沈んでいた意識が、浮かび上がっていく。次第に、体に纏わりつく冷たい空気が感じられるようになっていく。慶介が瞼を上げ、最初に見えたのは暗闇だった。その光景は、須郷と対峙したあの空間と酷似していて、まさか戻って来れなかったのか、という焦りが心の内で沸き上がる。
そうではない、ちゃんと現実に戻って来れたのだと悟ったのは、目が慣れ、頭上の天井が見えるようになった時。疲労感で怠く、重い体を起き上がらせ、頭からナーヴギアを外してベッドから両足を下ろす。
帰って来れたのだ。ここに。現実に。今度は確かに、アスナと一緒に。そのはずだ。
「─────っ」
ベッドから両足で立ち上がり、ベッドと対面する位置に置かれたクローゼットを開く。中からネイビー色のダッフルコートを取り出した。今、慶介が着ているのはただの部屋着で、普段なら外には着ては行かない物だが、着替える事に時間をかけるのももどかしい。
コートに腕を通し、前のファスナー、ボタンを留めながら、パソコンデスクの上に置かれた腕時計を身に着けて部屋の扉を開けて廊下を出ようとした。
「お…っと」
「わっ…」
扉の向こう、すぐ前に立っていた司と真正面から顔を合わせる形になる。互いに驚き、一歩距離をとる。
「お前、何してんの?人の部屋の目の前で」
「へ、変な勘違いしないでよ!夕ご飯の時間になっても降りてこないから、呼びに来ただけ」
「あ?」
司に言われ、腕時計を見てみれば、針が示していた時刻は7時を少し過ぎた時間。確かに司の言う通り、いつもの夕飯を食べる時間になっていた。
「…悪いけど、行かなきゃならん場所がある。母さんにも言っといて」
「え?」
が、慶介にはこれから行かなければならない場所が、会いに行かなければならない人がいる。今すぐに。
「ちょ…っ、兄さんっ!?」
「所沢の病院に行ってくる。帰りは遅くなるかもしれん」
「所沢…って、まさか…」
慶介が口にしたその言葉に、司の目が見開かれる。恐らく、慶介が出かける目的も察しただろう。だとすれば、駄目だと慶介を外に出させようとはしないだろう。慶介は下に降りる階段がある方へと歩き出す。
「待って」
しかし、司が慶介を呼び止めた。無視して行こうという思考も浮かびはしたが、司の声は至って真剣なものだった。足を止めて振り返る。
「お母さんには、ちゃんとどこに行くか話しなさい」
「なさいって…。いや、司から伝えて─────」
「自分で言え」
「…」
兄の威厳?何ですかそれ?と、問いかけたくなるくらい、司の迫力に圧されてしまった。
それでも、解る。司は自分の背中を押してくれているという事は。
「…ありがとな、司」
「さっさと行きなさい。明日奈さん、待ってるんでしょ?」
今度は笑顔を向けてくれる出来た妹に感謝しながら歩き出した。
母に全てを話し、外へと出た慶介。未だ仕事から帰って来ていない父には、母の方から説明してくれるという事になった。門から出て、全力で走る。途中、滑って転びそうになりながらも走り続け、駅へたどり着く。電車に乗り、乗り換えを繰り返して、明日奈の病院の最寄りの駅までやって来た。
駅から外へ出ると、家を出た時よりもさらに冷たい、刺すような風が慶介の顔に吹きかかる。
「さっむ…」
呟き、息を吐く。白い煙が慶介の頭上へと上っていく。それが消える前に、慶介は駆け出した。行く先は勿論、アスナの病院の方へ。行き交う人達の視線を気にする暇もなく全力で走り続ける。
もうすぐだ─────もうすぐ!
慶介の視界の端に、その建物が見えてきた。途端、息が切れ、足が重くなってきたにも関わらず、自然とペースが上がっていく。
冬の夜、駅から出た時も感じたように寒いはずなのに、暑い。額から汗が流れる感触もする。
建物の前に立った時、流れた汗は頬から顎まで達しようとしていた。そこでようやく、慶介は汗を腕で拭う。すでに時刻は8時半を過ぎていた。駐車場には何台か車が止まっている。その車の間を通り抜けて行こうとしたとき、車の陰から現れた人影とぶつかりそうになった。
「っ…」
無意識に相手にすみません、と口にしようとしたその時、現れた人影と目が合った。
瞬間、咄嗟に慶介は後ろにステップ。それと同時に、慶介の頬に熱が奔った。
地面に着地した足が滑るが、何とか踏ん張り、転ぶ事はなかった。
だが、一体何が起こったのか。右手で頬に触れると、熱が奔った箇所からビリッとした痛みが発する。さらにその手にはぬるりとした液体の感覚。
血だ。手に付いていた赤い液体を見て、ようやく自分はあの人影の持つナイフで切られたのだと理解した。
「お前…」
人影を見る。男だ。黒いスーツを身に着けた男の手には、大振りのナイフ。その刃先から滴り落ちるのは、赤い液体、慶介の血。
「遅いよ…。君だろ?ケイとかいう餓鬼は」
「須郷…!」
男は粘り気の強いしわがれた声で、あの世界での慶介の名を口にした。
この男の全像を目にした時から何となく察してはいたが、ここで確信を持つ。
明日奈の病室で見た丁寧なものとはかけ離れた、乱れた髪。何より、その濁った眼はあの世界で見たものとも違う、異質なものだった。
「つっ…、まだ痛覚が消えないよ。酷いことするねぇ、君も…」
男、須郷がナイフを持っていない左手で抑えたのはちょうどケイが切り裂いた、オベイロンの顔面の中心部辺りと同じ場所。どうやらあの世界で受けた攻撃が現実までかなりの影響を及ぼしたようだ。
「…酷い?それはお前だろ。さっさと警察に捕まえてもらえ。そして、裁かれろ」
「フッ…。ホント、生意気な餓鬼だね君は。でも残念ながら、僕はこんなとこで終わりはしないよ」
歪んだ笑みを浮かべながら、須郷は続ける。
「僕を欲しがる企業なんていくらでもあるんだ。まあ、さすがにしばらく日本から離れなきゃいけないだろうけどね…。アメリカ辺りでも行こうかな?」
何を言っているんだ。あれほどの仕打ちを受けながら、完全に叩きのめされながら、まだこの男は諦めていないのだ。
「その前に片づけなきゃいけない事があってね…。その一つが、君を殺すことなんだよ」
言いながら、歩み寄ってきた須郷は、ナイフの刃先を向け、慶介の腹部目掛けて突き出す。
あの時と同じ、ただ突っ込んでくる須郷。慶介は体を翻して回避すると、自分のすぐ横を通り過ぎていく須郷の背に蹴りを入れる。須郷は体勢を崩し、さらに足を滑らせ転倒。顔面から地面へと倒れこむ。
「…須郷、最後の忠告だ。自首しろ。自首して、法の裁きを受けて罪を償え」
起き上がらない須郷に追撃はせず、慶介はそう口にした。その言葉は須郷の耳に届き、直後、その体がぴくりと震えた。
「自首…?さっきも言ったよね?僕はまだ終わらないって…」
須郷の体がゆっくりと起き上がる。ゆらり、と体を揺らしながら振り返る。
「今度こそ神になるんだよ、僕は…。お前みたいな餓鬼に邪魔されて終わり…?そんなの、あり得ない…。あっちゃいけないんだよォ!!」
叫ぶ須郷を冷ややかな目で見る。この男をここまで狂わした要因は何なのだろう。それとも、初めから狂っていた、か。
「ゲームしか能のない、何の力も持たない餓鬼が!僕の足を引っ張る事しかできない屑が!お前みたいな奴は罰を受けるべきだ…。死を以てなぁ!!」
再びこちらに向かってくる須郷。
さっき、須郷は言った。慶介には、何の力もないと。だが、それを言うならお前はどうなのか。ただ突っ込んでくるという愚行を何度も繰り返す。それがどんな結果をもたらすのか、その身に受けながらもその頭には刻み込まれない。慶介からすれば、先程の言葉は滑稽にすら思える。
「死ね!死ね!死ねぇぇぇぇぇぇぇえええええええ!!!」
今、慶介の手元には武器も何もない。素手だ。が、それでも、この男に殺される気はこれっぽっちもしなかった。
今度は顔面に向かって刃先を突き出してくる須郷。それに対し、慶介はただ首を傾けるだけ。
慶介の顔面のすぐ傍らを横切っていくナイフには目もくれず、慶介は須郷の手首を掴み、捻る。
「ガッ!?」
須郷の手から離れたナイフが、音を立ててアスファルトの上に落ちる。
それを目で確かめた慶介は、体を須郷の懐に滑り込ませる。そして、背中に須郷の腹を乗せ、力いっぱい背負う。
宙に浮いた須郷の両足、何の抵抗もできず、須郷は背中をアスファルトに打ち付ける。
「ぐはっ」
相当な衝撃だっただろう、須郷の口から漏れた、咳き込むような吐息が物語っていた。
「哀れだよ、お前」
呟く慶介。呟くといっても、須郷にも聞こえるくらいの大きな声だったはずなのだが。
仰向けに倒れた須郷は呆然と空を見上げたままで、慶介の呟きに何の反応も見せなかった。
須郷を見遣ってから、慶介は落ちたナイフを拾って須郷に歩み寄る。
「須郷」
「…」
須郷を呼ぶが、何も答えない。口をあんぐりと開けて空を見上げたまま。
「さっき言ったぞ俺は。最後の、って」
「っ…」
須郷の瞳が揺れ、こちらに向いた。浮かんでいるのは、恐怖。
「あれだけたくさんの人を苦しませてきたんだ。お前の方こそ、その罪に対する罰は────死であるべきと思わないか?」
「なっ」
須郷の肩がびくりと大きく震える。唇もわなわなと震え、信じられないという風に慶介を見上げている。
…そんな態度が、お前に出来るとでも思っているのか。逃げられるとでも思っているのか。
そんな権利が、お前にあると思っているのか。
「アァ…、うわぁぁ…っぐぁ!」
「逃がさねぇよ、バカが」
起き上がろうとした須郷の腹に右足を突き入れる。そのまま押し込み、須郷が起き上がれないよう力を込める。そのまま慶介はしゃがみ、須郷と至近距離で顔を合わせる。
「ヒッ…」
「逃げんなよ。俺を殺すんじゃなかったのか?」
あの余裕ぶった態度など欠片も見られない、ただただ恐怖に慄く須郷を見下ろして言う。
須郷は返事を返す事もなく、ガチガチと歯を鳴らしながら慶介の視線を見返していた。
もう何もできない、それこそ慶介の視線から目を逸らす事すらも須郷はできずにいた。
「…まあいいや。お前はここで死ぬだけだし」
「っ、ヒィィィッ!ィァァァァァァッ!」
この時、慶介は内心で驚いていた。ここまで、この男に対する殺意が胸の中で渦巻いている事に。このまま自分はこの男を殺すのか?
いや、それは罪だ。してはいけない事だ。
ならばこの男はどうだ。他者を嘲笑い、愉悦を感じながら罪を繰り返してきたこの男は。その罰は、死であるべきではないのか?
駄目だ。これ以上堕ちるな。そうでなければ、この男と同じだろう。
やれ。
駄目だ。
殺せ。
駄目だ。
「アァァァァァッ、ァァ…」
葛藤の中、視線の下の須郷の様子が変わった。恐怖の叫びが次第に細くなっていき、遂には聞こえなくなった。見れば、両目は白目を剥いており、慶介を押し返そうと胸を突いていた両手は脱力し、地面に落ちている。
どうやら気絶したようだ。その様子に、慶介の中の殺意は呆気なく抜けていき、手の中のナイフがするりとアスファルトに落ちる。
こんな奴のために、罪を起こそうとしたのか、自分は。そんな思いが慶介の胸の中を支配していく。下らない、この気持ちが慶介の殺意を打ち消していく。
小さく息を吐いてから、慶介は須郷のネクタイを引き抜き、両手を後ろ手にして縛り上げた。そのまま須郷を倒れたままにし、ナイフは入り口近くにあった花壇の上に置く。
それから慶介は、ポケットの中からスマホを取り出すと、電話帳の中からある番号を入力し、コールする。
『もしもし。どうした、慶介』
「父さん」
慶介が電話を掛けたのは父、健一だった。
「須郷にナイフで襲われた。場所は埼玉の所沢総合病院」
『なっ…。ちょっと待て!襲われた…、須郷に?どういう事だ、詳しく教えてくれ!』
「…ごめん、父さん。もう待てないんだ。早く行かなきゃ」
『慶介?…、おい、けいすk』
通話を切って、スマホの電源を落とす。父には悪いとは思うが、後で母から説明があるはずだ。それで、色々と納得してくれる…事を願う。
それ以上、須郷の方には目もくれず、慶介は駐車場を進み、病院の自動扉の前に立った。だが、扉は全く動かない。もしかしたらと思ったが、さすがにそう上手くはいかないようだ。扉のガラスを通して中の様子を覗く。
メインロビーの照明は落ちているが、受付カウンターの明かりはまだ着いていた。奥に人影も見える。左右を見回し、小さな扉を見つけるとそこへ慶介は駆け寄る。扉を押すと、こちらは開き、中へ入っていく。
静寂に包まれた建物を進み、見えてくるロビーと傍らの売店。ちらりと暗くなった売店を見遣りながら、ロビーを横切っていく。受付の方には誰もいなかったが、その隣のナースステーションから女性たちの話し声が聞こえてくる。
「すみませんっ」
口から出てきたのは、自分が考えていたよりも掠れた声だった。それでもナースステーションの中まで聞こえるはずだが。
慶介が声を出してから十数秒ほど経った時、ステーションの扉が開き、グリーンの看護服を着た看護婦が現れた。看護婦は一度辺りを見回し、慶介の姿を目にしたその直後、驚きに声を上げた。
「ど、どうしたんですか!?」
看護婦が駆け寄ってくるのを眺めながら、何故そこまで驚く事があるのか、と疑問に思う。
と、ここで慶介はそういえばと思い出し、頬に手を触れさせる。まだ出血は続いていた。どうやら思っていたよりも深く切られていたようだ。
慶介はその犯人が須郷である事を伏せ、駐車場で起こった事を看護婦に説明する。その際に、ナースステーションから一人、二人と出てきた看護婦たちも、表情に緊張が奔る。
年配の看護婦が警備員を呼び出し、その警備員と共に看護婦たちが外へ出ていく。それを見送った慶介は、ふとステーションのカウンターを見る。慶介の視線の先には、カードキー。
気づけばそれを抜き取って、慶介はエレベーターに乗っていた。
「…何してんだか」
呟き、苦笑を浮かべる。今している事は完全な犯罪だ。先程、須郷との交戦の時は、罪を犯すのは駄目だと思い留まったというのに、今はあっさりと罪に手を染めている。
本当に、何をしているんだか─────
目的の階に着き、エレベーターから降り、ケイは長い廊下を歩き出す。
会いたい。早く会いたい。この眼で姿を見たい。この手で触れたい。歩くペースが速くなる。
「アスナ…」
思いも寄らない邪魔が入って時間が喰われたが、ようやく会える。
目の前の扉、その向こうにアスナがいる。いる、はずだ。
ちゃんと帰れているだろうか。もしかしたら、まだ目が覚めていないかもしれない。いや、それならばまだいい。予想外の事態で、二度と目が覚めない事になっていたら─────
「…あり得てたまるか、そんな事」
あり得ない、そう自分に言い聞かせ、スリットにカードキーを差し込み、滑らせる。モーター音と共に開いた扉を潜り、病室の中へ入る。明かりは点いていない。だが、月明かりに照らされ、中の様子がはっきりと見える。
奥に一歩、一歩、進み入る。病室の中央の大きなカーテン、その向こうにあるベッド。
純白の診察衣を身に着けた少女が、体を起こして窓の外を見上げている。その両腕には、役目を終えたナーヴギアが抱えられている。
起きている。生きている。彼女が、目の前にいる。
やっと─────やっと
「アスナ」
少女の体が震える。ゆっくりとその顔がこちらに向く。目が合った。少女はゆっくりと微笑み、その形を描いていた唇を開く。
「ケイ君」
カーテンの端を掴んでよけ、その向こうに体を入れる。そして、アスナがこちらに差し伸べる左手を右手で掴み、繋ぐ。左手もアスナの手に添え、包み込む。
仮想世界で触れた時とは違う、確かな温もりが伝わってくる。初めて、アスナに触れたのだという実感が、ケイの心を包む。
アスナの傍でしゃがむケイ。すると、そんなケイの頬に、アスナの右手が伸ばされた。アスナが触れた場所は、須郷のナイフで傷ついた場所。
「あぁ…。さっき、ちょっと邪魔が入ってな。でも大丈夫だ。全部終わったから。もう…、何も心配する事はないんだ」
「…ごめんね、まだ音がちゃんと聞こえないの。でも、解るよ…。ケイ君の言葉、解る」
アスナがケイの頬を撫でながら囁く。
「終わったんだね…。今、ようやく…、君に会えたんだね…ケイ君…っ」
思い出されるのは、あの世界の最後の時。崩壊する世界の中で、別れを告げたあの時。もう二度と会えないと思ったあの時。だが目の前に、愛おしい少女がいる。再び出会えた、奇跡が今、起きている。
「初めまして、結城明日奈です。ただいま、ケイ君」
「辻谷慶介です、初めまして。お帰り、アスナ」
微笑みを交わす二人は、どちらともなく近づき、そして唇を触れる。軽く触れた唇は離れ、二人は微笑み、再度唇が触れ合う。
ケイの両腕がアスナの背に回され、アスナの両腕もまた、ケイの背に回される。
きつく抱き合う二人。ようやく二人は、初めての邂逅を果たしたのだ。
そんな二人を祝福するかのように月が空に浮かんでいた。
最後の表現べたすぎぃ(笑)