら氣を流し込む治療が果たして正しい対応策と言えるのかはわからないが。

 冥琳たちは結局、あの医師に巡り合えた事で救われたと言う事なのだろう。

 

 とにかく夫はその時に死んだ。

 その頃からは私は今まであの人がやってくれていた事を含めてすべてを自分で行ってきた。

 豪人殿の奥方殿や家族を養う先達の手を借りる事は多かったが、それでも出来る事は全て自分でやった。

 

 やらなければいけないんだと、そう思っていた。

 

 私が忙しいという事をその幼い頭脳で理解して、私に心配をかけまいと無理やり笑う娘の姿を見てしまったから。

 大好きな父親を亡くしたと言うのにあの子が涙を見せずに、だが心で泣いている姿を見てしまったから。

 

 何もかもを自分で頑張ろうとした結果、教える事が偏ってしまいあの子を苦しませる事になってしまったのだから情けない話だが。

 

「しかし……」

 

 顎に手を当てて冥琳の言葉を反芻する。

 

 今でも大好きなのだろう父の事を何の気なしに呟くはわかる。

 隠しているつもりだろうが部屋の棚の中に生前、夫に聞かされたのだろう言葉の数々が書き記されている竹簡が幾つも収められている事は良く知っているからな。

 

 だが何故、あの子は父に謝ったのだろう?

 しかもその後に駆狼の名前まで出てきている。

 

 言葉の繋がりを見るにどうも父と駆狼に謝った事は関係があるようだが。

 

 冥琳に気取られないように部屋から離れ、考えをまとめる為に宛てもなく歩きながら考える。

 

 冥琳が駆狼の事を好いているのは知っている。

 好いていると言っても敬愛や親愛の方だ。

 

 と言うより城にいる子供で駆狼の事を嫌っている者などいないと言って良いだろう。

 まぁ子供に限定しなくてもあいつを嫌っている人間などここにはいないだろうが。

 ああ、やつの堅苦しさが苦手な人間はいるかもしれないな。

 

 ともかくあれほど面倒見の良い男を私は知らない。

 しかも自分の仕事をしっかりこなした上で子供たちに目をかけているのだから頭が下がる。

 

 いまだに仕事逃走癖が直りきらない君主に爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだ。

 忙しさを理由に実の子供とまともに触れ合っていなかった私が言えた事ではないか。

 

 冥琳の場合、最近になって親愛の感情が強くなりすぎてしまい、あいつと接する時に過度に緊張してしまっているのは知っていたが。

 まさかその辺りが関係しているのだろうか?

 ゆっくり心が慣れていく物と思って傍観していたのだが、実は深刻な状態になっているのだろうか?

 

 いかん。

 考え出すと不安になってくる。

 

「今晩にでも聞いてみるか」

 

 流石に今すぐに聞きに行けるほど私も頭の整理が出来ていない。

 とはいえあの子が声を聞いただけでわかるほどに思い悩んでいるんだ。

 話を聞くのは親である私の仕事だろう。

 

「陽菜に少し話を聞いてみるか」

 

 駆狼同様、公務を終わらせた後やその合間に子供たちの面倒を見ている彼女なら私の知らない冥琳の悩みについて何か知っているかもしれない。

 

 駆狼は冥琳の悩みの元だから今回の事は相談できないだろう。

 と言うか冥琳の自分への態度に戸惑っているあいつでは恐らく相談相手にはなるまい。

 何より母親としてそう何度も親でもない、女でもないあいつに諭されては立つ瀬がないじゃないか。

 

「愛娘の事だ。気合いを入れて挑むとしようか」

 

 まるで軍略を練る時のような気持ちで私は陽菜を探すために廊下を歩き始めた。

 

 

 

 陽菜は中庭で祭と塁とお茶会をしていた。

 落ち着いているように見えてあれで中々、突拍子もない事を始める陽菜だから、見つけるのは骨かと思ったのだが今日は大丈夫だったようだ。

 

「陽菜、祭、塁。楽しんでいるようだな。……同席させてもらってもいいか?」

「美命様? ええ、どうぞ」

「美命様なら大歓迎ですよ。ささ、どうぞ!」

「塁の言う通りよ。遠慮なんてしないで。今、お茶のお代わり頼んでくるわね」

 

 少し離れた場所にいた侍女に陽菜は私の分のお茶を入れてくるよう命じる。

 いやあれは命じると言うより頼みこんでいると言う方が正しい。

 

 蘭雪には人の上に立つ人間としての自覚が足りない。

 しかしまだあれには直す見込みがあるのだが。

 

 陽菜は人の上に立つ気概に欠けている。

 命令すると言う事を拒否しているのだ。

 

 昔から朴訥として穏やかな気性をしていた子だったから。

 人の上に立つと言う事に最初は戸惑うだろう事は予想出来ていた。

 だが建業君主の妹として筆頭文官の席に私と共に就いた後も、彼女の気性は変わらず。

 今の立場になってそれなりの時間が経過した今も尚、まるで己の立場など無い物として民と話をし、まるで友人であるかのように侍女や兵たちと接している。

 

 どこから引っ張り出したのかわからない知識による独自の発想力と、どうすれば民が暮らしやすくなるかと言う点を主眼に置かれた献策。

 陽菜はこの建業の発展に最も貢献している人間だと言っても過言ではない。

 だと言うのに彼女は決してその数々の成果を誇ろうとはしなかった。

 

 誇示する事が正しいとは言わないが。

 それでも「最終的に実行するのは兵士や民自身なのよ? ただ提案だけしている私がふんぞり返るのはおかしいでしょ?」と言うのは些か謙虚過ぎるだろうに。

 

「お待たせ。はい、温めで良かったわよね?」

「ああ……ありがとう」

 

 いかんな、別の事に思考を向けてしまった。

 今はこの事は置いておこう。

 相談する前に説教などしてしまっては本題が切り出しにくくなってしまう。

 

「儂らは席を外した方が良ろしいですかな?」

「いや気にしなくていい。むしろお前たちの意見も聞きたいから用がなければいてくれると助かる」

「はぁ……まぁあと半刻くらいは大丈夫ですから、いていいならいますけど」

 

 遠慮して席を離れようとする祭に残ってもらうよう頼む。

 私の神妙な様子に困惑しながらも塁は椅子に座りなおして姿勢を正す。

 

「それで冥琳ちゃんがどうしたの?」

 

 用件を切り出そうと口を開く寸前、出鼻をくじく絶妙な所で陽菜は微笑みながらそう言った。

 

「へっ?」

「はっ?」

 

 塁と祭は陽菜の突拍子のない陽菜の発言に間抜けな声を上げて聞き返している。

 

「……どうして冥琳の事だとわかった?」

 

 私はため息を一つつき、眉間を解しながら質問した。

 

「気が付かなかったの? 今の貴方、母親の顔だったわよ」

 

 くすくすと淑やかに笑いながらしてやったりと陽菜は続ける。

 

「あと最近、冥琳ちゃん思い詰めてると言うか何と言うか少し様子が変だったから、ね。たぶんその事かなって」

 

 この子は……蘭雪も大概だが本当に勘が良いな。

 と言うよりこの子の場合は察しが良いと言うべきか。

 

「その通りだ。先ほど冥琳の部屋を通りかかった時に気になる事を言っていた事もあってな。本人に問いただす前に頭を整理したかった。第三者がいてくれれば私ではわからない事に気付いてくれるかもしれない」

「だから私たちに相談、と言う事ですか」

 

 祭の言葉に頷き、私は頭を下げた。

 

「うむ。身内の事に巻き込む事になるのは申し訳ないと思うのだが、出来れば手を貸してほしい」

「えっと、私みたいな武一辺倒な女が役に立つかわかりませんけど、それでよければ」

「儂も及ばずながら無い知恵を絞らせていただきますぞ」

「ありがとう」

 

 新参ではあるがこの建業のために尽くしてくれる武官二人の頼もしい言葉に礼を言う。

 そして唯一、手伝うと明言しなかった陽菜に私たちの視線が集まる。

 

「ん? 勿論、私も手伝うわ。当然でしょ」

 

 気負いもなく、それがさも当然であると言う答え方をする陽菜に私は口元を緩めながら先ほどの出来事について話し始めた。

 

 

 

 その夜。

 私は冥琳と食事をする為に城下に繰り出していた。

 手を繋いで歩く冥琳は楽しそうにかがり火の付けられた街の様子を見つめている。

 

 しかしあんな震えた涙声を聞いてしまった後だとこの楽しげな表情が偽りではないかと思えてしまう。

 

「何が食べたい? 冥琳」

「激殿に教わったおいしいらーめんの店がこの辺りにあると聞きました。母上がよければそこにしませんか?」

「拉麺か。そうだな、そこにしよう。案内を頼む」

「はい!」

 

 時折、私たちを見て頭を下げようとする者がいるが今はただの親子としている。

 聞き出したい事もあるし、蘭雪ではないが今は堅苦しい空気を作りたくはなかった。

 

 頭を下げようとする店主や客たちに自分たちの事は気にしないように首を振る。

 察してくれたようで皆、私たちから視線を外してくれた。

 

 彼らの臨機応変な対応を見ていると蘭雪や陽菜の気風が浸透している事がよくわかる。

 他の領地ではこうはいかない。

 

「あ、めん屋『灯高(ともたか)』、ここです!』

「ほう、ここか」

 

 そこはより多くの客を入れる為に席を外にも出している開放感のある店だった。

 夕餉時と言う事もあってほとんどの席が埋まっているようだが外から見ても二人分程度なら席が空いているのがわかる。

 

「ちょうどよく空いているようだな。別の店を探す必要はなさそうだ。……二人だが空いているか?」

 

 注文を取っていた店員と思しき男に声をかける。

 

「へい、いらっしゃい! お二人様ですね。いやいや運がいいっすね。ついさっきそこの二人掛けが空いた所っすよ」

「ほう、ならそこで頼めるか?」

「へい! お二人様、お入りです!!」

「「「いらっしゃいやせ~~」」」

 

 気さくだが野太い店員たちの歓迎の声が怖かったのか、冥琳がびくりと震えたのが繋いでいる手を通して伝わってきた。

 手を握り返して安心させてやりながら店員の示した奥の席に座る。

 

「採譜をどうぞ。ごゆっくり~~!」

「ああ」

 

 受け取った採譜にかかれた料理を娘と隣り合って見つめる。

 

「ふむ。なかなか種類が豊富だな。激から何かお勧めは聞いていないか?」

「とんこつらーめんがおいしいと言ってました」

 

 冥琳の言葉を聞いてとんこつの項目を指で探す。

 

「ほう、味付けと具によって値段が異なるのだな。あとは後付けで具を付け足す事も出来るのか」

 

 なかなか上手い売り方だな。

 具と麺の味付けを分けておけばある程度は個人の趣向に合わせた料理にする事が出来る。

 恐らく激がこの店を押したのはその自由度を楽しんでいるからだろう。

 

「私は激の薦めのとんこつを野菜盛りにするか」

「わたしもとんこつにします」

 

 注文が決まったので手を上げて店員を呼ぶ。

 手早く注文を済ませて姿勢を正し、愛娘を正面から見つめる。

 

 幸いにも店の中は騒がしい。

 この状況で私たちが多少内緒話をしていても聞かれはしまい。

 否、聞かれた所で頭には残らないだろう。

 ここでなら料理さえ来てしまえば誰かの耳に入る事もない。

 

「お待たせしました。とんこつ野菜盛りと普通のとんこつでっす」

 

 店に入る時に声をかけた妙に気安い雰囲気の青年が湯気の上り立つ器を二つ、慣れた手つきで席に置いた。

 

「ほう、速いな」

「うちは熱々を速く、美味く、安く出すのがモットーなんですよ。ちなみにモットーってのは信念とか方針とかそんな意味っす」

「聞いた事のない言葉だが、誰から教わったんだ?」

「凌隊長さんっすよ。あの人には建業に仕官される前から何度も足を運んでくださってもらってるっす」

 

 店員の口から出た駆狼の名に自分の前に出された拉麺を食い入るように見つめていた冥琳の瞳が揺れた。

 予想外の所で悩みの種になっている人間の名前が出た事で動揺したか。

 

「あ、あの……凌隊長殿はよくここに来られるのですか?」

「ん? ああ、常連さんっす。なんでも店の名前の読みが自分のお気に入りの店と一緒だったってんで食べに来たのが切っ掛けらしいっす。モットーって言葉も色々話してるうちに教わったんすよ」

「色々な所に影響を及ぼす男だな、あいつは」

 

 流石に呆れるぞ。

 

「はは、そうっすね。あの人が贔屓にしてくれるってんで興味持ったお客さんが結構来てくれますし、美味い飯の礼だってあの人とその部下の人たちが巡回とは別に暇な時にこの辺を見回ってくれてるんで前以上に治安が良くなりましたよ。今じゃ物盗りなんてなくなって、騒ぎなんて言っても酔っ払い同士の喧嘩くらいで平和なもんっす」

「……そういえば少し前に治安維持巡回の増員提案と街の要所への交番の設置案が出されていたな」

  

 あいつは今の巡回体制では万全ではない事を民から聞き、自分の目で見ていたのだな。

 そして案が通るまでの間、足りない部分を自分の取れる方法で補うつもりでいたわけだ。

 

 民と同じ視線で、民の暮らしを見て、民の事を感じる。

 

 私や蘭雪たちは一応は名のある豪族の出だ。

 その弊害か、少しばかり民と価値観に溝がある。

 陽菜は数少ない例外だ。

 蘭雪にしても陽菜と一緒にいるうちに今のように分け隔てなく接するようになったに過ぎない。

 

 我々は民は守るべき物であり、故に我々が民を束ねねばならぬと考えている。

 幼い頃から親や仲間たちが抱いてきた意識は我々に中にも根強く在るのだ。

 そしてその意識は領土を持った今、より顕著な物となっている。

 

 数字でしか知らない年貢、文面でしか知らない民の声がその証拠。

 

 あいつを含めた五村の出の五人は元が村民であるからか民を守るべき物であると認識すると共に、共に生きる者たちだと考え行動している。

 だから私たちが建業に入った当初よりも遥かに早く街に溶け込んでいた。

 

 私たちと違い民との間に溝がないのだ。

 それは良い事でもあるし、悪い事でもあるだろう。

 

「それじゃごゆっくり」

 

 駆狼の事を楽しげに冥琳に語っていた店員は他の卓から注文が入った事を切っ掛けに私たちから離れていった。

 

 ふむ、随分と気さくな若者だったな。

 初対面だと言うのにに気難しい所のある冥琳とあれほど話を弾ませるとは。

 まぁ今回の場合、冥琳が駆狼の事を聞き出そうとしていた事もあるだろうが。

 

「では頂こうか」

「はい!」

 

 話は食事を終わらせてからで構わないだろう。

 でないと麺が伸びてしまうしな。

 

 

 

 

 母上から夕餉を一緒に取ろうとさそっていただいた。

 駆狼殿たちが建業に士官されてからふえたけれど、やっぱり母上と食事ができるのはとてもうれしい。

 

 激殿に教えてもらったらーめんもとてもおいしかった。

 母上もおいしいと言って下さったし、また今度おいしいお店を聞いておこう。

 

「さて冥琳。少し真面目な話をしようか」

 

 ごはんでお腹一杯になったところで母上はそう言った。

 とても真剣な顔をされていたのでわたしは背中をぴんと張って椅子に座り直す。

 

「はい、なんでしょう?」

「ふむ……」

 

 少しの間、母上はわたしの顔をじっと見つめるとこう言った。

 

「お前は昼間の自室で、なぜ父上と駆狼に謝ったのだ? 今にも泣きそうな声で」

 

 その言葉に身体がびくりとふるえた。

 

 母上に聞かれていた?

 父上と駆狼殿を重ねてしまっている事を?

 

 血の気が引くと言うのはこういう事なのだとわたしは身を持って知った。

 

「昼餉に誘いにお前の部屋に行った時に、な。中から震える声で謝るお前の声が聞こえてしまった。立ち聞きしてしまったのはすまない」

 

 頭を下げる母上。

 ああ、あやまらないでください。

 わたしの方があやまらないといけないのだから。

 

「聞こえたのは謝っている所だけだった。だから何故、謝ったのかが私にはわからない。最近、お前が悩んでいるのは知っていたがそれに関係する事か?」

 

 寒くもないのにふるれる身体を自分で抱きしめながらわたしは小さく首を縦に振った。

 

「……そうか。本来なら相談されるまで黙っていようと思っていたのだが」

 

 静かにため息をつく母上。

 

「昼間の声を聞いてしまって私が想像した以上にずっと思い詰めているのだとわかった。お前が良ければだが……私に話してくれないか? 何を悩んでいるのかを」

 

 本当に静かに、でもその目はすごく真剣で。

 わたしを心配してくださっている事がわかった。

 だからわたしはすぐにでも話したいと思った。

 

 でも……洗いざらい言ってしまいたいと思っているのに。

 本当に言ってもいいのかが不安で言葉が出ない。

 

 父上と母上がどれだけお互いの事を想っていたかを知っているから。

 父上と駆狼殿を重ねてしまっている、なんて母上にだけは言いたくなかった。

 

「……」

 

 でも心配してくれる母上の気持ちは嬉しくて。

 口を開けば全部を白状してしまいそうだったから。

 わたしは口を閉じてだまっている事しか出来なかった。

 

「そう、か。私ではお前の力にはなれないんだな」

 

 そう言う意味でだまっているわけじゃないんです。

 母上がわたしの力になれないなんて事はない。

 

 さびしそうにする母上の顔を見て、そう言ってしまいたくなった。

 

 でもこの気持ちは……伝えてしまって良い物なのかどうかが私にはわからない。

 伝えて母上がどう思うか、それがこわくてしかたがない。

 

 駆狼殿は「失敗をおそれるな」、「迷惑をかけてもかまわない」とおっしゃったけれど。

 その言葉にしたがって、わからない事や出来ない事は母上や陽菜様たち大人の方に頼ってきたけれど。

 

 この事ばかりは……どうしても誰かに話す事が出来なかった。

 

「いい。何も言うな。そんな泣きそうな顔をさせたくて問い詰めたわけじゃないんだ」

 

 わたしの顔を手拭いでやさしくふいてくれる母上。

 冷たくぬれたその布を見てわたしは自分が泣いている事に気付いた。

 

「……母上、ごめんなさい」

「謝らせたいわけでもないんだが、な」

 

 悲しそうな母上の顔。

 そんな顔をしてほしくなくて、でもどうすればいいのかわからない。

 

 父上……教えてください。

 あなたのように母上を笑わせるにはどうすればよいのでしょうか?

 

 駆狼殿……教えてください。

 わたしが母上を笑わせるにはどうしたらよいのでしょうか?

 

 頭の中に尊敬するお二人のすがたが思い浮かぶ。

 

 お二人の事でなやんでいるのにお二人に助けをもとめている自分に腹が立った。

 

「ふぅ……すまないな。せっかくおいしい料理を食べたと言うのに。こんな話をしてしまって」

 

 さびしそうにあやまる母上。

 その悲しそうな顔を見て自分ののなさけなさにもっとはらが立った。

 

 こんな事でいいのか?

 とそう思った。

 

 母上はさびしそうにしている。

 まるで父上が亡くなった時のように。

 わたしが何も話さないせいで。

 

 自分で自分に問いかける。

 今までずっと前に出さなかった足を自分の心の中に進めていく。

 そうすると、まるでさいしょからわかっていた事のようにするすると。

 

 話していまえばいいんじゃないのか?

 

 なぜ母上がこんなにも心配してくださるのに話さない?

 怒鳴られても、怒られても、それでもわたしの事で母上がかなしむよりもずっと良いんじゃないのか?

 

 わたしはこわがっているだけじゃないのか?

 

 こうしていっしょに食事をするようになった母上とけんかをして、駆狼殿たちが来られる前にもどってしまうのがいやなんじゃないのか?

 

 あっという間に答えが出てしまった。

 わたしは……母上に怒られるのが、きらわれるのが怖かったんだと。

 

「母上……わたしは」

「んっ?」

 

 こんな事ではいけないと強く思った。

 今までに感じた事がないくらいに強くそう思った。

 

「駆狼殿と父上を重ねています」

 

 気付けばあれほど口に出せなかった言葉があっさりと出ていた。

 水を注がれていた器に手を伸ばしていた母上の手が止まる。

 たぶんわたしの言葉におどろいたのだと思う。

 

「あの人と駆狼を?」

「はい」

 

 ずっと言えなかった言葉を言ったせいか。

 その後はまるで器からこぼれていく水のように次々と言葉がうかんで、母上に言ってしまう。

 もう言うのをやめる事はできないと、そう思った。

 

「……そう、か」

 

 ふとした瞬間に父上と駆狼殿が似ているとかんじる事。

 駆狼殿の事を父上と呼んでしまいそうになる事。

 すべてを気持ちのままに母上に話した。

 

「……そうか、お前は餓えていたんだな。父に」

 

 どこかすっきりしたような顔をする母上。

 怒られる事をこわがっていたわたしの頭にそっと手を置く。

 

「よく、話してくれた。すまないな。私はまたお前の気持ちに気付いてやれなかった」

「……う、ぁ」

 

 髪をすきながらやさしくなでられてぐすりと鼻を鳴らしてしまう。

 ああ、だめだ。

 涙をがまんできない。

 

「私に遠慮するな。お前があの人の事を想っている事は知っている。駆狼を慕っている事もだ」

 

 がまんできなくなったわたしは椅子から立ち上がって母上に抱きつく。

 背中に手を回してぎゅっとすると母上もわたしの身体をぎゅっと抱きしめてくれた。

 

「わたしとあの人はな。お前に幸せになってほしいと思っているんだ」

 

 静かに呟く母上。

 

「お前が自由に過ごすのに自分の存在が枷になっていると知ったらあの人はどう思う?」

「で、でもわたし、駆狼殿を父上って……思って、しまって。わたし、には……父上がい、いる……のに」

 

 泣いているせいでうまく話せない。

 

「それのどこが悪い? お前は子供なんだぞ?」

 

 どこまでもやさしくて、まるですき通った水のような言葉。

 

「寂しいと思うのは当然の事だ。父親が欲しいだなんて思うのは当たり前の事だ」

 

 あれほど頼りになる男が傍にいれば尚更だろうな、と母上は続ける。

 

「だがな」

 

 そして。

 

「お前が駆狼の事を父と呼んでも、あの人はお前の父親だ。お前はその事を忘れないのだろう?」

 

 そんな当たり前の事を母上は告げた。

 

「あ……」

 

 その通りだった。

 わたしがあのやさしい父上の事をわすれるはずがない。

 思い浮かべるたびに心をあたたかくしてくれる父上の姿を、その声を、その言葉をわすれるはずがない。

 

「それでも寂しいと感じる事もあるだろう。あの人がもう傍にいない事は事実なのだからな」

 

 母上のおっしゃるとおりだ。

 わたしは……父上がいない事がさびしくて。

 だから似ていると感じた駆狼殿を。

 

「私は構わんぞ。あいつ本人が許すなら呼べばいいさ。それでお前が元気になるならな」

「で、ですが……母上」

 

 本当にいいのだろうか?

 

「寂しい子供の心を『あの二人』が、いや『皆』が理解しないはずがないだろう?」

「……そう、ですね。父上と同じくらいにおやさしいあの方たちなら、きっと」

 

 また涙が出そうになる。

 服の袖でらんぼうに目をこすった。

 

「ほ~~う、なるほど。冥琳がなにやら思い詰めていたのはそういう事だったわけか」

「「!?」」

 

 突然、頭の上からかけられた言葉にわたしも母上も声を上げてしまった。

 

 いつの間にか。

 本当にいつの間にかわたしたちが座っていた卓の横に蘭雪様が立っていた。

 

「ら、蘭雪!? いつからそこに!?」

「お前たちが食事を終えた辺りからだな。声をかけようと思ったんだが、なにやら深刻そうな話を始めたのですぐ傍の卓で聞き耳を立てていたんだよ」

 

 しれっと言い切ってニンマリと笑う蘭雪様。

 

「わ、わたしの悩みはすべて聞かれていたと言う事じゃありませんか!?」

「はっはっは! いやいやすまなかったな、冥琳」

 

 ぜんぜん反省してないじゃないですか!

 あやまり方にせいいが感じられません!!

 

「しかし、あの美命が私の気配に気づかないとはなぁ。それだけ娘に一点集中していたという訳か?」

「ぐ、くぅ……不覚だった。誰かが通りかかる可能性もあったと言うのに」

「奥に座っていたから普通は気付かんだろうさ。私は面白い事があると言う勘に従ってわざわざ店主に頼んで奥に来たからな」

 

 さすが孫家の血筋。

 まさかそんなおおざっぱな事に勘がはたらくなんて。

 

「ええい、まったく! 話はもう終わった!! 冥琳、店を出るぞ!!」

「え、あ、わわ!」

 

 がっしりと母上に手をにぎられる。

 少しいたいくらいの強さだったけれど、すぐに力は抜いてくださった。

 

「あ、おい! 逃げるな、美命!!」

「煩いわ! 少しは自重しろ!」

 

 顔を真っ赤にして歩き出す母上。

 いきなりさわぎだしたわたしたちに困った様子の店員に「釣りはいらん!」と強引にお金を渡して外に出る。

 

「まったく、あの馬鹿者め……」

 

 ぶつぶつとつぶやきながら城への帰り道を歩くわたしたち。

 先ほどまであふれそうだった涙はもう止まっている。

 母上もなんだか活き活きとしているように見えた。

 

 もしかして蘭雪様は、この為に声をかけてきたのだろうか?

 

「ふぅ……まったく。馬鹿者め」

 

 わたしと同じ事に思い至ったのか、母上は苦笑いを浮かべていた。

 

「帰ろう、冥琳。そして明日、駆狼に聞いてみればいい。父上と呼んでいいか、とな」

「……はい!」

 

 

 

 

 この翌日から駆狼は冥琳に父上と呼ばれるようになり、城ではちょっとした騒ぎになった。

 未亡人である美命の子供である彼女が駆狼を父などと呼びだしたのだからその真意を知らない人間から見れば駆狼と美命が夫婦になったと捉えるのが普通であるのだから、それも当然の事。

 

 

 駆狼は祭や塁たちに問い詰められ、蓮華、荀彧、果ては小蓮(しゃおれん)までもが駆狼を父と呼ぶ冥琳を羨ましがる始末。

 唯一、事情を知る部外者である蘭雪は雪蓮と共謀して事態を面白おかしく引っかき回す事に精を出し。

 駆狼の部下である蒋欽や賀斉たちを初めとした者たちが騒ぎ立てるのを切っ掛けに騒ぎは加速する。

 

 この話題は一か月もの間、建業中を小さな混乱に陥れる事になった。

 陽菜は当事者たちから早々に事情を聞き出すと事態を静観し続けていたと言う。

 

 

「あ、あの父上……この兵法の意味についてなのですが」

「ああ、これはだな」

 

 以降、本当の親子のように書庫で語り合う二人の姿が目撃されるようになる。

 


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