いや、思ったより早く帰る事になりました。なので、今日から投稿を再開させたいと思います。
第56話 目覚めぬ少女と嘲笑う男
手に握る刀を振るい、周りから襲い来るゴブリン型のMobをひたすら斬り尽くす。Mobが持つ槍を最小限の動きで、掠るか否かのところで躱し続ける。ここまで大規模な群れに襲われるのはかなり珍しいが、相手のステータスを考えれば、そこまで危機的状況でもない。
そう、いつも通り、この刀で斬ればいいのだ。いつも通り…、いつも通りに。
それなのに…、体が重い。腕が、脚が、何もかもが自分の頭のイメージ通りに動かない。脳からの電子パルスによって、アバターが動く。それが、SAOというゲームのはずなのに。
群れからの攻撃に、次第に追いつかなくなる。おかしい。おかしいおかしい。この程度、対応できないはずがないのに。
『ケイ君…!』
『っ!?』
Mobからの攻撃が、遂に肩を掠ったその時。自分を呼ぶ声が耳を震わせる。
心臓がびくりと跳ねる。すぐにその場から後退し、襲い掛かるMob達から距離をとり、周りを見回して声の主を探す。
『邪魔だ!』
亜麻色の髪を揺らし、こちらを見つめる人影に重なる様に立ちはだかるゴブリンを切り飛ばす。それでもなお、ゴブリン達は進路上に集まって進行を妨げる。
『ケイ君…!』
『アスナ!』
ようやく、ゴブリンの邪魔が入らなくなる。すぐに手を伸ばす…が、届かない。それどころか、次第に距離が離れていく。こちらは走っているのに。向こうもこちらに手を伸ばしているのに。それなのに、何で手が離れていく。
『届け…!届けよ!』
走る速度を上げようとするが、どうしても今以上に速く走ることができない。手ももっと伸ばそうとするが、どれだけ気張っても空を掴むだけ。
『ケイ君…!』
『アスナ!アスナ…っ』
遂に声は聞こえなくなり、いつの間にか一人になっていた。周りは暗闇で、先程まで大量のゴブリンがいたとは思えない静けさが辺りを包む。
『アスナぁあああああああああああああああああ!!!』
叫びが虚しく響き渡るだけ。この叫びに返事を返す者はなく、求める人の姿もすでにおらず。
ケイは、暗闇の中で駆けながら、叫び続ける────
「はぁっ────!?」
自身に掛けられた布団を剥いで起き上がる。荒くなった息を落ち着かせながら、周りを見回す。
「…ふぅ」
大きく息を吐いてから、部屋に敷かれた絨毯の上に足を下ろす。ベッドに腰を下ろしたまま、右に目を向ければ、綺麗なパソコンデスクとそれに並んで置かれた本棚。正面には大きめの長方形の木でできたテーブル。その奥には、テレビ台に載せられた六十インチの液晶型テレビ。
病室ではなく、帰ってきた辻谷家の自室だ。
「…マジで、いい加減にしろよな」
苛立ちと共に呟きを吐く。現実に帰還してからこれまでずっと、同じ夢を見続けてきた。最近になって、夢を見る頻度が少なくなってきたが、未だ続く悪夢に呆れを越えて怒りさえ覚える。
いつまであの世界に心が囚われたままでいるのだろうか。今、自分がいる場所は現実だ。生きている場所はここなのだ。家族がいて、友がいて、帰還を喜んでくれた人たちがいて。
いつまでもこんな調子でいてはいけない事は、わかっているのに。
「おはようございます」
「おはようございます、慶介様」
部屋を出て廊下を歩いていくと、すれ違う召使の女性達にお辞儀と一緒に挨拶を受け取る。慶介も、軽く手を上げながらおはようと返して、ふと思い返す。
生まれた時から、ずっと年上の人達から敬意を向けられながら生きてきた。それが当たり前の日常で、だが対等な友人がいない事に物足りなさを感じていた日々。それに対して、あの世界にいた時は、望んでいた友人に恵まれて────
(…はぁ)
慶介の左側の壁が途切れ、そこから吹き抜けになったリビングが見える所で立ち止まり、小さく息を吐く。
少し気を抜けば、今の様にあの世界での思い出を思い返してしまう。慶介は両掌を頬に打ち付け、自身に喝を入れる。そして再び歩き出し、下のリビングへと階段を降りる。
階段を降りた所から正面に見える窓からは、辻谷家が誇る自慢の庭が覗く。窓のすぐ脇には慶介の部屋に置かれている物よりもさらに大きいサイズのテレビが設置されており、少し離れた所にはテーブル、そして周りに白いソファ。
「兄さん。おはよう」
「おはよう、慶介」
右側から、慶介を呼ぶ二人の声が聞こえてくる。視線を向ければ、キッチン台の側面から繋がったテーブルに着いた少女と女性。
黒髪を腰まで下ろし、大和撫子を体現したかの如き容姿を持つ慶介の妹、辻谷司。
黒い髪は司と同じだが、短めにバッサリと後髪を切り、司をそのまま成長させればこうなるような容姿。慶介の母、辻谷恵子。
「司、母さん。おはよう」
リビングで朝食を準備していた二人。SAOから帰還し、病院関係者を除いて一番最初に駆け付けた二人と挨拶を交わす。病室を抜け出し、あっさりと見つかりベッドに連れ戻された慶介が、次に見た人物がこの二人だった。
二人は目を開けている慶介を見て涙を流し、司に至っては慶介がかなり衰弱している事も忘れ思い切り抱き付いてきた。
(あの時は…、痛かった)
恵子が司を宥め、何とか離れてはくれたが、もう少し遅れていたら両腕の骨が折れていただろう。思い返しながら、リビングを通り抜けて洗面所へと入り、顔を洗う。しっかりと眠気をとってから再びリビングへと入る。
「父さんはもう?」
「えぇ。慶介が起きるちょっと前にね」
今、この場には慶介、司と恵子の三人しかいないが、あともう一人、父がいるのだが。すでに仕事に出ていったらしい。目覚めてからも数える程度しか話す機会がなく、最近はかなり仕事が忙しくなっているようだ。
だが、それにしても────
「最近、休み少なすぎじゃね?」
ここ最近は明らかに働き過ぎだと慶介は感じていた。休みが少ない…というより、思い返せば、慶介が目を覚ましてから一度も休んでない。慶介がまだ入院中の時も、何度か見舞いに来たことはあったが、仕事の都合上、あまり長い時間話せなかった。
「色々とあるみたいよ?話してくれないけど」
椅子に腰を下ろした慶介の前に、クロワッサンが載った皿を置きながら恵子が答える。
少々皮肉が籠ったような言い方ではあるが、その声には夫を気遣う妻の優しさに満ちていた。
「ま、立場上、家族にも言えない事はたくさんあるからな…。いただきます」
言ってから、手に取ったクロワッサンを齧って咀嚼する。慶介がクロワッサンを飲み込むまでの間に、恵子が焼いたベーコンとスクランブルエッグ、サラダにスープと朝食のおかずを並べていく。
勿論、毎日の献立は違う。今日は洋食だが、昨日は和食だった。だが、慶介が帰ってきてからの、いつもの朝食の光景がそこにはあった。
「そうだ、兄さん!今日も行くの?」
不意に隣に座っていた司が話しかけてきたのは、慶介がスープを口に含んだ時だった。慶介は口に含んだスープを喉に通した後、司の方に目を向けて口を開く。
「あぁ、そのつもりだけど」
そう答えた後、慶介はフォークを手に取ってベーコンに刺し、口の中に入れる。
「そっか。…ねぇ、私も行っていい?」
「ふぐ?…んく。別にいいけど、急にどうしたんだよ」
ベーコンからフォークを抜いて、しっかり噛んでから飲み込んで、問いかけてきた司に答える。すると、司は目を輝かせながら笑みを浮かべ、やたっ、と呟きながら拳を握ってから言う。
「急じゃないよ。前から兄さんと一緒に行きたいって思ってたんだよ?部活があったから言い出さなかっただけで」
ちなみに、司が入ってる部活は剣道部だったりする。さらに中学一年ながら今年の全中で優勝するという凄まじい腕前なのだ。病室で、その事を自慢げに話す司を見ながら、手合わせしてみたいと少し疼いたのはご愛嬌。
「で?今日は部活は休みなのか」
「そ。顧問の先生が出張でいないの。だからいいでしょ?」
司はそういう嘘を吐く人ではないため、本当に休みなのだろう。ならば、特に断る理由もない。
「あら、なら私も行っていいかしら?私も会ってみたいのよ~。慶介のか…」
「そういうんじゃないから。てか、母さんは今日仕事だろ」
だがこの人は別だ。即座に恵子の提案を突っぱねる。子供っぽく唇を尖らせているが、無視。…美しさが際立つ恵子がその仕草をやると、ギャップというか、色々とクルが無視だ。
恵子はピアノの先生をしているのだ。生徒の家へ赴き、またはこの家へ招いてピアノのレッスンをしている。ちなみに今日はこの家へ来る生徒を教える日だ。
「残念でしたー。じゃ、私は一足先に顔を見て来るねー」
「むー…」
「…」
こんな二人が、どうして大和撫子と評されているのか。いや、それは全員が家での二人を見ていないからなのだが…、本当にどうしてそんな風に言われているのかわからなくなってくる慶介。
これ見よがしに恵子に向かって胸を張る司と、それを不満気に見る恵子を眺めながら、慶介は最後に残ったクロワッサンを飲み込んで、ごちそうさまと一言口にしてから席を立つのだった。
艶やかな栗色の髪が四方に流れている。その髪を覆うナーヴギアのインジゲータLEDが三つ、青く輝いている。正常に通信が行われている証拠だ。今この瞬間にも、ナーヴギアの持ち主…アスナは、あの世界に囚われているのだ。
「…そろそろ帰るね、アスナ。また来るよ」
ベッドサイドに置かれた時計を見ると、いつの間にか正午になっている。それを見て、椅子に腰を下ろしていた二人…、深井幸【ふかいさき】と、桐ケ谷和人は立ち上がる。幸は未だ眠り続けるアスナに声をかけて、そっと手を握る。
和人はその光景を眺めながら、憂いを感じる。あの世界で命を賭して、自分達を掬ってくれた少年の事を思い出していたのだ。あの時、何が彼をあそこまで突き動かしていたのか…今ならわかる。
アスナのためだ。勿論、アスナだけではないだろう。自意識過剰の様に聞こえるかもしれないが、自分や幸、他にもクラインやエギルに、他の黒猫団のメンバー達。彼は救いたいと思っていたはずだ。それでも、一番はアスナだったのだ。
だが…、彼女は未だ目を覚まさない。ログアウトできていない。SAOが破壊された今、ナーヴギアを外してはどうだろうかと考えた事はあったが、その場合、何が起こるかわからない。…いや、恐らくは。ナーヴギアの隠された機能が動き、アスナは────
ここまで考えた時、病室の扉が開く音が聞こえた。和人と幸が目を向けると、二人の男性が病室の中へ入ってきた。その内の一人、恰幅の良い初老の男性は見覚えがあった。
「桐ケ谷君、深井さん。来ていたのか、度々すまんね」
仕立ての良いブラウンのスリーピースを着込み、体格のわりに引き締まった顔をしている。だが、オールバックにまとめた白みがかった髪が、二年の心労を窺わせる。
アスナの父、結城彰三だ。アスナからは実業家だと聞いた事はあったが、総合電子機器メーカー<レクト>のCEOと知った時は、和人も幸も大きく驚愕したものだ。
「こんにちは」
「お邪魔してます、結城さん」
二人は頭を下げて口を開いた。
「いや、いつ来ても構わんよ。この子も喜ぶ」
彰三氏は言いながら、アスナが眠るベッドに歩み寄ると、栗色の髪をそっと撫でた。少しの間、そうしてアスナの髪を撫で続けていた彰三氏だったが、顔を上げると背後に立つ男に手を伸ばした。
「彼とは初めてだったな。うちの研究所で主任をしている、須郷君だ」
ダークグレーのスーツを着込み、やや面長の顔に眼鏡をかけている。レンズの奥は細い目が覗いていて、さっきからずっと笑った表情のままでいたのが見えていた。
「須郷伸之です。…そうか、キリト君とサチさんだね?」
「…桐ケ谷和人です、よろしく」
「深井幸です」
差し出された須郷の手をそれぞれ握り返しながら、二人は彰三氏に視線を向ける。
「SAO内部の事については口外禁止だったな。すまない。…だが、つい喋ってしまった。勿論、彼の事については話していない」
和人と幸は、彰三氏にSAO内でアスナの周りで起こったことを、知っている限り話した。彼には知る権利があると考えたからだ。キリトである自分と、ケイ、アスナの三人でパーティーを組んでいた時期があった事。ケイがアスナを気遣って、パーティーを解消した事。それでも、アスナはずっとケイと接触を計ろうとした事。二人をパパ、ママと呼んだユイの事に、アスナを現実に返すために、茅場とケイが相討ちになった事も…。
「彼は私の腹心の息子でね。昔から家族同然の付き合いをしているんだ」
「ああ、社長。その事なんですが…」
幸から手を離した須郷が彰三氏に体を向ける。
「来月にでも、正式にお話を決めさせて頂きたいと思います」
「…そう、か。しかし、君は良いのかね?まだ若い。新しい人生だって…」
「僕の心は昔から決まっています。明日奈さんが美しい姿でいる間に…、ドレスを着せてあげたいのです」
隣に立つ幸が状況を呑みこめずにいる中、和人は目を細める。
「そうだな…。そろそろ、覚悟を決める時期かもしれん」
呟いてから、彰三氏が和人と幸に向き直る。
「では、私はこれで失礼させてもらうよ。桐ケ谷君、深井さん、また会おう」
そう言い残すと、彰三氏はベッドから離れ、そのまま病室を去っていった。開閉する際の二つの音が、室内に響き渡る。
彰三氏が退室して少しすると、須郷がゆっくりとベッドの下端に回り込む。そしてアスナの髪を左手で一房つまみ上げて、頬にすり合わせる。こちらに不快感を持たせる、君の悪行動。
「君たちは、あの世界で明日奈の友人だったらしいね」
彰三氏が傍に居た時とは、声から受ける感じが全く違う。完全にこちらを見下し、そしてまるで、アスナは自分の所有物だと言うように、こちらの目があるにもかかわらず、無遠慮にその手でアスナに触れている。
「さっきの話はねぇ…、僕が明日奈と結婚するという話だよ」
こちらの返事も待たず、須郷は話を続けた。にやにやと笑いながらいう須郷に、幸が僅かに体を震わせる。
「できるんですか、そんな事が」
「確かに、意思確認ができない今、法的入籍は出来ない。書類上は僕が結城家の養子に入る事になる。…実のところ、この娘は昔から、僕を嫌っていてね」
左手の人差し指をアスナの頬に這わせながら須郷が言う。
「いざ結婚となれば、拒絶される可能性が高いと考えていた。だからこそ、この状況は僕にとって都合がよくてね」
「っ、やめて!」
須郷の指が、アスナの唇に近づいていく。直後、幸が踏み出し、須郷の手首を掴んでアスナの顔から引き離した。
「あんた…、アスナの昏睡状態を利用する気か」
強張った声で和人が問い質す。すると、須郷は幸の手を振り払って、両腕を広げて芝居じみた仕草をとりながら笑う。
「利用?ハハハハッ!正当な権利と言って欲しいねぇ?ねぇ桐ケ谷君。SAOを開発したアーガスがあの後、どうなったか知ってるかい?」
「解散したと聞いた」
「うん。開発費に加えて、事件の補償で莫大な負債を抱え、会社は消滅した。そこで、SAOサーバーの維持を委託されたのがレクとのフルダイブ技術研究部門。…僕の部署さ」
目を見開いて固まる和人と幸の前に回り込み、須郷はさらに続けた。
「つまり、明日奈の命は僕が維持してると言っていい。なら、これくらいの対価を要求したっていいとは思わないかい?」
この男は、どこまで下衆なのか。今すぐにこの男の本性を彰三氏に伝えたい。伝えて、アスナとこの男の婚約を解消させてやりたい。だが…、それをできる手段がない。たとえできたとしても、この男の言う通り、アスナの命を握られているのは事実。もし彰三氏に知られ、婚約が解消されたとなれば何をするかわからない。
何も、できない。無力だ。
(ケイなら…)
ケイなら、どうするだろうか。アスナのためにどうするだろうか。
奴ならきっと、何とかして見せるのだろう。だが…、自分には、どうする事も出来ない。できる事を、見出すことができない。
「式は来月、この病室で行う。君達も呼んでやるよ」
哄笑を耐えながらそう言った須郷は、そのまま病室を去っていった。残された和人と幸。
二人とアスナだけが残った病室には、沈黙だけが流れていた。
一人の少年と少女がこちらに歩いてくるのを見て、すぐにその場から離れる。傍らの司が不思議そうにこちらに視線を向けてくるが、構わず壁に身を隠して、病室から出てきた二人の姿を見つめる。
(…キリト、サチ)
あの世界と格好は違うが、見間違うはずもない。二人の様子から見て、どうやらリハビリを終えて外に出れるようになってから、定期的にアスナの見舞いに来ているらしい。これまで、二人と遭遇してこなかった事に驚きを隠せない。
だが────それよりも。
キリトとサチの姿が見えなくなってから、慶介は司を連れてアスナの病室へと入っていく。
「…この人が」
ベッドに眠るアスナの姿を見て、司がぽつりと呟いた。
衰弱し、頬が痩せてはいるがその美しさは変わらない。あの世界で出会い、愛した女性が、まだ囚われたままの姿でいる。
慶介はベッドに傍らに置かれた椅子に腰かけ、隣にあるもう一つの椅子をぽんぽんと叩いて司に座るように促す。司は一瞬、ぴくりと体を震わせた後に、おずおずと慶介の隣に腰かける。
「紹介する。彼女がアスナだ。剣の速さと正確さは、誰も敵わなかった。…後、しつこさも」
司にアスナを紹介し、最後に本当にアスナが聞いていたら機嫌を損ねていたであろう言葉を小さく呟く。そして、慶介の呟きが聞き取れなかったのだろう。首を傾げている司に手を向けながら、慶介は続けた。
「アスナ、こいつが俺のなっまいきな妹の司だ」
「…初めまして、アスナさん。私が、そこにいるダメダメな兄の世話を焼く、可愛い妹の司です」
「…待て、誰がダメダメだ。そして誰が可愛いって?」
「あれ?兄さん、耳がおかしくなっちゃった?私が可愛くて、兄さんがダメダメなの」
むっ、と鋭い視線を向け合う兄妹。だが、すぐに剣呑とした空気は霧散し、二人は笑みを向け合う。
「とまぁ、こんな感じで兄妹仲は悪くないんだ。…生意気だけど」
「何か言った?」
今度は聞き取れていたらしい。その上で、笑みを浮かべながら威圧的に問いかけてくる司に目も向けず、「別に」と一言返してから、慶介はアスナの左手を持ち上げて、両手で握る。
あそこまで騒がしくしても、アスナは何も言わない。病院では静かに、と叱咤されそうなものだが…、アスナはまだ眠ったまま。
「…」
『僕が明日菜と結婚するという話だよ』
『明日菜の命は僕が維持してると言っていい』
先程、病室の前で聞いたあの男の言葉が脳裏を過る。アスナの手を握ったまま、慶介は両目を閉じる。
アスナの手はすっかり細くなっているが、暖かい。アスナが生きている証だ。
この小さな手の温かさに、ずっと救われていた。…自分で気付いたのは、遅くなってしまったが。
「…須郷伸之、か」
両目を開けながら、病室を出ていった細身のスーツを着た男を思い出す。
須郷伸之。結城家とは長い付き合いのようで、小さい頃からアスナとは婚約者の様な立場にいたのだろう。アスナの父、結城彰三は須郷の本性を見抜けず、アスナを下衆の男に手渡そうとしている。
「兄さん…」
慶介と同じく、司も先程の話を聞いていたのだ。慶介がどんな思いをしているのか、気遣っているのが、表情から見てとれる。
「司、少し用事ができた。迎えは好きな時に呼んで、一人で帰れ」
「え…?に、兄さんっ?」
背後から司が呼び止めるが、慶介は構わずそのまま病室を出ていく。病院の廊下を歩き、エレベーターに乗り込んで一階へと降りる。
(ごめん、アスナ。しばらく、ここには来れなくなる)
一階へ下降するエレベーターの中で、慶介は病室で眠るアスナに向けて心の中で謝罪の言葉を呟く。
(いつになるかはわからない。…でも、次に会う時は)
現実で。
エレベーターから降り、受付ホールを通り抜けて、出口から外に出た慶介はコートのポケットからスマホを取り出す。
「もしもし。…あぁ、俺だ」
スマホの電話帳から番号を呼び出し、電話を掛けると数コールで相手が出てくる。相手は慶介の携帯番号を登録しており、すぐに掛けてきたのが慶介だと断定していた。
相手が向こうで何やら話し始めるが、慶介としては世間話に付き合うつもりはない。相手の話を遮って、すぐに本題に入らせる。
「あんたに少し聞きたい事がある。今日中に来れる…よな?」