乱世を駆ける男   作:黄粋

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第五十七話

 駆狼らが陳留を出て建業への帰路についている頃。

 とある場所では一人の少女に過酷な運命が課せられようとしていた。

 

 この時代の貴族、賢人の物としてやや質素な屋敷。

 その中の一室で妙齢の女性が目を伏せていた。

 

「……よもやこのような真似に出るとは。このような事まで罷り通る程に朝廷は腐り果ててしまっていたと言うのですね」

 

 彼女は手に持っていた竹簡、そこに書かれている勅命の内容に歯噛みしながら己の見通し不足を恥じる。

 

「お母様……」

「桂花……」

 

 普段、自身の前では決して見せないだろう母の様子に少女は物問いたげな様子だ。

 しかしそんな愛しき我が子に対して気を遣う事が今の彼女には出来なかった。

 桂花のこれからを思うと、表情を取り繕うことが出来なくなるのだ。

 

「貴方を2人の皇太子様の世話役として宮廷に招きたいと……」

 

 幼い少女たちの、この漢王朝を担う者の養育。

 字面だけを見ればこれ以上ないほどの名誉であり、誇らしい仕事のはずだ。

 しかしそれがただの口実でしかない事を彼女も、そしてこの少女も知っている。

 現在の国の長たる霊帝が宦官たる十常侍の傀儡である事は漢王朝で役職を持つ者はもちろん、今や民草ですらも知っているような事だ。

 傀儡であり政治にまるで関与しない皇帝が息女である二人の教育係として桂花、荀家の才女として頭角を現し始めた『荀彧』を指名する。

 裏には確実に十常侍が関与している。

 奴らの思惑はこの二人には見え透いている。

 自分たちに何かと反抗的な『荀家』に対する人質だ。

 今、荀家で最も才気に溢れ、底の見えない伸び代を持つこの少女を手元に置く事で、反抗的な彼女ら一族に対する楔とし将来的な家の力を削ぐことが狙いだろう。

 

「(幸い既に我が家で出来る教育は全て済んでいる。この子は手塩にかけた、どこに出しても恥ずかしくない自慢の娘になってくれた。この子自身の想いも手伝って……)」

 

 愛娘が賊に連れ去られたと聞いた時は彼女自身、目の前が真っ暗になるほどの衝撃を受けたものだがそれもとある者たちのお蔭で事無きを得た。

 絶望的な状況すらも覆すほどの天運を味方につけ、それすらも己の糧へと変えてみせた我が子。

 その才覚故に『この時代の悪意』に目をつけられてしまった。

 

「桂花。どうやら貴方は十常侍の目に留まってしまう程に目立ちすぎたようです。迂闊な母を、貴方を守る事が出来ない母を、恨んでくれて構いません」

「いいえ、そのような事はありません。私が『親友たち』に負けぬようにと、『あの方たち』から受けた恩に応えようとした事が原因です。せめてもっと周囲に気を配っていれば良かった。……これは私の失態です。お母様を恨むなど筋違いでございます」

 

 己の進退のかかった重い問題を前にも桂花は、俯く事無く背筋を伸ばして毅然とした態度を取る。

 頼もしいと感じ、彼女の心を救ってくださった『建業の方々』へ彼女は母として改めて感謝の念を抱いた。

 

「でも、不安なのでしょう。私の前でくらい弱い所を見せてください。私は貴方の母親なのですから」

 

 彼女はそう言いながら、そっと我が子の手を握る。

 桂花は己の動揺を隠そうと努力していたが、それでも僅かな震えまでは抑えられなかったのだ。

 手を握れば彼女にもその震えが如実に伝わる。

 いくら聡明であろうともこの少女はまだ子供なのだと言う事が伝わる。

 

 そして自身にはそんなか弱い我が子を守る力すらもないのだと、荀毘いや立花は再認識してしまう。

 

「ごめんなさい、桂花。私たちにもっと力があれば……十常侍を糾弾するだけの力があれば……」

 

 勅命に逆らう事は出来ない。

 彼女の立場では許されない。

 

「(このような事になる前に建業の、信頼に足る凌刀厘殿たちの元へこの子を紹介しようと考えていたというのに……一足遅かった。)」

 

 この命に逆らえば彼女だけではない。

 一族そのものが罪に問われるだろう。

 そうなれば自身や姉はもちろん互いの子や親族たちの全ての者たちが犠牲になってしまう。

 

「お母様。私は大丈夫です。この任、やり遂げて見せます」

 

 人身御供である事に聡明な少女が気づいていないわけがない。

 だと言うのに決意が身体の震えを止め、この子供の目は真っ直ぐに母の目を見据えていた。

 

「ごめんなさい。そしてありがとう」

 

 桂花は荷造りをする為に何人かの侍女を連れて部屋を後にした。

 

 

 

 一人自室の机に向かい、立花は今の情勢を考える。

 

「(結局、私たちでは無法を正す事は出来なかった。僅かな抵抗ではどうにも出来ない事を実感させられただけ)」

 

 もっと劇的な変化を起こさなければならない、と彼女はそう考えていた。

 

 既に王朝の力は誰が見てもわかるほどに衰退しつつある。

 各地を治める者たちの横暴が目に付くようになってきたのは、『好き勝手やっても大丈夫だ』という王朝への侮りがもたらしている物だ。

 事実、賄賂さえ贈れば領地でどのような事をしていても、朝廷は見てみぬ振りをする。

 建業を初めとした少数の領地で行われている善政も、至る所で行われている悪政さえも。

 より近い位置にいてその様子を見る事が出来た立花は、だからこそ長くは持つまいと確信していた。

 

「十常侍……貴方方の天下は遠からず終わる。どのような形であれ」

 

 貴方方のやり方ではこの大陸に芽吹き始めた新芽を刈り取る事は出来ない。

 民草の不満は、何らかの切っ掛けを伴って爆発するだろう。

 火種はどこにでもあるのだ。

 

「勇平殿」

「ここに」

 

 私の呼びかけに応えて前触れも無く部屋に現れ、私の前で膝を付き頭を垂れる男性。

 姉と私が雇っている密偵である。

 その腕前と人柄を私たちは信頼している。

 

「貴方にお願いがあります」

「私は貴方方に雇われた者ですからお願いなどとおっしゃらないでください。私は仕事をきっちりこなすだけでございます」

「ふふ、貴方も相変わらずですね。お願いと言うのは……桂花の事です。影ながらあの子を守り最悪の事態を防いでいただきたい。私たちよりもあの子の、引いては霊帝やそのご息女方の身を守って欲しいのです」

 

 彼女の命令に、周洪は元から細い目をさらに細める。

 この命令が口で言う程、容易い物ではない事を察しているのだろう。

 

「この命令は姉の許可を得ております。そして幾つ物年を跨いで続く長い期間に渡る物となり、そして危険も伴うでしょう」

 

 じっと彼の目を見つめる。

 静かな瞳と視線が合わさった。

 

「それでもやっていただけますか?」

「……」

 

 しばしの沈黙。

 僅かな間、目を閉じた彼はその瞳に確かな決意を表しながら頷いた。

 

「謹んでそのお役目お引き受けいたします(このお役目にあの子を連れて行くわけにはいかない。預けるとすれば……やはりあそこしかないだろうな)」

「ありがとう」

 

 勇平はすぐにその場を後にした。

 彼にも準備が必要だという事だ。

 その様子に全力でこの職務に臨むという意志を感じ取り、荀毘は安心感を覚える。

 

 しかしすぐに切り替えるように首を振り、緩みかけていた心を引き締める。

 

 これでもまだ完璧ではないのだろう。

 腐っても国の中枢を担う者たち。

 

「(なんらかの策略にあの子も含めて利用しようと企むはず。……しかし私にはもはやあの子が魔窟であるあの宮中で上手く立ち回れる事を祈る事しか出来ない)」

 

 おそらく桂花は太子様方と共に限りなく隔離に近い扱いを受けるだろう。

 世俗から切り離された場所で、孤立無援を強いられる我が子の未来には暗雲が広がっている。

 時に雨を降らせ、雷を呼ぶいつ晴れるとも知れない暗雲。

 切り裂く事は出来ずとも、雨避けにくらいはなれるようにと。

 彼女は改めて決意し、その為の準備に励む。

 

「どうかあの子が未来にある暗雲を切り裂く事が出来るよう」

 

 通じるかわからぬ祈るは虚しく部屋に響いた。

 

 

 

 愛娘を都へと送り出して数週間後。

 何者かに盛られた毒で生死の境を彷徨いながら、彼女が最後に思った事は。

 

「(桂花を……どうかよろしくお願いします。凌刀厘様)」

 

 貴族としての責務などかなぐり捨てた、たった一人の母親としての願いだった。

 


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