とうとう錦帆賊討伐の動きが本格化し始めた。
それも朝廷からの勅命と言う、拒否できない絶対命令として。
大した数でもない賊を退治するのに勅命が出るとは思わず、話を聞いた時は自分の耳を疑った物だが。
美命が言うには十常侍に顔が利くこの辺りの領主が彼らに金を積んで勅命を出させた可能性が高いらしい。
錦帆賊が義賊である事は彼らが関わってきた地域では公然の秘密だ。
地方領主が独断で動けば民の反感を買うのは目に見えている。
だが国と言う誰も逆らう事が出来ない絶対的権力者から命令を出させる事で内心はともかく表立っての批判や反感を抑えつける事が出来る。
この勅命はそう言う意図で出された物と見てまず間違いないだろう。
漢王朝を支える中心である存在が金次第で如何様にも動くと言う現実をはっきりと思い知らされ、世がどれだけ荒んでいるかを俺は改めて実感した。
そしてその事実が、俺には遠からず王朝が崩壊する予兆のように思えた。
先に起こる黄巾の乱からの群雄割拠の事を知識として知っているから、余計に。
勅命として錦帆賊討伐の命令が出た事で、俺達が討伐に参加しないと言う選択肢は完全に断たれたと言って良いだろう。
勅命に逆らうと言う事はそのまま朝廷へ翻意ありと見做されるからだ。
毎日のように行っていた会議の席で討伐に参加しないと言う意見は既に少数になっていたから、これ自体はさして問題ではない。
問題は朝廷から錦帆賊討伐の陣頭指揮を取る将軍が送られてくると言う話だ。
朝廷の命を受けて地方領主の軍がそれぞれで動くのであれば、討伐を達成するに当たってある程度の自由があった。
しかし朝廷から指揮官が差し向けられる事になった今、戦をするに当たっての方針は全てその将軍の指示を仰がなければならない。
その誰とも知らぬ将軍から出される命令に逆らう事もまた、朝廷への翻意と見做されてしまうからだ。
どのような人格の将軍が送られてくるかにもよるが、今まで立ててきた錦帆賊を可能な限り生かす策を実行する事が出来なくなる可能性が高い。
頭の痛い問題だ。
将軍の采配次第で俺達は武勲を上げるどころか深桜の望んだ戦場に立つ事すらも出来ない可能性がある。
考えうる限り、最悪のケースだが充分にありえる。
しかし俺達が将軍を選ぶ事は出来ない。
己の利益を最優先にして他をないがしろにするような人間が送られてこない事を祈る他ないのだ。
「ふっ! はっ!」
解決策の見つからない問題を思案しながら、俺は鍛錬場で『武器』を振るう。
深桜からの使者(勿論、見た目は農民に偽造されていた)から近況を報告する竹簡をもらった時に渡された物だ。
この時代で主流になっている直剣と同程度の長さ(目算だがおよそ三尺ほどだろう)で直径が一寸一分(約三センチメートル)の円形の棍が四本。
それが渡された武器だ。
正直、初めて手に取った時は使い方がわからず首を傾げた。
叩きつけると言う棒状武器の特性上、直剣よりも強度はあるがやはり細く、頼りなく見える。
戟などのこれ以上に太い武器を受け止めれば容易く折れてしまうだろうと予想出来た。
最初は折れる事も想定して四本あり、一本ずつばらばらに使用する物だと考えたが。
四本の棍それぞれの両端が特殊な形状をしている事に気付き、俺はこの武器が恐ろしく癖の強い物である事を理解した。
この四本の棍は棍と棍とを連結させる事が出来るのだ。
しかも組み合わせを選ばない。
どの棍同士であっても連結させられるよう連結部分が全て同じ構造で作られているのだ。
四本すべてを連結させる事も可能で、全てを繋げた時の長さはおよそ十二尺(およそ三百六十センチメートル)になる。
既存の武器ではなかなかお目にかかれない長さだろう。
状況に応じて使い分ける事を念頭に置かれている物と考えられる。
しかし逆に言えば状況に応じて使い分ける事が出来ない人間がこれを使ってもただの四本セットの棍以上の意味がないとも言える。
一本で戦うも、二本を両手で用いて戦うも、連結させて戦うも、使い手の技量次第。
そして何より常に己の状況を見定め、使い分ける冷静さが求められる。
武器とは一般的に万人が使用出来て且つ誰が使用しても一定の成果を上げられる物が優秀だと言われているが。
この武器はその真逆。
使い手に自分を使いこなすだけの技量を求めている非常に偏屈な代物だ。
製作者は一体、どのような考えでこの武器を作ったのか。
どうやってこの時代の技術でここまで機能が完成された物を作る事が出来たのか。
疑問は尽きない。
この武器についてはとりあえず俺が所有する事になった。
それが深桜の意思であるし、連結すれば槍などと同じ長物に分類される武器なので相性としては悪くない。
そもそも既に扱う武器を定めている慎や祭たちには不向きだと言う事情もある。
閑話休題。
こんな物を『餞別』として送りつけてきた深桜の意図は理解している。
残された時間が少ないと言う事を理解しているんだろう。
恐らく今回の接触を最後と決めたのだ。
その証拠に竹簡にはいつもの倍以上の文章が書かれていた。
まるで何かに追い立てられているかのように。
己の死期を悟った老人が残される者たちへ遺言を残すかのように。
書かれていた文は俺の元にいる元錦帆賊の者たちを心配する物と、錦帆賊討伐に関連した近隣の村への根回しについて。
どうやらこちらが事情説明と説得に動くよりも早く深桜たちが自分達が討伐される事、それに建業が参加する事とその意図について彼らが関わりのある村に話をして回ってくれたらしい。
村の人間達も国に逆らう事が出来ない俺達の立場について納得は出来ないまでも理解はしてくれたとの事だ。
勿論、全ての反発を抑えられた訳ではない。
しかしその辺りは事が終わった後に俺達の手で責任を持って対処する事だ。
むしろそこまで深桜たちにやらせてしまっては俺達の立つ瀬が無いだろう。
そして文章の最後は俺や建業の人間への感謝で締めくくられていた。
「ふぅぅうう、せいっ!!!」
やるべき事は未だ山積みだ。
この癖の強い武器を使いこなす為の鍛錬。
もちろん部下たちとの日々の調練もこなさなければならない。
そしてあからさまに動き出した周辺諸侯への警戒を兼ねた領内の哨戒に建業の警備。
錦帆賊討伐に向けた戦略会議と必要な物資の確保も慎達と手分けして行っている。
軍事的な仕事だけでもかなり多い。
これらの仕事に加えて俺は個人的に作物の品質向上を目的にした家庭菜園を作っている。
俺の記憶では黄巾の乱勃発の前後に大飢饉が起こり、国中が餓えに苦しむ事になる。
その対策が出来ればと思って始めた物だ。
とはいえこれについてはまだまだ手探りで、結果が出るには時間がかかる。
農業については広く浅い程度の雑学しか持っていない以上、成果を上げるには時間をかけてじっくりやっていくしかないだろう。
大飢饉に間に合うかどうかは現段階ではわからないが、対策を講じる事を無意味とは思わない。
前世では三十路を越えた頃から身近な環境は非常に恵まれた物であり、飢饉や深刻な食糧不足とは無縁の生活が出来た。
だが今の世では何が原因で食糧難になるかわからない。
それこそほんの少し雨や日照りが長続きするだけでも作物が取れないと言う事もあり得る。
「やぁ! えいっ!!」
まだ幼い子供の声が俺の耳に届く。
父親譲りの反り返った刀で素振りをしている甘嬢改め思春に視線を向けた。
家族とも言える繋がりを持つ錦帆賊の討伐が正式に決まった日。
俺は元錦帆賊の面々と思春を自分の家に集め、事の次第を改めて話した。
彼らの身内を討伐する事になるのだ。
事情を正確に知り、自分の行動を選択する権利が彼らにはある。
建業を見限り去っていく決断をしても、咎める気も罰するつもりも無かった。
彼ら自身、兵役に就く事になった時点でこうなる事は理解している。
だから俺が説明した後も激昂する様子もなく、少なくとも表面上は冷静に事態を受け止めていた。
しかし俺は錦帆賊と言う集団が強い絆で結ばれている事をこの目で見ている。
だから静かに俺の話を聞いていた彼らの様子が、歯を食いしばって堪えているようにしか見えなかった。
そんな彼らの中にいて思春は不自然な程に感情を見せなかった。
「駆狼様。わたしたちは大丈夫です。ずっと前にわたしたちはかくごを決めましたから」
むしろ討伐に参加する以外の選択肢が無い自分達の無力さを謝罪した俺を気遣って見せた程だ。
だが俺にはその姿が泣くのを我慢しているようにしか思えなかった。
家族として過ごす深桜と思春の姿を知っているから、やせ我慢をしているようにしか見えなかったのだ。
元錦帆賊の面々の中では最年少である思春。
この子と同年代でありながら飛び抜けた知性を持つ子供を俺は何人か知っている。
自分が幼い事など関係ないと言わんばかりに、理性的に物事を判断している彼女らはどこか危うい。
特に思春はその剣の腕と身体能力も飛びぬけて高く、将来を期待したくなる頼もしさを感じる。
だが余りにも張り詰めて見えるその様子には何かの切っ掛けで崩れてしまう脆さが目に見えてわかってしまう。
泣きたい時に泣けなくなると言うのは、あまりにも辛すぎる事だ。
溜まりに溜まって爆発する前にどうにかして吐き出させなければならない、この子の気持ちを。
「思春」
「はい! なんでしょう、駆狼様!!」
一心不乱に振っていた剣を止め、真剣な表情で声を張り上げて返事をする彼女を見つめる。
額から流れ落ちる汗は思春の紫色の髪を伝って地面に落ちた。
昼食を取ってからずっと剣を振るっていた為に服にも汗が染み込んでまるで頭から水をかぶったかのような有様だ。
恐らく今、着ている服を絞り上げれば汗が滝のように流れ出る事だろう。
普通に気遣ってもこの子の性格上、なんでもないの一点張りになるのは目に見えている。
自分の事となると一度、こうと決めれば非常に頑なになる傾向が強いのだ。
一体、誰に似たのやら。
そんな頑固な人間を素直にさせるにはどうすればよいか。
幾つか方法はあるが、そのうちの一つを使うとしよう。
多少、骨は折れるがこのまま素直な気持ちを心の底に溜めこんでしまうとこの子自身が危険だ。
子供の未来のために惜しむ骨身など俺には無い。
「これを使った対人戦の訓練をしたい。悪いが付き合ってもらえるか?」
「えっ? 私が、ですか?」
自分を指で示して子供らしい丸々とした瞳をぱちくりする。
俺の提案が予想外で、驚いているのだろう。
最近は誰かと鍛錬をするよりも武器の使い方の研究を優先させていたからな。
この子が驚くのも無理はない。
「ああ。一通り試してこれで出来る事を把握した。後は実戦で鍛えたいから相手を頼みたい」
「わ、私のようなみじゅく者でよければよろこんで!」
「……そう気負う必要はないが、よろしく頼む」
尊敬してくれるのは嬉しいと思う。
だがどうもこの子の場合、行き過ぎているように思える。
まるで一時期、俺と会話するのにも緊張していた冥琳嬢を彷彿とさせる態度だ。
変に緊張し過ぎる所までは行っていないようだが、この辺りも早めに矯正しないと拙いかもしれない。
しかし今はそれは置いておき、お互いに距離を取る。
思春は刀を逆手に構え、俺は四本のうち二本を連結させた棍を両手で縦に構えた。
残り二本の棍は両腰に紐でぶら下げている。
「いざ……」
「まいります!!」
示し合わせたように同時に声を上げ、俺達はお互いの獲物を振りかぶった。
私にはあこがれている人が二人いる。
一人は父。
そしてもう一人が今、たんれんの相手をさせていただいている駆狼様だ。
お二人とも私などでは遠く及ばない武を持っておられ、さらに智にも長けている。
その背中の大きさをわたしは身を持って知っている。
いつか並びたいと願って止まないその背中。
こんなにも近くにいるのに、実力の差はとても大きくて遠い。
幼いころは父に、建業に来てからは駆狼様に、その事を日々のたんれんで思い知らされている。
それでもあきらめようとは思えないのは、お二人の人柄を知っているからだ。
父は自分の強さに『誇り』を持っている。
たたかいとなれば常に一番前に出て、皆を引っ張って敵をたおす。
父がたたかって負けるところをわたしは見た事がなかった。
でも錦帆賊の皆には常々、こう言い聞かせている。
「俺が強くなったのはお前らがいてくれたお蔭だ。一人じゃどっかで野垂れ死にしてたさ」
私には信じられなかった。
たしかに父は仲間と家族を大切にする人だけど、父なら一人でもずっと生きていけるんじゃないかと思っていた。
「人間ってのはな、一人で生きてくには限界ってもんがある。どこかで誰かに、あるいは何かに寄りかからないとぶっ倒れてそのまま死んじまう。そういう弱い生き物なんだぜ?」
私の頭を強くなでながら空を見上げて父は言った。
「俺はそれにぎりぎりの所で気付いた。気付かせてくれたのは想だったな」
力強く笑ったその顔が、私にその言葉を信じさせてくれた。
その日からますます父の事をうやまうようになって、そんな父にたよってもらえるようになりたいと言う新しい目標が出来た。
駆狼様は自分の強さをけっして他人にじまんしない方だ。
けれど日々のたんれんを決してなまけず、いつも真剣にやっている姿はすごく……格好いい。
「俺は家族や友を守るためにどうすればいいか考えて、ずっと努力してきた」
守りたいと思い、自分に出来る事をずっと考えて最初に思いついたのが身体をきたえる事だったと言っていた。
「だが自分に出来る事は限られてくる。身体を鍛えても手の届かない所が必ず出てくる。それを補う為に何をすれば良いかを今度は考えた」
そうしている内にせんじゅつやせんりゃくを考えるようになり、さらには生活を良くする方法を思いついたと言っていた。
「どんな事でも良い。昨日の自分に打ち勝つ事。それが俺の生涯の目標だ。恐らく死ぬその瞬間までこれは変わらない」
まるで今日はここまで歩いてみようとでも言うかのような軽々しさで、あの方は生涯の目標を語ってくださった。
しかしその目は口調とはちがってすごく真剣で。
その言葉がうそではないとわたしにはそう思えた。
初めて出会ったあの日のあの時から、その言葉がずっとわたしの心に残っている。
そんなお二人が私にとっての目標で、あこがれになるのは当たり前の事だった。
特に駆狼様へのあこがれはこうして建業に仕官してから日に日に強くなっている。
けれど。
決して口には出さないけれど。
私はお二人がたたかわなければならない事をこわいとも思っていた。
少し前にその時が近づいている事をわたしたち錦帆賊だったみんなは駆狼様の口から聞かされている。
みんな、その事に何か言ったりはしなかったけれど。
仲間とたたかう事がいやだって思っている事がよくわかった。
駆狼様も父たちとたたかうのをいやだと思ってくださっている。
私もそうだ。
そんけいするお二人がたたかう。
そしてどちらかが……死んでしまうかもしれない。
その場に私がいるかもしれない。
そう考えるととてもこわくて……でもみんなが同じ気持ちだから誰にも言う事ができなくて。
駆狼様もなにかに苦しんでいるご様子で父からのおくり物だと言う武器を振っていた。
真剣だけど、いたみをがまんしているようなご様子で声をかける事も出来なかった。
そんな駆狼様から相手をしてほしいと言われた時はすごくびっくりした。
じゃまをしてはいけないと思って、でもなんとなく近くにいたくて傍で剣を振っていたのだけど。
声をかけてもらえるとは思わなかった。
「いざ……!!」
「まいります!!」
今までの素手でのたたかいかたとは違う、駆狼様の新しいたたかいかたが見れる。
そう思うと不思議と今までの不安が消えていくように思えた。
勝負は長くは続かなかった。
今までのたたかいかたも、足、手、全身を使って何をされるかわからないこわさがあった。
でもこの棒が新しく加わった事で、どういう攻撃が行われるかがわたしにはまったくわからなくなっていた。
二本の棒をつなげて突きを放ったと思えば、まるで自分の放った突きを追い抜くようなはやさで矢のようなけりが放たれる。
けりをかわせたと思ったら、腰につけていた棒をようしゃなく投げつけられ。
それを剣でなんとか弾いたと思えば、その手をうでで絡め取られ、気が付けば身体が一回転して地面に叩きつけられていた。
何が起きたのかまったくわからないまま、わたしは負けていた。
「ふぅ、すぅ、……まだまだだな」
深く息を吸って吐き出しながら、魚が釣れなかった時の父を思い出させるふまんそうな顔で呟く駆狼様。
「これ、で、まだまだ……だなんて……」
あんまりな言葉に大の字で地面に転がったまま息を整えるわたしを見下ろしながら駆狼様は手を差し出した。
「大丈夫か、思春」
ああ、やめてください。
その父と良く似た顔をするのは。
私を愛してくださる父のような、まるで私を包み込もうとするかのようなその温かい手を差し出すのは。
がまんが出来なくなってしまうではないですか。
「う……ありがとう、ございます」
思わずのどがひくついて目元がゆるんでしまう。
こぼれそうな涙をこらえながら手を貸して下さったお礼を言う。
声がふるえてしまっているのが自分でもわかった。
でもだめだ。
みんなが苦しんでいるのにわたしだけ弱音を言うわけにはいかない。
ごつごつとした温かい手をお借りして立ち上がると汗を拭うふりをしながら目から出そうになった涙を拭く。
「気にするな」
服に付いた土を軽く叩いて落としてくださる駆狼様。
ふれる手の温かさが気持ちよくて、されるがままになっていると駆狼様の右手がわたしの頭に置かれた。
「もう良い時間だ。俺は汗を流したらそのまま食事に行こうと思うが良ければ一緒にどうだ?」
「あ、えっと……私がごいっしょして良いのでしょうか?」
「俺が行こうと誘っているんだ。良いのか、なんて聞き方はしなくていい。勿論、お前が嫌でなければだが」
「そんな事はありません! わかりました、ごいっしょさせていただきます!!」
私が駆狼様の事をいやがるなんてありえない。
そんな思いで声を張り上げてしまった。
「そうか、なら汗を流した後に城下の案内板の場所で待ち合わせよう」
「あ、あう……わ、わかりました!」
思わず上げてしまった大声が恥ずかしくなってわたしは逃げるように鍛錬場を出て行った。
駆狼様からはなれると、さっきまで消えていたこわい気持ちがまた出てきた。
父と駆狼様。
どちらかが死んでしまうかもしれないというこわさを思い出してしまった。
どちらにも死んでほしくない。
だってどちらが上かなんて比べられないくらいに私はお二人の事をそんけいしているから。
「う、うう……」
頭に感じていた温かさを思いだして、今はそれが無い事がすごく心細かった。
涙が出そうになるのをがまんして、駆狼様をお待たせする事がないよう汗を流す為に井戸に向かって走り出した。
「あっ!?」
「きゃっ!?」
前をよく見ないで走っていたせいでだれかとぶつかってしまう。
ずっとたんれんをしていて疲れていたせいで、わたしはぶつかった相手に弾かれるように尻もちをついてしまった。
「ご、ごめんなさい……」
あわてて相手にあやまる。
なんだかなさけない気持ちになってさっきまでとはちがう気持ちで泣きたくなってきた。
今にも出そうになる涙をぎゅっと抑え込んで立ち上がろうとするけど、足がふるえて上手くいかない。
またなさけなくなってぶつかった人に顔を見られないようにうつむいた。
「わ、私は大丈夫よ。それよりも貴女は平気?」
「えっ? あ……」
いきなりぶつかってきた相手を心配しながらそっと手を差し出す相手。
その予想外の手の小ささにわたしは思わず声を上げて顔を上げてしまう。
そこには同じくらいの年の、でも私なんかとは全然ちがうふんいきの女の子がいた。
「どうしたの? やっぱりどこか痛いの?」
その子、いやその方の事は知っていた。
建業に来てから何度か遠目で見た事があったから。
守るべき人として教えられていたから。
「孫仲謀、様……」
わたしにとってこの日は。
一生を共にする友人であり。
守りたい人であり。
そしてお仕えする主を見つけたとても大切な一日になった。