乱世を駆ける男   作:黄粋

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第七話 五体復活。村軍発足。

 治療は想像以上に常識外れな物だった。

 

 黄金色の光を放つ鍼を患部である俺の左肩に刺した瞬間。

 俺の身体の中を暖かな何かが駆け抜けた。

 刺された鍼から噴出した何か、『エネルギーのような物』が血管を通じて、何巡も何巡も身体を駆け巡ったんだ。

 

 活力が満ちると言えばいいのか、初めての感覚に俺はただただ呆然としていた。

 気づいた時には左腕は、まるで怪我をする前に時を巻き戻したかのように何の違和感もなく動かせるようになっていた。

 

 現代医学に喧嘩を売っているとしか思えない現象である。

 

 思わず「魔法か!?」と突っ込んでしまった俺は悪くないはずだ。

 なにせ前世を含めた医療技術を全否定するような治療を見せつけられてしまったのだからな。

 

「妖術って言われた事はあったがまほうって言い方は初めてだな。どういう漢字でどういう意味なんだ?」

 

 ニヤニヤ笑いながら聞いてくる華陀中年を治ったばかりの左手で殴ってしまったのは置いておくとして。

 

 

 五斗米道の治療は基本的に鍼に氣を込め、対象者の肉体に注入する事で行うらしい。

 肉体を活性化させ自己治癒能力を促進させる事で傷あるいは病を治す物なのだと言う。

 しかし華陀少年の話では鍼に込める氣にも様々な質の物があり、さらに注入の方法も怪我や病気の具合や患部によって異なるという話だ。

 さらに五斗米道を扱う人間にのみ病気の根元を『病魔』という目に見える形の脅威として捉える事が出来る物らしく、患者の証言とは別に症状を確実に見極めて治療を行う事が可能なのだそうだ。

 

 そして今回。

 俺の治療をするに当たって華陀中年は彼自身が編み出した技を用いたと言っていた。

 なんでも自分の氣を注ぎ込むと同時に肉体だけでなく俺の持っている氣を活性化、利用する事で鍼の効果をさらに高めたのだと言う。

 

 生物には血液を作るのと同じように氣を作成し体内に溜め込む性質があり、生涯をかけて生み出す氣の量は違えど誰でも氣を持っているらしい。

 ただ目に見える形で氣を利用できる者が少ないため、大抵は自身に氣がある事にすら気づかず生涯を終える。

 

 華陀中年が今回、用いた技は気づかれずに放置されている本人が持つ力を利用して通常の治療よりも治癒力を増強する物だ。

 

 そういう理論であれば、彼の技は己のみの力で不可能な治療を生物が持つ潜在的な力を利用して可能にすると言う実に理に適った技と言えるかもしれない。

 と言っても治療法その物が常識を破壊した理不尽な物である事に変わりは無いが。

 

 華陀中年の話では、どう少なく見積もっても人間が一生かかって集めるくらいの容量の氣が既に俺の身体に内包されていたのだと言う。

 この技の性質上、確実な治療の為には相手に相応の氣の量が無ければいけない。

 俺はその条件を満たして余りある程の容量の氣を内包していたので、何の問題もなく術を実行できたという話だ。

 推測の域を出ないが俺が転生している事と氣の容量の異常な多さは無関係ではないのかもしれない。

 前例が無い為、所詮は推測に過ぎないが。

 

 俺の事は置いておくとしても五斗米道が常識外れな医術である事には変わりない。

 むしろこの一派を医術と表現するのは医術という言葉に喧嘩を売っているような気さえする。

 意味合いとしては間違っていないのだが、どうしてもしっくり来ないのだ。

 魔法、あるいはこちらで言う所の仙術と表記した方が正しいと思えてしまう。

 

 

 五斗米道の二人は俺に施した治療の概要と氣についての説明をすると(説明したのは全部、元化少年だったが)一日だけ村に泊まり、早々に建業に帰っていった。

 

 両親のお礼の言葉を受けて得意満面な顔をする中年と謙虚に頭を下げる少年。

 これが逆だったら絵になったのにと失礼な事を考えてしまった俺に異論があるヤツは多分いないはずだ。

 

 その日は腕の完治祝いと言う事で盛大な宴が催された。

 あまり大事にはしてほしくなかったんだが、純粋に喜んでくれる家族や仲間たちの気持ちを考えれば反対など出来るはずもない。

 

 どさくさに紛れてまた酒に手を出そうとしていた祭と激には拳骨をくれてやったが。

 

 後になって行商人から聞いた話では俺の治療を終わらせた後、しばらくして華陀師弟は旅に出たらしい。

 元々、建業にも長期滞在するつもりはなかったらしく顔見知りに挨拶をしたらさっさと出ていったのだと言う。

 立つ鳥後を濁さずとはよく言ったものである。

 

 

 あれから三年。

 俺たちは今年で十七歳になった。

 

 開けた平野で胡座をかいて思考にふける。

 

 最近、村に来る行商人から『神医』の噂を聞くようになった。

 どのような病も傷も鍼一本で治療する流離いの医師がいる、と。

 

 どうやら彼らは元気にしているらしい。

 涼州で起きた小競り合いの怪我人の治療に関わったかと思えば益州で太守の病気を治していたりと手広くやっているようだ。

 

 華陀たちについて以外にも行商人の話の中に気になる物があった。

 

 この世界では女性だった孫堅が建業大守の不正を暴いた恩賞として朝廷から大守に任命されたと言う物だ。

 どうやら以前の太守は領内の村人が気づかないように少しずつ年貢の類を水増し請求していたらしい。

 顔も知らない人間ではあったが横暴な事はせず悪い噂も聞かなかった為、それなりに民衆の支持を得ていたのだが。

 

 蓋を開けてみればなんて事はない。

 太守は民の事を考えていたのではなく、不満が爆発しない程度の頻度で少しずつ搾り取っていたのである。

 小賢しい真似をしてくれた物だが、こちらもまったく気付いていなかったのだからあまり強く文句も言えない。

 出来た余分な金で豪遊していたと言うのだから腹立たしいのは腹立たしいが。

 

 この村が属している土地も領地に入っているので必然的に俺たちの村も新大守である孫堅の管轄になっている。

 だからと言って現状、急激に何が変わると言う事もない。

 村が自衛手段を持っているという事に関して動きがある事も考えられるが。

 

 ともかく孫堅が頭角を現し始めたという事自体は問題ない。

 むしろ歴史に語られる人物の名が上がった事にほっとしているくらいだ。

 

 歴史上の出来事とこの世界の孫堅の出世のタイミングがだいぶ食い違っている事はもう今更だろう。

 気がかりなのは孫堅が『建業太守』になったとと言う事だ。

 確か孫堅が太守になったのは長沙だった気がするのだが。

 俺の知る歴史とは大幅にずれ込んでいる以上、この誤差も許容範囲と言えば許容範囲なのかもしれない。

 

 だが俺が最も気になったのは名を上げているのが孫堅だけではないという所にあった。

 

 

 孫静幼台(そんせいようだい)

 江東の虎である孫堅の弟であり、彼の挙兵に合わせて同郷や一族の者たちをまとめ上げた知恵者。

 孫堅の死後は孫策の求めに応じて彼の軍に合流、年若い彼らの支え役になった。

 功績に対する恩賞に対して欲を全く示さず、孫策や孫権が官職を与えようとしても誰かを推薦するだけで応じず、孫権に強く薦められてようやく任官を受けたと言われている。

 孫堅が生きていた頃から総じて縁の下の力持ちに甘んじていた人物だ。

 

 

 その孫静が孫堅と共に名を上げているのだと言う。

 賊の討伐や乱の鎮圧などを孫堅が行い、内政を孫静が担う事で今では『建業の双虎』として遠くは涼州にまで名を広めているらしい。

 ちなみにこの二人は『姉妹』だそうだ。

 

 内政では孫堅の無二の友と呼ばれている周異(しゅうい)もその知略を存分に振るっていると聞くが、彼女については俺の中の知識はほとんどない。

 せいぜいが、かの周瑜(しゅうゆ)の父親であると言う程度だ。

 まぁこの世界では例によって女性だったわけだが。

 

 それはともかくこの三人が揃っていたからこそ小勢力の身でありながら二年という短期間で領地の運営を安定させる事が出来たと言われている。

 誰かが欠けていては出来なかっただろうとも。

 

 しかも孫静は今までに前例のない政策を打ち出しているらしい。

 本拠である建業を中心に月日が経てば経つほど他の大守が治めている都市との差が広がっていると聞く。

 具体的には農作業の効率化による作物の増加、都市内の見回り体制の一新による安定した治安、それに伴う行商人の増加。

 孫堅たちが治める前に比べて建業はずいぶんと人口が増えていると聞いている。

 さらには姉妹そろって気さくな性格らしく民からの人気も上々との事だ。

 

「そこまで語られる程の人物。仕える仕えないは別として機会があれば会ってみたいもんだが……」

 

 機会を待っているだけというのは性に合わんな。

 足を止めて考え込んでいては見えてこない物もある。

 ならどうするか。

 

「自分から行くしかないだろう」

 

 思考をまとめて立ち上がる。

 

「うぅ……」

 

 足下でうめき声が聞こえてきた。

 ああ、忘れていたな。

 

「今から十数える間に立ち上がって整列。出来なければ村の外を二十周だ」

 

 ノロノロと立ち上がり六人の男女。

 彼らは俺の部下にあたる者たちだ。

 

 例の五村同盟の関係でそれぞれの村に一定の戦闘要員を配置する事が決定し、彼らは俺たちの村にに派遣されてきた人員である。

 ちなみに男女比は二対四で女性の数の方が多い。

 派遣された当初は男の方が多かったのだが、とある事情によりこれだけしか残っていないのが実状だ。

 

 この村で戦いに長けているのは父さんと俺。

 しかし父さんは五村同盟全体の責任者になっているので自分の村ばかりを見ているわけにはいかない。

 そういう理由からこの村の防衛は俺が担当する事になり、彼らは俺の配下という形になった。

 

 祭たちはそれぞれ自分たちの親の部隊の副官として働いている。

 いずれは豊さんたちの後を継いでそれぞれの部隊を任される事になるし、本人たちもやる気は充分だ。

 そう遠くない内に隊長の世代交代が訪れるだろう。

 

 まぁそれはともかく最初は年下の俺が自分たちの上に立つと言う事で反発された。

 当然だがそんな風になるだろう事は予想済みだ。

 なので全員が納得できるよう勝負をする事にした。

 

 内容は単純だ。

 俺が毎日行っている鍛錬に付き合ってもらい俺よりも一瞬でも長く続けていられたら、その者が守備隊隊長になる。

 

 軽いだろうと高を括っていた十数人の男たちは例外なく途中で諦めた。

 俺のやっている鍛錬の半分も持たなかったのだから年上のプライドなんぞズタズタだろう。

 

 その場には他隊の志願者や父さんたちもいたのでどういう結果であれ言い訳など出来ない。

 勿論、そういう状況を作った上で勝負を持ちかけたのだが。

 

 しかし条件を飲んだのは自分たちだと言うのに逆ギレして襲いかかってくるヤツもいた。

 

「年下のガキの命令なんて聞けるか!!」

「俺の方が山賊を上手く倒せるに決まってる!!」

 

 大ざっぱだがこれが連中の主張だ。

 これを聞いた俺は痛いほどに理解した。

 

 こいつらに村を守る意志なんて物はない。

 ただ人と違う事がしたい、目立ちたいというくだらん願望だけで志願してきただけだと言う事を。

 

 クソガキどもの言い分の余りのガキっぽさに腹が立ち、かかってきた連中は容赦無しに叩きのめした。

 

 正当な理由もなく、説得力もない言葉で自分の主張を通そうとするような馬鹿に手加減などしてやるほど俺は優しくない。

 ついでに過ちを犯すとどうなるかと言う事を志願者全員へ明確に伝える事も出来るから一石二鳥だ。

 

「村を守る気概もなしにくだらん自尊心で後先考えずに動く馬鹿なんぞ邪魔だ。二度とその面を見せるな」

 

 肩を外してはめ直すという激専用のお仕置きで恥も外聞もなく泣き喚いた連中にとどめの一言。

 

「次は粉々で、二度と動けないようにしてやる」

 

 以降、そいつらは自分たちの村から出てこなくなったらしい。

 あの程度の痛みで引きこもるようなヤツらなど知った事じゃないが。

 ああいう輩は仲間の足を引っ張る。

 おとなしく畑仕事でもやっていた方が村にとっても本人たちにとっても幸せだろう。

 

「隊長、整列終わりました」

 

 フラフラになりながらもなんとか横一列に並んだ部下たち。

 八つ数える間に並べているので罰則は無しだ。

 

「今日の訓錬はここまで。一刻後、見回り番二名は所定の場所へ向かえ。他の者は畑仕事だ。酷使した体はしっかり解し、明日に疲れを残さないように。以上!」

「「「「「「はっ!」」」」」」

 

 何度も地面に叩きつけられたせいで体中、砂だらけになった状態で敬礼する隊員たち。

 見ていて清々しい程にその動きは統一されている。

 

 俺が元軍人であった為、訓練は父さんたちが想定した以上にスパルタになってしまい隊の規律も他の隊と比べ厳しい物になってしまった。

 両親や村長、祭たちにも注意されたが俺はこの三年間ずっと自分のやり方を貫いている。

 勿論、耐えきれずに逃げ出す者や逃げずとも他隊へ異動した者もいたがそれについては不問にした。

 

 戦いになれば訓練など比較にならない程に辛い目に合うのだから、逃げ出せるのであればそれも選択肢としては有りだろう。

 

 一度きりの人生なのだ。

 俺は後悔するような生き方を強制するつもりはない。

 

 それでも残ると言った自分に厳しい者たちには容赦のない訓練を課した。

 勿論、俺も同伴している。

 

 俺は彼らの隊長ではあるが同時に戦で肩を並べる戦友でもある。

 そんな彼らと苦楽を共にして親交を深めるのは当然の事だ。

 当然だが俺自身は彼らの訓練メニューの倍をこなしている。

 彼らには申し訳ないが俺の場合、メニューを合わせていては体が鈍ってしまうからな。

 

 俺が自分たちの訓練をこなした後に個人訓練を行っていると知った彼らの驚いた顔はなかなか見物だった。

 

 ともかくそんな部隊の在り方をしている為、俺の隊は他隊に比べて人数が少ない。

 豊さんたちと俺、父さんの六つの部隊の中で隊員数が一桁なのは俺の所だけである。

 次に少ないのは豊さんの弓部隊。

 こちらは弓を扱える人材が少ない事が原因で、五つの村すべてからかき集めて十三人。

 他四つの部隊は平均二十人。

 総合計で百人を越す程度である。

 その中で俺の部隊は俺を含めても七人しかいないのだから、どれだけ少ないかは子供でも理解できるだろう。

 

 だがその分、一人一人に密度の濃い訓練を行った為に練度は高くなっている。

 うちの隊の人間なら他隊の人間を三、四人同時に相手に出来るだろう。

 少数精鋭とはよく言った物だ。

 

 とはいえ練度で数を補うのには限界がある。

 豊さんたちと相談して隊の増員、そうでなければ他隊の練度を引き上げられる体制を整える必要がある。

 いっその事、俺の部隊を解体して他の五つの部隊にバランス良く配置するのも手の一つか。

 

「……どうするにしても休む暇はないか」

 

 だがこの日々に充実感を感じているのも否定できない事実である。

 我ながら不謹慎ではあるが。

 

「孫家の見物は折を見て考えるしかないな」

 

 まずは目先の問題からだ。

 気分を切り替えるように体を伸ばし、畑仕事の手伝いをする為に歩き出した。

 

 

 

 

「ふむ。しかしここまでの二年間はあっという間だったな、陽菜」

 

 月を見ながら杯を傾ける姉さん。

 その隣で私も老酒を飲み干す。

 

「姉さんが色々と急ぎ過ぎなのよ。民を守るために仲間を率いて賊を討ったと思ったら一ヶ月と経たない間に気に入らない大守に喧嘩を売って……文字通りの意味で叩き潰して」

「ふん。ヤツが私たちや民を食い物にしていたのが悪いのさ。とはいえ叩き潰した結果、自分が大守になるとは思いもしなかったがな」 

「むしろ国への反逆罪で処断されても文句は言えなかったのだけど……朱(しゅ)将軍には感謝しないとね」

 

 どれほど悪行を重ねていようとも仮にも相手は漢という国から土地を任された人間だ。

 そんな人間に手を出した私たちは本来なら打ち首になっていただろう。

 そうならなかったのは当時、内政監査の名目で建業に来ていた朱将軍―朱儁という私が前世で聞きかじった三国志にも出ている武将の一人―が取りなしてくれたからだ。

 元々、大守が不正を行っている事に気づいていた彼女は、民の立場から彼に鉄槌を下した私たちを賞賛し自分の権限と風聞を最大限利用して私たちの首を繋げてくれた。

 まさか姉さんを大守に召し上げるとは思わなかったけど。

 

 勿論、あちらにも思惑はあったんだろうけど、それでも私たちは九死に一生を得たのだ。

 幾ら感謝しても足りないくらいだろう。

 

「まったく。前大守の配下だった人たちが協力してくれなかったら何も出来なかったのよ?」

「ああ、それは言えてるな」

 

 なにせ自分たちは武力や知力はあるけれど所詮は民側の人間だ。

 領地の治め方などまったくわからない。

 だから前大守の目に見えない悪政を諫めた為に酷い扱いをされていた武官、文官に頭を下げて協力を求めた。

 

 彼らも私たちの殊勝な態度に感服した様子で協力してくれた。

 前体制で冷遇されていたからか、こちらが驚くほどあっさりと頷いてくれたのは嬉しい誤算だったわ。

 私たちの飲み込みが早かったお陰もあって三ヶ月も経つ頃には建業の生活は安定している。

 

 姉さんは勉強を嫌って何度も脱走したけれどその都度、周異公共(しゅういこうきょう)こと美命(びめい)か私が捕まえて椅子に縛り付けたりしていた。

 

「ほんとあの頃が一番大変だったわ。姉さんの脱走癖の相手が特に」

「うぐ!? いや、あれはな」

「大守として民を守る立場になったって事を自覚するまで大変だったものね」

「……むぅ」

 

 分が悪いと言うことがわかっているんだろう。

 先ほどまで豪快に椅子に座っていたのに、今は体を縮こませて居心地悪そうにしている。

 

「ふふ、二児の母とは思えないわね。こんな姿、あの子たちにはとても見せられないわよ?」

「ええい! そんなネチネチネチネチと言わなくてもいいだろう!? せっかくの酒が不味くなってしまうじゃないか!!」

「はいはい。私が悪かったからそんなにいきり立たないで」

 

 争いで平和を勝ち取る事が日常になっている時代。

 そんな怖い世界で、私はどうにか今日も笑っていられる。

 

 どうしようもなく心細くなる事があるけれど、そんな事を姉や親友に言う訳にはいかない。

 

 私一人だけが弱音を吐く事なんて出来ない。

 私一人だけが立ち止まる事なんて出来ない。

 

 もう私たちは私たちだけの為に生きる事が出来ない立場になってしまったのだから。

 

 ねぇ玖郎。

 私は人を殺めてしまったわ。

 人を殺す事と引き替えに生きていくようになってしまったの。

 今なら出会った頃の貴方の気持ちが本当の意味で理解出来るわ。

 

 貴方が今の私を見たらどう思うのかな?

 聞くのが怖いとも思う。

 同時に聞きたいとも思う。

 

 でもそれ以上に、どういう言葉を投げかけてきても構わないから。

 

「貴方に逢いたいよ……玖郎」

 

 私の掠れ声は自棄酒を始めた姉には届く事はなく、夜空に飲み込まれて消えていった。

 


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