スタートから出遅れてしまいましたが今年も『乱世を駆ける男』をよろしくお願いいたします。
「はあぁっ!」
ぶつかり合う鋼。
雪蓮嬢と蘭雪様の剣は火花を散らし、二人の互いを射貫く視線を表すかのよう。
並々ならぬ気迫でもって行われているこれはただの訓練では無い。
蘭雪様が自身の後継者として雪蓮嬢を見定める為の、いわば儀式のようなものだ。
雪蓮嬢は蓮華嬢が曲阿に派遣されてから、割とすぐに建業の太守の座を母から移譲された。
しかしこれは建業太守を譲り渡したというだけであり、孫家の当主の座については未だ蘭雪様の元にあった。
母として孫家当主として蘭雪様にどのような考えがあったか俺にはわからない。
勝手な推測で語るには孫家という一族について知っているわけではなく、時を待つと言った蘭雪様に当人である雪蓮嬢が文句を言わない以上、身内ではあるものの出しゃばるような事ではないとも思っていたからだ。
そしてその時というものがどうやら今日だったらしい。
突然、謁見の間で朝議をしている所に蘭雪様は武器を持って現れた。
南海覇王という雪蓮嬢に受け継いだ直剣とまったく同じ造りの剣を携えて、誰に憚る事も無く殺気を放ちながら。
戦闘時の血が騒ぎ立てた興奮状態の時とは違う、どこまでも静かで鋭い眼差しはただ真っ直ぐに長女を見据えていた。
「雪蓮、死合うぞ」
それだけを告げる母親に、雪蓮嬢は何の躊躇いもなく頷いて立ち上がる。
その場に集まった政務に携わる面々は陽菜と美命以外はひどく混乱していたが、二人はそんな俺たちなど見向きもせずに謁見の間を出て行こうとしていた。
「陽菜、駆狼。お前たちが見届け人になれ。他の者はこの誰かが良いというまで絶対に鍛錬場に近付くな」
突然の事で呆然としていた者たち(情けない事に俺を含む)が正気に戻って二人を制止しようとすると、まるでそれを見越していたかのように蘭雪様は俺と陽菜を名指しで呼びつける。
有無を言わさぬ、とはまさにこの事だろう。
俺は訳も分からず遠ざかる二人を慌てて追いかけるべく同じく呼ばれた陽菜の手を掴んで走った。
二人を追いかける中、陽菜に聞いたのだが孫家は昔から次代に当主の座を委ねる際には決闘という形を取っているのだという。
虎を継ぐ者は老いた虎を越える実力を持たなければならない、という暗黙の決まりだそうだ。
孫家の人間はそれを言葉にされずとも理解できる。
だから雪蓮嬢は二つ返事だったし、蘭雪様も拒否されるなどと考えてもいない。
それでも立ち会い人を求めたのは、この儀式がどちらかの命を奪いかねない物だと考えているからだと陽菜は言った。
「私たちの父はその時、姉さんが付けた傷が元で亡くなったわ」
事も無げに、しかし寂しげに語る陽菜の表情を見た事で、俺は流されている現状の事を一先ず置いておくことにした。
俺は陽菜の夫だ。
ならば陽菜を悲しませるような事を許すわけにはいかない。
二人の決闘そのものを止める事が出来ないというのなら、いざという時の歯止め役は絶対に果たす。
「安心しろ。義姉と姪は死なせない」
「っ……ええ。お願いね、駆狼」
陽菜は俺の言葉に安心して笑ってくれた。
その心からの笑みを絶対に裏切らない。
そう誓い、二人が鍛錬場で合図もなく戦いを始めてから体感で三十分ほどが経過した。
戦いはまだ続いている。
数えるのも馬鹿らしいほどに打ち合う二人の姿はどこか楽しげで、しかしいつでも相手を斬り捨てんとする殺気が包み込む空間で浮かべている笑みは凄絶に過ぎた。
人払いをしておいて正解だったな。
この二人の戦いを見続けるのは兵士たちには荷が重過ぎる。
戦場故の狂気ですら笑い飛ばせてしまうほどの濃密で寒気がする気迫が放たれる様はトラウマになりかねない。
俺とて恐怖は感じている。
だが気圧されるわけにはいかない。
いつでも割って入れるように構えたまま俺は二人の戦いを見据え続ける。
「「はぁっ!!!」」
使う武器は剣だけじゃない。
拳が、蹴りが、剣の舞の合間を縫うように相手へ吸い込まれ、致命傷とはいかないまでもかなりの数の手傷を付けていた。
身体には青痣、斬撃のかすり傷が、頬からも血が滴り落ちてきている。
それでも二人は戦いをやめない。
どちらも引かず、疲れなど感じていないかのようにその動きもまったく衰えない。
ように見える。
「っ……」
俺には決着はもうすぐ付くだろう事がわかった。
戦いの最中、蘭雪様がふと笑ったのを見たからだ。
『よくぞ、ここまで』と満足げに。
しかし相対する雪蓮嬢はそんな母親の表情が見えていない。
目の前の強敵を『殺す事』しか考えていないのだ。
止めなければならない。
でなければ待っているのは『義姉の死』だ。
腰に佩いた根を両手に飛び出す。
蘭雪様が繰り出す斜め下からの切り上げ。
上段から縦に振り下ろされる雪蓮嬢の唐竹割り。
両者の一撃を横から殴り飛ばすつもりで棍を叩き込む。
乾いた音が周囲に響き渡った。
時が止まる。
先ほどまでの殺気が『片方だけ』霧散した。
「……ああ、これ以上は無理だったか」
自分の身体の限界にようやく気付いた蘭雪様は、俺に助けられねば死んでいた事実に思い至りその場にどさりと座り込んだ。
「よく止めてくれた、駆狼。あやうく娘を私と同じ親殺しにする所だった」
立ち上がる気力もなく精魂尽き果てた弱々しい声の礼の言葉に、しかし俺は応えない。
否、応える余裕がない。
戦いを止めたのは『蘭雪様だけ』なのだから。
「う、あぁっ!!!!」
『獣』は俺と蘭雪様を順繰りに見つめ、乱入してきた俺の方に狙いを定めた。
いつにも増して鋭い踏み込みと共に放たれる刺突を、俺は棍で身体の外へと受け流す。
「しぇ、れん……?」
蘭雪様は娘が自分を負かすほどに強くなった事にばかり目が行っていたようで、今になって娘の異様な姿に気付いたらしい。
か細い声で疑問の声を上げるが、その声が今の雪蓮嬢に聞こえているかは怪しい。
なにせ彼女の目は血走って真っ赤になり、その口元には喜悦の笑みが張り付いているのだから。
凶相、と言っていい顔をした雪蓮嬢。
その目にはもはや蘭雪様など映っていない。
攻撃を受け止めた俺を『殺しがいのある獲物』と見做している。
今までこの子が戦場酔いをする事は何度もあった。
迷惑をかけられたことも数え切れない。
それが孫家の人間には付き物であり、年齢を重ねて落ち着かせていくものだという事も聞いている。
だが、今回の『これ』はそういう次元の症状じゃない。
この子は、いや『こいつ』は今、血に飢えている。
誰かを殺さなければ止まらないほどに。
俺が知る戦場酔いは結局のところ、戦いを楽しむという性質だった。
相手が賊だったなら殺すところまでを楽しんでいるようだったが、身内に襲いかかるときは『戦いその物』を楽しんでいるのだ。
今のこいつは相手が身内であるにも関わらず殺すところまでを楽しもうとしている。
おそらく今まで俺たち相手にこうなった時は、暴走しそうになる意識を心のどこかで抑えていたんだろう。
我を忘れて獣になってしまわないように頑丈な鎖で『最後の一線』である『身内殺し』だけはしてしまわないように自身を縛り付けていたんだ。
しかし。
実力伯仲の親と生死を賭けた殺し合いをした事を引き金にして縛り付けていた鎖は砕けてしまった。
有り体に言って理性が飛んでしまったのだ。
今のこいつははっきり言って危険だ。
俺が義理の叔父であるだとか、母を主と仰ぐ武官であるだとか、それなりに仲が良いだとか、暴走を抑えるのに一役買うだろう自分との関係など今のこいつはすっぱり忘れている。
いやもしかしたらそれらをしっかり認識した上で尚、俺を殺そうとしているのかもしれない。
であるならば今までと同じと考えれば殺されるのは俺だ。
「陽菜、蘭雪様を頼む」
視線を雪蓮嬢から外さずに棍を腰に戻し、拳を構えながら陽菜に主の事を頼む。
茫然自失状態の彼女を放っておくわけにはいかない。
「ええ。……駆狼、雪蓮ちゃんをお願い」
「任された」
俺の言葉を開始の合図と取ったのか、雪蓮嬢は南海覇王で斬りかかってくる。
容赦のない斬撃を手甲で受け流す。
こちらがカウンターを入れようとしている事を見切ったのか、雪蓮嬢は斬りかかってきた勢いそのままに腰を狙った鋭い蹴りが放たった。
理性が飛んでいるはずだというのに戦いを組み立てる戦闘的な部分は恐ろしく冷静だ。
蹴りを足で受け、斬りかかって伸びきっていた剣を持った手を掴み上げる。
そこからの関節技、投げへの派生は俺がいつも使う手だ。
当然のようにそれを読んだ雪蓮嬢は、掴まれた手とは逆の手で俺の顔目掛けて拳を突き出す。
ご丁寧に指を伸ばした上で爪を立てた抜き手の形のそれは完全に目を潰すつもりで放たれていた。
無論、その手も掴み上げる。
しかしこの超密着状態からでは投げには派生できず、関節を決めるのも難しい。
というか仮に関節を決めたとして、今の状態の彼女では関節を外して抜け出すくらい平気でしそうだ。
ここからどうするか考えるのは一瞬。
即座に目の前にある雪蓮嬢の顔に向けて頭突きを入れる。
「ぐっ!?」
「うっ!?」
目の前に火花が散り、視界が明滅した。
どうやら雪蓮嬢も同じように頭突きをかましてきたようだ。
まったく綺麗な外見と裏腹にうちの女性陣は思い切りがいいのが多すぎる。
頭突きで眩んだ視界の中、俺は拘束していた右手を放し、肘を振り上げ素早く打ち下ろす。
「あぐっ!?」
肩口にぶつけられた一撃に何かをしようとしていた彼女の左腕がだらりと垂れ下がった。
人体急所の一つへの一撃だ。
これで左腕はしばらく使い物にならないだろう。
その間に勝負を決めなければならない。
長引けば長引くだけこちらが不利になる。
「あああああっ!!!!」
至近距離での絶叫が俺の鼓膜を直撃する。
もはや武器と言っても差し支えないそれに俺は顔をしかめ、身体は一瞬だけ硬直してしまった。
その隙を見逃すような『獣』ではない。
「がぁああああああああっ!」
「ぐっ!?」
再度の頭突きに俺の拘束が緩み、密着していた身体が離れてしまう。
『獣』の武器を持った右手を自由にしてしまった。
明滅する視界に太陽光を反射した剣撃が迫る。
「まだまだだっ!!!」
自分を鼓舞するように言葉を声に出し、俺は一歩前へ踏み込む。
間違えれば首を刎ねられるだろう一撃を前に、俺はさらにもう一歩踏み出す。
それは俺にとって拳を放つ為の予備動作としてまさに会心の踏み込みだった。
昔どこかの賊にやられた時、二度と使い物にならないと言われた左肩に鋼の刃が食い込んだ。
だがそれは同時に踏み込みによって最高の状態になった俺の右拳が、雪蓮嬢の鳩尾に直撃する事を意味していた。
当たる瞬間に捻り込むように拳を勢いよく捻る。
捻った勢いそのままに雪蓮嬢の身体は、宙を回転しながら鍛錬場の壁へ激突。
轟音と共に壁面がひび割れ、数秒の間をおいてバラバラと崩れていった。
「……っ、はぁ……はぁ……」
俺は止めていた息を吐き出し、あえぐように新鮮な空気を取り込む。
思い出したように一撃が入った左肩を見ると、服が破け血が滴って腕からこぼれ落ちていた。
上手く剣の鍔よりの切れ味の鈍い部分が当たったお蔭でさほど深くはないが、怪我としてはそれなりに大きい部類だろう。
「……」
雪蓮嬢が倒れている場所を眺めているとそこから破片を払うようにしてフラフラと立ち上がる影が浮かんだ。
「容赦、ないわね。駆狼……」
恨めしそうに、しかしほっとしたかのような穏やかな声音。
目の血走りは鳴りを潜めて、衝突の折に作ったのか額の傷から流れる血を拭い、口元を尖らせて戯ける姿はいつもの『雪蓮嬢』だった。
ゆっくり近付く。
剣は傍に落ちており、とりあえず戦闘を続ける気はない事だけは間違いないだろう。
「馬鹿な事をしでかしたんだ。お仕置きの一つもしなければ、な」
「あははは……。そうね、あやうく叔母様や妹たち、親友に、皆に泣かれるところだったわ」
陽菜が蘭雪様の傷の手当てをしている様子を見つめ、雪蓮嬢はほっと息を吐いた。
「ごめんなさい。なんだかとっても眠いから……あとよろしくね」
「世話のかかる義姪だな、まったく」
「こど、も、あつかい、しない……で」
足元が覚束ずどこか舌足らずな子供のような口調で文句を言いながら、雪蓮嬢は俺の胸に身体を預ける。
「子供扱いされたくなかったら、しっかり自分を律する事だ。でなければ一生お嬢呼びは取れんぞ」
「みて、なさいよ。すぐに、こんな性質、……乗り越え…て…る、んだか……ら」
声に嗚咽が混じり、言葉がつっかえつっかえになっていく。
雪蓮嬢は俺に決して顔を見せないように胸にすがりつきながら泣いていた。
「ごめ、ん。ごめん……なさい。私、貴方を、殺そうとしてしまった……傷つけてしまった」
彼女の身体が震える。
それが自分の性質への恐怖か、俺を失ってしまったかもしれない事への恐怖かはわからない。
雪蓮嬢は今、俺が知る限りで初めて自分の所業に恐怖していた。
「どうってことはない。俺はお前の叔父、家族だ。迷惑をかけられたくらいで見放す事などありえない。お前が納得しないなら、お前が迷惑をかけたと後悔しているならソレを次に活かせ。その為の手伝いならいくらでも手伝うさ」
「っ……ふふ、厳しいのか甘いのかわからないわよ。……ありがとう」
嗚咽を漏らしながらも笑い、人肌の温もりを感じて意識が一気に落ちてしまった雪蓮嬢はそのまま眠ってしまった。
この件については蘭雪様直々に他言無用、詮索無用として戒厳令を敷いた。
俺たち立ち会い人と本人たち、そして美命と冥琳、老先生(張昭である事がわかっても尚、俺たちはこう呼んでいる)のみが事の次第を知っている。
いずれも関わりが深い者たちだが、雪蓮嬢の暴走については今までにない事だったからか皆にも動揺が走っていた。
今は落ち着いているし、本人は必ず乗り越えると誓っているとはいえ、やはり『次』があるかもしれないという不安が心に残るというのが正直なところだろう。
問題を抱えているのがこの建業の、ひいては孫家を引っ張る人間である事も事の重大さに拍車をかけている。
騒動が起きた日の夜。
一目を忍び蘭雪様の私室に集まってどうするべきか相談していた俺たちだったが由々しき事態に沈黙してしまった。
「私は雪蓮の意志を信じるさ」
そんな俺たちの耳に、我らが主の言葉はよく響いた。
「あいつは今回の事で知った。あの性質に身を任せる事の恐ろしさを。であるならば乗り越えるはずだ。私が親殺しから立ち直ったようにな」
語られる言葉は、鉛のように重いが故の説得力を持っていた。
「とはいえあいつも今回の事で衝撃を受けたはずだ。冥琳、すまないがしばらく意識してあいつの傍にいてやってくれ。お前になら弱音の一つも零すだろうさ。私や陽菜、駆狼が相手では強がるのが目に見えている」
その顔はもはや孫家当主ではなかった。
今まで当主の顔の合間に僅かばかり覗かせる程度だった、母としての顔だ。
少なくとも俺は今まで見た事がない表情に、少なからず驚かされた。
「はい、わかりました」
冥琳嬢は蘭雪様の思いをしかと受け止め、了承の意を込めて深く頭を下げる。
「それと当主自体は今日をもって孫文台から孫伯符へと継がせた。それは変わらん。お前たちにはあの至らぬ娘をこれからも支えてやって欲しい。まぁ私とてすぐに楽隠居しようなんて考えてはいない。武官の一人とでも思ってこき使ってくれていいさ」
冗談めかして言う蘭雪様の顔には一片の不安も見えなかった。
あやうく殺されるところだったというのに、数時間後にはこれなのだから肝が据わりすぎているというかなんというか、女を捨てているレベルで剛胆というか。
「おい、義理の弟。今、ひどく気に障る事を考えなかったか?」
「女を捨てていると表現できるくらいに剛胆だなと思いましたが何か?」
鋭い視線を送られるものの、孫家の勘の前では誤魔化しは意味がないのではっきりと思っていた事を言ってしまう。
すると蘭雪様だけでなく、周りの皆までも顔を引きつらせてしまった。
「お前、正直過ぎるだろう。もう少し目上を立てる物言いをしろ」
「誤魔化しが効かない人間が何を仰いますか」
そんな俺たちのじゃれ合いで、場の空気は完全に緩み解散の流れになる。
就寝の挨拶を手早く済ませ、誰ともなく蘭雪様の部屋を出て行く中、意図したわけではないが最後に出る俺の耳に蘭雪様の言葉が届いた。
「……あいつらを頼む」
心の底からの想いが込められたその言葉に、俺ははっきりと答えた。
「皆で支えましょう。孫家に仕える皆で……」
背を向けたままの俺には彼女の顔は窺い知れない。
ただ確かに微笑んだとそう感じた。
しかし俺たちの心配や危惧とは裏腹に、雪蓮嬢はこれ以降ただの一度もあの症状を出す事はなかった。
それは戦場であっても、鍛錬中に俺たちと試合をした時であっても、だ。
その片鱗すら見られなくなった。
それを俺たちは疑問に思った。
あの烈しさを直接味わった俺は特にそうだ。
ただ疑問を上げる前に冥琳嬢からこう言われた。
「あいつはあの性質を御そうとしているんです。必死に」
どうやら彼女だけは雪蓮嬢の心中を正確に把握しているようだった。
「二度と身内を襲うなどという事にはしない、とそう言っていました。……お願いします、この件はどうか雪蓮自身と私に任せてください」
そう言われてしまえば俺からどうこう言うことは出来ない。
俺は最低限の警戒だけを心の底に残し、この件には触れない事を冥琳嬢に約束した。
その事は彼女を経由して雪蓮嬢も知ったらしく。
「見てなさいよ、駆狼」
胸の真ん中を軽く手の甲で叩きながら、気高くも美しい瞳で挑戦的に笑いかけてきた。
これなら心配は要らないと無条件で信じられる力強さがそこにあった。
俺が彼女が影でどれほどの努力をしていたかを知るのはこれよりさらに先のこと。
彼女がどれだけ自分の性質を恐れ、そして俺を襲ったという事実に傷ついたかを知るのも。
そして俺との『お嬢呼びをやめる』という軽い口約束にどれほど重きを置いていたかを知る事になるのも。