「全部なかった事にして…」
「全部消して…」
眠るイタチの耳に、か細い…祈りのような声が届いた…
全部なかった事に…
全部消す…
そうだな。もしそれができたら…
時折見る温かい夢は現実になるだろうか…
まるで自分に、無意識にかけた幻術のような幸せなあの夢…
でもそれは都合のよい絵空事だ…
夢の中に、密やかに描くことさえ本当なら許されない
…許されてはいけないのだ…
同族を殺し、両親の命を絶ち、あいつから大切な物を奪い傷つけ、憎しみを植え付け…
それを糧に生きることを課した。
それが本当に正しかったのか…
他に方法はなかったのか…
いや。もう十分すぎるほど考えて導きだした結論だ。
悩み苦しむ権利などない…
それすら自分に与えられてはならない…
決して逃れられない闇に染まる無限のループ。
光ある未来など、願うことは許されてはいけない…
「お願い…」
願うな。祈るな…
「お願い…」
よせ。水蓮…
その名を呼んだつもりだったが、イタチは声がでなかった。
手の上に、何かが落ちてくる感触。不規則にポタポタと…
泣いているのか…
泣くな水蓮…
泣くなサスケ…
涙を流す二人が重なる。
ほんの一瞬目を開ける。
細く薄いその視界に、顔を押さえて泣く水蓮の姿がぼんやりと見える。
泣くな…
手を伸ばそうとするが動かず、イタチの意識はまた深く沈んだ…
幾日かが過ぎた。
イタチは自分のすぐそばに温もりを感じ、ゆっくりと目を開いた。
目に映ったのは、眠る水蓮の顔。
「また…」
ここで眠ってるのか…
とぎれとぎれに目を覚ますたびに、こうしてベッドの端に頬を乗せて眠る水蓮の姿をイタチは見ていた。
いったい自分はどれくらいこうして動けないでいるんだろうか。
決してそれが短い期間ではないことは分かっていた。
その間自分にずっとついている水蓮に、イタチは様々な感情を巡らせたが『なぜ…』という戸惑いが最も大きかった。
イタチは小さく息を吐き出し、全身の感覚を確かめる。
痛みはまだあるものの、しばらく重かった体が今日は幾分か軽く感じる。
もうそう長くはかからないだろう。
ようやく自分の中で回復の目途が見えてきたことにほっとし、イタチはゆっくりと体を起こした。
「…つっ」
ベッドについた右手から全身に痛みが走り顔をしかめ、もう片方の手を水蓮が握りしめていることに気付く。
…そうか。さっき、あの恐ろしい夢を見ていたからか…
血に、闇にこの身を染めたあの日の夢。
あの悪夢にうなされ、目を覚ますたびに水蓮が手を握っていた。
イタチはその手をほどかず、少しだけ握り返す。
悪夢の後、誰かがそばにいる
誰かが手を握っていてくれる
それがこれほどまでに安心することを、そして、恐怖から救われるということを、イタチは知らなかった。
本当なら、この手も自分には与えられてはいけないものなのだろう。
それでもイタチはなかなか離すことができずにいた。
…彼女はなぜ自分のために泣くのだろうか…
そんな存在はもう自分にはいないはずだった…
必要はないのだ…
だが、拒みきれない自分がいる…
明るく、まっすぐな笑顔で自分を恐れずにかかわってくる水蓮。
イタチは不思議と受け入れてしまう自分に戸惑っていた。
その存在はどんどん勝手に自分の中に近寄ってくる。
捨て去ったはずの人間らしさを呼び戻されそうになる。
今更誰かに係わったところで、甦ってくるような物ではないと思っていた。
しかし…
オレはまだ全てを捨てきれずにいるのか…
だからあんな夢を見るのだろうか…
決して叶う事のない景色を描いたあの夢を思い出し、そんな夢を見る自分に対して、イタチは自嘲の笑みを浮かべる。
「滑稽だな…」
この手を血に染め、心を闇に浸した自分があんな夢を見るとは。
「ばかげている…」
今ここにいる自分も、夢の中の自分も、どちらもまるで他人の様に感じる。
客観的にその姿を見ているような、まるで現実味のない存在。
自分はいったい何者なのか…
どこに存在しているのか…
イタチはそこまで考えて一度目を閉じ息を吐き出した。
こんなことを考えること自体、捨て切れていない証拠か…
考える事すら、自分に許してはいけない。
イタチは今考えていたすべての事に蓋をした。
だが、やはりその手を離せないでいた。
もう少しだけ…
また少しだけ力を入れる。
「…つっ」
あまり力を入れると、体中の傷に響く。
その痛みに顔をゆがめながら、こうなった元凶である出来事を思い出す。
…大蛇丸が動いた…
水蓮と会った次の日の早朝、暁のリーダーからの呼び出しに答えた二人は、そう告げられた。
大蛇丸は暁を抜けた裏切り者としてメンバーには抹殺命令が出ている。
それを警戒してあまり大蛇丸も目立った動きはしていなかったが、木の葉崩しで負った傷を抱えながらも自らが動いた。
目的は分からないが組織としては無視できず、メンバー全員にその動向を探り、見つけ次第始末しろと命令が下った。
この時、イタチには大蛇丸の行き先に見当がついていた。
独自に得た情報からも、大蛇丸が三代目火影の封印術によって両腕を封じられ、術が使えなくなったとのことを知り得ていた。
それが『死鬼封尽』であるとの情報もつかんでいる。
それによって受けた腕のダメージの回復。
大蛇丸に係わりのある人物で、それをなしえる者がイタチの知る中に一人いる。
初代火影の孫である『綱手』だ。
綱手を探せば大蛇丸に行きつくと考えたイタチは、賭け事の好きな綱手が行きそうな町を当たり、その途中で自来也と遭遇してしまったのだ。
次期火影にと、綱手の探索に自来也がナルトを連れて里を出ていることもイタチは知っており、遭遇の危険性は考えていたが、大蛇丸を処分することが最優先であった。
暁の命令には従わねばならない。疑いから逃れるために。
そして何より、サスケのために。
大蛇丸は以前写輪眼を欲してイタチを襲ってきた。
しかし、イタチとの力の差に無理だと悟り身を引いた。
だが、そう簡単に諦める相手ではない。名前の通り、蛇のようにしつこい執着心。
次に狙われるのはサスケだ。
イタチはそのことを危惧して、何とか大蛇丸を消しておきたかった。
そしてあの日、大蛇丸の情報を手にして向かったが、残念ながら自来也との遭遇で機を逃した。
「やはり強いな」
自来也との戦闘を思い出す。
仙人化した自来也と、口寄せされたガマとの連携の火遁術。
印を組むスピード、技の威力、攻撃範囲。桁外れの強さであった。
暁の外套が術に対しての防御力が高いことで何とか命は取り留めたものの、ここへの移動の忍具がなければどうなっていたか。
さすがは伝説の三忍だ…
「だがそうでなければ困る」
イタチはそんな自来也がナルトのそばにいることに感謝していた。
そうそう簡単に暁の手に九尾は渡らずに済むだろう。
そしてサスケのそばには…と、先日木の葉の里で再会し、千鳥をうならせながら自分に向かってきたサスケの姿を思い出す。
おそらく今の木の葉で最も強い忍であろう、はたけカカシのオリジナルの術。
暗部でともに従事したときに幾度となくその技を見てきたイタチにとって、その技の会得の難しさはよくわかる。
そしてカカシがその術に何か深い思い入れがあることも、共に過ごす中で感じていた。
それをサスケが使っていたという事は、カカシがどれほどサスケを想い、寄り添ってくれているか。
イタチは安堵の息を漏らした。
カカシの強さとその人柄はイタチもよく知っているのだ。
感謝します。カカシさん…
窓の向こうに、里とサスケを想い描き目を細める。
と、その時…
「お父さん…お母さん…」
水蓮が不意につぶやき、イタチはドキリとした。
両親の夢を見ているのか…
初めて会った時のことを思い出す。
両親の死に混乱する水蓮を見て、イタチはあの時思わず「見たのか」と聞いた。
思い出したからだ。サスケを…
両親の死を目の当たりにした者がどういう感情を見せるのかが気になった。
何を見て、何を感じ、そして笑う事が出来るのか。
共に行動する水蓮に、イタチは度々サスケを重ね合わせてみていた。
無意識にその手が水蓮に伸び、触れる。
サスケと同じ黒い髪…
そして、少し広めの額…
笑う時に柔らかく膨らむ頬…
そっと触れてゆく。
柔らかい…
指の背で撫でる頬の柔らかさにイタチの表情が【無】を浮かべる。
何もかもが一瞬だけ【無】に戻った。
「ようやく起きたのかい」
突然に飛んできた声に、イタチはすべての物を取り戻し、スッと手を引く。
「気分はどうだい?」
デンカとヒナをひきつれて、ネコ婆が部屋に入ってきた。
「だいぶいいです」
その表情はすでに元に戻っている。
「すっかりご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません」
ネコ婆は、隣のベッドから布団を取り水蓮にかける。
「まったくだよ。久しぶりに来たと思ったら、この子を置いて行って、戻ってきたらこの様だ」
「すみません」
「謝るならこの子に謝りな。必死だったよ」
「そうだぜ、まったく」
デンカがひょいっと水蓮の肩に乗る。
その様子にイタチの表情が少し揺れるのを見て、デンカは「起きやしないよ」と笑った。
「この感じならあと2時間は起きないフニィ」
ヒナがベッドに飛び乗り、水蓮の頬にすり寄る。
「そうか…」
よほど疲れているのだろうと思いながら、自分の知らぬところで、水蓮がずいぶんここに馴染んでいたのであろうことを感じる。
「それで…」
ネコ婆の表情が少し硬くなる。
「お前これからどうするんだい?」
イタチは窓の外を見つめ答える。
「時を待ちます」
その身に静かな空気が集まってゆく。
目には見えない静寂。
それがイタチの足先から髪の先まで…すぅっとまとわりついてゆく。
「サスケか…?」
ネコ婆のその言葉は、問いかけであって問いかけではなく。どこか悲しげな色を含んでいる。
「奪った者と奪われた者が相まみえるとき、それがどういう事なのか覚悟の上なんだね…」
イタチの周りに集まった空気が今度は冷たさを帯びてゆく。
「はい」
微塵の揺れもない瞳。
いかなる言葉も無力。
ネコ婆は「そうか」と、ただ一言だけ答えて、デンカとヒナを連れて部屋から出て行った。
ドアの閉まる音と同時に、水蓮が「お父さん…お母さん…」とまたそうつぶやき、その瞳から涙がこぼれ、頬を伝った。
…サスケもこうして夢に見て涙を流しているのだろうか…
悪夢にうなされるあいつのそばには、誰かがついてくれているんだろうか。
しばらく前に月読で苦しめたサスケの姿が脳裏に浮かぶ。
…あいつはもう…目覚めただろうか…
サスケ。悲しみに打ちひしがれるより強く…
オレを憎め…
恨め…