「いい眺めだね」
紹介された宿の部屋。大きめの窓から見える海を見ながら水蓮がつぶやく。
その視線の先では、美しい海の向こうへと少しずつ傾いてゆく太陽の光が、穏やかな波の端を輝かせていた。
その上を拭き流れてゆく冷たい風も、雄大なその景色の中では、厳しさよりも、清廉さを感じさせる。
季節がら観光客が少ないこともあり、町に喧騒はなく、時折聞こえてくる人の話し声が、冬のさみしげな夕暮れに程よく色を添えている。
のどかで平和なその空気。
数日前の任務の事だけではなく、自分たちを取り巻く様々なものが、どこか遠い物に感じる。
「きれいな町」
「ああ」
「そうですね」
隣に並び来たイタチと鬼鮫が同じように外を眺める。
ふと…ふすまの向こうに気配が生まれ、振り返ると「失礼いたします」との声が聞こえ、ふすまがそっと開いた。
そこには着物姿の女性が、正座で姿勢よく頭を下げていた。
先ほど紹介されたこの宿の若女将の【静香】
黒髪を美しく結い、清楚な雰囲気漂う佇まい。
先ほどの夫婦とは幼馴染みで、皆鬼鮫と同じ年であったが、静香はずいぶんと若く見える。
下げていた頭をゆっくりと上げ、柔らかい性格が表れている瞳でふわりと微笑む。
「お食事まではまだ時間がありますので、よろしければこれをお召し上がりください」
差し出されたのはかごに入ったミカン。
「わぁ!おいしそう」
水蓮が思わず声を上げる。
小ぶりだが、美しい色と整った形。
新鮮味あふれる皮の光り具合に、見えぬ果肉のみずみずしさまでもが感じられる。
「リョウタがハウス栽培したものなんです。今朝採れた物なので新鮮ですよ。たくさんありますから、いつでもおっしゃってくださいね」
「ありがとうございます。いただきます」
受け取り、早速食べようとテーブルに置き、座る。
静香は「またお食事の時に参ります」と丁寧なお辞儀を残し、ふすまを閉めた。
鬼鮫がその美しく流れるようなしぐさを見送り、次に水蓮を見る。
「なに?」
その視線に気づき、水蓮はミカンを手に首をかしげる。
鬼鮫は「いえ別に」と、笑いながら目を背けた。
比べられてる…
そのことに気づき、水蓮はジトリと鬼鮫を睨み付けた。
「私だって、着物着れば」
言いながらも、ミカンの皮をむく。
「服は関係ないでしょう。ねぇ、イタチさん」
イタチは何も答えず「フ…」と小さく笑った。
「イタチまで…」
ショックを受けたようなその顔に、イタチは慌てて「いや違う」と否定する。
「違いませんよ」
鬼鮫がさらに否定し「まぁでも…」と、何かを考えるように間を置き笑った。
「あなたがあんな感じで我々の後ろにいたら、それはそれで落ち着かない。まぁ、つまるところあなたはそのままでいいということだ」
自分からふっておいてそこに落ち着いた鬼鮫の言葉に、水蓮はむっとする。
それは自分に女らしさや、しおらしさがあるとおかしいという事だろうか。
少し唇を尖らせる。
「なんか結局けなされてるような気がするんだけど…」
そう言いつつも、鬼鮫がもたらすこの空気にどこか安心を感じながら、水蓮はミカンを一つ口に運ぶ。
「あ、おいしい…」
張りのある実が口の中ではじけ、小さい粒からは想像以上に多い果汁があふれる。
甘さだけでなく、程よい酸味…
それがバランスよく口の中に広がり、さわやかな柑橘の香りが鼻からスッと抜けてゆく。
「すごくおいしい」
美味しそうに食べる水蓮につられて、イタチも一つ手に取る。
「では私も…」
続いて手を伸ばした鬼鮫を水蓮がじぃっと見つめた。
その視線を受けて、鬼鮫は大きなその手に小さなみかんを包み込んで言った。
「皮、むきますよ…」
「わかってるって」
返しながら思わず笑う。
この町の、のんびりとした空気と柑橘の香りのおかげか。
水蓮は久しぶりに心が落ち着いたような気がした。
夜、食事を済ませてから、鬼鮫は自分でも少し調べてみると言い外へと出て行った。
今回の任務に初めは乗り気ではなかった鬼鮫だが、ヒヨリを助けたことへのお礼にと出された豪華な食事に気分を良くしたのか、ずいぶんとやる気が出たようだった。
機嫌よく出て行った鬼鮫の姿を思い出しながら、はぁ…と水蓮がこぼしたため息が、ふわりと上がる湯船の上の湯気に溶けてゆく。
「気持ちいい…」
チャプン…と少し深めに体を沈めると、硫黄の香りが鼻をなでた。
花橘町は魚介やミカンだけではなく、温泉でも有名な町だったらしく、水蓮は食事の後ゆっくりと体を温め、時間を満喫していた。
すこしとろみのあるお湯を手ですくい上げ、流れ落ちるさまを見ながら昼間の夫婦の事を思い出す。
ヒヨリの病は、はっきりとは分からないが…腹部の細胞が特に激しく損傷していたことから、水蓮はもしかしたら癌かもしれないと推測していた。
どこから発症したのか、その箇所は断定できなかったが、かなりの範囲に広がっているように思えた。
先ほど同様、そう長くないのであろうという考えに胸が痛む。
それでもあの夫婦は笑っていた。
体調がいいからと、花を見に出かけようとしていた。
思い出を作りに…?
どちらから言い出したのだろう…
言われた側はどんな気持ちなのだろう…
二人はどんな想いで日々を過ごしているのだろうか…
残す側は何を想い…
残る側は何を想うのだろう…
そんなことを考えるうちに、はぁ…と重いため息が落ちた。
それをかき消すようにパシャリと顔に湯をかけ、少し高い位置にある窓を見上げる。
夜に消え入りそうな細い三日月が見えた。
頼りないその光に寂しさと不安が浮かび、落ち着くはずのぬくもりに浸れず、水蓮は湯から上がった。
脱衣所に用意されていた浴衣をまとい身を整えて部屋に戻る。
鬼鮫はまだ戻っておらず、イタチが窓辺で鬼鮫の帰りを待つように外を見ていた。
イタチも浴衣に着替えており、水蓮はその姿に一瞬見とれて部屋へと入る足が止まる。
「どうした?」
その気配に気づいたイタチが振り返り、小さく笑う。
「何でもない。鬼鮫、まだ戻らないの?」
「ああ」
「そっか…」
再び外へと向き直るイタチの隣に立ち並ぶ。
窓際は少し気温が低く、体のぬくもりがその冷たい空気に奪われてゆく。
「体が冷えるぞ」
イタチが部屋に用意されていた羽織を水蓮の肩にかける。
「ありがと」
二人の間にほんのり石鹸のいい香りが揺れ、水蓮は少し胸を鳴らしながらうつむく。
「さっき笑ったのは、お前が着物を着たら似合うだろうと、そう思ったからだ」
「え?」
見上げた先には柔らかい微笑み。
水蓮は恥ずかしさについ目をそらす。
「イタチの方が似合ってるよ…」
窓にうっすらと映ったイタチの浴衣姿を見つめ、その先に広がる海に視線を移す。
宿からの明かりでうっすらと見える光景は、日の明かりの下で見るものとはまた違う雰囲気。
光の届かぬ遠方に広がる暗闇。
すべてを吸い込むような正体のわからぬ引力を感じ、不安を誘う。
「この町は、静かでいい町だな」
水蓮の心に気づいたのか、イタチの声はいつもより少し明るい色を見せる。
「そうだね」
水蓮も気持ちを上げようと明るく返す。
ふと、ミカンの香りが鼻先をかすめた。
水蓮の脳裏に、ミカンの花が咲き乱れる町の様子が浮かぶ。
白くて小さい花の、すっきりとした甘い香り
その優しい香りを乗せた風の中をイタチと二人で歩く
一瞬そんな光景が浮かぶ。
もしまたその季節にここに来れたら…
イタチと景色を楽しみながら歩きたい…
「一緒に…」と、小さく言葉がこぼれた。
だが、すぐにその想いを心の奥に閉じ込める。
今は求めるのではなく、求められたことに応えていこうと、そう決めたのだ。
自分の望みは、必要ない…
決意を思い返す。しかし、窓の外を見つめる水蓮の目には暗い光がさしていた。
望まれたことに応えたい。
だが、イタチは自分から何かを求めることはしない。
水蓮は、イタチに何をしてあげればいいのかが分からなかった。
かといって、何をしてほしいかと聞くのは何かが違う気がしていた。
何をしてあげられるのだろう…
それが分からず、さらに瞳の色が深く沈んでゆく。
「水蓮?」
その雰囲気に気づいたイタチが水蓮に視線を向ける。
水蓮はハッとし、様々なものを抑え込んでイタチに笑顔を向けた。
「何でもない」
その言葉と笑顔に、イタチは少し間をあけて「そうか」と一言だけ返した。
再び外へと視線を向けた二人の手が、触れそうで触れない距離で少し揺れた。
翌朝、準備を整えて水蓮たちはリョウタの家を訪ねた。
戸を叩くと、すでに準備をして待機していたようで、リョウタはすぐに顔を出した。
「おはようございます。皆さん、昨日はゆっくりできましたか?」
大きな体をしてはいるが、声や口調が柔らかく、目じりを下げて笑うその表情は人に安心感を与える。
この笑顔が大切な人の心を支えているのだろうと、水蓮はそんなことを思う。
「はい。いいお宿を紹介していただいて、助かりました」
「それはよかった」とのリョウタの声に続いて「部屋が空いていてよかったです」とヒヨリの声がした。
リョウタの大きな体にすっぽりと隠れていたその姿を探して、水蓮がそっと覗きこむ。
「お加減いかがですか?」
「ありがとうございます。昨日あれ以降すっかり良くて。ご心配おかけしました」
ニコリと微笑むその顔色は、確かに昨日に比べるとかなり血色よく見える。
「よかったです」
「ええ」
ヒヨリのうなずきに合わせたかのように、その背後から「あの…」と小さな声が飛び来る。
水蓮がさらに覗き込むと、そこには10歳くらいの一人の少年が立っていた。
襟足を少し伸ばした、ヒヨリと同じこげ茶色の髪。くりっとした大きな目。
姿勢よく立つその姿は、おとなしい雰囲気の中にも、どこかキリッとした聡明さが感じられる。
「息子のカロンです」
ヒヨリに促されてカロンと呼ばれた少年が水蓮の前に歩み出る。
「あの、昨日はお母さんを助けていただきありがとうございました」
ぺこりとかわいらしく頭を下げる。
水蓮は、根本的に救えたわけではない状況に複雑な気持ちではあったが「どういたしまして」と笑顔を返した。
その隣でイタチがリョウタに言葉を向ける。
「昨日言っていた竜の心に関係している場所だが。2カ所あると言っていたな」
「はい」
「できれば二手に分かれて見に行きたい」
なるべく早く任務を終わらせようという事なのか…。
昨晩何も情報を見つけられなかった鬼鮫も、イタチの言葉にうなずいた。
リョウタは「でしたら」とカロンの肩に手を置いてグイッと前に押し出した。
「私とカロンでご案内します。今日は学校も休みですし。カロン、お前は竜神池を頼む。父さんは竜の洞窟に行く」
「わかった」
「気を付けてな」
「うん」
笑顔でうなずくカロン。
「でも二人とも出てしまったら…」
水蓮がちらりとヒヨリを見る。
体調がいいとはいえ、昨日の今日だ…
一人にするのは心配だった。
「大丈夫ですよ。今日は体調がいいですから」
心遣いに気づいたヒヨリが微笑む。
だが、水蓮は首を横に振り、イタチと鬼鮫に振り返る。
「やっぱり一人にするなんてダメだよ。私残ってもいいかな。案内してもらってる間に何かあったら申し訳ないし」
「まぁ、私はどちらでも構いませんが、どうしますか?」
鬼鮫の視線を受けて、イタチは少し考えてからうなずいた。
「そうだな。水蓮、お前はここに残れ」
「うん」
「助かります」
リョウタが安堵の表情で水蓮を見た。
「では池は私ですね。イタチさんは洞窟をお願いしますよ」
言うなり歩き出した鬼鮫の隣に、カロンが「こっちです」と、歩みを並べる。
その背を見送り、リョウタが行き先へと身を向けた。
「では、私たちも行きましょうか。水蓮さん、妻をよろしくお願いします」
「はい」
答えてヒヨリの隣に立ち並ぶ水蓮にイタチが言う。
「何かあったら空に術を放て」
「わかった」
うなずき笑顔で送り出す。
『行ってらっしゃい』
水蓮とヒヨリの声が重なった。
いつも読んでいただきありがとうございます。
気持ちは通じたものの、なかなかすっきりしない二人…。あと少し…が詰まらない…感じです…(~_~;)もうすぐ…進展…させたい…と考えています!
これからもなにとぞよろしくお願いいたします(*^^)v
いつも本当にありがとうございます!(^○^)