乱世を駆ける男   作:黄粋

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第七十四話

 陸遜伯言(りくそん・はくげん)

 後漢末期に揚州を中心とする江南にて勢力圏を築き、後に孫呉を建国したは孫権に仕えた文官であり軍師。

 確か呂蒙と並んで関羽討伐の立役者の一人だったはずだ

 蜀を起こした劉備が関羽が討たれた復讐の為に孫呉に攻め込んだ際に大都督としてそれを阻んだと言われている。

 周瑜亡き後の孫呉を支えた賢人と言えるが、後継者問題の際に孫権と対立し、後の彼の行動に憤慨したまま亡くなったと言われている。

 もっとも孫権の彼への疑念懸念は彼の死後に息子の陸抗(りくこう)が全て晴らし、孫権は彼の手を握りながら陸遜へ謝罪したとされていた。

 

 

 そんな人物が蘭雪様による制裁が行われたあの場で唯一マイペースを維持していた子だった。

 

「性は陸、名は遜、字は伯言と申します~。今後ともよろしくお願いいたします~」

 

 妙に間延びした口調の挨拶に、新たな臣下を見定めようと気を張っていた蓮華嬢は毒気を抜かれている様子だった。

 しかし毎度の事ながら俺の知る人物との違いには驚かされてばかりだ。

 

「この子は、私が直々に召し抱えた。というより陸家とは豪族時代に縁があってな。役に立つだろうと寄越されたというのが正しい。実際の所、あちらが自信を持って薦めるに相応しい人材、いや逸材だよ」

「いえいえ、そんな~~。私なんて誰も思いつかなかった政策を次々と世に出した建業の方々には遠く及びません~~」

 

 照れというよりは純粋にそう思っている語調で語る陸遜。

 なかなか謙虚だな、好感が持てる。

 

 俺が笑みを絶やさずに話す少女を見つめていると、美命が硬い声で話を続けた。

 

「ただ、な。この子自身も認識している悪癖があるんだ」

 

 悪癖、という言葉に俺と蓮華嬢は思わず身体に力が入る。

 蘭雪様は逆に興味深げに陸遜嬢を見つめていた。

 

「それはこの場にいる曲阿の者なら誰でも知っているのだが……」

 

 俺を見て些か言い淀む美命。

 深冬は笑みが引きつり、慎は何故か顔を赤くして目を反らした。

 祭は笑みを浮かべたまま、手に異様に力が籠もっている。

 曲阿に元からいた文官の方々まで緊張感を無くしてため息をつく始末。

 

 なんだこの反応は?

 蘭雪様たちのような血に飢える習性とは違うようだが、一体どういう悪癖があるというんだ、この子には。

 

「こいつは知識欲と性欲が一体化している」

「「「……はっ?」」」

 

 俺と蘭雪様と蓮華嬢の間の抜けた声が玉座の間に響き渡る。

 頭痛を堪えるように米神を押さえながら美命は悪癖の詳細を語り出した。

 

「簡単に言うとだ。こいつは本を読むだけで発情する。自分の知らない知識を知った時、つまり知的好奇心が疼いている時が特にまずい。幼台が立案、施工した交番制度などの話をした時などもそうなった。だから基本的に男と二人きりで仕事はさせないようにしているんだ。実際、発情すると相手が老人であろうと関係ないらしくてな。ここにいる男は刀厘以外は一度襲われている」

「……なるほど、大栄が顔を赤くしたのはそれが理由か」

 

 かろうじて俺は冷静に言葉を紡いだが、果たして声は震えていなかっただろうか?

 蓮華嬢は発情と襲われるという単語に顔を真っ赤にしている。

 蘭雪様はそういうのもあるのか、と物珍しげに陸遜嬢を見ていた。

 話に上がった慎はおそらく襲われた時の情景でも思い出してしまったんだろう。

 両手で顔を覆い隠してその場に座り込んでしまった。

 恋人である深冬の顔が真顔のままなのが地味に怖い。

 

「あはは~、その節はご迷惑をおかけしました~~」

「豪族上がりで荒事にもそれなりに心得があってな。大栄は自分でどうにかしたが、他の方々は力任せに抑えつけられあわや喰われるという所までになった事もある。全て公覆が止めてくれたがな」

 

 隣の祭に視線を来ると疲れ切ったため息をついていた。

 

「流石に好いてもおらん男相手に性癖でとはいえ発情して処女を散らすというのは……のう。あまりにも哀れじゃから気をつけて見ていてやったらいつの間にかお目付役にされておったわ」

「本当に公覆様にはご面倒のかけ通しで申し訳ないです~~」

 

 本人としては悪癖を認識しているし反省もしているのだが、それでも根本的な解決方法は見つからず。

 かといって書物から離すと欲求不満でたまに暴走するという。

 蘭雪様の悪癖はほぼ戦場限定だが、この子は日常生活と直結しているのか。

 今後も彼女は文官であり軍師として働く事になるだろう。

 となるとこの悪癖はかなり厄介かもしれない。

 

「しかしその頭脳は優秀だ。贔屓目を抜きにしても建業で五指に入る頭脳と言っていい。公瑾と合わせてやれば互いに切磋琢磨出来るだろう」

「公瑾嬢と切磋琢磨出来るだけの頭脳か。それは確かに凄いな」

 

 彼女と知力で対抗出来るのは親である美命と今は遠くにいる桂花、そして客分の風、稟くらいなものだからな。

 俺と陽菜はそもそもずるをしているようなものでスタートが他と違う。

 それでも頭の回転で彼女に勝てるとは思っていないというのが正直な所だ。

 

「効率を重視する公瑾と遠回りになっても民に考慮する伯言。方向性が異なるがな。だからこそ上手く噛み合うと思っているぞ」

 

 彼女に関してはこれまで通りに祭預かりのままで本を読む時は同性の同行者を一人以上付ける事が義務づけられた。

 同行者がいる場合は異性を同行させてもいいという事にもなっている。

 

 しかし祭と深冬が肩を砕かれんばかりの力で握り締めて『夫(恋人)の傍で発情したら……わかるな?(意訳)』と言って彼女が目尻に涙浮かべながら頷いている姿を見るに俺や慎が彼女の被害に遭うことはないだろう。

 こちらも最大限注意するようにするが。

 

 

 彼女と俺たちのやり取りで他の面々の緊張も適度に解れたようで、彼らの今後の身の振り方についてはすんなりと決まった。

 年齢を理由に曲阿を復興した後に引退するつもりの年配男性一名については退職を許可し、今後の生活についてもそれなりの援助を約束した。

 同じく年配の男性は動けなくなるその時まで孫文台に仕えるとその場で宣誓し、俺たちと同年代くらいの男性二名も彼に続いて頭を垂れた。

 

 最初に仕えることを誓った年配の男性は張子綱と名乗った。

 

 

 張紘子綱(ちょうこう・しこう)

 孫策が挙兵した頃に仕官した人物で、頭に血が上った孫策や一時的に傍にいた曹操を諫め続けたという印象を持つ文官。

 軍の陣頭指揮を取ろうとした孫策には「総大将たる者が最前線に立つべきではない」、孫策の死後、その隙をついて攻めようとした曹操には「他人の喪に付け込むべきではない」と主張したと言われている。

 孫権からの信頼は厚く、張昭(ちょうしょう)と共に計略や外交に当たった。

 この張昭と二人で『江東の二張』と称される書物もあるという。

 孫権の母である呉夫人(ごふじん)からも孫権の事を託され、彼の日常的な振る舞いについても諌言し、その行状を改め続けていたとされるいわゆるご隠居様のようなイメージを俺は持っている。

 文章作成の能力に長けていたため、文書の起草や史書の記録に携わり詩や賦といった文学作品も多く残した文化人としての側面もある。

 最期は建業への遷都の折、孫権の家族を迎えに行く途中、病に倒れまもなく死去している。

 死の直前、子に託した遺書を見た孫権は涙を流したと言われている。

 

 

 この世界ではどうやらここから孫家に仕える事になるようだ。

 

「我が身命を賭してお仕えさせていただきます」

 

 そう言って蘭雪様を見つめるその瞳には年老いたとは思えない気迫に満ちていた。

 

「貴殿らのご厚意に感謝する。皆と共にこれからも私を支えてくれ」

 

 蘭雪様の言葉に俺たちを含めたその場の全員が整然と頭を下げる。

 こうして今回の視察最大の目的はこうして果たされたのだった。

 

 ちなみに逃亡した挙げ句、あっさりと引っ捕らえられた者たちだが。

 彼らはその財産の全てを没収され、僅かな食料と共に曲阿から追放された。

 財産については五割を元から曲阿に仕えていた四人へ分配され、残りの五割は復興及び今後の繁栄の為の資金とされる事になる。

 民から搾取された資金を受け取る事に彼らは異を唱えたが、そこは蘭雪様と美命が諫めて受け取らせた。

 

「今までの苦労への労いとこれからも苦労をかける事への謝意として受け取ってくれ。どうしてももらう事に抵抗があるならば民のためにそれを使えばいい。くれてやった金をどう使うかはお前たちの好きにせよ」

 

 渡す事は変わらないのだ、という暴力的な理屈だった。

 しかし使い方には言及しないというお墨付きでもある。

 彼らはそれでようやく納得し、受け取る事を了承した。

 

 

 視察は順調に始まり、そして予定通りに終わった。

 子綱殿たちとも短いながらも交流を計る事は出来たし、順調と言えるだろう。

 

 しかし催された小さな宴の席で彼らが語った話が少し気になった。

 話によるとこの曲阿には張昭もいたらしい。

 いた、と過去形である理由は前太守の横暴を糾弾したところ追放されてしまったからだ。

 以降、『彼女』は行方知れずなのだという。

 十年以上前の事で子綱殿と変わらぬ年齢だった為、もはや子綱殿以外は彼女の生存を諦められていると言う。

 

「あの女化生がそうやすやすと死ぬはずもない。上手くやって何食わぬ顔で竹簡でも眺めているだろうよ」

 

 常に敬語を崩さなかった子綱殿は張昭の話をする時だけは饒舌で、そして彼女を語る時だけは口調が崩れていた。

 良い意味でも悪い意味でも彼にとって張昭という存在は忘れられないのだろう。

 

 しかし、だ。

 俺は子綱殿ほど高齢で腕の立つ、さらに言えば得体が知れないとも言える文官を一人知っている。

 祭も慎も深冬も美命も蘭雪様も蓮華嬢もこの話を聞いて思い浮かぶ人物が一人いた。

 

「……まさか」

 

 思えば俺たちはあの人『老先生』の経歴を知らない。

 蘭雪様が建業に来たという頃には既にそこにいたという事しか教えてもらっていなかった。

 今の今まで経歴を知らないという事実にも気付いていなかったと言うことが、あの方の老獪さを表している気もする。

 思い起こせば過去に纏わる話をする時、彼女はいつも巧妙に話の矛先を自身に向けないよう誘導していた節があった。

 

 彼女を、老先生を知る面々は尚も弁舌を振るう子綱殿(やや酔いが進んでいる模様)の言葉を聞きながらも視線を合わせる。

 そこには共通して『戻ったら聞き出してやろう』という想いがあった。

 今更、彼女の経歴が判明したからと言って俺たちの彼女への信頼が揺らぐ事はない。

 

 ただもしも張昭が老先生で、古馴染みである子綱殿に会いたいという気持ちがあるなら会わせてやりたいとそう思っただけだ。

 あの方には世話になりっぱなしだから少しでも恩返しがしたい。

 無論、老先生の意志をないがしろにするつもりはないが。

 

 

 さて話は戻すが次の視察は雪蓮嬢と冥琳、激を予定している。

 その後は陽菜、出産を無事に終える事が出来たならば塁、そこに明命と思春も同行させたい。

 とりあえずこの三回の視察の結果を話し合い、曲阿の領主を蓮華嬢か雪蓮嬢のどちらにするかを決める予定だ。

 

 またしばらくは忙しくなる。

 仕事ももちろんそうだが個人的にやっている作物についてもそろそろ次にかかるべきだろう。

 

 サツマイモの栽培は軌道?に乗り、蒲公英たちの話を聞いた限りでは西平の方も上手く根付いているようだ。

 開発に成功して以来、維持に専念していたトマトについてもそろそろ栽培方法を広めて浸透させていくべきだろう。

 

 これから取りかかる事柄を指折り確認しながら、俺は寄りかかって眠っている祭の髪を優しく梳いた。

 

 


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