一瞬の空白の間の後、ゆっくりと瞼を開けた。一度目を見開き、それから頭を数度振りながら瞼を開閉させた。
「皆さん、大丈夫ですか?」
片膝をついた体勢から立ち上がると声が聞こえてきた。
その声の主は、ケイの視界の下で、ケイ達を不安そうに見まわしていたユイだった。いつの間にか、ピクシーの姿から元の少女の姿へ戻っている。
「ああ…。キリト、サチ。お前らは?」
立ち上がったケイに目を向けたユイに答えてから、続いて今立ち上がったばかりのキリトとサチに視線を向け、問いかける。
「…俺は大丈夫だ。サチは…」
「私も、大丈夫。…だけど」
一瞬の間の後、キリトとサチはそれぞれ答えた。後、二人は辺りの景色を見回す。
それを見たケイもまた、周りの景色を見回した。
アルヴヘイム・オンラインというゲームの世界観から、全く想像の出来ない無機質な光景が広がっていた。何の装飾もない、ただの白い通路と壁。取り上げるとすれば、一定の間隔で付けられているライトと、やや道が婉曲しているという事くらいだ。
「ここは…、一体…」
「…わかりません。マップ情報が読み取れない…というより、この場所には情報がないようです」
ケイ達が困惑しているのと同じように、ユイも戸惑いの表情を浮かべていた。
まるで世界が変わったと言われても納得がいきそうな景色の変貌ぶりと、ユイが言ったマップ情報の有無について。まさか、この場所がグランドクエストをクリアすると辿り着けるという天上都市なのか。
「進むしか、ないよな。ユイ、アスナの居場所はわかるか?」
「…はい。かなり近いです。こっちです」
本当にここが天上都市なのか、はたまた別の場所なのか。そんな事、今はどっちでもいい。
アスナの救出が第一優先だ。それに、先に進んでいけば、ここがどこなのか、どういう場所なのかもはっきりしていくだろう。
先を行くユイに続き、ケイ達も駆け出した。
無機質な白い通路が続き、特に道が分かれるという事もなく、ただ一本道を走り続けて数十秒。ユイが立ち止まったのは、これまた無機質な両開きの扉の前だった。だが、その扉の脇に、このゲームの世界にあってはならない物が存在していた。
「ボタン…。これは、エレベーター…?」
疑問を口に出したのはキリトだった。両開きの扉の脇にあったのは、それぞれ逆の向きを向いた二つの三角形のボタンだった。現実では見慣れた物、エレベーターのものと見て間違いないだろうが…。明らかにおかしい。この場所自体がそうなのだが、このエレベーターもまた、アルヴヘイム・オンラインという世界観には全くマッチしない物だ。何故、こんな物がここにあるのか。
それとも────
(ここは、ゲーム内世界じゃない…?)
「ここから上部に移動できるようです」
ケイの脳裏にそんな懸念が過った直後、ユイが言いながら二つのボタンの内、上のボタンを人差し指で押した。それとほぼ同時に、目の前の扉が開き、その奥から強い光が漏れる。
この通路は何処か薄暗く感じていたが、エレベーターの中はかなり明るかった。扉が開いた瞬間、思わず目を細めてしまう。
中に乗り込むと、やはり現実のエレベーターと同じように、扉の左側にボタンが並んだパネルがあった。ユイはそのパネルの前に立つと、数秒ほど逡巡してから、一番上の階層のボタンを押した。
扉は閉まり、短く効果音が鳴った後にエレベーターは動き出すと数秒。すぐに停止し、扉が開く。
開いた扉の向こうに見えたのは、先程このエレベーターに乗る前に通った、あの無機質な白い通路と同じ光景だった。だがそれを気に留める間もなく、ケイ達はエレベーターから降り、再びユイを先頭に走り出す。
どこまでも変わらない景色に、ケイ達の胸の中に焦燥が募る。いくつか内周に扉が並んでいたのだが、それに気づく事もなく、先頭を駆けるユイだけしか目に入らない。
するとふと、何もない場所でユイが足を止めた。ユイは何も、扉もついていない白い扉に目を向け、じっと見つめている。
「どうした、ユイ?」
「…この向こうに、通路があります」
小さく、だけど確信が籠った声で言うと、ユイは壁に両手を触れさせる。
ここに来る時、ユイがゲートを開いた時と同じ光景だった。ユイが触れた所から青い光の線が、ウェブ上に広がっていく。
直後、壁の一部が消失する。その奥には、やはり無機質な白い通路が伸びている。
ユイは何も言わず、通路に足を踏み入れて駆け出す。それに続いて、ケイも駆け出そうとした。
「ちょっと待ってくれ」
走り出したケイとユイをキリトが呼び止めた。ケイとユイは足を止めて、キリトの方へ振り返る。
「どうした」
口にしてから、内心苦笑する。自分の声に、隠しきれない苛立ちが籠っていたのがすぐにわかった。そして、キリトもそれを悟ったのだろう、その顔に苦い笑顔が浮かんでいる。
「ケイ、ユイ。アスナの所には、お前ら二人で行け」
「…は?」
キリトの言葉にケイは目を丸くし、小さく声を漏らした。
「何を言って…」
「お前も感じてるだろ?この場所の違和感。俺とサチで調べてくるから、お前らは…」
「何言ってんだ!」
怒鳴ってすぐ、ケイは我に返った。この場所に来て、まだ誰かと遭遇してはいないが、明らかに何らかの人達がこの場所を何かの目的に利用しているのは確かだ。幸い近くに人の気配はなく、先程の怒鳴り声を誰かに聞かれたという事はなさそうだが、気を付けなければと自身に叱咤する。
そして、それと同時にケイは頭の中で解っていた。ここが、このアルヴヘイム・オンラインの中に作られたこの場所こそが、須郷伸之の何か後ろめたい物の隠し場所なのだと。
そんな場所を二人だけで徘徊させるのはあまりにも危険すぎるのではないか。四人という人数でも、この場に関係のある誰かに見つかればどうなるか解らないというのに。
「キリト、サチ。お前らも違和感を感じてるんなら分かるはずだ。ここで二手に別れる危険性が」
「…」
「今は俺達でアスナを探す。そして、アスナを現実に帰してからここの事を警察に…」
「ケイ」
ケイの言葉を遮って、サチが口を開いた。
「ケイが、ヒースクリフと相討ちになった光景を見てた私達は、ケイが死んだって思ってた。…アスナも、同じだと思う」
「…」
サチの言う通りだ。あの時、七十五層のボス部屋でケイとヒースクリフの戦いを見ていた全てのプレイヤー達は、ケイは死んだと思っているだろう。そのプレイヤー達の中にはアスナもいた。アスナも、ケイが死んだのではないかと思っているはずだ。
「だからなん…」
「私、一番最初にアスナに会うべき人は、ケイとユイちゃんの二人だって思ってる」
一体何を。サチの言っている事の意味が良く分からず、問い返そうとするケイ。
それを遮る形で、サチは言った。
「俺達と一緒に、じゃない。二人だけで、アスナと会うべきだって俺も思う」
「…」
キリトもサチと同じ気持ちらしい。こんな時に何でそんな心遣いをするのか。
…だが、こんな時でも、ケイはその心遣いを嬉しく感じてしまう。
そんな自分に、悔しいような情けないような、それに似た感情を抱きながらケイは口を開く。
「…どうせ何言ったって、譲る気はないんだろ」
ケイの言葉に、同時に頷くキリトとサチ。それを見て、ケイは込み上げてくるむず痒いような気持ちを感じ、苦笑を浮かべる。だが、すぐに表情を引き締める。
「…気を付けろよ。本人がいるかは分からんけど、須郷の手下がうろついてるはずだから」
「須郷…?須郷って確か…」
「あぁ。レクトの開発部長をやってるあいつだよ」
キリトとサチは須郷と対面している。その上であんな嫌なやり取りをしていたのだから、印象に残っているのも仕方ないだろう。勿論、嫌な方向で。須郷という名を聞いた途端、二人共表情が苦いものへ変わる。
「俺の父さん、警察関係者でさ…。色々と須郷の奴、怪しいとこがあるらしい。お前らも、会った事あるだろ」
「い、いや。会った事はあるけど…、いや待て。何でお前、俺とサチが須郷と会った事あるって知ってるんだ?」
やべ。
この二文字が即座にケイの心の中に浮かんできた。
もうすぐそこにアスナがいる、早く会いたい、という焦燥がケイに口を滑らせてしまった。
「今はそんな事どうでもいいだろ。それよりも、さっき言った事、覚えとけよ。間違いなくこの場所は、須郷のテリトリーなんだからな」
「わ、わかった…。…いや、わからない。アスナを助けた後、話してもらうからな」
「じゃあ俺は行く。お前らも気を付けろよ」
「おい聞けよ。誤魔化されないからな。現実でお前が戻ってから何をしてたか全部、聞かせてもらうからな」
キリトが何か言っているが、知らない。知らないといったら知らないんだ。
寒気がして背筋が震えた気がしないでもないけど知らない知らない知らないいいいい────
(…ごほん)
違う、考えるべきことが違う。確かに現実に戻った後の事は怖いが…、ここへ何をしに来たのか、その目的を忘れてはいけない。
先程も言った通り、ここは須郷のテリトリー。彼の手下がうろついている可能性がある。ここでいつまでも固まっている訳にはいかない。
「行くぞ、ユイ。案内頼む」
「はいっ」
一言、それだけを返事で返してからユイは駆け出す。これまで以上に、走る速度が増している。もう、一秒も待てないという焦燥が、ユイの顔を見なくても解る。
それは、ケイにとっても同じ事だった。
数秒走ると、視界の奥で質素な扉が行く手を塞いでいた。ユイはスピードを緩めることなく、そのまま勢いよく、体当たりする様にその扉を押し開けた。
扉の向こうですぐに見たのは、世界を包む無限の夕焼け空だった。目を下に向ければ分厚い雲海が、前に向ければ世界樹の枝が四方に広がって伸びている。
ここが、世界樹の頂上だ。だが────
(…やっぱり、ないんだな。天上都市なんてものは)
視界一杯に広がるのは幻想的ではあるが、簡素な景色だけ。周囲を見渡すが、天上都市、またはそこに繋がる路のような物も見えない。
やはり予想通り、ALOにログインしている全てのプレイヤーが夢見る、天上都市は存在しないのだ。
「パパ…」
「解ってるさ。先を急ごう」
立ち止まっていたケイを、ユイが気遣わし気な目でこちらを見上げていた。
ケイはその目を真っ直ぐ見返して、一つ頷いてから再びユイと共に走り出す。
全ては、まずアスナを助けてからだ。アスナを現実へと返し、それを本当に為せたかどうかを確かめてから、ここで見たもの全てを菊岡に報告し、後は彼に任せればいい。
太い枝の上を走るケイとユイ。無数の枝が幾つもの分かれ道を作っているが、ケイの前を走るユイは迷わず一つの道を選び駆け抜けていく。ケイもそんなユイに疑い一つ持たずついていき、そして、この広がる景色の中に似つかわしくない物を見つけた。
それは、鳥籠だった。射し込む夕日の光が反射し、ケイの目に映る。
「あれは…!」
そしてケイは、その鳥籠に…、世界樹の枝に包まれる鳥籠に見覚えがあった。
頭の中で記憶を遡る…までもなく、とある写真の事を思い出す。
その写真とは、菊岡から見せてもらったあの写真だ。鳥籠の中に囚われた、アスナの姿。その写真は、元の画像をズームして出来上がった物だが、その元の画像と今ケイが目にしている光景が合致する。
間違いない。あそこだ。あそこに、アスナがいる。
ユイに手を引かれ、鳥籠に接近していく。曲がりくねった枝の道がもどかしくて仕方ない。
それでも、確実に、少しずつアスナの元へ近づいていく。
近づいていくごとに、鳥籠の中が鮮明に見えてきた。とても鳥籠とは思えない、中は彩られていたが、ケイが見えたのはある一点のみだった。
純白のテーブルと、背の高い椅子。そこに座る、一人の少女。長い亜麻色の髪が真っ直ぐ流れ、ユイの物に似た薄手の白いワンピース。背中には、透明の翅が伸びている。その顔は背中に隠れて見えなかったが、少女が誰なのか、それを見ずともケイには解っていた。
少女の背中を見つめながらケイはなおも走る。確実に、鳥籠へと近づいていく。
その時だった。少女がふと顔を上げ、椅子から立ち上がったのは。立ち上がった少女は振り返り、少女の視線が、ケイの視線と交わる。
その瞬間、ケイの中で小さな不安が過った。今の自分の姿は、あの時とはまるで違っている。髪、瞳の色はインプの特徴である紫紺の色。似てるとしたら、せいぜい背丈くらいではないか。
彼女が、自分をケイと認識できないかもしれない。そんな不安がケイの胸の中で過ったのだ。
「…っ」
だが、そんな不安はすぐに取り払われた。鳥籠を隔て、ほぼ目の前にいる少女────アスナは、両目を大きく見開き、両手で口元を覆い、両目から涙を零し始める。
心の中で、喜びの念が抑えられない。ケイの唇が緩やかに弧を描き、顔に穏やかな笑みの形が生まれる。
「ママ!!」
鳥籠の扉の前に辿り着いた直後、ユイはケイから手を離し、右手を下から上へと振り上げた。
そのユイの手の動きに呼応するように、鳥籠の扉が下から上へと消滅していく。もう、彼らを隔てる物はなくなった。
「ママぁ!!!」
ユイがもう一度叫び、両腕をいっぱいに広げながら飛び込んでいく。
「ユイちゃん!」
アスナも、口元を覆っていた手を広げ、飛び込んでくるユイを迎える。
アスナとユイが固く抱き合う。二人は涙を浮かべながら頬を擦り合わせる。
そんな二人を眺めながら、ケイもまた、鳥籠の中へと足を踏み入れた。
こつん、とケイの足音が鳴る。すると、その音に気が付いたユイが顔を上げると、アスナの胸の中から抜け、一歩離れた。アスナが不思議そうに目を丸くするが、ユイが見ている方を見て、一瞬、唇を震わせる。
「…ケイ、くん…?」
「…あぁ」
震える唇から、アスナの震えた声が聞こえる。
「うそ…。ゆめじゃ…ない…?」
「夢な訳ねぇだろ」
自分の名前を呼んだと思えば、何を言い出すのか。これが夢だったら、全力で、どんな手を使ってでもこの世界から夢というものを消してやる。
「生きてたよ。…真っ先に報せたかったんだけどな。こんなとこで何してんだよ、お前」
「っ、ケイ君っ!」
まるで、先程のユイの様に、アスナはケイの胸へと飛び込んだ。アスナの両腕がケイの背に回され、そしてケイもまた、両腕をアスナの背に回してきつく抱き締める。
「バカっ!バカっ!バカ、バカ、バカぁっ!!…わたし、もう…ケイくんに、あえないって…!」
「…ごめん」
涙を流し、しゃくり上げるアスナに一言、謝るケイ。
「でも…。また、一緒に居られる」
「…うん」
謝ってから、自分の額をアスナの額と優しくぶつける。そして、アスナの背中に回していた右腕を上げて、その手で長い髪を梳く。
ケイの腕の中で、アスナが小さく頷いた。
二人のやり取りを見つめていたユイが、今度はアスナだけでなく、二人に向かって飛び込んだ。小さな腕を目一杯広げて、二人に抱き付く。
ケイとアスナは目を合わせ、小さく笑い合うと、少し体を離し、その間にユイの体を割り込ませる。そして、今度は二人でユイの体を包み込んだ。
「今度こそ、帰ろう」