乱世を駆ける男   作:黄粋

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第五十四話

 屈強な門番二人は夏侯淵が事情を話すと俺たちに恭しく頭を下げ、一人が屋敷の中へ消えていった。

 

 俺たちは数瞬の間を置いて移動を促す夏侯淵に従い、屋敷の中へ足を踏み入れる。

 屋敷は門番が中に入ってから、外からでもわかるほどに騒々しくなっていた。

 おそらく俺たちの来訪は彼らにとっても想定外だったのだろう。

 だがここまで空気が浮つくとは思わなかった。

 

 通されたのは待合室と言うには豪華な造りの部屋だ。

 用意された椅子に俺と陽菜が腰掛け、対面の席に夏侯淵が座る。

 思春は俺たちの護衛という事で俺と陽菜の後ろで直立不動だ。

 

 そして対面に座った彼女は控えていた侍従に目配せした。

 おそらく飲み物でも持ってこさせようと言うのだろう、彼女の視線を受けた侍従はこちらに一礼して姿を消す。

 

「お呼びたてしておきながら大変申し訳ありませんが、しばしこの部屋にてお待ちください」

 

 心底申し訳なさそうに頭を下げる夏侯淵に気にするなと答え、しばし彼女も交えて歓談する。

 やがて届いた飲み物をありがたくいただき、喉を潤しながら俺たちはその時を待った。

 

 彼女は俺たちが待ちぼうけしないようにと様々な話を振ってくれ、退屈する事はなかった。

 気遣うのが上手いというか、フォローが上手いというか、非常に手馴れている。

 普段から誰かを気遣う事に慣れているんだろう。

 

 しばらく談笑していると屋敷を包み込んでいた慌しい雰囲気が収まり始める。

 やがて屋敷全体が静謐を取り戻した頃、部屋に控えていた侍従とはまた別の女性が会釈と共に静々と部屋を訪れ夏侯淵に何事か耳打ちした。

 

「準備が出来たようです。孟徳様の元へご案内しますのでどうぞこちらへ」

 

 夏侯淵の先導に従い、それまで待合に使われていた部屋を出る。

 忙しなく周囲を睥睨する思春の落ち着かない様子に陽菜と共に苦笑いしながら彼女の後についていった。

 

 やがて夏侯淵の歩みは、豪奢な造りが為された両開きの扉の前で止まる。

 

「孟徳様。妙才です。凌刀厘様、孫幼台様、その護衛の者をお連れしました」

「ええ、入って頂戴」

 

 想像通りの若い声に夏侯淵が頷き、そっと扉を開く。

 そのまま開いた扉の前へ立ち、会釈しながら右腕で部屋の中を示して無言のまま俺たちに入室を促した。

 

「初めまして。建業の方々。私は陳留の太守を任されております曹孟徳と申します」

 

 座っていたのだろう椅子から立ち上がり、金髪を縦ロールにした少女が名乗る。

 その瞳には、彼女が曹操である事を納得させるだけの苛烈な意志が宿っていた。

 

 

 曹操孟徳(そうそうもうとく)

 三国志で一、二を争う知名度を誇る人物だろう。

 おそらく三国志を知らなくとも名前だけなら知っているという人間も多いはずだ。

 若い頃から機知に富んでいたが素行は決して良くはなかったと言われているが、それでも彼の周囲には人が集まり賢人たちは彼を評価したと言われている。

 『治世の能臣、乱世の奸雄』という評価はこの頃に受けた物だと聞いた事がある。

 黄巾の乱から端を発した乱世を駆け抜け、その人生は波乱万丈。

 華北を支配する王朝として曹魏を造り上げた男であり、家柄や品行にとらわれず才能ある人材を積極的に登用。

 権力者すらも規律に従い罰するという当時の風潮からすれば破天荒な事を平然と為したとされている。

 文武両道を地で行くある種の完璧超人の体現者だが、そうであるが故に他者との衝突も少なくなくまた敵も多かった。

 群雄割拠の世で勝利と敗北を最も経験し、それでもなお病死するまで激化する歴史の中心に身を置き、その才覚を存分に発揮したと言われている。

 

 

 そんな曹操と俺たち。

 現在の地位といい本人の持つ家系といいどう考えてもこちらの方が格下のはずなのだが、彼女の言葉の端々には夏侯淵にも感じた俺たちへの並々ならぬ敬意が込められていた。

 何故と疑問に思いながらも返事を返そうとするが、俺が行動するよりも早く彼女の隣にいた黒髪の少女が動いた。

 

「わ、私は夏侯元譲(かこう・げんじょう)と申します! お会いできて光栄です!」

 

 何故か、曹操以上の尊敬の念と共にキラキラとした瞳で名乗られた。

 この子があの夏侯惇か。

 

 

 夏侯惇元譲(かこうとんげんじょう)

 夏侯淵同様、曹操の配下の中でおそらく一、二を争うほどに有名な武将の一人だ。

 曹操が挙兵した頃から一部隊の将として付き従い長い戦いの日々を共に過ごしてきた男で、軍の遠征中であっても行く先々で師を迎えその授業を受けていたほど勤勉だったと言われている。

 しかし同時に苛烈な気性で少年期に学問の師を侮辱した男を殺したとも言われている。

 左目に流れ矢を受けて見えなくなっても尚、武将として他武将に劣る事はなかったとされている。

 清貧で慎ましやかな性格だったようで自身が贅沢をする事はほとんどなく、余財が出るたびに人々へ分け施し己が死した時の埋葬品は一振りの剣だけだったという逸話を持っている。

 

 

 まぁ今までも性別が反転している例は幾らでもいたし、俺の知識と性格その他に大きな違いがある人間もいた。

 今更、この程度のギャップで驚くような事もない。

 有体に言えば慣れてしまった。

 とはいえだ。

 彼女らに共通して感じ取れる俺たちに対する尊敬の念は一体なんなのだろう?

 

「他領の太守様に名乗られてしまってはお応えせねば礼を失する事になりましょう。私は孫幼台。建業にて政務に携わっている者でございます」

 

 玖龍を俺に預けてから、屹然とした態度で名乗り立場の差を考えてその場に膝を付こうとする陽菜。

 しかしその行動はやはり彼女らに遮られてしまう。

 

「ここは公式の場ではございません。私のような小娘に貴方方が立場を理由に謙(へりくだ)る必要はございません」

 

 一本芯の入った語調は気の弱い者が聞けば威圧的に感じるものだが、それでも精一杯に抑えようとしているようだ。

 だが何故そうまでして俺たちを立てようとするのか、疑問は膨らむばかりで流石の陽菜も首を傾げている。

 

「うふふ。そう。貴方がそう言うのなら少し楽に話させてもらうわね?」

 

 しかしそこは陽菜だ。

 彼女の言葉にこちらを害しようとする意志がないとわかれば相手に合わせてすんなりと態度を改めてしまった。

 

「刀厘。貴方も彼女のご厚意に甘えておきなさい」

「……一介の武将程度が太守様に対してそのような事は出来かねます」

 

 彼女らが俺たちに敬われるのを望んでいないという事は今の会話でわかっている。

 しかし言質くらい取っておかなければならないだろう。

 俺とてくどいやり取りは好きではないが、それでも必要な事だ。

 

「その太守様直々の要請なのだから、受けない事こそ失礼に当たるわ」

「……よろしいのですか?」

 

 疑問の言葉は曹操への確認だ。

 彼女はこちらの意図を読み、真剣な表情で頷いた。

 

「では少し気安くさせてもらおう。もしも無礼と感じたら言って欲しい。こちらのやり方が合わない事もあるだろう」

「いえ。突然のお呼び出しに加えてこのような不躾なお願いを聞いてくださった事、感謝いたします」

 

 どこまでも真摯な回答は噂に聞く十常侍と一悶着起こしたという曹操とも、俺が知識として知っている曹操とも異なる。

 一体彼女は俺たちに何を見ているのか。

 

「妙才、椅子をお出しして」

「御意」

 

 部屋にあった造りの良い椅子が俺と陽菜の後ろに差し出される。

 そっと腰を下ろし、テーブル越しに曹操たちと向かい合った。

 俺たちが向かい合うのを見計らって控えていた侍従が人数分のお茶を座卓に載せた。

 

「そちらがよろしければご子息は侍従がお預かりしますがどうなさいますか?」

「ではお言葉に甘えさせてもらおうか」

 

 曹操の提案を受けてこちらに近づく侍従の女性に玖龍を預ける。

 赤の他人の手に入ったというのにこの子は泣く事もなく、新しい人物を興味深げに見つめていた。

 我が子ながら肝が据わっている。

 部屋の隅へと下がる侍従から目を離し、改めて曹操たちと向かい合った。

 

「まずはこうして直接お話できる機会をいただき感謝いたします。そして貴方方が疑問に思っているであろう事についてお話します」

 

 あちら側もこちらが内心で疑問に思っている事は承知の上だったようだ。

 俺たちは背筋を伸ばし椅子に座りながら緊張を解く事なく対面する曹操を見つめ、その後ろに控える夏侯惇、夏侯淵を視界に収める。

 

「私は貴方方の、建業のこれまで行ってきた治世という物を見てきました。太守交代からこれまでの建業の躍進を。他に類を見ない発想の政策を。それらを実行する行動力を……」

 

 じっとこちらを見据える曹操の言葉は少しずつ熱を帯びてきている。

 

「知れば知るほどに私は貴方方への尊敬の念は増し、敬意を抱くようになりました。それが私たちの貴方方への態度の理由です」

 

 彼女瞳の奥に尊敬の念に隠れて嫉妬や悔しさといった感情が見えていた。

 

「私にはどれも思いつく事はなかった。治安向上の為に兵の詰め所を街中に一定間隔で配置するなんて事は……」

「太守交代をしてすぐの頃の政策ね。建業は前太守の着服金の用途に困っていたから全て公表した上で街の区画整理と併せて盛大にやらせてもらったわ」

 

 曹操の語り口から当時の様子を思い出し、懐かしげに陽菜は語る。

 

「資産を思い切りよく扱う事が出来るという事そのものが今の太守の中でどれだけの人が出来るか。……私の父も保守的な人でしたから……そのような資金があったとしても『もしもの時の為に』とでも言って使おうとはしなかったでしょうね」

 

 父親に対して思うところがあるらしい。

 引き合いに出す辺りで、口調に苛立ちが混じった。

 嫌っている、というわけではないようだが……俺たちと比べて父親を不甲斐ないと思っているといったところか。

 

「保守的な事その物は決して悪い事ではないわ。悪い所に見て見ぬ振りをするというのとは違うもの」

「それでも肝心な所で腰が引けてしまっては他者に出遅れてしまいます。いいえ、既に貴方方に出遅れている。今の陳留の安定も貴方方の政策について分析し、理解し、流用してようやく形になってきたものです。……このままでは駄目なのよ」

 

 最後の言葉はつい口をついて出たような呟きだった。

 何かに急かされているような、生き急いでいるような、焦燥感に満ちた言葉だ。

 その言動はどこか不安定で危なげに聞こえ、控えている夏侯淵の表情が心配げな物に変わる。

 

 ここまでの曹操の言動から、どうやら彼女は俺たちへ強い対抗意識を持ち、それが空回りしているように見受けられた。

 具体的に言うならば俺たちの出した成果ばかりに目がいき、自分たちの足元が見えていないと言うべきか。

 これは良くない。

 

「陳留の街を少し見たが……」

 

 曹操の言動の熱を下げる為に、そしてこの子の初対面の自分たちですら感じ取れる焦燥に歯止めをかける為に。

 俺は口を挟む事にした。

 部屋の中にいる人間の視線が俺に集まる。

 

「この街は良く管理されている。各所に置かれた立て板で取り締まる事柄を明記し、その傍には兵の詰め所を置く。さらに定期的な巡回によって犯罪を起こす隙を失くす。結果、民は犯罪行為に怯える必要なく伸び伸びと暮らしているように見えた。曹太守、俺たちは治安維持の面で建業は陳留に劣っているという話すらしていたんだぞ」

「えっ?」

 

 俺の言葉がよほど意外だったらしい。

 少女らしい声と共に彼女は目を見開いた。

 

 これはもしかしなくとも敵に塩を送る行為なのかもしれない。

 彼女の表情を見ている俺の脳裏にそんな考えが過ぎった。

 しかしその考えは俺の口を閉じさせるほどの効果はない。

 曹操は建業にとって確かに敵になる可能性が高い。

 しかしこの陳留を治めている彼女は確かに民の生活を考える名君だ。

 このまま潰れてしまうのをただ見ているというのは、民を見捨てる事に繋がる。

 それは、やはり俺には許容出来なかった。

 

「もちろん劣ったままで済ませるつもりはない。この場所で行われている事については粒さに見させてもらい、うちに使える事は吸収させてもらう予定だ」

 

 侍従が持ってきてくれたお茶に口をつけ、彼女らに言葉の意味を吟味する間を設けながらゆっくりと言葉を続ける。

 

「先ほどからの君の言動には焦りを感じる。それが俺たちへの対抗心や競争心から来ているのならば……自分の治世に自信を持つ事だ。君のやった事は間違いなくこの地を発展させている」

「ですが私には貴方達のような発想力がありません。……新しい作物の栽培、少数精鋭とはいえ部隊の一人一人の実力向上。今の私は……貴方にはとても敵わない」

 

 執念すら感じられる瞳に、羨望と嫉妬の色が濃くなる。

 

 違う。

 俺は君の考えているような完璧な人間でも距離が測れないほど遠い人間でもないんだ。

 それを伝えられるよう俺は殊更にゆっくりと、己で噛み締めるように言葉を紡ぐ。

 

「考えてもどうにもならない事はある。どれだけ必死にやろうとしても出来ない事もある」

 

 俺があの娘たちを救えなかったように。

 

 思い出されるのは桂花と、そして桂花よりも先に人身売買に出された者たちの事。

 今も捜索は続けられているが、既に一人を除いてその死亡が確認されていた。

 桂花が友達になったという戯志才(ぎしさい)という子の消息だけがまだわからない。

 

 俺が救えなかった数多い者たちだ。

 

「君は強い人間だ。無論、単純な腕っ節の話じゃあない。しかしだからこそ知らない事も多いんだ。周りを見渡しなさい。傍で支える者の気持ちを知りなさい。君に感謝している民の言葉を知りなさい。君が為した事の結果をしっかりとその目で見なさい」

 

 俺の言葉がどこまで通じたかはわからない。

 しかしじっと考え込むように黙り込んだ彼女から目を逸らす事だけは出来ない。

 

「俺たちが民にとって効果的な政策を行えたのは民の立場から何を望んでいるかを具体的に知っていたからに他ならない。日々の生活の中で民と積極的に関わってきた成果であり、俺などは民上がり。何が必要か何に困っているかなどそれこそ自分の事のように考える事が出来た。不満など昔からあったんだ。決して閃きや天啓などではない。失礼な言い方になるが、書面あるいは外側からでしか民の生活を知らない君たちでは及ばぬ着想という事になる」

 

 ただただ曹操という名の少女との話に集中する。

 

「知っているか知らないかの違いなのだから、知る努力さえ怠らなければ君たちにも出来るはずだ。誰かが言っていた。無知は罪ではない。知ろうとしない事が罪なのだ、と。この僅かなやり取りでも君の聡明さは理解できた。だからこそ俺たちを気にするあまり足元を見ることを疎かにしてはならない。視野を狭めてはならない」

「……」

「何度でも言う。君たちは現時点で俺たちよりも上手く領地を治めている。自信を持ちなさい」

 

 その言葉にどのような意味を見出したかは曹操本人にしかわからない。

 わからないが、俺を見つめる瞳から焦燥感のような物は見えなくなっていた。

 

「熱くなってしまいました。申し訳ありません。……ご忠言はありがたく」

 

 静かな言葉だ。

 冷静になったとは思うが、まだ頭の中では色々な考えが渦巻いているのだろう。

 すぐに解決する物ではない。

 ここからは彼女と彼女たちが考える事だ。

 

「謝るのはこちらだ。初対面の身でずいぶんと知った風な事を言ってしまった」

 

 お互いに軽く謝罪し、それを切っ掛けに話を切り替える。

 

「曹太守。君は知っているか? 大陸の外から襲ってくる脅威を……」

「それは……異民族の事でしょうか?」

 

 神妙な表情を浮かべ確認する曹操に頷く。

 

「俺たちも所用で西平に行った時に初めて対峙したのだが……もしもヤツラと相対する事があったなら気をつけてくれ。ヤツらは強さとは違う異質さを持っている。そしてその異質さは隙を見せれば大陸を蹂躙する脅威となりえるほどの力を持っている」

 

 俺は西平で見た異民族の全てを彼女らに語った。

 信じ難いほどに漢民族を殺す事に執着した異質な行動を。

 どれほど重傷であろうとも食らいつく、己が命すらも投げ捨てる異質な行動を。

 

 彼女たちは話した当初こそ俺たちが語る異民族という存在が信じられなかったようだが、俺たちの真剣な様子に少なくともただの戯言として聞き流すような事はしなかったようだ。

 

「一人一人は決して強くはない。だが何をおいてもこちらを殺す事を優先し、その為ならば自身の命を平然と捨てる事ができると言うのは脅威だ。だから気をつけてくれ」

「なぜその事を私たちに?」

「これが領土を越えたこの大陸全体の問題だと考えているからだ」

「彼らの漢民族に対する殺意は、大陸を血の海にしても収まらないわ。きっと、少なくとも仮面の彼らに限って言えばこちらを根絶やしにするまで止まらないし止まるつもりもないのだと思う。だから一人でも多くの人たちにその脅威を知って対策を取って欲しいの」

 

 難しい表情で話に聞き入っていた曹操たち。

 そこで異民族についての話はそこでお開きになった。

 真の意味で俺たちの言葉を理解する為には、実際にヤツラと対峙しなければならない。

 これ以上言える事がないのだ。

 

 話が一段落した瞬間、今までずっと話を聞くだけであった夏侯惇がずぃっと前に出た。

 

「凌刀厘様! 錦帆賊頭領『鈴の甘寧』を打ち倒したという貴方にお手合わせをお願いしたい!!」

 

 今までの流れを完全に無視した発言に俺は目を瞬く。

 勢い込んで俺に話しかける夏侯惇の鼻息は興奮で荒く、その目は今まで以上にキラキラ輝いていた。

 

「ちょっと、元譲! 不躾よ!」

「姉者、我慢できなくなったのか……」

 

 夏侯惇を諌める曹操。

 夏侯淵は額に手を当てて、天井を仰いでいる。

 

 陽菜も思春も驚いて目を瞬いている。

 だが思春は素早く正気に戻り、俺と夏侯惇の間に割って入ろうとする。

 

「きさまっ……!?」

 

 俺は護衛の役目を全うせんとした彼女の肩を抑えて止める。

 

「いい、甘卓」

 

 俺が制した事で彼女は渋々ではあるが引き下がり、俺と陽菜の後ろへと戻った。

 

「元譲殿。手合わせするのは構わない」

 

 俺が同意するとぱぁっと彼女の顔が明るくなった。

 

 なんだろうな。

 周りには年の割りに大人っぽい子供が多かったから、こういう反応はなんだか新鮮だ。

 

「しかし今日はもう日が暮れる時刻だ。だから明日、日が昇った後に改めてでも良いか?」

「「「「あっ……」」」」

 

 甘卓と曹操たちの声が唱和する。

 窓の外が薄暗くなっている事に彼女たちは俺に言われるまで気付いていなかったようだ。

 

「そ、そうですね。ご配慮ありがとうございます」

 

 勢い込んで約束を取り付けた事が恥ずかしかったのか、夏侯惇はぱたぱたと曹操の後ろへと戻っていった。

 

「はぁ、凌刀厘様。部下が失礼をしました」

「いや、失礼と言う程の事ではない。では続きは明日という事で今日はここまで、でいいか?」

 

 部下の暴走に蟀谷を押さえながら、曹操は咳払いを一つして頷いた。

 

「わかりました。では明日は日が昇った頃に妙才を迎えにお出しします」

「わかった。宿の場所は西門の傍にある宿だがわかるか?」

「存じ上げております」

 

 夏侯淵が頷くのを確認し、曹操は次に夏侯惇を見る。

 

「では元譲、孫幼台様たちを宿までお送りしなさい」

「はいっ!」

「……あまり張り切り過ぎないようにね」

 

 背筋を伸ばしてはきはきと返事をする夏侯惇の姿に、曹操はまたしてもため息を零す。

 その年季の入ったため息だけで、この子が暴走するのが割と頻繁にある事のようだとわかった。

 

「あ、そうだ。私の事は真名で呼んでちょうだい。陽光の陽に山菜の菜で陽菜って言うの。次からはそれで呼んでね」

「幼台様!?」

 

 物のついでのように真名を預ける陽菜に思春が目を剥いて驚愕の声を上げる。

 

「あらあら、そんなに驚かなくてもいいでしょう? 私が許したくなったというだけだもの」

「そういう事ならば俺も名乗っておこう。真名は駆ける狼と書いて駆狼だ」

「刀厘様まで!?」

 

 思春は咎めるように叫ぶが、自分の真名を預ける事にそれほど抵抗のない俺たちとしてはまぁこんな物だろう。

 あちらが預けるかどうかはまた別の話だからな。

 

 とはいえこちらの真名を預かった事はあちらにとってかなり衝撃的な事だったようで、あちらも喜んで真名を預けてくれた。

 曹操が華琳(かりん)、夏侯惇が春蘭(しゅんらん)、夏侯淵が秋蘭(しゅうらん)なのだそうだ。

 ちなみに彼女らは思春にも真名を預けている。

 どうにもこの子の実力についても間諜の類から報告を受けているらしく、その腕前は真名を許せる程度に認めているという事らしい。

 

 そして思春も渋りはした物の相手から預けられた事もあって最終的に真名を預ける事になった。

 

 余談だが真名についてのごたごたのせいで屋敷を出る頃には完全な夜になっていた。

 

 


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